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新数学人集団(SSS)の時代 ノート51 少数精鋭主義は研究教育機関を破壊する

Lさんの議論は次の段階に移ります。少数精鋭主義の立場から見ると、数学はだいたい無用のものであり、しかもその進展にとって意味のあるのは真に優秀な少数の精鋭だけだということになります。この考え方は一般に多くの学生や研究者たちを失望と落胆に落し入れ、孤立した生活態度に追い込みます。そればかりか、研究機関において優秀と目されている少数の精鋭ですら、しばしば落胆もしくは焦燥に追い込まれてしまい、多くの誤った考え方と結びついて、はなはだしいときには死に追いやることさえあります。Lさんはこんなふうに指摘して、それからさらに言葉を続けます。

・少数精鋭主義は日本の数学の研究、教育機関で非常にろこつな形で破壊的な役割を果している。
・物理の坂田昌一が「自然」誌上で論じたこと。大学における研究と組織について。大学内の研究室にいる若い科学者の情熱をさまし、研究の発展を妨げるもっとも本質的な原因は、教授が人事から研究の進行までを独裁的に行うようなシステムにあり、これが師弟間の親分子分関係や講座間のセクト主義を生じ、研究の交流を妨げるばかりでなく、研究室におけるすべての封建的害悪の源になっている。
・数学においてもこの問題は非常に重要である。人事に関する問題はいたるところで封建的な風潮の源になっている。極端な場合には人事はおろか、共同研究から個人的な研究の具体的な方向までが実質上一方的な統制のもとに置かれ、研究室の外部との接触すら極度に嫌うという統計数理関係の某国立研究所のような例すらある。
・このような状態を打ち破って近代的な研究機関としての機能を果すためには、少なくとも相互に親密な、比較的雑務から開放された、しかも仕事の発表などをあせらない落ち着いた研究の雰囲気を作り上げることが望ましい。さらに、一定の慣習または制度により、若い研究者から教授までが、多くの研究費、組織費、人事上の問題について検討する機会をもち、講座間の往来は自由であり、全体が親密な協力体制にあることがいっそう望ましい。
・このような目標に向って多くの研究教育機関がさまざまの程度にさまざまの段階を経てみずからを近代化して我が国の学問の後進性を克服していった過程を見ることができる。

 このあたりはどうも意を汲みにくいのですが、せっかくこのように運営されていながら、ひとたび少数精鋭主義やその他の誤った考え方に支配されるや否や、その機関は、しばしば他よりもいっそう徹底した形で、学問の進展に害のある我が国の学問の後進性や植民地性を保ち、推し進めるものになり果てるというのです。このように宣言した後に、Lさんは「どのようにであろうか」と問題を提示して、みずから所見を語ろうとしています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート50 邪悪な兄弟たち

数学の問題はどこからやってくるのか、数学という一個の有機体はどのようにして拡大しつつ発展するのだろうか。Lさんはこのような根源的な問いを立てたのですが、どちらの問いに対しても明確な回答はなく、そのために統一という一面だけが強調されるのだというのです。古い文献を見直して、そこに新しいアイデアを持ち込むことができたなら、古文献は目覚めて数学的生命を得るであろうというのがヴェイユの所見です。それもまた困難な営為ですし、そのようなことができるのはごくわずかな人たちのみです。それらの人びとがつまり少数精鋭であり、彼らが「人間精神の名誉のために」(これはヤコビの言葉です)やってくれるのに期待するしかなく、他の人びとは共鳴箱であるほかはありません。
 Lさんはヴェイユの所見をこのように要約しました。ヴェイユの考え方によると、数学という学問は直接人類によって利己的に利用されることもなく、人類をほろぼすために使われるおそれもないが、役に立たない科学である。だから数学者ほど知的な活動において完全な自由をもっているものはまったくない、ということになります。なるほどこれなら自由であろう、とLさん。何も知的な活動とは限らない。研究、指導、教育の責任からも自由である。数学者にとっては紙と鉛筆があればよいのであるから、正当な研究条件を要求する権利からも自由であり、社会的責任からも自由である。これほど完全な自由をもっているものはほかにありません。
 数学の発展には膨大な数学者たちがそれぞれの役割を果して寄与しているにちがいありませんが、少数精鋭主義の立場から見ると、各々の時代における真に著しい結果の発見者だけに集約されてしまいます。そのように見るのはまちがっているというのがLさんの所見です。
 しかし、とLさんの言葉が続きます。

