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 12月27日に大阪の中之島図書館に出向いて古い新聞を閲覧し、たしかその足で奈良に向い、高畑町の松原家を訪ねました。春雨村塾の人も何人かいて、久しぶりにお目にかかりました。松原家の二階の春雨村塾で一泊し、翌28日、上京。そのまた翌日の29日に中野新井町の中勘助先生のお宅を訪ねたという順序になります。
 平成10年の年明の7日、磯島さんと電話で話をして、16日、再び大阪に向いました。今度は中之島図書館ではなく、大阪市立中央図書館に行きました。中之島図書館は大阪府立ですが、大阪府立にはもうひとつ、中央図書館があります。それとは別に大阪市立の中央図書館があります。図書館がたくさんある中で、どうして市立図書館に出かけたのか、何かわけがあったようにも思うのですが、思い出せません。
 中勘助先生の若い日の友人に山田又吉という人がいました。大阪の出身で、明治35年に一高に入学したときに出会い、親友になりました。一高から東京帝大の文科大学の哲学科に進み、エックハルトをテーマにして論文を書き、ケーベル先生に提出して卒業したのですが、数年後、自決しています。華厳の滝に飛び込んで死んだ藤村操とも一高で同期でしたし、中先生も大学卒業後、職につきませんでした。何かしらそのような傾向を誘う時代精神があったのでしょう。中先生にとって山田さんは特別の人で、岡先生にとっての中谷治宇二郎さんと印象がよく似ています。
 山田さんの生家は宮大工で、大阪市東区内久宝寺町三丁目にありました。そこで『大阪地籍地図』(吉江集画堂、明治44年7月30日発行)という本を借り出してしばらく眺めたのですが、あまり成果はありませんでした。
 それと、山田さんは船場小学校を出ていますので、明治期の船場地区の小学校のことを少し調べました。
 図書館を離れてから和歌山市に向い、梅田さんと待ち合わせて市役所に向かいました。尾崎市長が待っていて、市長室でお話をうかがいました。昭和43年10月末、岡先生たち御一行に加わって龍神温泉に出かけた人の話ですので、大いに興味をかき立てられました。

 高松在住の磯島さんのお話をうかがったのは平成10年が明けてまもない1月7日のことですが、前年末の状況をお伝えするのをうっかりしてしまいました。ノートの記述が前後していたためなのですが、平成9年の年末に話をもどしますと、12月27日に大阪に出て、中之島の図書館に出向いています。岡先生は少年時代に「日本少年」という雑誌を定期的に購入していて、毎月の発売日が待ち通しかったという思い出をエッセイに書いていました。岡先生の少年時代というと明治の末年のことになりますが、「日本少年」というのはどんな雑誌だったのだろうという興味をそそられて、実物を見たいとかねがね念願していました。「日本少年」に限らず、少年少女を対象とする雑誌の世界を概観したい思いました。
 それで、ともかく一度と思って中之島図書館に足を運んだのですが、もうひとつ、明治44年秋の新聞記事の探索という目的もありました。これも岡先生のエッセイに出ている話なのですが、大阪市内の小学生を集めて郊外写生会が開かれたことがあり、岡先生は大阪の菅南尋常小学校の5年生で級長だったのですが、代表に選ばれて担任の藤岡先生の引率を受けて参加しました。この出来事を報じる新聞記事がないだろうかと思い、古い新聞を閲覧したかったのです。
 中之島図書館は少年雑誌の実物はもっていませんでしたが、明治期の大阪朝日新聞のマイクロフィルムがありましたので、明治44年の9月1日からはじめて一頁ずつ丹念に見ていきました。途中で「博文館の四大雑誌」というものの広告に出会いました。それは「少年世界」「少女世界」「幼年世界」「幼年画報」の四つです。ほかに、博文館は「女学世界」という雑誌も出していることがわかりました。また、実業の日本社の広告もあり、「日本少年」「少女の友」「幼年の友」という三つの雑誌が出ていて、ここで「日本少年」に出会いました。10月27日の広告には、
