プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して30年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。


カテゴリー


最近の記事



FC2カウンター


月別アーカイブ


最近のトラックバック


ブロとも申請フォーム


FC2ブログ
 岡先生の多変数関数論研究には前期の前に「模索の時期」があり、「ハルトークスの集合」の研究をしていました。この研究をフランスから持ち帰り、学位取得のための論文を執筆する考えで取り組んでいたのですが、だんだん熱意がさめたところにベンケ、トゥルレンの著作を見ることになりました。それで学位論文は完全に放棄して、新たな研究構想を情緒のカンバスに思い描いたのですが、このとき、というのは昭和9年(1934年)の後半期のことですが、岡先生はすでに満33歳でした。
 昭和10年の年初から新構想のもとで研究ノートを書き始め、昭和15年の時点でハルトークスの逆問題の解決の鍵を発見し、解決の全容を伝える第6論文を実際に執筆したのは昭和16年でした。第6論文は東北大学から出ている「東北数学雑誌」に掲載されたのですが、10月25日付で受理されています。それから岡先生は北大で勤務するために札幌に移ったのですが、ハルトークスの逆問題に解決のめどがついたころからすでにその先の研究の姿を思い描いていた模様です。それは「内分岐領域の理論」のことで、具体的には内分岐領域、すなわち分岐点を内点として包含する領域においてハルトークスの逆問題を解くことがめざされていたのですが、本格的な思索は昭和16年の秋から札幌で始まりました。
 昭和16年の秋の岡先生は満40歳。札幌で始まった後期の研究はずいぶん長く続きました。何年何月までときっかり指摘することはできませんが、遺された研究ノートの日付を追うと、一番最後に記入された日付は昭和41年(1966年)の大晦日12月31日です。昭和16年の秋から数えると、この間、25年になります。
 後期の研究は成功せず、ハルトークスの逆問題を内分岐領域において解くことはできなかったのですが、第7番目と第8番目に数えられる2篇の論文ができあがりました。第7論文では「不定域イデアル」の理論が展開され、第8論文では不定域イデアルの理論により内分岐領域において「上空移行の原理」が確立されました。これはハルトークスの逆問題の解決のための手段で、第8論文のタイトルは「基本的な補助的命題」というのですから、次はこの補助的命題を使って「定理」の証明をめざすべきところですが、岡先生の研究はこれよりも先には進みませんでした。
 第9番目と第10番目の論文もありますが、第9論文のテーマは「内分岐点をもたない有限領域におけるハルトークスの逆問題の解決」ですから、内容は第6論文の続きです。ただし、この間に不定域イデアルの理論ができていますので、証明の手法は格段に洗練されました。第10論文では、ハルトークスの逆問題を追求する一連の研究とは別種のテーマが取り上げられています。
 後期の多変数関数論研究に費やされた25年という歳月は、相互法則を追い求めたガウスの37年の連想を誘います。ガウスは4次の相互法則の形を発見するところまで進みましたが、その先は継承者たちの手にゆだねられました。岡先生は上空移行の原理を確立することはできましたが、頂上への登攀にはいたりませんでした。ガウスと岡先生に共通して認められるのは、二人とも「自分ひとりの思索の世界」を構築したという一事です。高次の相互法則が存在して、しかも超越関数の諸性質と関連があることを洞察するとか(ガウス)、内分岐領域においてハルトークスの逆問題の解決をめざすとか(岡先生)、どちらもできるのかできないのかだれもわからないことで、まちがいなく実在したのはただガウスと岡先生の確信のみでした。確信には知的な根拠はありません。
 ガウスの場合には4次相互法則に先だって平方剰余相互法則の証明に成功したという著しい成功があり、しかも8通りもの異なる証明を獲得することもできました。それらの証明の中には二次形式の理論や円周等分論のような異質の原理に支えられているものがあり、そんな証明が成立すること自体、驚嘆に値しますが、これもまたガウスの情緒の現れです。しかもガウスの心情の目はいっそう遠い地点にまで及び、高次の相互法則の世界を見ていたことになります。岡先生の場合には「内分岐領域におけるハルトークスの逆問題」の解決の試みに先立って、「内分岐しない領域におけるハルトークスの逆問題」の成功という出来事がありました。この前期の研究もまた岡先生の情緒の現れですが、岡先生は情緒の世界にさらに奥深く参入し、内分岐領域に及ぼうとしたのでした。
