プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して30年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。


カテゴリー


最近の記事



FC2カウンター


月別アーカイブ


最近のトラックバック


ブロとも申請フォーム


FC2ブログ
 ガウスは平方剰余相互法則の証明に成功した最初の人物ですが、単に証明して正しさを確認したというだけではなく、長い時間をかけて8通りもの証明を案出しました。数学的帰納法のよる証明もあれば、初等的な証明もありますが、二次形式の種の理論に基づく証明や円周等分論の「ガウスの和」の数値決定に支えられた証明、それに高次合同式の考察から取り出された証明など、どうしてそんなふうに証明することができたのか、神秘的な印象の伴う証明も並んでいます。
 ガウスはどうしていろいろな証明を考案したのか、今では明瞭にわかります。ガウスの真のねらいは4次剰余相互法則の証明にあり、平方剰余相互法則の証明を支える基本原理の中に、4次の場合にも通用するものをみいだしたいと念願していたと見てまちがいありません。ただし、ここもまた繰り返しになりますが、4次の相互法則というものが見つかっていたわけではありません。このあたりの事情は、ほんの少しではありますが、代数方程式の解の公式の探索の経緯に似たところがあります。
 ガウスの全集にはさまざまな遺稿が収録されていますが、数論の領域では3次と4次の相互法則を探索する様子が顕著です。いっそう高次の相互法則の存在も感知していたことと思いますが、次数を3と4に限定して、具体的な姿を明るみに出そうと努力を続けていたのでしょう。ここで、またまた繰り返しになってしまいますが、若い日のガウスが感知したのは「存在の予感」のみであり、はたして本当に存在するのかどうか、存在するとしたらどのような形になるのか、ガウス本人も何もわからないというのが実情でした。ガウスは一方では具体的な姿形の探索を続けるとともに、他方では、まだ見つかっていない法則の証明を模索していたことになります。まったく不思議な話ですが、ガウスの心の中では矛盾せずに同居していたのでしょう。
 ガウスが平方剰余相互法則の第一補充法則を発見したのは1795年、4次剰余に関する第二論文が公表されたのは1832年。この間、実に37年という歳月が流れています。しかも公表されたのは4次相互法則の形だけで、補充法則については証明も遂行されたものの、相互法則の本体の証明は伴っていませんでした。実際にはガウスの証明は相当に進捗していたようで、証明のスケッチを記述した遺稿があるのですが、それを見ると正しく証明されています。平方剰余相互法則の証明のひとつが鍵になっていることも、深い興味を誘われます。もうひとつ、ガウスは3次の相互法則も追求していたのですが、これについては断片的なメモが遺されているだけで、まとまりのある記事はありません。
 証明は欠如していたものの、4次の相互法則が発見されて公表されたという事実は非常に重く、ガウスを継承する人々のための貴重な遺産になりました。ヤコビ、ディリクレ、クロネッカー、クンマー、ヒルベルト等々、19世紀のドイツの数論史を彩る偉大な数学者たちの名前が次々と心に浮かびます。優に100年をこえる雄大な歴史が形成されたのですが、この歴史を開いたのは、ありやなきやをどこまでも追い求めた37年に及ぶガウスの思索でした。ひとりガウスのみが存在することを確信した何物かが、37年の歳月を経て本当に姿を現しました。これを「情緒の数学」の発現と言わずして、どのように評したらよいのでしょうか。
 「無」から「有」が生まれたと言うのも可、ガウスの天才の発露と言うのも可。ではありますが、「無」も「天才」も、それ自体の中には数学は存在せず、ただ「生成する力」が宿っています。ガウスの数論は岡先生のいう「情緒の数学」のあまりにもめざましい事例になっています。
 津田塾大学で行われた数学史シンポジウムの模様を簡単に報告しようとしたところ、長々とおしゃべりが続いてしまいました。微積分はなにしろヨーロッパの近代数学の端緒を開いた理論ですから、優に300年を超える歴史があり、全容を把握するのは容易ではありません。ずいぶん長い間、嘆息していたのですが、ここにきてコーシーとフーリエを読むことができたおかげで300年の歴史がひとつながりにつながって、何というか、「今日の微積分のテキスト」を書くことができそうな気分になりました。必ず実現したいと思いますが、それはそれとして連載中の「情緒の数学史」がまだ完結していませんので、もう少し続けたいと思います。