 日本少年
 11月1日発行
 定価10銭
とあり、「日本少年」の存在感が急に高まりました。東京時事新報社発行の「少年」という雑誌の広告もありました。新聞の広告というのはおもしろいものです。
 目的の郊外写生の記事は11月6日の新聞の「欄外記事」の中にありました。よく見つかったものだと今も思いますが、岡先生の回想の世界の出来事が実在感を備えてきたように感じられて、うれしかったです。「少年の郊外写生」という見出しがついていて、「お伽倶楽部」の主催ということがわかりました。「お伽倶楽部」というのは、おとぎ話の口演の普及を目的として、巖谷小波の門下生の久留島武彦が創設したクラブです。
 欄外記事「少年の郊外写生」の全文は次の通りです。

少年の郊外写生
子供をして多く自然の景物に接せしめ、清新なる趣味を養はしむるため、当地のお伽倶楽部は少年郊外写生畫会を設け、第一回写生旅行を京阪間の名勝たる香里、枚方、八幡、伏見、淀等と定め、五日午前八時、京阪電車に乗りて右のうちそれぞれ目的の場所へ各班に分れ、班長指導して出発す。会員は市内各小学校尋常五六年、高等小学校の男生徒(学校で選定せしもの)に限る。会費一切要せず、電車賃も要せず、弁当持参の事、写生用具携帯の事。さてその作品は全部班長に提出し、審査の上或る期間を定め、香里遊園地にて「少年写生畫展覧会」を開催するとぞ。


 磯島さんは戦後まもない時期に京都大学を卒業した人で、お医者さんですが、青春に悩みがあり、光明会のお念仏に打ち込んでいました。京都の西のはずれの梅ヶ畑というところに光明会のお念仏の道場があり、岡先生はしばしばそこに通っていたのですが、磯島さんもよくいっしょになって並んで木魚をたたいたそうです。足がしびれて横向きにすると、岡先生に足をたたかれて、ちゃんとしろ、と言われたりしました。
 岡先生が磯島さんに、科学的に考えるようにしなければあかん、と話したことがありました。君なあ、「おえど」が近づいてくるのに小さくなるんだ。こんなこと、君、わかるか、と言われたこともありました。「おえど」というのは何のことかわかりませんが、磯島さんは何度も同じ話を聞かされて、それもずいぶんきつく言われましたので、そのつど考えさせられたというのですが、3、4年がすぎてから、ああ、わかった、と思って、はたと手を打ったそうです。この話はこれだけのことなのですが、もうひとつ意味合いがつかめませんでした。
もうひとつの話ですが、岡先生が磯島さんに向って、磯島君、こういうことがわかるか、と問い掛けたことがありました。A点からしゅーっと飛んでB点に行く。B点からまたしゅーっと飛んでA点にもどる。私はこれを眺めることができるのだ、こういうことがわかるか、と岡先生は言って、A点からB点へ、そしてまたB点からA点へと目を動かしました。この話も不可解で、どうもつかみどころがありません。
 光明会の大先輩に田中木叉上人という人がいて、全国あちこちを巡回して法話を行っていたのですが、あるとき、というのは昭和23年の秋のことですが、大和郡山にやってくることになりました。大和郡山に大きなお寺があり、木叉上人がそこに逗留するというので、磯島さんは岡先生と二人で出かけていきました。三人でお寺の庭を眺めながら話をしました。木叉上人は椅子に座っていて、その前にテーブルがあり、右手に磯島さん、さらにその右手の席に岡先生が座りました。磯島さんは戦中は命がけの天皇主義者だったとのことで、そのためにお念仏の道に入りにくいのだと、木叉上人に話しました。他方、天皇主義のほうはというと、戦後すぐの天皇の人間宣言に直面してたいへんな衝撃を受けました。それで、どのように考えてよいか、わからなくなりましたとお尋ねしたところ、木叉上人は、世の中は有為転変で、移り変わりがある。歴史は繰り返しますよ。今に世の中はいろいろ変るからね。君、そんなに悲嘆にくれることはないよ、と優しい言葉をかけてなぐさめてくれました。
