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 草田さんの語る紀北すなわち紀州の北部地方の方言の話が続きます。かつらぎ町の隣に岩出という町があり、根来寺があることで知られていますが、「根来の子守唄」といって、有名な子守唄が伝えられています。草田さんの話では、なんでも高野山付近にも子守唄があるそうで、根来の子守唄と歌詞は同じだが調子が違うのだということでした。どこがどう違うのか、草田さんは同じ歌詞の子守唄を二通りの調子で歌って聞かせてくれました。当時のノートにそのときの歌詞と思われるメモが記されていますが、「ねんねんねごろの・・・」と始まったように思います。それから、

 うちのおとっさんこうやでだいく
 ながれきましたかんなくず
 (うちのおとっさん、高野で大工。流れ来ました、かんなくず)

というメモも書かれています。草田さんのお父さんは高野山で薬屋をやっていて、ときどき大谷にもどってきて子守唄を歌ってくれたのだそうです。草田さんが4歳のとき、お母さんが亡くなりました。
 お父さんがやっていた高野山の薬屋は「薬屋源兵衛」という看板を出していました。お母さんと草田さんは大谷にいて、お父さんは高野山で単身で薬屋をやっていたのだそうですが、これは高野山が女人禁制だったためのようでした。高野山の女人禁制は大正年代あたりまで生きていて、女性は高野山に登るのはさしつかえないけれども、泊まるのは禁じられていたのだそうです。
 草田さんのお父さんは薬屋源兵衛の四代目ですが、大正8年に廃業しました。薬屋の前は「天満屋徳兵衛」、略して「天徳(てんとく)」という作り酒屋で、これは八代続きました。薬屋を廃業の後は、薬でもうけたお金で山を買い、山林の育成事業を始めました。
 高野山で薬屋をやっていたころは、表向きは薬屋に違いありませんが、裏にもうひとつ、金融業の顔があり、「草田銀行」と呼ばれていたのだそうです。どうしてこんな話になったのかというと、岡家の話をしたのがきっかけだったように思います。紀見峠の岡家は以前は岡家(おかや)という宿屋で、高野山にお参りする人たちを相手にしていましたので、現金収入があります。岡家は高野山の恵光院というお寺と縁が深かったのですが、恵光院というのはつまり宿屋の商売でもうけたお金をあずかって運用する銀行みたいな役割を果たしていたのではないかというのでした。これは興味深い話でした。
 草田さんのお名前の「源兵衛」というのは、草田家の当主が代々継承して名乗ってきた由緒のある名前です。初代の源兵衛さんはもとは中川源兵衛といい、草田家の入り婿になりました。このあたりの事情はだんだん複雑になって、ノートのメモを読み返しても正確に再現することができませんので、詳しいことは省略しますが、初代の源兵衛さんは堺の薬屋に奉公して修行し、それから独立して高野山で開業しました。婿入り先の草田家が作り酒屋の天徳だったのでしょう。薬屋源兵衛が四代続き、草田さんのお父さんの代で廃業したということですから、草田さんは五代目の源兵衛さんになることになります。
 伊都郡紛擾事件にまつわるあれこれのエピソードは、当然のことながら草田家にも伝えられていて、草田さんはいろいろなことを聞いているようでした。興奮して荒れる群衆を鎮圧するのに警官隊が抜刀したという話は、この地方の歴史を書いた本にも記載されていますが、草田さんの口から、その刀というのは本物の日本刀だったと聞くと、何とも言えない迫力を感じました。
 事件に責任を感じて自決した稲本保之輔は非常に感受性の強い人だったという話もありました。稲本家は大地主で、この地方の田畑の大半を所有していたそうで、稲本太一郎というお子さんがいて、県会議員などをつとめたということでした。このときはこれだけで終ったのですが、つい最近、インターネットで検索してみましたら、稲本太一郎の消息を伝える新聞記事がみつかりました。稲本太一郎は大正時代にすでに農地改革を実行に移していたという主旨の記事でした。

大阪朝日新聞
大正11年6月21日
《大果断な自作農奨励》