 とはいうものの、実際にはすでに結論まで込めて言い尽くしてしまったようでもあります。岡先生の論文集に刺激されて古典研究に向い、数学という学問の本質は「情緒の数学」であることを確認したいと思ったというところまではすでに書きました。そうすると、はたして本当に確認できたのかどうかということを、この先に続けていかなければならないことになります。そのためにはいろいろな具体例を挙げていくほかはありませんが、アーベルの「不可能の証明」や「パリの論文」にまつわる話など、これまでに語ってきた事柄はみなそのような事例ばかりです。あれもこれも、気づいてみると数学の創造はみな「情緒の数学」の事例ばかりのように見えてくるのですが、なかでも特別の位置を占めるのはガウスの数論です。
 ガウスの数論については、だいぶ前に「ガウスの遺産」という題目を立てて連載稿を書いたときに詳述したことがあります。それをここでもう一度、回想したい気持ちに駆られるのは、数論におけるガウスの数学的創造の姿形が、岡先生のいう「情緒の数学」にあまりにもぴったりとあてはまるからです。
 1795年の年初、ガウスはまだ17歳だったのですが、今日のいわゆる「平方剰余相互法則の第一補充法則」を発見して数論の端緒をつかみました。続いて平方剰余相互法則の本体と第二補充法則も発見し、証明にも成功しました。一番はじめの証明は数学的帰納法によるものだったのですが、その後も引き続き努力を重ね、全部で8通りの証明を獲得しました。この間の消息は広く知られている通りですが、ガウスの数論はそれからどのようになったのかというと、「四次剰余の理論」へと向かいました。平方剰余相互法則を「次数2の相互法則」と見て、「次数4の相互法則」を見つけようとする方向に進んだのですが、ガウスはこれをテーマにして「四次剰余の理論」というタイトルをもつ二篇の論文を執筆しました。「第一論文」は1825年、「第二論文」は1832年に公表されました。
 さて、特筆大書したいのはここからなのですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの存在をいつ感知したのかというと、おそらく1795年の年初、平方剰余相互法則の第一補充法則を発見した時期にさかのぼります。はっきりと日時を指摘するのはむずかしいのですが、1801年に刊行された著作『アリトメチカ研究』には、すでに4次剰余の理論に関心を寄せている様子がはっきりと現れています。『アリトメチカ研究』の刊行は1801年9月。そのときガウスは24歳でした。
 「感知する」という言い方はなんだか変ですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの姿を発見したわけではありませんでしたから、そんなふうに言うしか仕方がないのです。平方剰余相互法則の場合にはまずはじめに法則を発見し,続いてその証明に向かったのですが、これは普通のことで、わかりやすい道筋です。ところが4次剰余相互法則の場合には具体的な姿がなく、ガウスはただ単に、何かしら4次剰余相互法則と呼ぶのに相応しいものが存在するにちがいないと思っただけのことでした。後年の二論文では4次剰余相互法則とその二つの補充法則が記述されていて、補充法則については証明が書かれているものの4次剰余相互法則の本体は証明が欠如しています。
 証明どころか、法則を発見するまでに30年をこえる歳月を要したのですが、実際のところ、そんな法則が本当に存在するのかどうか、だれもわかりません。ガウスは存在を確信し、だからこそ30年以上もの間、探索を続けることができたのですが、存在を保証するものは何もありません。あるともないとも何もわからないものの探索を、ガウスはどうして続けることができたのでしょうか。

 岡先生の論文集に衝撃を受けて、数学という学問に対する考え方が落ち着くべきところに落ち着いたような感覚に包まれて、すっかりうれしくなりました。数学は情緒の表現して作る学問芸術であるというのが岡先生の数学観で、数学に心を寄せ始めてまもないころ、そんな岡先生の言葉を発見して深遠な魅力を感じたのでした。それからずいぶん遠回りをして、曲折の末に結局のところ岡先生に立ち返り、今度は数学の論文集を読むことになったのですが、そこは岡先生の情緒のみが色濃く遍在している世界でした。数学はたしかに情緒の表現であり、岡先生の言う通りなのでした。