 ところが岡先生は磯島さんの話がよほど気に入らなかったようで、この男は国粋主義者だ、国粋主義はいかん、と激しく罵倒して、われわれが帰依するのは仏教ではないか、ときっぱりと言い切りました。これを聞いた磯島さんは怒りのために身体中がふるえ、怒髪天をつくかのような感じで、身の置き所がないありさまになりました。これが磯島さんの話です。平成10年の時点からさかのぼると、昭和23年はきっかり50年前の出来事になります。
 昨日、「はいらず」の話を書いたところ、ゴローさんからコメントをいただきました。ゴローさんの郷里は四国の今治ですが、台所の戸棚を「はいらず」と呼んでいて、「蠅いらず」という意味と思っていたということでした。ぼくの故郷は関東地方の山村ですが、郷里でも東京でも聞いたことがありませんでした。昔は蠅が多かったのは確かで、蠅取り紙が使われていました。粘着式のテープを天井からぶらさげておくと、蠅がたかって真っ黒になりました。平らな場所におくためのシート式のものもありました。記憶にあるのは昭和20年の終りがけから30年代にかけてのことですが、あのころはどうしてあんなに蠅が多かったのでしょう。ふと気がつくと蠅を見かけなくなったのも不思議です。
 先日、大学の学生に聞いたのですが、なんでも昭和30年代をテーマにした講義を聴講しているのだそうで、講師の先生は40代。このごろなぜか昭和30年代がブームになっているのだそうで、なぜ今になってブームになったのか、究明するのだとか。40代の先生ではわからないのではないかと思いましたが、その学生の両親も40代。30年代の前は終戦の直後ですが、昭和20年の終戦から数えると今年は64年目になります。もはや「戦後」という言葉は死後のようで、今の大学生たちにとってはあの64年前に集結した戦争はまるで関ヶ原の戦いみたいな感じのようです。

閑話休題。平成9年の年末になって、上京の機会がありました。29日、中野新井町の中勘助先生のお宅を訪ね、秀子さんに御挨拶しました。この日は嶋田家の話をいろいろ「うかがいました。秀子さんが幼いころ、嶋田家は牛込の市ヶ谷の田町にありました。隣に山内家が二軒ありました。二軒の山内家と嶋田家は親戚です。すぐ隣の山内家は祖父母の家。そのまた隣の山内家に『チボー家の人々』を翻訳したフランス文学の山内義雄先生がいて、幼なじみだったそうです。「よんこちゃん」というかわいらしい名前で呼ばれていたという、おもしろい話もありました。
 山内先生の父は山内通義といい、陸軍の軍人で砲工学校の初代の校長だった人ですが、秀子さんのお父さんも軍人で、陸軍の工兵科の将校でした。お祖父さんの山内通義さんは日露戦争に従軍し、旅順の戦いに参加して奮戦して「二龍山の主」と呼ばれたそうで、乃木大将と親しかったということです。嶋田家の先祖は長州で、中野のお宅の応接間には三条実美の掛け軸が架けられていました。昔からあったもので、なぜあるのかわからないという話でした。嶋田家の背景も興味が深いです。
 年が明けて平成10年になり、1月7日、四国高松の磯島クリニックの磯島院長と電話で話をしました。終戦の直後のことですが、磯島さんは岡先生といっしょにお念仏をした経験のある人で、おもしろい体験談をうかがうことができました。