《小学の金を納入させて自家の田畑を割譲した稲本氏の新試み》

多年県会に列し嘗て副議長の椅子に在り又名誉村長に就職し現に郡参事会員である和歌山県伊都郡笠田町の富豪稲本太一郎氏は社会現時の状勢に鑑み昨秋以来荒みつつある地主対小作人間の緩和を期し自家所有の田畑宅地数十町歩の一部を割て自作農を奨励すべく最近自ら進んで農業篤志の小作人及び多少の貯金を有して耕地なき人達と会見し左の意味を発表した 
若し諸君にして田畑若くは宅地を購求しようとの希望あらば一人に対し五畝歩乃至二段歩を限度とし時価を以て所有地の一部を売渡すべく貯金があって定期預金となし居る人若くは将来養蚕業に努力し収繭代を以て漸次弁済しようと云う意見を有する人達の為めには定期預金の領収期、繭価を目的とする人々の為めには収繭期毎に入金する事となし目下全価額の十分の二以上の支払を受け、残金の支払に対しては確実な保証人を立て、又は定期預金証書を担保に預り残金に対しては其期間中年六朱の利息を支払わるべく簡易な条件を附するに於ては之れが契約の成立と同時に所有権移転の登記を実行すべし 
と打出したが忽ち十数名の希望者が現れ、双方合意上適当な評価人を選んで価格を協定し最近収入した繭代其他を入金に充当し残金納付の契約已に成立したので稲本氏は其新地主若くは代理人等と共に去る十九日所轄妙寺登記所に出でて権利移転の登記を済せた 
因みに今回売買を行ったは田畑宅地を合して一町三段歩余で価格は一段歩六百円乃至一千円にして数年前物価最高時に比し約七分値に該当し十数名の新地主に多大の好感を与うると同時に小作争議に悩むきょう此ごろとしては最善の試みと云って可かろう(和歌山)

 かつらぎ町のあたりは水がよく、昔から木綿織物が盛んでした。草田家は造り酒屋でしたが、造り酒屋は笠田地区だけで4軒、大谷に2、3軒、妙寺にも3軒ありました。
 高野山の応其上人(おうごしょうにん)は豊臣秀吉が高野山を焼き討ちしようとしたとき、免れるのに力があった人ですが、橋本で塩の市を開いたことでも知られています。橋本、五條、河内のあたりでは、あいずちを打つとき、
  「われ、そうけ」
というそうですが、妙寺地区では言いません。こんな言葉遣いの話もおもしろかったです。妙寺方面では
  「行かれへん」
というところを、橋本方面では
  「行けやん」
というのだそうです。
 草田さんのお宅は和歌山県伊都郡かつらぎ町大谷にあります。岡先生の郷里は今は橋本市に編入されていますが、もとはかつらぎ町と同じ伊都郡内の紀見村という村でした。和歌山線大谷駅は無人駅です。草田家に着いて草田さんと平野さんのお二人と挨拶を交わし、それから応接間で草田さんのお話に耳を傾けました。この日は草田家のご先祖の話が多かったのですが、かつて草田家は造り酒屋でした。先祖に草田徳兵衛と亦十郎という兄弟がいて、徳兵衛が兄、亦十郎が弟ですが、弟の亦十郎は大谷の隣の妙寺に移って酒屋を始めました。郵便局も経営したということですが、これは「特定郵便局」のことでしょうか。亦十郎は草田さんの奥さんの祖父にあたる人でもあります。
 草田家は土地の旧家で、勢力がありました。紀見村の岡家とよく似ています。
 明治21年9月のことですが、「治安裁判所事件」とも「伊都郡紛擾事件」とも言われる事件がありました。治安裁判所出張所を設置する場所をめぐって起った事件なのですが、当時の伊都郡の中心地は妙寺地区で、郡役所も妙寺にありましたので、治安裁判所出張所もまた当然のように妙寺に誘致されるものと地元の人たちは思っていたところ、郡長は橋本村に設置したい意向のようだといううわさが広がりました。それで群衆が大挙して郡役所に押し掛けて、郡長と談判するという騒ぎになったのですが、興奮のあまり暴徒化し、瓦礫を投げ込んだり竹槍を投げつけたりしました。これを押さえるために警官隊が出動し、抜刀して追い払うというふうで、たいへんな騒ぎになりました。警官隊は日本刀を抜いて威嚇したと伝えられています。
 この事件の群衆側の指導者が草田亦十郎だったのですが、郡役所で談判を受けた郡長というのが、岡先生の祖父の岡文一郎でした。草田さんと岡先生は草田家と岡家の孫の代にあたります。