 論理的な根拠を欠く確信が本当に数学を生むという、いかにも神秘的な印象の伴う数学の創造の場にガウスと岡先生は時空を隔てて立ち会いました。すべてが心のままに実現したのではなく、できなかったこともありました。ガウスと岡先生はあらゆる点で酷似しています。

 ガウスの数論と「情緒の数学」がつながるところまで書き進みましたので、この連載もだんだん終わりに近づいてきたような感慨を覚えますが、最後に晩年の岡先生の数学的思索について語っておきたいと思います。岡先生は30代のはじめ、正確に言うと34歳のときのことですが、この年、すなわち昭和9年(1934年)に刊行されたばかりのベンケとトゥルレンの著作『多複素変数函数の理論』を入手し、ここに手がかりを求めて新たな数学研究の構想を描きました。「新たに」というのは、岡先生はそれまで洋行先のフランスで始めた研究を帰国後も継続し、学位論文を執筆する考えで取り組んでいたのですが、それをすっかり放棄してしまったという意味です。来るべき研究の構想のスケッチが書かれた一枚の紙片が遺されていますが、そこには「1934年12月28日」という日付が記入されています。
 翌昭和10年の年初から思索を始め、日付入りのノートを書きながら進んでいきました。この時期の目標は「ハルトークスの逆問題」を解決することで、雄大な構想を描いたのですが、この問題を解決する場所として設定されたのは「内分岐点をもたない領域」でした。ハルトークスの逆問題というのはドイツの数学者ハルトークスが発見した「ハルトークスの連続性定理」の逆が成立するのではないかということを問う問題です。当時も今も数学には流行があり、日本の数学者の大勢はドイツやフランスなど、ヨーロッパ各国の大学で研究されている課題に向っていたのですが、多変数関数論はヨーロッパにも研究する人が非常に少なく、日本には岡先生のほかにはひとりもいませんでした。岡先生にはまったく独自の見識があり、この領域を開拓しなければ数学の将来は開けないというほどの強固な確信をもって取り組む決意を固めたのですが、勢い孤高の研究生活を強いられることになりました。そのうえハルトークスの逆問題というのは岡先生がハルトークスの研究を受けて独自に創造した問題なのですから、岡先生を取り巻く社会的環境のきびしさも、数学的思索を進める途次、いたるところで遭遇する大小さまざまな困難も、みなこぞって岡先生を苦しめました。詳述は避けますが、ハルトークスの逆問題というのは、フェルマの大定理やポアンカレ予想やリーマン予想などのようにすでに知られていた未解決の難問というのではなく、あくまでも岡先生がクリエイトした問題であること、言い換えると、この問題それ自体が岡先生に固有の情緒の表現であったことを、ここでくれぐれも回想しておきたいと思います。
 昭和10年にはじまる研究は昭和15年には決着がつき、有限でしかも単葉な領域という限定のもとでのことですが、岡先生はそのような領域においてハルトークスの逆問題を解決することができました。昭和16年秋には第6番目になる論文を執筆し、解決の具体相を報告しました。ここまでが岡先生の多変数関数論研究の前期です。

 ガウスの数論ほどの大掛かりな事例を目にすることはめったにありませんが、ひとつでもこのような例がある以上、「情緒の数学史」の構想は十分に成立するのではないかと思います。ガウスの数論の諸論文をはじめて読んだのは、すでに四半世紀より前のことになります。
 ガウスの数論の全体が17歳のときの発見に始まることは、『アリトメチカ研究』の序文を読んで知りました。この著作の第7章の円周等分論は代数の一領域のように見えたのですが、ガウスは序文の末尾でわざわざこの論点に言及して、見かけはそうかもしれないが、根本の原理のところで数論なのだと説明していました。その意味は、平方剰余相互法則のひとつの証明がそこから取り出されるということなのですが、このようなところにも驚嘆するばかりでした。数学に関心を寄せる人の中でガウスの『アリトメチカ研究』を知らない人はいないと思いますが、ガウスがこのようなことを述べているとは、実際に読んでみるまでは思いもよらないことでした。古典はやはり自分の目で読むのがたいせつで、うわさ話などどれほど蒐集しても思索の糧にはならないのです。