 平成9年の12月は何かしら心が動いた時期だったようで、ほかにもあちこちに電話をかけています。梅田さんと話をし、山根さんからお電話をいただいた24日は、新潮社に電話をかけました。昭和40年の夏8月のことですが、岡先生は京都で小林秀雄と対談し、その記録は『人間の建設』という本になって刊行されました。この対談の背景を知りたいとかねがね思っていたのですが、基本的な情報がとぼしく、どうもよくわかりませんでした。対談の日にちは8月16日で、ちょうど「大文字五山送り火」だったのですが、場所は京都の料亭というばかりで名前も不明でした。それで尋ねてみたのですが、電話に出た人の話では、この対談を企画して同席した社員がいればいいのだが、すでに退職しているということでした。なんでも超一流というわけではなく、わりとこじんまりとした旅館だったというのですが、そんなうわさが社内に伝わっていたのでしょう。対談の記録から推定すると、旅館から大文字焼きが見えた模様です。
 翌25日、奈良の松原さおりさんと話をしました。高野山の恵光院で聞いた話を伝えたところ、さおりさんにも思い出があるようで、こんな思い出を話してくれました。さおりさんが小学校の1年か2年のときのことということですから、昭和23年か24年あたりのことになりますが、学校からもどると、お母さんの(みちさん)の書き置きがありました。おとうちゃんを迎えに高野山に行ってきます。「はいらず」におやつが入っているから食べて待ってなさい、というようなことが書かれていたそうですから、恵光院のおばさまの話と符合します。ただし、「はいらず」とは何のことなのか、わかりません。小学生のさおりさんも理解できなかったそうです。
 つい最近、昔のノートを読み返してこの言葉に久しぶりに出会いました。意味はやはりわからないままなのですが、思い立ってインターネットで検索してみると、出雲弁の方言のコーナーに出ていて、「ハエが入らないように、周りを細かい網で囲った食品保管箱」ということでした。紀州なのに出雲弁とは不思議ですが、そんなに厳密に地域が区分けされているわけではないのでしょう。インターネットの力もこんな場面では強力で、びっくりしました。
 12月24日、和歌山の梅田恵以子さんと電話で話をしました。梅田さんは和歌山市在住の人ですが、保田與重郎先生と多少の御縁があるようで、9月27日に京都のホテルで開かれた「かぎろひ忌」の席ではじめてお会いしました。昭和43年の秋、岡先生と保田先生と胡蘭成たちが大勢で新和歌浦から龍神温泉に出かけたことがありました。初日は和歌浦、二日目は龍神温泉。梅田さんは龍神温泉には同行しなかったそうですが、初日の新和歌浦行には参加したということで、おもしろいエピソードを話してくれました。それでその話の続きをもう少し詳しくうかがいたいと思い、電話をかけました。
 梅田さんの話の中に、岡先生たちといっしょに龍神温泉に出向いた人のお名前が何人か登場し、それぞれの人について多少のうわさ話がありましたが、何分にも梅田さん御本人は参加していないのですから、立ち入ったことは不明瞭です。梅田さんもそんなふうに思ったのか、話の途中で和歌山市の尾崎市長の御名前を挙げました。尾崎市長は若いころから保田先生の著作を愛読していた人ですが、政治に志があり、昭和43年当時は和歌山市の市会議員でした。龍神温泉にも同行しました。その尾崎さんが今は和歌山の市長になっているから、訪ねてみたらどうかというのが梅田さんの提案でした。
 訪ねるといっても、どうしたらいいんですか、とお尋ねすると、私がいっしょに行くから大丈夫とのこと。古くからの知り合いだから大丈夫というのですが、半信半疑でした。それでも龍神温泉に同行した人に会えるというのは魅力のある提案でしたので、よろしくお願いすることにして、日時が決まるのを俟つ構えになりました。