 ただし、問題のすべてが氷塊したわけではなく、大きな問題が新たに出現しました。岡先生の論文集以外の数学は「こうすればこうなる」というあたりまえのことが延々と続く世界ですから、だれの情緒も存在せず、植物採集や昆虫採集の標本の陳列のようなもので、いわば死んだ学問です。ではありますが、そんなふうに思うようになったうえでまた思うのですが、植物採集や昆虫採集を実際に遂行して標本を作製した「だれか」が存在したのではないのでしょうか。
 岡先生の多変数関数論でも、岡先生の論文集を踏まえて何冊かの教科書が書かれていて、ぼくも蒐集して読みました。それらはみな多変数関数論のしかばねだったのですが、根底には岡先生の論文集が存在し、そこには岡先生というひとりの特定の人物の情緒の世界が広がっていました。それなら、岡先生の論文集以外のあれこれの数学についても、岡先生の論文集に相当する何物かがどこかに存在し、そこにはだれかしら岡先生のような特定の個人の情緒の世界が広がっているとは考えられないでしょうか。多変数関数論における岡先生とその論文集のことを考える限り、この想定には確からしい感じがありましたし、またそうでなければ数学という学問が成立するはずはないとも思われました。
 いわば「数学の泉」を見つけたいと思う心情にとらわれたわけですが、そんな泉は、もし本当に存在するとするならば、歴史の流れの中にしかありえません。それで、多変数関数論における岡先生に相当する人を数学のいろいろな領域で発見し、数学の本質は「情緒の数学」であることをこの目で見たいと念願するようになりました。これが古典研究の唯一の動機になりました。
 あれほどむずかしかった数学が急にやさしくなったり、しかも同時に何の魅力も感じられなくなったりするのは奇妙な現象ですが、突発的にそんなふうになったのではなく、背景には岡先生の論文集を読むという出来事がありました。大学院の一年目のときのことで、4月から読み始めて連日ノートを書きながら読みふけり、8月の末あたりまでかかって読了しました。この間、おおよそ半年ほどになりますが、毎日毎日この論文集のことばかりを考えてすごしました。日々の生活に何物かがびっしりと詰まっているような感触がありました。その「何物か」の正体は今ならよくわかるのですが、「岡先生の数学の情緒」そのものにちがいありません。
 岡先生の論文集はフランス式装幀でしたので、ペーパーナイフでページを切りながら読み進んでいったのですが、なんというか、それまでにさんざん読んできた数学書とは全然違う印象を受けました。後年、30代に後半にさしかかってころのことですが、仏教学者の玉城康四郎先生にお目にかかりましたとき、玉城先生は思索の姿として「デジタル」と「アナログ」という話をしてくれました。対象を細かく切り刻んで断片を観察してつないでいくのがデジタル式思索。この場合には対象は死んで動きません。それに対し、生きて動いている対象の動きに追随して思索していくのがアナログ式だというのでした。岡先生の論文集で経験を積んでいましたので、玉城先生の言わんとするところはすぐにわかりました。
 岡先生の論文はひとつひとつの言葉にびっしりと「意味」がつまっていて、その意味が文章が綴られていくのにつれて変動するのです。生命をもって生きて動いている文章ですので、これを理解するには切り刻んではだめで、たとえば今の多変数関数論のテキストを参照すればこれはこういうことだというふうにあてはめて理解しようとすると、たちまち挫折してしまいます。生きた学問を死んだ学問によって理解しようとするからです。そうではなくて、岡先生の論文には岡先生の生きた情緒が詰まって動いているのですから、ここは断然我執を捨てて、岡先生の情緒の動きに追随していかなければならないところです。当初はそれができませんでしたので、一行読んではわからなくなるというふうで、困惑したものでした。それまでの勉強の仕方が根本的にまちがっていたのです。
 数学における「意味」とは何かという問題はまだ残っていますが、ひとまず後回しにすることにしますと、岡先生の論文集には「意味」が充満していますが、他の数学書には「意味」は存在しません。そのことに気づいたのは岡先生の論文集のおかげなのですが、「意味」は存在しないのだという認識を踏まえると、数学の本はみなやさしくなりました。