 『アリトメチカ研究』の第7章の書き出しのところにはレムニスケート積分が書かれているのですが、これもまたびっくり仰天で、驚愕するばかりでした。そこには高次の合同式の理論への言及も添えられているのですが、たとえばレムニスケート積分の考察の中から4次剰余の相互法則の証明が取り出されることを、ガウスはすでに見通していたことがわかります。少し後にアイゼンシュタインがこれを実際に遂行しました。
 ガウスの情緒が描き出した数論的世界には、
 さまざまな次数の合同式
 相互法則
 代数方程式論
 円関数や楕円関数のような超越関数
のように、一見して無関係のように見えるあれこれの領域が渾然と融合しています。何度でも強調したいのは、この世界はガウスひとりの心に描き出されたのであり、ガウス以外のだれの想像も及ぶところではなかったという一事です。ガウスの継承者たちがガウスの世界を少しずつ具体化し、いろいろな理論を作りました。理論ができてしまえば、それらはつまり「普通の数学」ですから、だれでもたやすく理解することができて、普遍性に似た雰囲気を備えています。たとえガウスがいなかったとしても、何人もの「小さなガウス」がいつか現れて、よってたかってガウスの世界を発見しただろうなどと言われることがありますが、そのような評言は数学の普遍性を信じる立場から発せられています。
 できあがった数学の理論体系には確かに普遍性があり、簡単な論証を積み重ねるだけでだれでも理解できますが、生まれる前の数学、すなわち、いわば「未生の数学」はあくまでも特定の個人の心に芽生えるのであり、そこには知的もしくは論理上の普遍性はありません。
 こんなわけで、はじめてガウスの数論の世界に参入したときは驚いた事は驚いたのですが、「情緒の数学」の大きな事例になっていることを洞察するにはいたりませんでした。岡先生の論文集を通じて学んだ「情緒の数学」とガウスの数論が結びついたのは、実はつい最近のことで、このことに気づいたときのうれしさは格別でした。岡先生のいわゆる「発見の鋭い喜び」に通じるかのような喜びがあり、これで数学史を書けるという確信を抱くこともできました。

 ガウスは平方剰余相互法則の証明に成功した最初の人物ですが、単に証明して正しさを確認したというだけではなく、長い時間をかけて8通りもの証明を案出しました。数学的帰納法のよる証明もあれば、初等的な証明もありますが、二次形式の種の理論に基づく証明や円周等分論の「ガウスの和」の数値決定に支えられた証明、それに高次合同式の考察から取り出された証明など、どうしてそんなふうに証明することができたのか、神秘的な印象の伴う証明も並んでいます。
 ガウスはどうしていろいろな証明を考案したのか、今では明瞭にわかります。ガウスの真のねらいは4次剰余相互法則の証明にあり、平方剰余相互法則の証明を支える基本原理の中に、4次の場合にも通用するものをみいだしたいと念願していたと見てまちがいありません。ただし、ここもまた繰り返しになりますが、4次の相互法則というものが見つかっていたわけではありません。このあたりの事情は、ほんの少しではありますが、代数方程式の解の公式の探索の経緯に似たところがあります。
 ガウスの全集にはさまざまな遺稿が収録されていますが、数論の領域では3次と4次の相互法則を探索する様子が顕著です。いっそう高次の相互法則の存在も感知していたことと思いますが、次数を3と4に限定して、具体的な姿を明るみに出そうと努力を続けていたのでしょう。ここで、またまた繰り返しになってしまいますが、若い日のガウスが感知したのは「存在の予感」のみであり、はたして本当に存在するのかどうか、存在するとしたらどのような形になるのか、ガウス本人も何もわからないというのが実情でした。ガウスは一方では具体的な姿形の探索を続けるとともに、他方では、まだ見つかっていない法則の証明を模索していたことになります。まったく不思議な話ですが、ガウスの心の中では矛盾せずに同居していたのでしょう。
