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 伊與田先生は早くから胡蘭成をよく知っていたようでした。胡蘭成は日本に亡命して、一時期、池田篤記の家に逗留したというのですが、池田さんは東京外国語大学の中国科を出た人で、安岡正篤に傾倒していたのだそうです。そうしますと安岡正篤を通じて伊與田先生と胡蘭成の交友が始まったということになりそうです。昭和32 年には関西師友協会に胡蘭成を招いて講演をしてもらうということもありました。
 大阪の高島屋で胡蘭成の書の個展が開催されたとき、伊與田先生も出かけていきました。するとそこに岡先生御夫妻がいました。伊與田先生が挨拶して、今は四条畷にいると伝えたところ、岡先生は「青葉繁れる桜井の」と、桜井の駅の別れの歌を歌い始めました。伊與田先生も胡蘭成もこれに唱和し、買い物客たちもみな寄ってきて全員で大合唱になったということでした。
 岡先生が胃潰瘍で大阪の労災病院に入院したときは、伊與田先生もお見舞いに出向きました。そのとき岡先生は、コーヒーが好きだというので、あちこちからコーヒーを送ってくる、飲んでいるうちに胃を悪くした、などと言ったそうです。
 それから、岡先生が高畑の新居に転居して間もないころ、お訪ねしたそうです。文化勲章を受けて、年金がついているのがうれしいと言ったとか。新聞社から原稿を頼まれているのだが、壁にぶつかってしまい、まったく何も浮ばなくなって10日ほどになるというので、伊與田先生が易の話をしたところ、岡先生は突然、はっきりわかりました、これで書けます、と言いました。とても喜んで、帰途につく伊與田先生を新薬師寺のあたりまで見送ってくれました。これが最後のお別れになりました。
 こんなお話をあれこれをうかがい、それから埼玉県に安岡正篤記念館があると教えてもらい、「安岡正篤先生年譜」を見せていただきました。ほぼ毎日のように記事が続く浩瀚な年譜で、このような年譜がありうるのだろうかと、びっくりするばかりでした。お願いして拝借して辞去し、またタクシーで山を降りました。
 関西師友協会や和歌山師友会など、一般に師友会というのは戦後、安岡正篤が中心になって各地に設立した会の総称ですが、伊與田先生はその師友会の専門道場として成人研修所を設立しました。伊與田先生と安岡正篤とは昭和10年ころにさかのぼる古いお付き合いがあり、そのころ安岡正篤は金鶏書院(大阪)や金鶏学院(東京)を主催していました。
 昭和21年1月3日、伊與田先生は太平思想研究所を設立し、ここに京都学派の諸先生にお出でいただいて講義を行ってもらったそうです。京都学派というのは西田幾多郎の影響下にあった京都大学の哲学者や歴史学者や宗教学者たちの総称ですが、終戦後、学園内外の社会思想の急変を受けて相次いで大学を追われるということがありました。伊與田先生はそこに着目し、それならぜひと講演をお願いしたということでした。
 昭和24年、東京に師友協会ができました。県単位の師友会のことを特に「協会」と呼んで区別したのだそうですが、その後、各地に師友会、師友協会ができましたので、東京の師友協会をさらに区別して、東京師友協会と呼ぶことになりました。
 昭和44年に成人教学研修所ができて、それから昭和45、46年の天皇誕生日に岡先生に講演をお願いしました。また、あるときの集まりでは各企業から選抜された人たちが半年間にわたって研修をするということがありましたが、そのときも岡先生が招聘されました。みな礼儀正しく、正座して、丁寧に礼をしました。まるで海綿が水を吸うように話を聴いてくれると言って、岡先生は非常に感動していたということです。帰り際、玄関で靴を履くとき、右と左が逆になっていました。それで伊與田先生が、先生、それ逆やないですか、と声をかけると、岡先生は、あっ、そうですな、西洋の履物は便利が悪いですな、と応じて、そのまま車で帰っていったそうです。
 その当時は道が悪くででこぼこでした。車がはねたりしますので岡先生の御機嫌が悪く、こんな道の悪いところにはもう来ないと言ったりしました。こんなふうなおもしろい話がいくつもありました。
 昭和28年には大学生の勉強の場という考えで有源学院が創設され、大阪大学と京都大学の学生が中心になって、毎月第一日曜日に大阪で勉強会を開催しました。大塩平八郎の私塾は洗心洞というのですが、その洗心洞で戦前から講義を続けていた人がいました。それが戦争で中断していましたので、伊與田先生がその精神を受け継いで、昭和30年5月1日のメーデーの日に、メーデーの会場で洗心講座を開きました。これを洗心会の始まりとして、成人教学研修所では春秋二回、洗心会が開かれました。春の洗心会の日は天皇誕生日(昭和天皇)、秋の洗心会は11月3日の文化の日でした。岡先生が招聘されたのは、その洗心会の日のことのようでした。