 なんだか変な話のようですが、微積分に事例を求めますと、学び始めるとすぐにイプシロン-デルタ論法というものに出会います。関数の連続性などもこの論法によって記述されるのですが、わかりにくいことでは昔から定評があり、悪評が高く、定着率が極端に低いため、近ごろの大学ではもう教えないことにしているくらいです。ぼくもかつて苦しめられたのですが、たとえば連続性について考えてみますと、関数の連続性というほどですから、どこかに「関数の連続性」という観念的な実体が存在して、その姿を描写するのにイプシロン-デルタ論法の手を借りるのであろうと思っていました。それで、イプシロン-デルタ論法の記述様式に手がかりを求めて連続性の実体を諒解しようとしたのですが、成功したことはなく、そのためにいつも「わからない」という感情がぬぐえませんでした。それが、岡先生の論文集に教えられてはじめてわかったのですが、連続性の実体という物は実は存在せず、連続性というのはイプシロン-デルタ論法を用いて記述された概念規定の文言がすべてなのでした。
 ひとたびこのことに気づけばあとは簡単で、数学書を読むというのは書かれている言葉をそのままなぞっていくだけの作業ですから、なんでもありません。どんな本でもみな読めますが、文字と論証をなぞる作業がおもしろいわけはないのですから、数学の情景はたちまち色あせてしまいます。こんなわけで岡先生の論文集だけが残されました。
岡先生の数学以外の数学はどれもつまらないという話ばかりしてきましたが、どこがどのようにつまらないのか、もう少し具体的に書き留めておくほうがよいかもしれません。高校時代の受験勉強で出会う数学の問題の中には非常にむずかしいものもあり、苦しめられたものですが、畢竟すべては数式の変形にすぎないのではないかと、あるときふっと思い当たったことがありました。これでは大雑把すぎるようでもありますが、問題の要求にそのまま応じて計算なり式変形なりを繰り返していけば、たいていの問題はみな解けてしまいます。もっとも実際には「言うは易く、行うは難し」なのですが、原則的にはそのように作られているのですから、解けるのがあたりまえで、解けても別に感動はありません。
 大学に入学すると微積分を学びます。微積分の対象は「関数」で、関数概念の導入の後、その連続性を論じたり、微分したり積分したりする理論がえんえんと続き、最後に「微積分の基本定理」が登場して一段落します。応用として、平面曲線の概形を描いたり、複雑な形状の領域の面積や体積を算出したりするのですが、さて、微積分とは何だろうかと自問すると、何も答えることができません。教科書も見ても書いてありませんし、そもそもいきなり関数が登場するのがいかにも奇妙です。線形代数などはもっと悲惨で、これこそ正真正銘どこまで行っても式変形ばかりです。
 フーリエ解析では「任意の関数」をフーリエ級数に展開する可能性を調べたりしますが、正弦と余弦を組み合わせて形成されるフーリエ級数のような無限級数への展開がなぜ問題になるのか、そんな肝心かなめのところはわかりませんでした。ルベーグ積分では、積分の概念をルベーグ式に定義するとこのようになるという話が続きますが、そうしてそんなふうに定義するのかということの説明はありません。ガロア理論の骨子は「ガロア対応」の理論で、群の系列と体の系列が相互に対応する様子が記述されますが、こうすればこうなるという状況が目に留まるのみにすぎません。応用として、いわゆる「不可能の証明」が行われたりするのですが、アーベルの論文を読むときのような感動はありません。何かしら肝心なものが消失しているのではないかという印象が拭えないところですが、その「消えたもの」こそが歴史なのだと今では思います。
 こんなふうに挙げていくときりがありませんが、数学の勉強を通じて受ける印象はいつでも同じでした。天下り方式というか、諸概念がいきなり定義された後、簡単な論証をつないでいって一系の命題を導出していくのですが、なぜそうするのか、という素朴な疑問にいつも直面したものでした。数学は何を研究する学問なのだろうか、というのが高校時代以来の疑問だったのですが、微積分なら関数、ガロア理論なら群と体というように、どの理論でも研究の対象は一番はじめに提示されるものの、それらの出所来歴というか、どこからどのようなわけで持ち出されてきたのか、そこが不明瞭なのでした。
 代数幾何では代数多様体を研究するというのですが、代数多様体を研究するのはどうしてなのでしょうか。岡先生の多変数関数論は「岡−カルタンの理論」という名で呼ばれて、「スタイン多様体」という高次元の複素多様体を研究するのですが、どこからこのような多様体が出てきたのでしょうか。理論の対象が天下りに提示されるのであれば、引き続く論証は要するに「数式の変形」の繰り返しにすぎないことになりますから、どこまでも平坦な道が続くばかりです。新しい概念が定義されたり,新たに命題が提示されて証明されたなら、それらの意味するところを知りたいと思ったものですが、この願いがかなえられたことはありませんでした。
