前回の連載「岡潔先生をめぐる人々/フィールドワークの日々の回想」は、平成8年(1996年)2月のフィールドワークの旅の日々のはじまりのころの回想から説き起こし、二年目の終りがけの平成9年(1997年)10月末日まで進んだところでひと休みとなりました。翌11月の前半は旅行に出る機会がなかったのですが、17日、高野山の恵光院に電話をかけました。恵光院は古くから岡家とゆかりのあるお寺です。本当は電話ではなく、実際に訪ねていくほうがよいのですが、フィールドワークにも限界があり、しらみつぶしにすべての場所に足を伸ばすというのは至難です。
電話口に出たのは恵光院の奥様でしょうか、親切な「おばさま」が応対してくれました。少々長い電話になったのですが、なんでも若いころ岡先生に会ったことがあるとのことで、岡先生はときどきインクびんをもって恵光院にやってきて、しばらく部屋を貸してくれといって10日ほど逗留して論文を書いたりしていたそうです。昭和三十年代ころ、まだ有名になる前ということですから、文化勲章を受けた昭和35年よりも少し前の話でしょうか。もう少し時期を詰めると、お父上が亡くなったのが昭和32年で、それよりも前とのこと。終戦後は恵光院にいたそうですので、昭和20年代から昭和32年あたりにかけてのエピソードなのでしょう。
岡みちさんがお金をもって、滞在中の岡先生を訪ねてきたこともありました。みちさんは、日本ではまだ無名だが、フランスでは有名だ。気持ちのやさしい人ですと、涙を浮かべて語ったそうです。
恵光院は岡家と特別の関係があったお寺で、岡家の人が高野山にのぼったときにお参りするお寺だったとか。どの家もそういうお寺をもっていたのだそうです。岡先生は仏教に造詣が深く、恵光院の小僧が岡先生に宗教の話をもちかけると、岡先生に言い返されたりしました。
フランス語の論文にピンクのりぼんをかけて、お父上にわたしたこともあったそうですが、これは恵光院を離れるときのことでしょうか。その論文は今もあるのでしょうかと尋ねると、どこかにいってしまってわからない、ということでした。