 同じ12月24日のことですが、梅田さんとの話が終った後(前後がはっきりしないのですが、後だったように思います)東京在住の山根清さんからお電話がありました。山根さんは国民文化研究会の会員で、10月末、東京で山口さんに紹介されてお会いしました。防衛庁にお勤めというので、それなら何かつてがあるかもしれないと思い、岡先生の父、寛治さんの消息を知る方法はないだろうかと相談しました。寛治さんは日露戦争に従軍した経験があるのですが、一年志願兵出身の陸軍歩兵少尉でしたので、防衛庁の戦史室あたりに記録が残っているのではないかと思ったのです。
 岡先生のエッセイからわかることは、寛治さんは将校で、陸軍少尉だったということと、朝鮮半島の鴨緑江あたりまで行ったといことくらいだったのですが、山根さんは陸軍省が編纂した
「明治三十八年七月一日調陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿」
という資料を見つけたというのでした。寛治さんの名前がそこに記載されていて、第四師団所管の後備歩兵第37連隊に所属していたことがわかりました。後備歩兵第37連隊の編成と解散の日付もわかりました。基本資料の探索はやはり重要で、フィールドワークの手がかりでもあります。後日、名簿のコピーを送っていただきました。
 山根さんは聴衆の萩の出身で、九州大学を卒業した人ですが、先年、病気で亡くなりました。人柄がおだやかで、親切な人でした。
 細かい記録は省略することにして、12月21日のことですが、徳島の大櫛以手紙さんと話をしました。大櫛さんは医師で、「バロン薩摩」こと薩摩治郎八の主治医だった人です。薩摩治郎八は、昭和4年にパリの国際大学都市に日本館が建設されたとき、資金の全額を提供した人物です。日本館ができたのが昭和4年の5月、岡先生がパリに到着したのは5月末です。一ヶ月ほど前に中谷宇吉郎先生がロンドンからパリに移ったのですが、中谷先生はパリで日本館会館の話を聞き、さっそく入館しました。たしか一番初めの入館者だったと思いますが、そこへ岡先生がやってきて出会いが実現したという次第です。
 薩摩治郎八の生年は岡先生と同じ明治34年ですが、誕生日は4月13日ですから、4月19日生まれの岡先生とほぼ同じです。人生の航路はまったく別ですが、たまたま昭和初年のパリで交錯することになりました。もっとも日本館のパトロンと一入館生というだけの関係ですから、おつきあいがあったというわけではありません。岡先生の学問と人生を考えるうえで不可欠の人物というのでもないのですが、岡先生が入居した日本館とはどのようなものだったのか、多少のことを知りたいと思いました。
 薩摩治郎八は戦中戦後をパリですごし、戦後しばらくしてから帰国して、真鍋利子さんと知り合って結婚しました。利子さんの故郷は徳島市なのですが、ある年、というのは昭和34年のことですが、徳島市を訪問中に病に倒れて療養生活に入り、そのまま徳島で亡くなりました。お墓も徳島にあります。
 薩摩治郎八には「せ・し・ぼん―わが半世の夢」という自伝があります。はじめ山文社というところから出版されたのですが、後年、復刻版が出て、ぼくはそれを入手して読みました。その復刻版の版元が「バロン・サツマの会」で、会長が大櫛さんでしたので、大櫛さんに連絡をとってみようと思い立った次第です。以下、大櫛さんにうかがった話です。
 自伝「せ・し・ぼん―わが半世の夢」は山文社から出たのが一番はじめと思っていたのですが、大櫛さんの話ではもともと大櫛さんが自費で出版したのだそうで、それを山文社の社長に貸してやったのだそうです。山文社の今の社長の父親がもともとどうしたとかで、知り合いだったのでしょう。