 こんなわけで何を勉強しても「意味がわからない」という心理状態に陥って気分が晴れなかったのですが、理論を記述する論証そのものは簡単明瞭でした。それで、あるときまたしてもふっと思い当たったのですが、数学の諸概念の定義には「意味」はないのではないかというところに考えが及びました。これはわれながら新発見でした。どの概念にも意味があるに違いないと思うからこそ、見つけ出そうとして探しあぐね、「わかった」と「わからない」の境い目が見分けられずに苦しんだのですが、実はこれはないものねだりだったのでした。数学の概念は、それを記述する文言があるだけで、固有の意味が伴うことはありません。これは欠陥ではなく、むしろ概念規定は「意味」を伴わないように工夫して行われるのであり、それがつまり岡先生の言う「数学の抽象化」ということなのではないかと思います。しかもこれは数学のみに特有の現象ではなく、学問芸術のあらゆる領域でたいへんな勢いで進行している趨勢です。
 これ以上考察を進めていくと「ヨーロッパの近代とは何か」という問題に逢着することになりますが、今はこれを避けて数学にもどりますと、「数学には意味がない」ということにひとたび思いいたると、すべての悩みが払拭されて、あらゆる理論がみな平明になりました。何の意味も伴わない透明な言語で記述された諸概念と、感嘆明瞭な論証で紡がれていく諸命題を理解するのはたやすいことでした。数学は急にやさしい学問になったのですが、ここに新たな問題が持ち上がりました。それは、「感動の消失」という一事です。それまでは数学はむずかしいと思いながらないものねだりを続けていました。おもしろくはなかったのですが、存在しないものの探索それ自体の中に学問の魅力の影が宿っていました。それが、「実は存在しない」と思ったとたんに数学は極端にやさしくなり、同時に魅力の影もまた完全に消失したのでした。
 大学から大学院に進むと、学術誌に掲載された論文なども読むようになりました。世界には(日本にも)岡先生のほかにも大勢の数学者がいて、「現代数学」の名のもとに大量の論文が生産されていました。その状況は今も変わりません。多変数関数論を中心にしてずいぶん多くの論文を読みましたが、数学研究の名のもとにどのようなことが行われているのか、だんだん諸事情が飲み込めてきました。このあたりの消息を語り始めると、これはこれで果てしのないテーマに踏み込んでいくことになりそうですが、全般に「歴史の欠如」という印象を強く受けました。岡先生のエッセイに「数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて」というのがありますが、ここで使われている岡先生の言葉を借用すると、前面に押し出されているのは客観的形式ばかりであり、主観的内容を見かけることはありませんでした。数学の論文は客観的であるべきで、主観を持ち込むのは徹底的に忌避されているようでもありました。この趨勢と「歴史の欠如」は無縁ではありません。
 そんなふうですので、数学研究の現場を垣間見る限り、岡先生のいう「情緒の数学」は岡先生の論文集のみに見られる独特の数学観であることがわかってきて、高校生のころからの疑問に対して結論めいたものに到達したのですが、ここにいたってひとつの決断を迫られることになりました。それは、数学研究の現場の大勢と岡先生の「情緒の数学」のどちらを選ぶのかという問題です。実際には答は決まっていたのですが、問題が先鋭化してきたのはまちがいありません。

 高校に入学する直前の二週間ほどの間のことですが、高校で使う教科書が手に入りましたので、あちらこちらと眺めてすごしました。そのとき、数学の教科書から受けた印象は実に奇妙なもので、今もありありと覚えています。なぜかといいますと、数学は何を研究する学問なのか、さっぱり見当がつかなかったからでした。
 物理も化学も生物も地学も、数学以外のすべての教科には「対象」がありました。自然科学系の学問でしたら物理的自然(岡先生でしたら「人があると考えている自然」と言うところです)を究明の対象にしているのでしょうし、日本史や世界史や古典などの文科系の学問の対象についてもまた迷いはありません。ですが、数学は何を研究しているのでしょうか。教科書を見る限り、そこに出ているのは、ひとことで言えば数式を変形しているだけのことにすぎず、それがどこまでも続き、意味もわからないうちに最後の頁になってしまいます。それでもひるがえって思えば、世界には数学者と呼ばれる人がいて、数学という学問を研究しているのはまちがいなさそうです。では、数学者たちは何を研究しているのだろうと、素朴な疑問はいつも振り出しにもどってしまうのでした。