 ガウスが平方剰余相互法則の第一補充法則を発見したのは1795年、4次剰余に関する第二論文が公表されたのは1832年。この間、実に37年という歳月が流れています。しかも公表されたのは4次相互法則の形だけで、補充法則については証明も遂行されたものの、相互法則の本体の証明は伴っていませんでした。実際にはガウスの証明は相当に進捗していたようで、証明のスケッチを記述した遺稿があるのですが、それを見ると正しく証明されています。平方剰余相互法則の証明のひとつが鍵になっていることも、深い興味を誘われます。もうひとつ、ガウスは3次の相互法則も追求していたのですが、これについては断片的なメモが遺されているだけで、まとまりのある記事はありません。
 証明は欠如していたものの、4次の相互法則が発見されて公表されたという事実は非常に重く、ガウスを継承する人々のための貴重な遺産になりました。ヤコビ、ディリクレ、クロネッカー、クンマー、ヒルベルト等々、19世紀のドイツの数論史を彩る偉大な数学者たちの名前が次々と心に浮かびます。優に100年をこえる雄大な歴史が形成されたのですが、この歴史を開いたのは、ありやなきやをどこまでも追い求めた37年に及ぶガウスの思索でした。ひとりガウスのみが存在することを確信した何物かが、37年の歳月を経て本当に姿を現しました。これを「情緒の数学」の発現と言わずして、どのように評したらよいのでしょうか。
 「無」から「有」が生まれたと言うのも可、ガウスの天才の発露と言うのも可。ではありますが、「無」も「天才」も、それ自体の中には数学は存在せず、ただ「生成する力」が宿っています。ガウスの数論は岡先生のいう「情緒の数学」のあまりにもめざましい事例になっています。
 津田塾大学で行われた数学史シンポジウムの模様を簡単に報告しようとしたところ、長々とおしゃべりが続いてしまいました。微積分はなにしろヨーロッパの近代数学の端緒を開いた理論ですから、優に300年を超える歴史があり、全容を把握するのは容易ではありません。ずいぶん長い間、嘆息していたのですが、ここにきてコーシーとフーリエを読むことができたおかげで300年の歴史がひとつながりにつながって、何というか、「今日の微積分のテキスト」を書くことができそうな気分になりました。必ず実現したいと思いますが、それはそれとして連載中の「情緒の数学史」がまだ完結していませんので、もう少し続けたいと思います。
 とはいうものの、実際にはすでに結論まで込めて言い尽くしてしまったようでもあります。岡先生の論文集に刺激されて古典研究に向い、数学という学問の本質は「情緒の数学」であることを確認したいと思ったというところまではすでに書きました。そうすると、はたして本当に確認できたのかどうかということを、この先に続けていかなければならないことになります。そのためにはいろいろな具体例を挙げていくほかはありませんが、アーベルの「不可能の証明」や「パリの論文」にまつわる話など、これまでに語ってきた事柄はみなそのような事例ばかりです。あれもこれも、気づいてみると数学の創造はみな「情緒の数学」の事例ばかりのように見えてくるのですが、なかでも特別の位置を占めるのはガウスの数論です。
 ガウスの数論については、だいぶ前に「ガウスの遺産」という題目を立てて連載稿を書いたときに詳述したことがあります。それをここでもう一度、回想したい気持ちに駆られるのは、数論におけるガウスの数学的創造の姿形が、岡先生のいう「情緒の数学」にあまりにもぴったりとあてはまるからです。
 1795年の年初、ガウスはまだ17歳だったのですが、今日のいわゆる「平方剰余相互法則の第一補充法則」を発見して数論の端緒をつかみました。続いて平方剰余相互法則の本体と第二補充法則も発見し、証明にも成功しました。一番はじめの証明は数学的帰納法によるものだったのですが、その後も引き続き努力を重ね、全部で8通りの証明を獲得しました。この間の消息は広く知られている通りですが、ガウスの数論はそれからどのようになったのかというと、「四次剰余の理論」へと向かいました。平方剰余相互法則を「次数2の相互法則」と見て、「次数4の相互法則」を見つけようとする方向に進んだのですが、ガウスはこれをテーマにして「四次剰余の理論」というタイトルをもつ二篇の論文を執筆しました。「第一論文」は1825年、「第二論文」は1832年に公表されました。
 さて、特筆大書したいのはここからなのですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの存在をいつ感知したのかというと、おそらく1795年の年初、平方剰余相互法則の第一補充法則を発見した時期にさかのぼります。はっきりと日時を指摘するのはむずかしいのですが、1801年に刊行された著作『アリトメチカ研究』には、すでに4次剰余の理論に関心を寄せている様子がはっきりと現れています。『アリトメチカ研究』の刊行は1801年9月。そのときガウスは24歳でした。