・この誤りは決して孤立して生じたのではない。数学が人類の生活や進歩とは「精神の名誉」以外に何の役割も果すものではなく、自然認識とも関連はなくなって、数学はその自律した研究分野に閉じこもって、今のところは「雲の如くある」問題を解きながら「新しいアイデア」によって遺産を食いつぶすよりほかはなくなっているという考え方。したがってまた数学者はすでに社会的には何の意味も失っており、研究または教育という労働を行う社会的な責任も権利もある一個の社会的存在ではないという考え方と固く結びついている。

 Lさんの見るところ、少数精鋭主義はこのように多くの誤った見方と固く結びついて、研究者の態度も、数学の発展の仕方や方向をもいっそうまちがったほうへねじまげようとする同じ源をもつ邪悪な兄弟のひとりなのだとのこと。数学の発展の仕方や方向をまちがった向きにねじまげようとする「邪悪な兄弟」がいて、少数精鋭主義はそのひとりだというのです。実に過激な文言が連なっていますが、この所見には一理があります。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート49 「共鳴箱」をめぐって

科学のどの分野でも天才や第一流の仕事をなしえた人がつねに尊敬されるとLさんは指摘し、そのうえで「いったいなぜであろうか」と疑問を提示しました。天才や第一流の科学者が尊敬されるのはあたりまえのことのように思えますが、Lさんには別の考えがあるようで、長々と発言が続きます。

・彼らは昔からそのときにいたるまでの多くの第一流、第二流、三流、四流、五流の数学者たち、多くの実際家たちが多くの問題を解決しようとして、あるいはそれらにひそむ法則性を見出だそうとして営々と積み重ねた労力の所産である種々の研究成果や組織、教育、伝統などの上に立って、自分自身の努力と創造性を傾けて、みごとにそれまで解きえなかった大問題を解き、見出だされなかった法則性を見出だし、そのことによってさらに全体の前進への道を切り開いた。彼らは人類の前進への努力のすぐれた代表者たちである。だから彼らは尊敬されるのではないか。
数学もまた例外ではありえない。

 Lさんは人類の前進ということを論拠にして議論を展開していますが、このように考えるのであれば、二流以下の研究者たちといえども決して単なる共鳴箱ではないことになります。人類の前進という大きな流れを推し進めることに寄与する多くの人びとがいて、天才と呼ばれたり第一流と評価されたりする人たちはその一群の人びとの代表と見るのですが、それならこの集団に属する人たちはみな仲間です。二流以下の数学者といえども「この大きな流れを生み出し、推し進める一員」なのであり、重要なのだと、Lさんの言葉が続きます。このような考え方は十分に成立する余地がありそうですが、反論を受ける可能性もあります。
 次にLさんはヴェイユの「数学の将来」から別の言葉を引きました。ヴェイユは数学がたくましい生命力をもち、その根底に統一のあることを示そうと試みてヒルベルトの言葉を引用し、「数学はそのすべての部分が解け難く結び合わされていることによって生命力を得ているひとつの有機体である」こと、また「科学のひとつの部門は、それが問題を豊かにもつ限り生命に満ちている。問題のなくなることは死の兆候である」ことおを指摘しています。Lさんはこのようなヴェイユの言葉を踏まえて発言を続けています。

・問題が豊かになり、それが解決されつつあり、統一的な法則があふれるというが、いったいそのような問題はどこから提供されるのか。このひとつの有機体はどのようにして拡大しつつ発展するのか。これは少なくとも明らかではない。そのために統一の一面だけが強調されるのである。

 問題はどこからやって来るのか。この問い掛けは数学という学問の本質に触れています。ヴェイユによると、自然の研究はかつては数学の問題の源泉だったが、今はそうではないとのこと。結局のところ、「ひとつの新しいアイデアがあれば目覚めて数学的な生命を得るであろうところの多くの問題はあるのである」というのがヴェイユの所見です。ここに引いたのはLさんによる訳文と思われます。Lさんはここに「数学の古文献をひっくり返せ!」などと書き添えています。
 少々わかりにくいところがありますが、古い論文や著作には問題の原石が埋まっているというほどの考え方でしょうか。ヴェイユのいう古文献というのは、19世紀、もう少し正確に言うと、おおよそガウスのころから第一次世界大戦前までの論文や著作を意味していると見てよいと思いますが、それらには多くの問題が眠っていて、そこに新しいアイデアを投げ入れればたちまち目覚め、数学の新たな進展のための力になるとヴェイユは言いたいのでしょう。実際のところ、これはヴェイユ自身が歩んできた道でもありました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート48 第二の批判