 結局、岡郡長の意向が通り、治安裁判所出張所は橋本村に設置されました。それから郡役所も橋本村に移ったのですが、これも岡郡長の意向でした。それから後は橋本地区が伊都郡の中心地になりましたから、橋本地区から見ると岡文一郎の功績は非常に大きく、これをたたえて旌徳碑が建てられました。今も橋本市内の丸山公園の花見台にあり、ぼくも見物しました。
 反面、妙寺の側から見るとたいへんな屈辱で、地元の人々の指導者は草田亦十郎ともうひとり、稲本保之輔という人がいたのですが、騒擾事件の後、割腹して自決しました。38歳でした。自決の碑は明治21年11月14日。一年後の明治22年11月14日、有志の手で顕彰碑が建立されました。
 岡文一郎の旌徳碑と稲本保之輔の顕彰碑は今もあります。意味合いを知る人は少ないかもしれませんが、二つの碑はただの石ではなく、見る者の心に確かに何事かが伝わってきます。何事かというのはつまり「歴史」のことで、伝わってくるのは歴史の出来事の実在感ということになるのでしょうか。石の碑というのはおそろしいものです。
 1月18日の義仲寺の歌会の席で補陀さんにお話をうかがうことができてうれしかったのですが、翌19日、今度は若山でまた補陀さんに会いました。義仲寺で約束したのですが、ぼくもこの数日はめまぐるしい移動が続きました。若山から橋本へ。大阪にもどって義仲寺へ。それからまた和歌山に向ったのですが、再度の和歌山行の目的は補陀さんのお住まいのお寺を訪ねて、補陀さんが所有している龍神温泉の旅の日の写真を見せていただくことでした。一番はじめにお訪ねしたおりにも拝見したのですが、今度はできればコピーを作りたいと望んでいました。
 補陀さんのお宅でアルバムを見せていただきましたが、たいていの写真が台紙に張り付いていてはがせませんでした。それでアルバムごとお借りして、市内のどこかでコピーを作らせてもらうことになりました。
 お借りしたアルバムを手にしてひとまず補陀さんのお宅を離れたのですが、今度は補陀さんの運転する車に乗せていただいて桐蔭高校に向かいました。岡家の人々は桐蔭高校の前身の和歌山中学を卒業して人が多いので、入学年次や卒業年次など、詳しい諸事実を知りたかったのです。前に一度、電話でお尋ねしたことがあり、それだけでも相当のことがわかったのですが、やはり卒業生名簿の実物を見たいと思いました。
 補陀さんに待っていただいて、職員室で名簿を見せていただきました。岡家の人々が出ている頁に注意して、ノートに書き留めました。岡先生の父の寛治さんは三男で、二人の兄は和中に進みましたが、寛治さんは東京に出ました。弟の寛平さんも東京。このあたりを境にして、地方から東京に出るという、新たな気運が生まれたということでしょうか。もっとも、岡先生の兄の憲三さんは和中でした。叔父さんの北村純一郎さんも和中。岡先生本人も粉中で、東京に出ることはありませんでした。
 近くで待っていていただいた補陀さんの車に乗って、和歌山駅に向かいました。この日はかつらぎ町の草田源兵衛さんのお宅を訪問することになっていましたので、つい先日、梅田さんのいっしょに乗ったばかりの和歌山線に再び乗って、橋本方面に向いました。草田家の最寄りの駅は大谷駅です。
 草田家では昨年同様、平野さんも待っていてくれました。ちょうど一年ぶりの再会でした。
 補陀さんの話はほかにもいろいろあり、どれも興味が深かったのですが、プライベートな話題も多かったことですし、ここでは割愛したいと思います。龍神温泉のことは胡蘭成のエッセイを読んで知ったのですが、何しろほかに文献上の資料などは見あたりませんし、なんだか夢の物語のような感じだったのですが、はじめ補陀さん、次に尾崎さんにお会いしてお話をうかがっていくうちにだんだんと現実味を帯びてきました。龍神温泉の旅は岡先生の晩年の日々の中で強い印象の伴う出来事だったと思いますし、保田先生、胡蘭成との交流を語るうえでも欠かせません。それで詳しい状況を知りたいと念願していたのですが、実際にその場にいた人の話にはその人ならではの力がありました。