 「感知する」という言い方はなんだか変ですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの姿を発見したわけではありませんでしたから、そんなふうに言うしか仕方がないのです。平方剰余相互法則の場合にはまずはじめに法則を発見し,続いてその証明に向かったのですが、これは普通のことで、わかりやすい道筋です。ところが4次剰余相互法則の場合には具体的な姿がなく、ガウスはただ単に、何かしら4次剰余相互法則と呼ぶのに相応しいものが存在するにちがいないと思っただけのことでした。後年の二論文では4次剰余相互法則とその二つの補充法則が記述されていて、補充法則については証明が書かれているものの4次剰余相互法則の本体は証明が欠如しています。
 証明どころか、法則を発見するまでに30年をこえる歳月を要したのですが、実際のところ、そんな法則が本当に存在するのかどうか、だれもわかりません。ガウスは存在を確信し、だからこそ30年以上もの間、探索を続けることができたのですが、存在を保証するものは何もありません。あるともないとも何もわからないものの探索を、ガウスはどうして続けることができたのでしょうか。

 詳しく話せばきりのないことですし、それにこれまでも同じような話を繰り返してきたように思うのですが、ともあれそんなわけですので、コーシーの無限小解析の枠の中にフーリエ解析の柱を打ち立てるのが、今日の解析概論に望まれる姿ではないかというのが、津田塾大学の数学史シンポジウムでの講演の骨子でした。年のためにもう一度強調しておきますと、この場合のフーリエ解析というのはフーリエとディリクレ、それにリーマンの理論そのものを指しています。
 それともうひとつ、これは数学史シンポジウムの講演では多くを語ることのできなかったことなのですが、フーリエ解析とともに複素解析もまた微積分のテキストに取り入れて、主柱を二本にしたいところです。実解析と複素解析を区分けするのは適切とはいえませんし、発生の事情を顧みても複素解析の契機は微積分のはじまりの当初からすでに芽生えていたのでした。まずはじめに実解析ができあがり、それからおもむろに複素解析へと進んでいったというような凡庸な現象は実際には見られないもので、新しいことがはじまるときにはすべてがいっせいに芽生えるものなのではないかと思います。
 講演ではおおよそこんなふうなことを話し、そのうえで、自分で言い出した理想の微積分のテキストをみずから書いてみたいと宣言しました。欲を言えばさらにもうひとつ、フーリエ解析と複素解析に加えて変分法を添えたいところですが、この方面はまだ勉強が足りませんので、発言することができません。ベルヌーイ兄弟に端を発し、オイラーの手で歩みを始めた変分法の研究が進展すれば、微積分のテキストはますます充実したものになるにちがいありません。
 シンポジウムの会場にはゴローさんと谷川さんの姿も見えました。谷川さんは高校の数学の先生ですが、ゴローさんの大学時代の先輩で、お二人とも山岳部の出身です。シンポジウムの終了後、コーシーとフーリエを翻訳した西村研究員もいっしょに四人で国分寺のおそば屋さんに行き、しばらく話をしました。「ハーケンを打つ」という話はこのときうかがいました。西村さんにはぜひもう一冊、翻訳を手がけてほしいという話も出ましたので、ここはぜひロピタルの『曲線の理解のための無限小解析』の完訳をめざしてほしいと提案したところ、ゴローさんと谷川さんも大賛成でした。はじめはためらっていた西村さんもついに承諾し、これからの方針が定まりました。

 シンポジウムに前後して依頼された原稿が二つあり、ひとつは締め切りが10月20日ですので、講演の準備と平行して少しずつ書き進めていました。テーマは「寺田寅彦の物理学」です。もうひとつの原稿のテーマは岡先生のことで、岡先生の学問を紹介してほしい、具体的には「現代数学における岡理論の意義」について書いてほしいというのが依頼の内容です。岡先生の多変数関数論は今日の数学の根幹を作っていますから、「現代数学における意義」があるのはまちがいありませんが、岡先生本人はこれが不満で、あれは私の理論ではないと言っていました。それで、「現代数学における意義」を書くと岡先生を書いたことにはならず、岡先生の数学研究そのものの意義を書くと現代数学とは離れてしまいます。ここを突き詰めていくとむずかしい問題になるのですが、少し話し合って、岡先生自身に焦点をあてて書くことになりました。