「少数精鋭主義」を批判するLさんの言葉が続きます。

・この学生たちはある程度「本も読み、計算もできる」のではないか。そして現在の悪い条件下にあってなお研究を続けようとしたのではなかったか。それでもこのすぐれた指導者、教育者たちは自分らの指導如何を恥じるところもなく、見込みがないと断定し、彼らの研究の道をふさぐことができるのであろうか。
・少数精鋭主義は指導と学習の関係についての理解を誤っている。特に、指導の責任を理解していない。怠慢で無責任、しかも非道なのである。
・第二に、学生たちは大学院に入ってもたいした研究はできないのだという。「たいした研究」ができなければ研究すべきでないというのは重大問題だ。
・それよりももっと重大な問題がある。「やがて実務につくのなら研究の年月はむだ」なのであろうか。まず、実務を研究とまったく縁のないものと考えているのが誤りである。仮に関係ないとしても、研究の見込みはないと言われただけであきらめて実務につくのと、何年間かの努力ののち、なぜこの研究を続けることができないかを知り、あるいは、なぜ他の道へと進むのかを知ったうえで異なった方向へ進むのとでは、まったく違う。なぜそれが理解できないのだろうか。
・人間の意志や成長過程を表面的、機械的に理解して「この道のきびしさ」を知るあまり結局はこのほうがよいのだという、神様のような思いやりのもとに、研究者のような聖職につこうという「無能者」の無謀な挙をいましめてくれるのだ。
・その反面、もっと具体的な学習上の指導や、ひとりでも多くの研究者を育てようという、低級で日常的な思いやりをかけてもらえないのは不思議なことである。おもいやりどころではない。義務ではないか。
・少数精鋭主義は人の意志や成長過程に関する理解をまったく誤っている。表面的、機械論的であって、同時に思い上っているのだ。

 Lさんは激しい言葉を連ねて、ときおり皮肉めいた言葉も交えながら総数精鋭主義の批判を続けています。大学院の入試にまつわるエピソードがきっかけになって、ここまで話が進みました。少数精鋭主義が大学院入試に適用されると「合格者が定員をはるかに下回る」という現象(Lさんは「暴威」と書いています)が起りますが、総数精鋭主義の暴の及ぶところはそれどころではないと、Lさんの批判が続きます。

・ヴェイユの小冊子「数学の将来」の中に「第二流の研究者は他の部門におけるよりもその役割はもっと重要ではない。その役割は彼らの出すことのできない音響に対する共鳴箱の役割にすぎない」という一節がある。ごく少数の(一流のだ!)精鋭だけが数学を推し進め、他は共鳴するか、またはそれすらできないのである。科学のどの分野でも、天才や第一流の仕事をした人びとはつねに尊敬されてきた。いったいなぜであろうか。

 少数精鋭主義に対する批判ということを考えるとき、最強の敵はヴェイユの所見です。Lさんの批判はこのあたりからいよいよ佳境に入っていきます。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート47 指導者の任務とは

『月報』第3巻、第1号に「少数精鋭主義に反対する」という長文の記事が掲載されていますので、目を通してみたいと思います。著者は「L」とのみ記されています。
 以下、摘記します。

・A大学の数学科では、大学院修士課程の学生を半分しかとらなかった。B大学の物理学科の大学院でも、定員10人のところを二人しかとらなかった。こういう話を2年ほど前に聞いた。
・このような事例は枚挙にいとまがないほどである。いったいなぜこのようなことが起るのだろうか。理由のひとつに「少数精鋭主義」ともいうべき誤った考え方がある。この考え方こそ、多くの悪条件やまちがった考え方と結びついて、学習、研究の発展を妨げ、各種の研究機関の悪い状態を温存させるか、またはいっそう悪くするための力になっている。この点を問題にしたい。
・B大学の話を聞いたとき、そこの大学の学生たちはこの処置を不審に思い、憤っているに違いないと思った。ところが、そこの化学科の人の話ではそうでもない。物理科の先生たちは学生に、自分でどんどん勉強して独創的な研究をするようにとつねに言ってきた。ところが4年もたった今、結局、方法論を理解し、研究方針をもちえた者は二人くらいしかいない。あとの連中はなるほど本は読み計算はできるが、そのような高いところまで行くことはできなかった。彼らが大学院に入っても結局のところたいした研究はできないし、やがて実務につくのなら年月はむだだし、就職は不利になる。だから今はどう見えても優秀な者しかとらないほうが結局はよいのだという意味の話をした。そこで学生たちはこの道の難きを思い、併せて自分らの不勉強と無能を恥じ、落胆はしたが、憤ることも少なかったという。