 薩摩治郎八の遺品が3000点ほどもあり(300点だったかもしれません。ノートには二つの数字が書かれています。はっきり確認しなかったためでしょう)、利子さんが保管しているのだそうですが、なんでもバロン・サツマの会と利子さんの折り合いが悪いとかで、こんなことがあった、あんなことがあったという話をいろいろうかがいました。現在進行中の生々しい話のあれこれでした。薩摩治郎八の書き遺したものの中に岡先生のお名前でも出ていたらおもしろいのですが、それには遺品の数々を見なければならないのでしょうし、あまりにも気の遠い話です。
 大櫛さんに利子さんの連絡先を教えていただいて、この日の電話は終りました。

 胡蘭成のお墓参りの後、小山さんに報告しようと思い、電話をかけたところ、ご本人が電話に出ました。清岩院を訪ねたことを伝え、それから青梅の隣駅の羽村駅で待ち合わせて久しぶりにお目にかかり、しばらく旧交を暖めました。
 12月に入ってからずいぶんあちこちに電話をかけました。当時のノートに簡単な記録が書き留められていますが、12月1日には和歌山市の桐蔭高校に電話しています。桐蔭高校は和中(わちゅう)こと和歌山中学の後身で、和歌山中学は岡先生の父親の兄弟たちの母校です。岡先生の父は岡寛治(おか・ひろはる)というのですが、男ばかり四人兄弟の三男です。長男は岡寛剛(おか・ひろたけ)といい、明治16年7月に和中を卒業しています。三回生で、同期卒業者はたった4名。南方熊楠と同年の卒業ですが、熊楠さんは少し早く、同年3月の卒業の二回生です。熊楠さんの同期は5名。次男は谷寛範(たに・ひろのり)という人で、明治22年7月、和中卒。同期卒業者は11名です。姓が「岡」ではなく「谷」になっていますが、これは谷家に養子に出たためです。寛範さんの次が寛治さんですが、寛治さんは和中の卒業生ではなく、東京に出て明治法律学校(明治大学の前身)に進みました。寛治さんの下にもうひとり、四男の齋藤寛平(さいとう・かんぺい)という人がいましたが、寛平さんも和中ではなく、寛治さんと同じく上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)や東京法学院(中央大学の前身)に進みました。
 兄弟四人とも名前に「寛」の一字を共有しています。寛平さんの姓も「岡」ではありませんが、寛範さんのように他家に養子に出たというわけではなく、廃家の姓を使えるように工夫したのではないかと思います。岡先生の父の寛治さんも「坂本」を名乗っていましたので、岡先生も少年時代は「岡潔」ではなく「坂本潔」でした。長男以外の男の子の姓を変えたのは徴兵を免れるための措置で、長男は徴兵されないという初期の制度を踏まえています。日本中でよくこのようなことが行われました。

 11月下旬、所用ができて東京に出かけました。23日は中野の新井町に中秀子さんを訪ねました。秀子さんのお宅は『銀の匙』の作者、中勘助先生が晩年の日々をすごした家で、玄関先の表札には当時も中先生のお名前が記されていました。中先生のお名前と並んでもうひとり、中和子さんのお名前もありました。和子さんは中先生の奥様ですが、嶋田家の三姉妹の長女でした。次女は豊子さんという人で、三女が秀子さん。その秀子さんが中先生の養女になって、中家を継ぐという形になりました。豊子さんは嶋田さんのままで、実家の嶋田家を継ぎました。新井町の家はもともと嶋田三姉妹のご両親の家で、戦火を免れましたので、戦後、疎開先の静岡から東京にもどった中先生は、この家に落ち着きました。このあたりの事情はやや複雑で、もう少し詳しく説明しなければならないところですが、中先生のことを語るのは後回しにしたいと思います。
 23日は嶋田家と中家にまつわる昔話をしばらくうかかがいました。