 岡先生の「情緒の数学」にはいわゆる情緒的な雰囲気はまったくなく、秋霜烈日というか、恐るべき厳しさを内に秘めています。それとともにもうひとつ、「情緒の数学」の根底には、今日の数学のすべてを向こうに回して全面的に対峙するというほどの、強靭な意志が充満しています。ヨーロッパにもリーマンやアーベルのような数学者がいたことですし、かつては「情緒の数学」が成立していたと思いますが、20世紀にはいってしばらくして情緒の消失が目立ち始め、岡先生の目には、今日の数学にはすっかり地を払ったように映じていたのではないかと思います。
 岡先生は数学という学問をそんなふうに見ていたのではないかと思いますし、40年前に岡先生を知ったときから心を惹かれていたのですが、これを実証するには大量の古典を読まなければなりませんでした。「情緒の数学」という視点は成立すると、今は思います。それで「情緒の数学史」を書けそうですが、そのうえでなお大きな課題があります。それは、晩年の岡先生が20年ほど取り組んで、ついに放棄した難問のことなのですが、これについてはいずれよい折を見て語りたいと思います。
 講演の内容に関連してコーシー「枠」とフーリエの「中味」のその後の状況に着目すると、1829年と1837年のディリクレの論文が目に留まります。本当はここで詳しく紹介したいところですが、要点だけ押さえておくと、ディリクレはつまりフーリエの「中味」をコーシーの「枠」の中で諒解しようとしたのでした。ディリクレの次にリーマンの1854年の論文が続きます。リーマンは数学的意図をディリクレと共有していますが、対象として設定される関数の範疇が異なっています。すなわち、ディリクレは連続関数の範囲内でフーリエ級数の収束性などを論じたのに対し、リーマンは守備範囲をもっと拡大して有界関数を考察しています。これで、今日のいわゆる実解析の土台が構築され、その後の道筋の方向が定まりました。
 こんな状況を念頭に置いて解析概論のあるべき姿を思い浮かべると、フーリエ解析を中心に配置するのはよいアイデアです。フーリエ級数は今日の微積分のテキストでも取り上げられることはありますが、何というか、「枠」と「中味」が分離しているような印象があります。そうではなくて、「論理」の根底にある「情緒」を重く見て、コーシーの「枠」の中でフーリエの「中味」を理解しようとしたディリクレとリーマンの心情が伝わるように教程を組み立てるのが望ましいと思います。今日の微積分のテキストはコーシーの「枠」を継承していると見てよいと思いますが、「枠」は「枠」だけで「中味」がありませんから、さっぱりおもしろくありません。
 簡単な一例を挙げますと、イプシロン-デルタ論法を学ぶのに、y=x^2のような簡単な関数の連続性をイプシロン-デルタ論法で証明するというようなことは退屈な練習です。オイラーのいう解析的表示式なら、なにしろ式で表示されているのですから、連続性は式の形を見るだけで明らかで、証明など考える必要はありません。微分も積分も式を見れば一目瞭然、自由自在に計算を遂行することができます。さながら桃源郷のような世界ですが、関数の概念を拡大する必要に迫られて(ここは微積分を理解するうえで根幹に触れる論点です)、解析的表示式を離れて抽象的な関数を考察しなければならない事態に立ち至ったとき、正確に言えば、そのような事態に直面したことを自覚したとき、ぼくらはどこに、もしくは何に手がかりを求めて登攀を試みなければならないのでしょうか。
 こんな決意を新たにするのは実際にはあまりにも困難ですし、それ自体すでに並大抵のことではないのですが、コーシーはまちがいなくこの点に気づいた「一番はじめの人」でしたし、数学者としての偉大さはまさしくその一点において認められます。コーシーの創意は、抽象的な関数を対象として連続性の概念を設定したところにすでに現れていますが、コーシーはこの概念をオイラーが開いた解析的表示式の世界から取り出したのでした。オイラーの桃源郷で自在に行われたあれこれの事柄の中から抽象的な概念を抽出し、それらの概念をいわば「曠野の杭」に見立てて、解明の足場にしようとしたのですが、山登りに例を求めるなら断崖絶壁にハーケンを打ち込むというような作業に相当するのでしょうか。微分と積分の概念も作り直さなければなりませんし、関数の連続性や微分可能性や積分可能性の判定条件や相互関連など、今日の微積分に見られる細かい点検作業がこうして課せられてくることになります。