 LさんはB大学の化学科の先生の話を聞いたのでしょう。この話を聞いて、非常にまちがった、考えと思ったということです。以下、その理由の解明が続きます。

・第一に、学生たちは一定の方針の伴う研究目標をもつまでにいたっていないというが、それだけの学力をもちうるだけの熱心な教育と指導が行われたのであろうか。自分で本を読み、方法論を学び、独創的になれと百万遍聞かせたところで、それは熱心な教育でも指導でもない。そうできるような具体的な条件が、講義やゼミナールを通じて準備されなくてはならないのであって、それには、現在特に、旧教育制度から新制度への移行に伴う、あらゆる変化の検討とそれに応じた指導方法が研究されなくてはならないはずだ。
・こうした「自分でやれ」という主張の強いところに限って、このようなまじめな検討の代りに、かってな気分にまかせたいいかげんな指導や、全体としてよく整備されないばらばらな指導が行われることが多いのである。講義にばかり頼らずに自分でも大いにやれということは、それだけ取り上げれば正しいし、だいたい「自分でやらない」学習などはありえないが、「自分でやるから」といって指導がいいかげんでよいのでは絶対ない。その反対だ!「自分たちでやる」のを百倍も強めることを助けるのが指導者の任務ではないのか。

 Lさんは指導ということのあり方を問題にしています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート46 非公式の虚数乗法論討論会

国際整数論シンポジウムの日光での会場は金谷ホテルでした。実際に会議が行われたのは9月12日と13日の二日間で、日光に移動して翌日の11日は観光にあてられました。
SSSは外国人数学者たちの間で相当に有名になったようで、特にヴェイユやセールなどブルバキの人たちとは非常に親密になりました。11日は好天に恵まれて、思い思いに中禅寺湖周遊に向いました。ヴェイユとセールとSSSの一行は中禅寺湖に飛び込んだりしました。ドイリングは単身、男体山を征服。アルティンは仏教や仏像についてこまごまと質問してきて、同行者たちも答えるのに苦労したということです。正午にはみなレイクサイドホテルにもどり、昼食後、今度は東照宮見物に向いました。夕刻、植物園でささやかなガーデンパーティが開かれました。
 12日はシンポジウムの第3日。会場はわりと質素な感じでした。正面に黒板があり、テーブルは4人にひとつずつ。名前入りの三角柱がひとりひとりの前に置かれていましたが、出席者の中にはSSSのメンバーもいて、その人たちの名前はこの日からSSSとなりました。
 会議は午前9時から始まりました。議長はアルティン。最初の講演は志村五郎先生。次は谷山さん。次はヴェイユです。3人とも虚数乗法論の一般化に関する講演で、この三つの講演がこのたびのシンポジウムの焦点になりました。
 午後はドイリング、佐武一郎先生、ラマナタン、の講演がありました。志村先生、谷山さん、佐武先生はみなSSSのメンバーです。
 会議終了後、SSSがブルバキを植物園の宿舎に招待することになり、ヴェイユ、セール、シュヴァレー、ネロンがこれに応じました。夕食もいっしょ。Bourbaki(ブルバキ)を感じで書くようにという注文が出て、「武瑠莫鰭綺」「笑了(ニコラ)古履(ブルバキ)」などと書いてみなで大笑いになりました。
 7時から非公式の虚数乗法論討論会。ヴェイユ、アルティン、ドイリング、ブラウワーを含めて、出席者は計25人。SSSが議長と決まり、谷山さんと志村先生が議長席につきました。9時半、閉会。
 最終日の13日は主題が代数幾何に移りました。まずセール、続いて中井、永田の両先生、ネロンの講演があり、これで午前の部が終りました。午後はすべてショートコミュニケーション。終了後、閉会式。これで正式なプログラムは終了しましたが、3時半から2次形式に関する非公式討論会が行われました。議長は小野孝先生。
 夕刻、フェアウエルパーティ。学術会議議長の茅誠司先生と末綱恕一先生の挨拶があり、若い数学者を代表して佐武先生がテーブルスピーチが行われました。募集していた詩のコンクールの結果が発表されました。応募総数3篇。第一位は志村先生の漢詩。第2位はSSSの替え歌。ブルバキ作の詩は、ブルバキは人ではないという理由により失格となりました。SSS作の替え歌をみなで合唱。諸教授のかくし芸。ドイツ人はローレライを歌い、フランス人は知らない歌を歌いました。
 整数論シンポジウムの状況はこれでだいぶ細かいところまで明らかになりました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート45 東京から日光へ