 高校一年の秋十月のことですが、岡先生のエッセイ『春の草 私の生い立ち』(日本経済新聞社)を書店で見つけて読みました。新刊書でした。これを皮切りに岡先生のエッセイを読み始めたところ、岡先生は「数学とは何か」という問いに対し、「情緒を表現して創り出す学問である」と簡明率直に答えていました。実に不思議な言葉ですが、ともあれぼくの疑問に対してひとつの答を提示しているのですし、これにはまったく驚きました。意味合いは判然としなかったのですが、かえってますます数学という学問に神秘感を抱くようになりました。
 数学に寄せる関心の始まりはこんなふうでしたので、数学が特に得意だったというわけではなく、受験勉強で取り組む問題におもしろさを感じたこともありません。岡先生のいう「情緒の数学」と現実に接する数学との乖離は広がるばかりでしたし、これにはほとほと悩まされましたのですが、数学から心が離れなかったのは「情緒の数学」の魅力がそれだけ強かったということであろうと思います。
 この悩みは大学に入学してからも解消しませんでした。微積分や線形代数から始めていろいろな数学を学びましたが、(一変数の)複素関数論もガロア理論もルベーグ積分もフーリエ解析も関数解析もトポロジーも微分幾何も確率論も集合論も、それに初等整数論も類体論も、何を勉強しても興味がわきませんでした。当時の印象を大雑把に回想すると、どの理論も要するに数式の変形を繰り返しているだけのことで、「究明の対象」は結局のところ存在しないのではないかと思ったものでした。それでもまた考え直し、「数学の研究対象」はまだ見つからないけれども、存在しないはずはないとも思いました。この堂々巡りから脱却するのはむずかしく、大学院で岡先生の論文集を読むまで続きました。
 岡先生の語る「情緒の数学」には神秘的な魅力がただよっていて、知的もしくは論理的に詰めていくと、わかったようでもあり、わからないようでもあり、あやふやな状態だったのですが(つまり、わからなかったのですが)、心はすっかり引き付けられてしまいました。それで「情緒の数学」のいかなるものかをわかるようになりたいと強く思い、数学の勉強にも一段と力が入るようになったのですが、ここにひとつ、困った問題が生じました。それは、「情緒の数学」の普遍性に関することなのですが、現実に日々の授業で直面する数学もまた「情緒の数学」なのであろうかという問題でした。
 受験問題なども多種多様で、あれやこれや、さまざまなタイプの問題がそろっていました。解法もまた一筋縄ではいかず、解けたり解けなかったりの状態が長く続きました。首尾よく解けることがあると、なぜ解けたのだろうと不審でした。同じような方針で解きにかかって挫折すると、なぜ解けないのだろうと悩まされました。解けることと解けないことの分かれ目が見えなかっために苦しんだのですが、いずれにしてもこんなふうにして問題を解くことが「情緒の数学」と関係があるようには思えませんでした。これを言い換えると、現実に取り組んでいる数学の勉強にはさっぱり興味がもてなかったということです。
 高校の所在地に大学の工学部がありましたので、理工系の大学生のための参考書を揃えている書店があり、数学の専門書が並んでいました。教養課程程度の微積分や線形代数の本だったと思いますが、放課後、よくその書店に出向き、あれこれと手にとって頁を繰ったものでした。啓蒙書というか、数学史の書物も読みました。E.T.ベルの『数学をつくった人々』とか、小堀憲『大数学者』などを読んだのもこのころです。高木貞治の『解析概論』は並んでいなかったのですが、書名を覚え、注文を出して手に入れました。箱入りの分厚い大型の本が届いたときは、大いに感動したものでした。
 当時の印象を回想してみると、専門書に書かれているのは今日の理論体系の簡単な解説であり、数学とはいかなる学問なのか、などという問題は取り上げられていません。この状況は40年後の今も変わりません。ということは、数学の専門書は「数学とは何か」という問題とは無関係ということにほかなりません。高校生あたりを大正にして書かれている啓蒙書はどうかといえば、すべてに共通しているのは「数学が存在しない」という一事です。もっとも全然ないというわけではなく、初等的な幾何や代数や数論は出ているのですが、単純なものばかりですので参考になりません。数学史の本はだいたい数学者の伝記なのですが、数学は見あたりませんでした。数学史の書物に数学がないというのは奇妙ですが、40年後の今も、書店に並ぶ数学史の書物には数学はなく、いわば「数学のない数学史」ばかりです。誤解のないようにひとことだけ言い添えておきますと、「数学がない」というのは「むずかしい数学がない」という意味で、簡単な数学や専門用語でしたら昔もたくさん見かけましたし、今も散見します。高校時代には「類体論」とか「クロネッカーの青春の夢」などという言葉を覚えました。