 1月18日は第三日曜で、大津の義仲寺で恒例の「風日」の新年歌会が行われましたので、出席し、同人のみなさまと久しぶりに再会し、新年の御挨拶を交わしました。長電話をしたばかりの補陀さんと保田先生の奥様の典子さんにもお目にかかりました。保田典子さんもまた龍神温泉に同行した人々のお一人でした。栢木先生にお会いしたかどうか、ノートにも記事がなく、記憶もはっきりしないのですが、この日は欠席されたように思います。
 歌が掲示され、感想が語り合われて講評が終わると直会(なおらい)に移り、ここかしこで談笑が始まりますが、おりおりにまた補陀さんに話をもちかけて、龍神温泉の旅の話をうかがいました。あんまりたびたびのことですし、補陀さんも閉口したと見えて、新たな事実を次々とうかがうというふうにはなりませんでした。それに何よりも30年も昔の出来事でもありますから(平成10年は1998年、龍神温泉の旅は昭和43年で、1968年。この間、きっかり30年です)、事細かに何もかも覚えているというわけにもいかなかったのでしょう。それでも、新和歌浦から龍神温泉に向かったときの様子が少しわかりました。車二台とタクシー二台に分乗したのですが、一台の車には岡先生たちが乗り、運転手は小山さん。これは尾崎さんにうかがっていましたので承知していました。もう一台の車は大田垣さんという人が運転しました。自家用車とタクシーを合わせて計4台の車です。
 旅の初日は新和歌浦でしたから、岡先生御夫妻は奈良から和歌山市にやって来たのですが、どのような経路をとったのか、気に掛かり、尋ねたところ、保田さんが和歌山市駅にお迎えに出たとのことでした。和歌山市には「和歌山駅」と「和歌山市駅」があり、よその人の目にはまぎらわしいのですが、和歌山市駅でお出迎えということでしたら、南海電鉄で大阪から和歌山に向ったことになります。奈良から近鉄で難波に出たのでしょう。
 龍神温泉の宴席でのこと、みちさんが海老をむいて岡先生にさしあげたところ、なぜかはねのけたそうです。好物のえびなのにとみちさんが言うと、岡先生は、「時と場合による」と言ったりしました。勢いのおもむくところ、ついはねのけてしまったものの、悪い事をしてしまったようで、なんだかばつが悪かったのでしょう。ちょっとおもしろいエピソードでした。
 龍神温泉の旅が終わり、補陀さんたちは高野山経由で帰途につき、高野山の金剛三昧院で食事をしました。高野山に向かう途中、棹を路に出して踏切みたように通せん坊をしているおばあさんがいました。車をとめ、お金を払うと棹を上げて通してくれたのだとか。いかにものんきな感じのする話でした。

 和歌山市役所で北村市長の語る紀見峠の今昔物語にしばらく耳を傾けた後、市長さんと北川さん、それに同席していた市役所のみなさんとお別れして、梅田さんといっしょに橋本駅に向いました。市役所から歩いて数分です。梅田さんは駅前のタクシーにさっと乗り込んで、去っていきました。橋本から和歌山までタクシーで帰るのでは料金もたいへんな額になりそうですが、梅田さんはそんなことは意に介しません。この日は梅田さんの口利きで和歌山と橋本の市長お二人にお会いすることができたのですが、どうしてそんな口利きができるのか、はっきりしたことは当時も今も不明です。御主人が和歌山県の政界で高い地位にあったような話もうかがいましたし、梅田さん御本人も地元に密着したエッセイを書く人で、新聞に連載したり、テレビに出演したりしているようでした。和歌山の有名人なのでしょう。お子さんの話とか、プラーベートなこともいろいろうかがいましたが、ノートに書きませんでしたので、細部が思い出せません。
 梅田さんとお別れした後、橋本駅から南海高野線に乗り、途中、御幸辻、紀見峠などなつかしい駅を通って難波に向いました。この日は大阪で一泊。夜、補陀さんに電話をかけてこの日の出来事をお伝えしました。
 ちょっとうっかりして書き忘れましたが、年末、梅田さんの案内を受けて二人の市長さんを訪問することが決まったとき、補陀さんと電話で話し合ったことがありました。こんなことになったのですけど、ついていってさしつかえないでしょうか、などとおうかがいしたところ、梅田さんがそうすると言っているのだから、素直についていったらよいのでは、とアドバイスしてくれました。それで報告に及んだのですが、話があちこちに広がって、長時間の電話会談になりました。