二日目の9月10日は初日より30分早く午前9時に始まりました。議長はブラウワー。最初の講演はシュヴァレーでした。黒板に字を書きながら話を進めていくのですが、黒板は二つあり、幅は5尺くらいとのこと。二つ並べてつなげてありました。10分休憩して、次の講演は「筆者」と記されているのですが、この「筆者」というのはだれなのでしょうか。久賀先生か郡司さんのどちらかと思うのですが、別の記事「整数論シンポジウムをめぐって」によると、9月10日の午前中の講演はまずブラウワー、次は山崎圭次郎先生ということでした。それで少々困惑したのですが、よく見ると「国際数学者会議に出席して」という記事は二つの部分に分れていて、前半は「第I部 東京会場」、後半は「第II部 日光会場」となっています。第I部の筆者は山崎先生でした。これで困惑は解消しました。
 ヴェイユの席の机の上にはBourbaki(ブルバキ)と書かれた名札が高々と掲げられていました。控室には丸善や紀伊国屋が出張して数学書を販売していました。
 山崎先生の次はゼリンスキーの講演でした。コホモロジーに関する講演でしたが、ヴェイユはcocycle(コサイクル)から逃げると伝言して控室に残りました。S氏も一緒で、T氏もまたこれにならったというのですが、あるいはS氏は志村五郎先生、T氏は谷山さんでしょうか。
 ゼリンスキーの次は中山正先生の番でしたが、河田敬義先生の代読でした。続いて稲葉栄次先生と池田正験先生のショートコミュニケーション。これでこの日の会議は終了しました。
 屋上で記念撮影があり、午後、二台の観光バスに分乗して浅草に向い、東武鉄道のロマンスカーで日光に向いました。4時30分、日光駅近くの上今市駅に到着。ここで一行は二手に分れ、二台のバスに分乗し、一台は中禅寺湖畔のレイクサイドホテルに向い、もう一台は駅からあまり遠くない田母沢会館と東大附属植物園に向いました。レイクサイドホテル組は外国人数学者たちや日本側の偉い先生たちで、田母沢会館と植物園組は若手のようでした。
 山崎先生は植物園に泊まることになりました。近所の散歩などして宿舎にもどり、ゆかたに着替えて夕ご飯を待っていたところに非常呼集の電話がかかってきました。レイクサイドホテルの偉い先生からのようで、なんでもブルバキの面々が「どうして若い人たちを下に置いてきたのか」とご立腹とのことで、これを受けて急遽呼び寄せることになったということでした。一同空腹を抱えたままケーブルに乗ってレイクサイドホテルに向ったのですが、全員が移動したわけではなく、残された人もいた模様です。レイクサイドホテルは宿泊代も高そうに見えましたが、山崎先生たち若手組は一泊しただけでした。
 夕食後はロビーで歓談しました。「ブルバキの詩」というのが披露されたのもこのときでした。夜も更けてそろそろ休もうというころになってもシュヴァレーはN氏と夢中で碁を打っていました。それを見たヴェイユがいきなり碁石をつかんで盤面にばらまくという一幕もありました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート44 整数論シンポジウムの概観の続き

