岡先生の多変数関数論研究には前期の前に「模索の時期」があり、「ハルトークスの集合」の研究をしていました。この研究をフランスから持ち帰り、学位取得のための論文を執筆する考えで取り組んでいたのですが、だんだん熱意がさめたところにベンケ、トゥルレンの著作を見ることになりました。それで学位論文は完全に放棄して、新たな研究構想を情緒のカンバスに思い描いたのですが、このとき、というのは昭和9年(1934年)の後半期のことですが、岡先生はすでに満33歳でした。
昭和10年の年初から新構想のもとで研究ノートを書き始め、昭和15年の時点でハルトークスの逆問題の解決の鍵を発見し、解決の全容を伝える第6論文を実際に執筆したのは昭和16年でした。第6論文は東北大学から出ている「東北数学雑誌」に掲載されたのですが、10月25日付で受理されています。それから岡先生は北大で勤務するために札幌に移ったのですが、ハルトークスの逆問題に解決のめどがついたころからすでにその先の研究の姿を思い描いていた模様です。それは「内分岐領域の理論」のことで、具体的には内分岐領域、すなわち分岐点を内点として包含する領域においてハルトークスの逆問題を解くことがめざされていたのですが、本格的な思索は昭和16年の秋から札幌で始まりました。
昭和16年の秋の岡先生は満40歳。札幌で始まった後期の研究はずいぶん長く続きました。何年何月までときっかり指摘することはできませんが、遺された研究ノートの日付を追うと、一番最後に記入された日付は昭和41年(1966年)の大晦日12月31日です。昭和16年の秋から数えると、この間、25年になります。
後期の研究は成功せず、ハルトークスの逆問題を内分岐領域において解くことはできなかったのですが、第7番目と第8番目に数えられる2篇の論文ができあがりました。第7論文では「不定域イデアル」の理論が展開され、第8論文では不定域イデアルの理論により内分岐領域において「上空移行の原理」が確立されました。これはハルトークスの逆問題の解決のための手段で、第8論文のタイトルは「基本的な補助的命題」というのですから、次はこの補助的命題を使って「定理」の証明をめざすべきところですが、岡先生の研究はこれよりも先には進みませんでした。
第9番目と第10番目の論文もありますが、第9論文のテーマは「内分岐点をもたない有限領域におけるハルトークスの逆問題の解決」ですから、内容は第6論文の続きです。ただし、この間に不定域イデアルの理論ができていますので、証明の手法は格段に洗練されました。第10論文では、ハルトークスの逆問題を追求する一連の研究とは別種のテーマが取り上げられています。
後期の多変数関数論研究に費やされた25年という歳月は、相互法則を追い求めたガウスの37年の連想を誘います。ガウスは4次の相互法則の形を発見するところまで進みましたが、その先は継承者たちの手にゆだねられました。岡先生は上空移行の原理を確立することはできましたが、頂上への登攀にはいたりませんでした。ガウスと岡先生に共通して認められるのは、二人とも「自分ひとりの思索の世界」を構築したという一事です。高次の相互法則が存在して、しかも超越関数の諸性質と関連があることを洞察するとか(ガウス)、内分岐領域においてハルトークスの逆問題の解決をめざすとか(岡先生)、どちらもできるのかできないのかだれもわからないことで、まちがいなく実在したのはただガウスと岡先生の確信のみでした。確信には知的な根拠はありません。
ガウスの場合には4次相互法則に先だって平方剰余相互法則の証明に成功したという著しい成功があり、しかも8通りもの異なる証明を獲得することもできました。それらの証明の中には二次形式の理論や円周等分論のような異質の原理に支えられているものがあり、そんな証明が成立すること自体、驚嘆に値しますが、これもまたガウスの情緒の現れです。しかもガウスの心情の目はいっそう遠い地点にまで及び、高次の相互法則の世界を見ていたことになります。岡先生の場合には「内分岐領域におけるハルトークスの逆問題」の解決の試みに先立って、「内分岐しない領域におけるハルトークスの逆問題」の成功という出来事がありました。この前期の研究もまた岡先生の情緒の現れですが、岡先生は情緒の世界にさらに奥深く参入し、内分岐領域に及ぼうとしたのでした。
論理的な根拠を欠く確信が本当に数学を生むという、いかにも神秘的な印象の伴う数学の創造の場にガウスと岡先生は時空を隔てて立ち会いました。すべてが心のままに実現したのではなく、できなかったこともありました。ガウスと岡先生はあらゆる点で酷似しています。