 尾崎さんと梅田さんにうかがった話でだんだん様子が飲み込めてきたのですが、和歌山市には文芸サークルというか、文学に心を寄せる人たちの集いが成立していて、保田先生の作品をよく読んでいたようでした。和歌山市内の西和中学に田村先生という人がいて、文芸部の顧問だったのですが、西和中学では尾崎さんの先生だったことは和歌山市役所で尾崎さんにうかがいました。ただし、尾崎さんは文芸部ではなくて弁論部に所属していたそうで、これは補陀さんにうかがいました。その田村先生が河西中学に転勤し、やはり文芸部の顧問になったのですが、補陀さんは河西中学の生徒で、文芸部員でした。田村先生は保田先生の愛読者でしたので、尾崎さんも補陀さんもみな保田先生の作品に親しむようになったのでしょう。
 高橋博士の顕彰碑のこともまたまた話題になりました。高橋博士の奥さんの英子さんが保田先生に顕彰碑の建立の件を相談し、保田先生は補陀さんを通じ手尾崎さんに依頼したのだそうで、いよいよ顕彰碑ができたときに刻まれた文字は保田先生の撰文でした。
 龍神温泉にみなで出かけることになったのはどのような成り行きだったのですかとお尋ねしたところ、補陀さんの発案だったというお返事でした。もともと保田さんが保田先生御夫妻を接待するというのが動機だったようで、昭和43年秋の龍神温泉行は実は二回目で、その前にも一度、補陀さんが保田先生御夫妻を案内して龍神温泉にでかけたことがあるそうです。一度目の宿泊先は上御殿という旅館でしたが、二度目もまた上御殿になりました。二度目のときは胡蘭成が同行することになり、岡先生も呼ぼうと保田先生が提案し、それからだんだん増えて大集団になりました。
 和歌山散策の後、和歌山駅から和歌山線に乗り、梅田さんといっしょに、というよりもむしろ梅田さんの後をついて橋本市に向いました。道すがら、梅田さん御自身のこともあれこれとうかがったのですが、ぼくも知りたいことがひとつありました。それは津名道代さんのことです。津名さんは奈良女子大の出身なのですが、文学部に在籍していたにもかかわらず在学中になぜか岡先生との接点があったようで、学習研究社の『岡潔集』の月報に『青春の慈父 岡先生』というエッセイを書いていました。これが実に秀逸で、学研晩『岡潔集』全5巻に寄せられた多くの月報の中で一番感銘を受けました。それで、前々からぜひ津名さんにお会いしたいと念願していたのですが、手がかりは生家が和歌山市の郊外にあるらしいといおうことのみで、これは津名さんのエッセイの本文を見て知りました。
 それで梅田さんにお尋ねしたところ、同じ文学仲間というか、物書き同士というか、古くから知っているけれども、最近はお沙汰がないということでした。それでも津名家は和歌山市内にあると教えてもらいました。電話番号も知っていて、その場ですぐに電話をかけていただいたのですが、お留守でした。あとでわかったのですが、津名さんは京都の山科に執筆部屋を確保していて、和歌山の生家にはときおりもどるだけという生活をしていたのでした。
 橋本市の市役所に着くと、北村市長さんが待っていました。二年前の2月はじめにはじめてお会いして以来のことになります。秘書室の北川さんとも再会し、御挨拶しました。北村市長の家は紀見峠にあり、岡先生のいとこの北村俊平さんの次男です。北村家は岡先生の母親の実家ですし、岡家と縁の深い由緒のある家なのですが、それだけに市長さんは紀見峠の今昔によく通じていて、昔話をしてくれました。
 正保4年の次の年が慶安元年で、そのころ紀見峠に伝馬所ができたとのこと。宝暦の大火で紀見峠の集落が全焼したことがあったとのこと。北村家は峠のふもとの慶賀野に「前屋敷」をもっていて、その側に紀見村役場があったとのこと。こんなふうな話をたくさんうかがいました。岡先生の生家は高野街道の拡幅工事に敷地がかかってしまったため、土地を内務省に売却し、岡先生の家族は峠を降りて慶賀野地区に移ったのですが、はじめ村役場の横に住んでいました。そうしてみると、そのお住まいは慶賀野の北村家の「前屋敷」だったのかもしれないと思ったのですが、さて「前屋敷」というのは何でしょうか。
