草田さんの語る紀北すなわち紀州の北部地方の方言の話が続きます。かつらぎ町の隣に岩出という町があり、根来寺があることで知られていますが、「根来の子守唄」といって、有名な子守唄が伝えられています。草田さんの話では、なんでも高野山付近にも子守唄があるそうで、根来の子守唄と歌詞は同じだが調子が違うのだということでした。どこがどう違うのか、草田さんは同じ歌詞の子守唄を二通りの調子で歌って聞かせてくれました。当時のノートにそのときの歌詞と思われるメモが記されていますが、「ねんねんねごろの・・・」と始まったように思います。それから、
うちのおとっさんこうやでだいく
ながれきましたかんなくず
(うちのおとっさん、高野で大工。流れ来ました、かんなくず)
というメモも書かれています。草田さんのお父さんは高野山で薬屋をやっていて、ときどき大谷にもどってきて子守唄を歌ってくれたのだそうです。草田さんが4歳のとき、お母さんが亡くなりました。
お父さんがやっていた高野山の薬屋は「薬屋源兵衛」という看板を出していました。お母さんと草田さんは大谷にいて、お父さんは高野山で単身で薬屋をやっていたのだそうですが、これは高野山が女人禁制だったためのようでした。高野山の女人禁制は大正年代あたりまで生きていて、女性は高野山に登るのはさしつかえないけれども、泊まるのは禁じられていたのだそうです。
草田さんのお父さんは薬屋源兵衛の四代目ですが、大正8年に廃業しました。薬屋の前は「天満屋徳兵衛」、略して「天徳(てんとく)」という作り酒屋で、これは八代続きました。薬屋を廃業の後は、薬でもうけたお金で山を買い、山林の育成事業を始めました。
高野山で薬屋をやっていたころは、表向きは薬屋に違いありませんが、裏にもうひとつ、金融業の顔があり、「草田銀行」と呼ばれていたのだそうです。どうしてこんな話になったのかというと、岡家の話をしたのがきっかけだったように思います。紀見峠の岡家は以前は岡家(おかや)という宿屋で、高野山にお参りする人たちを相手にしていましたので、現金収入があります。岡家は高野山の恵光院というお寺と縁が深かったのですが、恵光院というのはつまり宿屋の商売でもうけたお金をあずかって運用する銀行みたいな役割を果たしていたのではないかというのでした。これは興味深い話でした。
草田さんのお名前の「源兵衛」というのは、草田家の当主が代々継承して名乗ってきた由緒のある名前です。初代の源兵衛さんはもとは中川源兵衛といい、草田家の入り婿になりました。このあたりの事情はだんだん複雑になって、ノートのメモを読み返しても正確に再現することができませんので、詳しいことは省略しますが、初代の源兵衛さんは堺の薬屋に奉公して修行し、それから独立して高野山で開業しました。婿入り先の草田家が作り酒屋の天徳だったのでしょう。薬屋源兵衛が四代続き、草田さんのお父さんの代で廃業したということですから、草田さんは五代目の源兵衛さんになることになります。