最初に講演したのはアルティンでした。終了後、休憩10分。次の講演は岩澤先生で、終了後また休憩。ヴェイユはそのあたりを歩き回っていましたが、何を思ったか、やおら演壇に飛び上がり、黒板に、
THERE IS ONE GOD
   HE HAS TEN PROPHETS
と大書しました。「神様がひとりいて、その神様には10人の預言者がいる」というほどの意味でしょうか。そのときSSSのスポークスマンのK氏(というのはだれのことなのでしょうか)が発奮し、
   No! No! eleven! there is SSS!
と叫びました。「違う。違う。11人だ。SSSがいるではないか」というのでしょうか。するとヴェイユはしばし黙考し、再び演壇にあがって、GODをSSSと書き直しました。これには日本のお歴々もあっけにとられて苦笑いという一幕がありました。
 意味のわかりかねる出来事でしたが、ともあれ10人の外国人数学者たちはSSSに関心を持ち始めていたようで、そんな様子が伝わってくるエピソードです。
 次の講演はヴェイユでした。記録係がテープレコーダーに記録していたのですが、それを指導したのはK教授とのこと。だれなのか、またしてもよくわかりませんが、河田敬義先生かもしれません。
 これで午前中の講義が終了しました。午後の講演は2時からで、議長が交代して正田健次郎先生になりました。そのとき末綱恕一先生に先導された高木貞治先生が会場に姿を見せました。高木先生は明治8年(1875年)4月21日のお生まれですから、このシンポジウムの時点で満80歳です。お茶目のアルティンやいたずら盛りのヴェイユ、それにやんちゃのセールがそれぞれ神妙になったのはちょっと愉快だったと、久賀先生または郡司さんは書いています。
 午後の最初の講演はブラウワーでした。
 次の休憩のおりにA先生あたりから撮影禁止令が出されました。まちまちに撮影が行われるのはじゃまになるという配慮からのお達しのようで、撮影が許されたのは公認カメラマンの米田信夫せんせいのみとなりました。
 午後の二人目の講演は淡中忠郎先生。講演中、ヴェイユは居眠りをしていたとのこと。続いて5分ずつのショートコミュニケーションが始まりました。まず寺田文行先生、次に竹田清先生。竹田先生は研究集会には出なかったという註記が附されていますが、研究集会というのは整数論シンポジウムの準備として数回行われたもののようで、講演の練習会のような印象があります。スピーチ講習会なども行われたようですし、シンポジウムに向けて入念な準備が重ねられた様子がうかがわれます。
 これで第一日目が終りました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート43 協同研究のことなど

国際数学者会議の全容を見たいと思い、『月報』に掲載された関連する記事を読んでいるところですが、ここまでのところを回想すると、SSSの特徴というか、めざしていたもののいくつかが明らかになってきたように思います。たとえば、「数学とは何か」というふうな根源的な問いに関心を寄せていた様子ははっきりと感じられます。
数学を学ぶというと「理論」を勉強するほかはありませんが、何をやっているのかわからなくなるという疑問を率直に表明したエッセイがありました。「理論」を学んでも何のためなのかわからない。それで困惑して、どうしたらよいのだろうかという主旨でしたが、実はこの問いに対する答の所在は明白で、「理論」を生み出すもとになった「問題」というのが存在するというのでした。原点に帰って「問題」を把握し、「問題」から「理論」へといたる道筋を理解するというふうに歩を進めていけば、何をやっているのかわからないという疑問はおのずと解消します。というよりも、「理論」の意味はその泉となった「問題」に宿っているのですから、そもそも疑問が生じる余地はありません。
 もし諸理論のもとになった一群の問題群のすべてを把握するというようなことができたなら、数学とを全体としてひとつの学問として受け止めることが可能になりそうですが、『月報』のエッセイでは、そのようなことを体現した人物としてヒルベルトの名が挙げられていました。これに対しSSSが打ち出したのは「協同研究」の構想でした。たとえ未熟なものであっても思いついたことをみなに伝えて共有し、理解を深めていくことはできるのではないか、そうすることにより「理論」の壁をこえて数学の源泉にせまることができるのではないかという考えです。
 SSSの仲間が語り合って到達した有力な構想だったのですが、ヴェイユはこれを一蹴し、数学のアイデアというものは個人にしか訪れないと主張して共同研究というものを真っ向から否定しました。この対立はSSSとヴェイユについて考えていくうえで実に興味深いテーマです。
少数精鋭主義と「ボロボロ」ということもSSSが絶えず問題にしていたテーマでした。SSSのメンバーの中にも少数精鋭に該当する人はいたのですが、「ボロボロ」を自認する人も多かった模様です。この問題は具体的には大学院問題として顕在化することもありました。少数精鋭主義を主張する人もいて、SSSはそれに抵抗する姿勢を示したのですが、このあたりの消息はもう少し観察していく必要があります。
 整数論シンポジウムの報告にもどることにして、『月報』第3巻、第2号に掲載された記事「国際数学者会議に出席して」を一瞥してみたいと思います。著者は「久賀、郡司」と記されていますが、「久賀」は久賀道郎先生、「郡司」は郡司宏という人と思います。シンポジウムの概要をつかむことを目指して、諸事実を採取してみます。前に紹介したもうひとつの記事「整数論シンポジウムをめぐって」と重なり合うものもあります。
 9月9日は金曜日で、この日から研究発表と討論が始まりました。開会式は前日の9月8日。日本側の公式発表は53人。会場は第一生命保険相互会社6階の会議室。椅子yテーブルの配置図が示されていますが、それを見ると、黒板の前に演壇が設置されています。黒板と演壇の近くに議長席。その後方に記録係の席があり、テープレコーダーが2台備えつけられました。
演壇に向って、最前列に外国人数学者9人の席があります。9人というのはドイリング、ラマナタン、ヴェイユ、セール、岩澤、ネロン、アルティン、ブラウワー、シュヴァレーのことです。外国人数学者にはもうひとり、ゼリンスキーがいるはずですが、ゼリンスキーは招待されたのではなく、一年ほど日本に滞在する予定だったところにちょうどシンポジウムが開催されることになったというので出席することになったのだそうです。
 どのテーブルにもマイクロフォンが置いてありましました。会議室の一番うしろに長机が一列に配置され、10席あまりの傍聴席が設けられました。
 会議は9時30分に始まりました。シュヴァレーが議長です。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート42 「ヴェイユの印象」の続き