 北村家はもともと津田を名乗っていたそうで、あちこちに分家がたくさんできて、今も紀見峠には津田さんが住んでいるそうですが、なぜか元祖の津田家は北村になったのだそうです。かつて岡家が存在した場所は半分は新しくできた道路になっていて、何も痕跡を留めていませんが、旧高野街道をはさんだ向かい側に津田さんの家があります。その家の一部は岡家の敷地から引っ張ったのだと、はじめて紀見峠にでかけたときに岡先生の甥の岡隆彦さんにうかがったことがありました。
 梅田さんは和歌山ではずいぶんあちこちに顔がきくようで、和歌山市長訪問の次は橋本市の北村市長を訪問する計画をたてていました。和歌山線に乗って橋本まで行ったのですが、それまでの間、しばらく梅田さんのお話をうかがいました。和歌山市内に保田先生を敬愛する文学グループがあり、瀬崎さんという人のお宅を根城にして「新論」という同人誌を出していたことは尾崎さんにうかがった通りですが、梅田さんは瀬崎さんを知っているとのことで、これから行ってみようと提案しました。あんまり急な話ですし、意表をつかれましたが、特に抵抗もせずについていきました。梅田さんも瀬崎さんを訪ねるのはしばらくぶりだったようでした。同人誌の名前は「望郷」というのかもしれません。ノートには「新論」と「望郷」の二つの誌名が書き残されていて、「新論」のほうは尾崎さんにうかがったのに間違いありませんが、「望郷」は瀬崎さんのお宅で聞いたようにも思います。
 瀬崎さんのお宅には同人誌を出していた瀬崎さん本人はもういなかったのですが、明治42年生まれの奥様がいて、補陀さんを保田先生に紹介したのは瀬崎さんの奥さんだったとか、そこはかとない話をしてくれました。亡くなった瀬崎さんは明治35年のお生まれで、歯医者さんでした。保田先生は歯の治療に京都から通っていて、金冠を入れる日にテレビを見ていたところ、佐藤春夫が亡くなったというニュースが流れました。そこで保田先生はすぐに上京したということでした。
 瀬崎家には保田先生の著作がたくさんありました。それと、佐藤春夫の色紙が壁にかかっていました。

   海近き
    路の起伏や
      寒椿
      春夫
 尾崎さんと保田先生の関係は少しわかりましたが、岡先生との関係はどうかというと、直接の関係はなかったようでした。それでも岡先生の名前はよく承知していましたし、和歌山市の吹上小学校に岡先生が講演に訪れたおりには尾崎さんも聴講に出かけたそうです。なんでもそのとき、岡先生は、「きわめれば数学も美学だ」というふうな話をしたのだとか。
 昭和43年の龍神温泉行のことは胡蘭成のエッセイを読んで知りました。昭和44年に学習研究社から『岡潔集』(全5巻)が刊行されたのですが、各巻に月報がついていて、岡先生にゆかりの人たちがエッセイを寄せていました。その中に胡蘭成のエッセイもあり、そこに龍神温泉のことが書かれていました。保田先生と胡蘭成は晩年の岡先生と親しいおつきあいのあった人ですが、三人が一堂に会したのは非常に珍しく、昭和43年秋の新和歌浦から龍神温泉への旅が最初で最後だったのではないかと思います。二人ずつの組み合わせはわりとひんぱんに実現しました。
 胡蘭成のエッセイに書かれているあれこれのこともおもしろいですし、以前から非常に興味があって、ぜひ全貌を知りたいと願うようになりました。それでフィールドワークをはじめてから絶えず機会を探っていたのですが、栢木先生に補陀さんのお名前を教えていただいて、調査が進み始めたのでした。
 胡蘭成のエッセイによると、龍神温泉で胡蘭成が「天下英雄会」というものを提案し、結成を呼びかけてみなで署名をしたということでした。それでその話を尾崎さんにもちかけたところ、「私も署名しました」とのお返事でした。これにはびっくりしましたが、これで「天下英雄会」がにわかに実在感を帯びました。こんなことがあるのがフィールドワークの醍醐味です。