 さて、抽象的な関数の連続性を規定するにはどうしたらよいのかというと、個々は工夫の余地のあるところなのですが、コーシーが提案したのはイプシロン-デルタ方式による概念規定でした。形式上の正確さということでしたら、コーシーはエプシロン(ε)という文字もデルタ(δ)という文字も使っていないのですが、異なるのはそこだけで、コーシーによる概念規定の文言を二つのギリシア文字εとδを用いて記述すれば、今日のイプシロン-デルタ方式による定義の文言がおのずと浮かび上がります。
 そこでこの論法を理解するにはどうしたらよいのかということについてですが、以上のような経緯があって発生したことに鑑みると、解析的表示式ではない関数を取り上げて、その連続性をイプシロン-デルタ論法で判定することを試みるべきではないかと思います。たとえば、ディリクレは1829年の論文で「ディリクレの関数」を紹介しています。有理数に対しては値0、無理数に対しては値1をもつというような関数のことですが、こんな関数は連続と見るべきなのか、あるいは不連続と見るべきなのか、見てもわかりません。それでもなお歩を進め、このような奇妙な関数の連続性を考えていくところにこそ、イプシロン-デルタ論法の本来の面目があります。初学者にこそ、真っ先に立ち向かってほしい課題です。

(註釈)
ギリシア文字εは「エプシロン」と読むのがただしいのではないかと思いますが、「ε-δ論法」の「ε」についてはなぜか「エプシロン」とは読まず、「イプシロン」と読む習慣が定着しています。
 津田塾大学の数学史シンポジウムでは、
「フーリエとコーシー 初期の実解析の諸相」
という題目を立てて講演しました。持ち時間は40分で、時計を見ながら話をしたのですが、5分ほど超過してしまいました。途中でなぜか時間を間違えてしまったためなのですが、緊張して、いわゆる「あがっていた」のでしょう。講演は何度経験しても、終ると必ず「今日は失敗した」と思ってしまいます。
 昨年は「解析概論の系譜」という題目で講演しました。微積分のテキストの系譜というほどの意味ですが、数学史上にはじめて出現したテキストはロピタルの著作『曲線の理解のための無限小解析』でした。この作品は実はロピタルの創意によるものではなく、ヨハン・ベルヌーイに教えてもらったことを再現して成立したのですから、勉強ノートというのがあたっています。ヨハン・ベルヌーイ自身はバーゼル大学でも微積分の講義を行っていて、その講義ノートは全集に収録されていますので、自由に参照することができます。微分計算の講義録は、あたりまえのことですが、ロピタルの著作とそっくりです。
 ヨハン・ベルヌーイの兄にヤコブ・ベルヌーイがいて、ヨハンより12歳も年長なのですが、ベルヌーイ兄弟はバーゼルでライプニッツの微積分の論文二篇を知り、研究を始め、そのうちライプニッツとの間で文通が始まりました。ライプニッツの所在地はおおむねライプチヒでした。この往復書簡こそ、微積分の揺籃と見るべきで、微積分の本質を知るには本当はここを研究しなければならないのですが、眼前にそびえる敷居はあまりにも高く、いまだに読破したとは言えない状態が続いています。ヨハン・ベルヌーイはライプニッツとの交友を通じて微積分のいかなるものかを洞察したようで、バーゼル大学での講義録を見れば、どのように理解したのか、手に取るようにわかります。それで、ヨハン・ベルヌーイの講義録を解析概論の系譜の冒頭に配置して、ロピタルの著作を重要な参考文献として併置するのが適当であろうと思います。
 解析概論の系譜の第二番目の位置にはオイラーの解析学三部作を置くことになります。その次にラグランジュの『解析関数の理論』が来て、さてその次の位置を占めるのがコーシーの『解析教程』です。このコーシーの作品は大著ですが、微分も積分も出てきませんし、これだけではまだ解析概論の全体を構成sていません。これを「序説」と見るのが至当です。コーシーの微積分の本論は、続く著作『微積分要論』に書かれています。『解析教程』が刊行されたのは1821年、『要論』の刊行は1823年。そのちょうど中間の1822年にフーリエの『熱の解析的理論』が出ています。