 「かぎろひ忌」の後もまだ京都に逗留し、翌日の9月28日には岡先生と御縁のあった伊與田覚(いよた・さとる)先生にお目にかかるため、四条畷に出かけました。伊與田先生は東洋思想家の安岡正篤の高弟で、四条畷の山の上で成人教学研修所を主催していますが、ここに何度も岡先生を招いて講義をお願いしたということでした。その間のあれこれを詳しく教えていただきたいと申し出て、この日の訪問になりました。伊與田先生の師匠の安岡正篤もまた岡先生と交友がありましたので、そのあたりのお話をうかがうことも訪問の目的でした。前もって電話をかけて、岡先生のことをうかがいたいのですがと申し出たところ、伊與田先生は、いやあ、岡先生、なつかしいなあ、と嘆声をあげたものでした。
 JR四条畷駅のすぐ近くに、小楠公こと楠正行を祭った四条畷神社があります。少時散策し、それからタクシーで成人教学研修所に向かったのですが、車中、運転手さんに、あなたもどこかの会社のお偉いさんですか、と話しかけられました。意味をつかめなくて少々とまどいましたが、成人教学研修所というのは全国各地の会社の社員研修の場所として使われているようで、それも幹部社員の養成所のような感じを受けました。そんな人たちがよくタクシーを利用して、成人教学研修所に向かうということでした。伊與田先生は所長ですが、講師でもあり、論語をはじめ広く東洋思想を講じています。
 伊與田先生の話をそのまま再現すると、先生が岡先生とはじめて会ったのは昭和36年とのことでしたが、これは昭和37年ではないかと思います。昭和32年に関西師友協会よりも少し遅れて和歌山に師友会ができて、その3、4年後に岡先生を呼んで講演をしていただいたのだそうで、そのとき安岡正篤の講演もありました。それから新和歌浦の「岡徳楼」というホテルに場所を移して二次会があり、伊與田先生も同席したのですが、岡先生と安岡正篤は波長が合ったようで、大いに語り合い、共鳴し合ったということでした。岡先生は大酒して、三高ではなくて一高の寮歌を最後まで歌いました。安岡正篤は一高から東大に進んだ人ですので一高の寮歌になったのだろうと思いますが、三高から京大に進んだ岡先生も一高の寮歌をよく知っていたのでした。「ああ玉杯に花受けて」と歌ったのでしょう。
 安岡正篤は、岡先生と小林秀雄の有名な対談に言及し、ぼくと岡さんが対談すればもっとましな対談ができたのに、と言ったことがあるそうです。

 補陀さんの話によると、上御殿では岡先生と保田先生と胡蘭成が食事をしながら自由に語り合うのを、みなで拝聴するという恰好になったということでした。同行者は非常に多く、全部で20人とも30人ともいうのですが、後日、お手紙をいただいて全員のお名前を教えていただきました。若い人も多く、中には高校の先生や学習塾の教師もいました。胡蘭成が日本の歴史を論じ、岡先生と胡蘭成の二人で平家を評価するという場面もありました。
 二次会の席で、補陀さんも交えて保田節子さんと話をする機会がありました。節子さんは保田先生の次男の悠紀夫さんの奥さんですが、お父さんは玉井栄一郎さんです。このあたりの縁戚関係について詳しくうかがいました。御所市水泥(みどろ)の西尾家にきみえさん、としえさんという姉妹がいて、きみえさんは玉井家に嫁ぎ、としえさんは天見の相宅家に嫁ぎました。としえさんのご主人は相宅才蔵という人です。
 相宅家のことなら泰子さんにうかがったことがあります。話が細かくなりますが、岡先生と泰子さんの祖父の文一郎は男ばかり四人兄弟で、順に文一郎、源一郎、貫一郎、正一郎というのですが、四男の正一郎が相宅家に養子に入りました。その子どもが相宅才蔵なのですが、何かしら事情があったようで、才蔵さんは幼児、紀見峠の岡家に預けられ、岡先生の祖父母の文一郎とつるのさんの手で育てられたということでした。相宅才蔵は後、相宅家の当主になり、泰子さんは相宅家に寄宿して堺の女学校に通った一時期がありました。そんなわけで相宅家と岡家は親戚筋になります。
 相宅才蔵の奥さんの姉が玉井家に嫁ぎ、そのお子さんが栄一郎さん。そのまたお子さんが節子さんで、節子さんが保田家に嫁ぎました。というわけで、少々遠い関係にはなるものの、紀見峠の岡家と桜井の保田家もまた親戚であることになります。そんなこともあって、保田先生はずいぶん早くから岡先生のお名前を承知していたということでした。

 数学の学会は例年、3月の末と9月の末に行われますが、この年の秋の学会の会場は東大の駒場キャンパスでした。それで、一応、学会に出席するという構えにして、前後にまたフィールドワークの段取りをつけました。おりしも学会の直前の9月27日に、京都ビルのホテル「グランピア」を会場にして「かぎろひ忌」の集りがありましたので、出席しました。例年の通りですと10月の「風日」の歌会を指して特に「かぎろひ忌」と呼んでいるのですが、この年はちょうど保田先生の17回忌にあたっていましたので、ゆかりの人々に幅広く声をかけ、大掛かりな集まりが実現することになりました。何か都合があって、9月の歌会が「かぎろひ忌」にあてられることになったのでしょう。