 こんなふうに日々をすごし、多くの数学書を見物したのですが、「数学とは何か」という問題を論じた書物はありませんでした。「数学の哲学」というたぐいの本はありましたが、その哲学というのは、数学を記述する際の論理構造の姿を分析するということのようで、数学そのものとはやはり無関係のように思われました。こうして見ると、「数学とはかくかくしかじかの学問である」と正面から発言しているのは岡先生だけのようでもあり、そのためにますます岡先生に心が惹かれるとともに、不安もまた高まりました。世界にも日本にも数学者はたくさんいる。日本の大学にも数学者がいるにちがいない。それなら、彼らは数学という学問をどのように見ているのだろうというのが、当時、念頭を離れることのなかった素朴な疑問でした。

 岡先生のいう「情緒の数学」はどのようなものなのかということについては、これまでに引用を重ねてきた岡先生の言葉そのものにより、ほぼ明るみに出されたことと思います。ぼく自身の感想を書き留めておきますと、40年前に『人間の建設』をはじめて読んだときは岡先生の言葉が心の表面を素通りするというか、意味がわかりませんでした。岡先生の言葉の意味がわからないというのは、「情緒の数学」などということを力説する岡先生の心情に共鳴することができなかったということなのですが、今にして思えば、わかるとかわからないということをそのように理解するようになったのはわりと最近のことです。理解することの本質は「共鳴すること」にあります。今でははっきりとそう思いますが、そのこと自体、岡先生に教えられたのでした。
 共鳴は理解の本質ですが、即座に共鳴するまでにはいたらないとしても、特定の人物や特定の書物や絵画や音楽になぜかしら心を惹かれ、離れることができなくなってしまうという経験はだれにもあるのではないでしょうか。ぼくの場合には岡先生のエッセイがそうで、一番はじめに一読してからこのかた、いつまでも心にかかり、理解したい、わかりたいと思い続けました。当初は知的にわかりたいと思い、岡先生の言葉のひとつひとつを理詰めで解釈したいという考えにとらわれていたように思うのですが、これは根本的に方向がまちがっているのですから、わかりようがありません。岡先生の言葉を援用すると、情緒の彩りが融合することが「理解する」ことなのであり、知的な理解に割り当てられる役割は補完的です。あくまでも「情」が先で、「知」の働きは補助的なのですが、ただし「知」の支えは必ず必要であることにはくれぐれも留意しておかなければなりません。
 小林秀雄は岡先生の「春宵十話」を読んで共鳴の予兆を感じたのでしょう。対談の場ではしきりに岡先生の数学観を話題にして、岡先生みずからに数学を語らせようとしました。これは成功し、岡先生は長い思索を通じて手にした「情緒の数学」を小林秀雄に存分に語りました。小林秀雄もまたこれを理解しました。まことに信じがたいことで、奇跡が起ったとしか思えません。晩年の岡先生は小林秀雄のほかにも実に多くの人と対談を行いましたが、豊かな果実が実ったのは小林秀雄との対談だけで、中には完全に破綻した対談もいくつかありました。小林秀雄との対談が成功した理由はただひとつ、小林秀雄が岡先生の数学を話題にしたからでした。
 大学院で岡先生の数学論文集を読んだときのとこですが、一年半ほど、一日も休まずに打ち込み、大量の勉強ノートが積み重なりました。この勉強を通じて受けた衝撃のこともいつか書いておきたいともいますが、ひとことで言えば、岡先生の論文集は「情緒の数学」というものの具体的な事例です。これは即座にわかりました。数学をどこまでも知的もしくは論理的な学問と見る考えはぼくにもありましたし、目に触れる限りの大量の数学の書物を手にとっても例外はありません。
 ところが、岡先生の論文集だけは違いました。当初は数学の本を読みにかかるときに常道にしたがって、証明の筋道などを丹念に論理的に詰めていこうとしたのですが、それはそれで非常に時間がかかりました。それでもたいていの場合にはこの作業が完了すれば「わかった」ということになるのですが、岡先生の論文集についてはそうはならず、わかったはずなのに何もわからないという、狐につままれたような心理状態に陥って大いに困惑したものでした。この感じは、『人間の建設』は『春宵十話』など、岡先生のエッセイ集を読んで「情緒の数学」に触れたときの気持ちと同じです。