 龍神温泉では夕食の宴席で三先生が語り合い、その様子をみなで拝聴するという恰好になりました。地元の青年たちも集まってきたそうです。もっぱら岡先生が滔々と話し続け、保田先生がときおりコメントをはさみました。岡先生と胡蘭成の間で議論になることもあり、そんなときは保田先生がとりもつような形になりました。
 平日で勤務中のことでもありますし、そんなに長居をすることもできませんので、適当な時間を見計らっておいとましましたが、別れ際に釣り竿をいただきました。ぼくは釣りの趣味がありませんので知らなかったのですが、釣り竿は紀州和歌山の名産品のようで、特に岡先生の郷里の橋本市は大産地で、「紀州竿」の発祥の地と後日うかがいました。

 岡先生たちが新和歌浦に一泊したのは昭和43年10月22日。翌23日、二手に分かれて車で龍神温泉に向いました。尾崎さんには小山さんという専属の運転手がいて、日産グロリアの前身のなんとかいう高級車をもっていたそうですが、尾崎さんが動くときはいつも小山さんの運転する車を使いました。ただし、公用車ではなく、小山さんは自分ですすんで運転手をかってでたということです。尾崎さんのファンだったのでしょう。
 当時のノートを見ると尾崎さんにうかがった話のメモが書き留められていますが、龍神温泉までの道筋に沿って順序よく話が進んだというわけではなく、あれやこれやの話が入り乱れています。そこでそのまま写していくと、岡先生は田辺経由で龍神温泉に向ったのですが、途中で、まだつかないのかなどとうるさいことをしきりに口にしたようです。すると小山さんが、車に乗ったら運転手にまかせてほしいと、かなり強い口調で言い渡したのだとか。同行者は運転手の小山さんのほか、岡先生とみちさんと尾崎さん、それに高橋英子さんでした。
 高橋英子さんのご主人は高橋克己博士という人で、ビタミンの抽出に成功したことで知られていますが、若くして亡くなりました。和歌山市の郊外に生まれ、和歌山中学の出身です。それで市内の公園に顕彰碑を立てる話が持ち上がり、市会議員をしていた尾崎さんが大いに尽力して実現したという出来事がありました。尾崎さんが中心になって顕彰碑建設運動のグループができたのですが、補陀さんもそのグループのメンバーでした。尾崎さんが中学生のときの先生に田村先生というひとがいて、絵描きで、保田先生の愛読者でした。尾崎さんも影響を受けて保田先生の作品に親しむようになりました。
 このあたりの話はやや錯綜とした感じになるのですが、保田先生と和歌山県の当時の副知事の中沢さんという人が畝傍中学の同級生。保田先生は佐藤春夫のお弟子筋。高橋英子さんは与謝野晶子に師事して歌を詠むようになり、保田先生とも面識ができました。また、田村先生もそうなのですが、和歌山には保田先生の愛読者が何人もいて、みな尾崎さんと親しく、瀬崎さんという人のお宅を根城にして「新論」という同人誌を出していました。それやこれやで保田先生が呼びかけ人になって高橋博士の顕彰碑建立の運動が始まったのですが、公園に建てるということになりますと許可をとる必要もありますし、その方面に通じているのは市会議員の尾崎さんということですので、尾崎さんが中心になって動くという成り行きになったということのようでした。
 梅田さんのご主人は和歌山の政界ではずいぶん高い地位にいた人のようで、梅田さん本人は歌を詠んだりエッセイを書いたりする人ですし、何かしら保田先生とも御縁があり、それで「かぎろひ忌」にも出席したというようなことでした。
 このような話をしばらくうかがって、それからいきなり龍神温泉を離れた後の話になったのですが、岡先生とみちさんは帰りもまた小山さんの車で奈良まで送り届けてもらいました。家に着くと、岡先生は、まあ、あがれ、と尾崎さんと小山さんを請じ入れて、カレーラースをごちそうしてくれました。小山さんは色紙をいただきましたが、そこには岡先生の一句が書かれていました。
  春なれや石の上にも春の風 石風
「石風」というのは岡先生の自作の俳号です。

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