 フーリエの著作は解析概論とは言えず、理論の「枠」がないのですが、解析学(詳しくいえば「実解析」)の枠の内部を満たすべき「中味」がびっしりと詰まっています。実に充実した作品です。これに対し、コーシーの『解析教程』と『要論』は微積分の「枠」を提供しているのですが、「中味」はありません。そのため、さっぱりおもしろくなく、読み進めるのがつらいです。フーリエとコーシーを合わせるとひとつの解析概論が構成されますが、そうは言っても読破するのはたいへんなことで、なかなか実行できるものではありません。ところがオイラー研究所の西村所員がこの事業を遂行し、ぼくもお付き合いして翻訳稿の遂行などをしましたので、何年もかかったのですが、すみずみまで読むことができました。西村所員の功績は非常に大きいです。
 フーリエとコーシー以降、ピカール、ダンジョア、グルサ等々、いろいろな人が解析概論を書きました。日本でも高木貞治の著作『解析概論』が現れて、その後の微積分のテキストの範例となりました。
週末の17日と18日の二日間にわたって、津田塾大学の数学計算機研究所で第20回目の数学史シンポジウムが開催されました。一日目の17日には、
尾崎研究員の講演
「オイラーの変分法(続)」
鈴木名誉研究員の講演
「東北帝国大学と和算史研究〈東北帝国大学以前の林鶴一〉」
が行われました。翌18日にはぼくの番になり、
「フーリエと個初期の実解析の諸相」
という題目で講演をしました。コーシーの「解析教程」の枠の中にフーリエ解析と複素解析を配置して、新時代の解析概論を書きたいという話になりました。
 このごろは大学で使う数学のテキストはやさしくなる一方ですが、やさしい問題をどれだけ解いても、山の裾野をいつまでもぐるぐる回るだけで頂上には届きません。そうではなくて難問を集め、いきなり断崖絶壁の登攀をめざすべきではないかと思うのですが、これを実現するにはよいテキストが必要です。
 夏の京都大学の数理解析研究所で開催される研究集会「数学史の研究」と並んで、津田塾大学の数学史シンポジウムは日本の数学史研究の二大拠点です。来年も開催される予定です。
 岡先生の論文集に衝撃を受けて、数学という学問に対する考え方が落ち着くべきところに落ち着いたような感覚に包まれて、すっかりうれしくなりました。数学は情緒の表現して作る学問芸術であるというのが岡先生の数学観で、数学に心を寄せ始めてまもないころ、そんな岡先生の言葉を発見して深遠な魅力を感じたのでした。それからずいぶん遠回りをして、曲折の末に結局のところ岡先生に立ち返り、今度は数学の論文集を読むことになったのですが、そこは岡先生の情緒のみが色濃く遍在している世界でした。数学はたしかに情緒の表現であり、岡先生の言う通りなのでした。
 ただし、問題のすべてが氷塊したわけではなく、大きな問題が新たに出現しました。岡先生の論文集以外の数学は「こうすればこうなる」というあたりまえのことが延々と続く世界ですから、だれの情緒も存在せず、植物採集や昆虫採集の標本の陳列のようなもので、いわば死んだ学問です。ではありますが、そんなふうに思うようになったうえでまた思うのですが、植物採集や昆虫採集を実際に遂行して標本を作製した「だれか」が存在したのではないのでしょうか。
 岡先生の多変数関数論でも、岡先生の論文集を踏まえて何冊かの教科書が書かれていて、ぼくも蒐集して読みました。それらはみな多変数関数論のしかばねだったのですが、根底には岡先生の論文集が存在し、そこには岡先生というひとりの特定の人物の情緒の世界が広がっていました。それなら、岡先生の論文集以外のあれこれの数学についても、岡先生の論文集に相当する何物かがどこかに存在し、そこにはだれかしら岡先生のような特定の個人の情緒の世界が広がっているとは考えられないでしょうか。多変数関数論における岡先生とその論文集のことを考える限り、この想定には確からしい感じがありましたし、またそうでなければ数学という学問が成立するはずはないとも思われました。
 いわば「数学の泉」を見つけたいと思う心情にとらわれたわけですが、そんな泉は、もし本当に存在するとするならば、歴史の流れの中にしかありえません。それで、多変数関数論における岡先生に相当する人を数学のいろいろな領域で発見し、数学の本質は「情緒の数学」であることをこの目で見たいと念願するようになりました。これが古典研究の唯一の動機になりました。

Powered by FC2 Blog