ヴェイユは「人生は数学ではない。常に妥協が必要だ」という考えの人で、常識のある社会人だというのが谷山さんの所見です。常識というのは、「現実を現実として認め、そのまま受け入れる妥協の精神」ですが、ヴェイユは妥協するときに黙っていることはないため、その叫びが誤解を招くのであろうというのでした。SSSとの対話の際のヴェイユの発言などを見ると、谷山さんの言うとおりなのだろうと思います。数学については、「ガウスのように始めよ」というアドバイスや、アイデアとは何かと問われて、フォックステリアの比喩を持ち出して応じる様子などを見ると、「もとの問題」への道をさえぎる「理論」の壁をやすやすと超越しているような印象があります。この問題はSSSを悩ましていたことで、これを克服するために共同研究が提唱されたほどですから、ヴェイユの言葉は大きな衝撃をもって受けとめられたことと思われます。
 ヴェイユから学んだこととして、アイデアを明確に提出し(正確に定式化することではない)、それを具体的に根拠づけるという討論形式を谷山さんは挙げています。アイデアの根拠づけというのは何を指してそう言っているのか、これだけではよくわかりませんが、ヴェイユのやり方を見ると、ヴェイユの言うアイデアの根拠づけというのは19世紀の数学者たち(正確には第一次大戦前と言うべきでしょうか)の思索から出発するということのような印象があります。ヴェイユはそんなふうに数学をやってきた人でした。というよりも、むしろヴェイユはそのようにして今日の数学を新たに創造しようとしたというほうが正確なのかもしれませんし、さらに考えていくと、そのように思えるのは、第一次大戦以前に成立した数学が戦争の影響を大きく受けて崩壊したように見えることも関係がありそうです。
 谷山さんの言葉を続けると、谷山さんは、

≪アイデアは時として、目に見えるなんらの根拠もなしに、「無から」生ずることもある。そのようなものは、遂に彼の網にはかからぬのであろうか。≫

と、注目に値する所見を表明しています。数学のアイデアが無から生じることは確かにあります。何もない場所からアイデアを取り出した人を回想すると、ガウスがそうでしたし、アーベルもそうでした。稀有の出来事ではありますが、いろいろな事例があれこれと念頭に浮かびます。谷山さんの目には、そのような「無から生じるアイデア」はヴェイユの網にはかからないであろうと映じたようですが、思えば恐るべき指摘ですし、数学者としての谷山さんを考えていくうえで何かしら重要なことが示唆されているように思います。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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