 翌24日、東京郊外の福生市内にある「福生山清岩院」を訪ねました。ここには岡先生の晩年の友、胡蘭成のお墓がありますので、かねがね訪ねたいと思っていました。はじめての土地でしたが、JR青梅線の福生駅から適当に歩いたところ、首尾よく清岩院に着きました。臨済宗のお寺です。墓地が広く、しばらく放浪した後に胡蘭成のお墓が見つかりました。
 墓石の正面に、
   「幽蘭」
という二文字が刻まれていました。胡蘭成の字です。「幽蘭」は花の名前ですが、孔子が作曲したと伝えられる琴の曲に「幽蘭」があります。墓石の左側方の右下に「胡蘭成」の名前と印が刻まれていました。右側方には、
 「胡蘭成一九八一年七月に十五日死亡」
 「戒名胡蘭成居士」
という文字があり、裏側を見ると、
 「昭和五十八年十一月十三日
   施主 胡翁之廣」
と施主の名前が読み取れました。胡蘭成の奥さんは翁之廣という人で、上海の人ですが、自分の名前に「胡蘭成」の姓の「胡」の一字を加えて「胡翁之廣」としたのでしょう。普通に行われている習慣なのかどうか、よくわかりません。
 墓石とは別に「胡蘭成銘」があり、胡蘭成の略歴が記されていました。

一九零六年
中國浙江省嵊県に生マレル
一九二七年
國民革命軍北伐ノ中燕京大学中退 戰時汪兆銘政府法制局長官 漢口大楚報社長
一九五零年
日本ニ政治亡命 福生市ニ住ミ幾多ノ知己ヲ得ル
一九七四年
中華民國中國文化学院大学永世教授 義塾三社ヲ興 易教講説 ソノ著ハ論理生氣發想ノ[一文字不明]変化無量デ神道ト礼樂ノ真理ヲ究メ東洋文明ノ根源ヲ明解スル 信義篤ク終世節ヲ屈セズ己ノ道ヲ貫イタ
一九八一年
七月二十五日死去 享年七十五
一九八三年九月十三日
コレヲ誌ス

 前回の連載「岡潔先生をめぐる人々/フィールドワークの日々の回想」は、平成8年(1996年)2月のフィールドワークの旅の日々のはじまりのころの回想から説き起こし、二年目の終りがけの平成9年(1997年)10月末日まで進んだところでひと休みとなりました。翌11月の前半は旅行に出る機会がなかったのですが、17日、高野山の恵光院に電話をかけました。恵光院は古くから岡家とゆかりのあるお寺です。本当は電話ではなく、実際に訪ねていくほうがよいのですが、フィールドワークにも限界があり、しらみつぶしにすべての場所に足を伸ばすというのは至難です。
 電話口に出たのは恵光院の奥様でしょうか、親切な「おばさま」が応対してくれました。少々長い電話になったのですが、なんでも若いころ岡先生に会ったことがあるとのことで、岡先生はときどきインクびんをもって恵光院にやってきて、しばらく部屋を貸してくれといって10日ほど逗留して論文を書いたりしていたそうです。昭和三十年代ころ、まだ有名になる前ということですから、文化勲章を受けた昭和35年よりも少し前の話でしょうか。もう少し時期を詰めると、お父上が亡くなったのが昭和32年で、それよりも前とのこと。終戦後は恵光院にいたそうですので、昭和20年代から昭和32年あたりにかけてのエピソードなのでしょう。
 岡みちさんがお金をもって、滞在中の岡先生を訪ねてきたこともありました。みちさんは、日本ではまだ無名だが、フランスでは有名だ。気持ちのやさしい人ですと、涙を浮かべて語ったそうです。
 恵光院は岡家と特別の関係があったお寺で、岡家の人が高野山にのぼったときにお参りするお寺だったとか。どの家もそういうお寺をもっていたのだそうです。岡先生は仏教に造詣が深く、恵光院の小僧が岡先生に宗教の話をもちかけると、岡先生に言い返されたりしました。
 フランス語の論文にピンクのりぼんをかけて、お父上にわたしたこともあったそうですが、これは恵光院を離れるときのことでしょうか。その論文は今もあるのでしょうかと尋ねると、どこかにいってしまってわからない、ということでした。


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