 数学の基礎に関心を寄せる人たちの中には、論理主義者というか、数学を論理学の一区域に還元しようと望む人々もいることですし、そのような人たちにとってはゲーデルとコーエンの発見はたいへんな衝撃だったに違いありませんが、数学の研究は相も変わらず平然と行われています。これはつまり衝撃を受けなかった人たちのほうが大勢を占めていたということで、論理主義の人々は思いのほか少なかったということでしょうか。数学は論理学ではないという確信があれば、ゲーデルとコーエンの発見に痛痒を感じる理由はありませんし、実際のところ、衝撃を受けて数学の姿が大きく変容したなどという現象は皆目見られません。それで、前回、「数学は論証の正確さを尊びますが、論理学ではありませんし、何かしら論理を超越した何物かに支えられているという感受性は広く共有されているように思う」と書きました。
 これはこれでひとつの状勢判断ですが、実は書いた後で少々不安になって、考え直しました。なぜ不安を覚えたのかというと、数学は純粋に論理的に構築される学問であるという観念もまた広く受け入れられていると考えられるからで、それなら数学に心を寄せる人たちは、明確な自覚が伴わないことはあるとしても、ことごとくみな論理主義者なのかもしれないと思ったことでした。たぶんそうなのでしょう。数学は「論理を超越した何物か」に支えられていると考える人は実は非常にまれで、数学は論理学ではないと広く考えられているのではないかという観察は錯覚なのかもしれません。
 ところが、この考えはゲーデルとコーエンの発見により打撃を受けないではいられません。かつて数学は「精密科学」と呼ばれたこともありました。ゲーデルとコーエンの発見は論理の構造を解析して、数学には「証明不能」ということが起こりうることを指摘したのですから、数学の根底はたしかに激震に見舞われたのです。
 数学を根底において支えているのは精密な論理であるという認識とゲーデルとコーエンの発見は両立しないはずなのですが、実際には平穏無事な光景が続くばかりで、何事も起りません。まことに矛盾に満ちた現象ですが、そんなふうに見えるのは「数学を根底において支えているものは何だろうか」と問うからですし、もしかしたらこの問いは関心をもたれていないのかもしれません。「リーマン予想」のような大きな未解決問題が実は証明不能などという事態が判明したなら、数学の基礎の考察はにわかにさしせまった問題になるかもしれませんが、それまでは矛盾を抱えたままの状態で漫然と推移していくのではないかという感じもあります。明確な自覚の伴わない「素朴な論理主義」の立場です。
 こんなことをあれこれと考えてみますと、「数学を支える土台はどのようなものだろうか」とか、「数学はどこから生まれてきたのだろうか」というたぐいの問いは、実はこれまで真剣に問われたことはなかったのではないかという気がします。なんだか変な話ですが、案外そんなところが正確な現状観察なのかもしれません。ですが、岡先生はそうではありませんでした。「数学の故郷」を問う岡先生はゲーデルやコーエンが明らかにした事柄の真意を鋭敏に察知して、ここに論理主義の破綻を認識したと見てよいと思います。岡先生自身は「論理も計算もない数学」をやってみたいと思ったという学生時代からこのかた、長い歳月を通じて一筋に「情緒の数学」を追い求めてきたのですから、数学の基礎を論理そのものに求めたことはありませんでした。したがって論理主義の破綻は岡先生にとっては当然のことで、破綻してしかるべきものが、いよいよ本当に破綻したまでのことにすぎませんでした。そこで岡先生は小林秀雄に対して「知性には感情を説得する力がないということがわかります」と発言し、そのうえでさらに、「はじめからわかっていることなんですが」と言い添えたのでした。
 素朴な論理主義が破綻した以上、岡先生が長い数学的思索を通じて紡ぎ出した「情緒の数学」に耳を傾ける数学者が相次いで現れてもよさそうですが、そうはなりませんでした。数学は相変わらずひたすら論理的な学問であり続け、「情緒の数学」はというと、岡先生のみに許された一風変わったアイデアの域に留まりました。そうかといって表立って批判する人が現れたわけではありませんし、論争が起きたわけでもありません。全般に数学の基礎に寄せる関心が薄かったのでしょう。


Powered by FC2 Blog