 久しぶりに栢木先生と補陀さんにお目にかかり、保田先生の奥様に御挨拶しました。同じテーブルでいっしょになった出席者の中に、和歌山から来たという梅田恵以子さんという人がいて、言葉を交わすと、昭和43年の秋に保田先生や岡先生たちといっしょに和歌浦に行ったということでした。龍神温泉の旅に同行したというのですが、この旅は二泊三日で、一日目の宿泊先は和歌浦の東邦荘という旅館でした。梅田さんは東邦荘で一泊しただけで、二日目の龍神温泉行には同行しなかったようですが、ともあれそんなわけでしばらく東邦荘でのあれこれのお話を拝聴するという恰好になりました。
 梅田さんの話によると、東邦荘の集まりに参加した人の中に高専の学生らしい若い人がいて、岡先生に向かって、搾取ということについてどう思いますか、と尋ねるという場面がありました。すると岡先生は、早口で何かを言い、それから、おまえ、死ね、死んでしまえ、と言って、学生を見据えたのだそうです。一同しーんと静まり返り、殺人でも起りかねないようなものすごい雰囲気になったということでした。ちょうど新宿で騒乱事件があったばかりですので、岡先生に影響があったのではないかというのが梅田さんの推定ですが、それからどうなることか思っていると、岡先生は一転して「やまとたける」の話を始めました。
 補陀さんと話をする機会がありましたので、龍神温泉の旅の話をうかがいました。一日目は東邦荘の運転手が運転する車に同乗して、補陀さんが岡先生御夫妻を駅にお迎えに行きました。二日目は一同、車で龍神温泉に向かったのですが、二手に分かれ、保田先生と胡蘭成たちは高野山経由、岡先生たちは田辺経由でした。宿泊先は「上御殿」という旅館で、そこに龍神綾さんというお嬢さんがいて、今は女将さんになっていて健在とのこと。その龍神綾さんが、土地の若い人たちが先生方のお話を拝聴したいと希望してる、ついては廊下で漏れ聞くのはさしつかえないでしょうか、と尋ねてきました。これは実現した模様です。
 こんなふうにお話をうかがっていると、龍神温泉の旅の様子がだんだん具体的に思い浮かべられるようになってきました。

 8月9日、大阪市福島区の地蔵寺を訪問しました。光明会とゆかりのあるお寺で、岡先生も何度か訪れたことがありますので、ともあれ出かけてみたのですが、応対に出た人は岡先生を知っているようでもあり、知らないようでもあり、なぜかまったく話が通じないという珍妙な事態に陥ってしまい、何も得るところのないままおいとましました。
 それから二週間ほど間があいて、8月も下旬に向かい始めたころ、21日にまず京都大学を訪問し、それから大阪の吹田の国際児童文学館に出向きました。京大では戦前の京都帝大の時代の面影を今に伝える文献群を閲覧したかったのですが、理学部でミニ博物館と銘打たれた小規模な展示を見たことと、附属図書館で『京都帝国大学一覧』『第三高等学校一覧』などを見た程度のことに終りました。本当は教養部の図書館の一室が三高資料室にあてられていて、三高とその時代に関連のある大量の文献が蓄積されているのですが、このときの訪問では気づきませんでした。
 大阪国際児童文学館の訪問の目的は、少年時代の岡先生が愛読したという童話集『お伽花籠』を閲覧することでした。あまり見かけない本なのですが、さすがに児童文学館と名乗るだけのことはあり、事前の調査でここに所蔵されていることがわかりましたので、実物を見に出かけたのです。その実物の『お伽花籠』をいよいよ手に取ってページを繰ると、序文と「はしがき」は紫色の文字、緒言は薄い緑色の文字で書かれているというふうで、きれいな本でした。序文、はしがき、それに緒言と揃っているところは大仰な印象もありましたが、花籠に相応しい豪華な感じでもありました。目次の文字は黒ですが、赤い線で枠が引かれていました。本文は黒字です。
 少年の日の岡先生の心情を深遠な喜びでいっぱいにしたという、「魔法の森」という作品もはじめて見ることができました。岡先生のエッセイでは著者は武田櫻桃となっているのですが、これは岡先生に特有の勘違いであることもわかりました。実際の作者は窪田空々で、杉浦非水が挿絵を添えています。武田櫻桃の作品は「錦太郎(にしきたろう)」というもので、挿絵は宮川春汀という人でした。コピーを入手したいと思い、所定の手続きをして児童文学館を離れました。
 当時のノートを見ると、翌22日にもう一度、京大の図書館を訪問していますが、特に目立った記事はなく、何のためにわざわざ再訪したのか、記憶にありません。8月のフィールドワークはこれで終りました。


 8月に入り、ぼくはまたフィールドワークに出かけました。8月8日、まずはじめに大阪の西天満小学校を訪問しました。前年の2月、一番はじめのフィールドワークのおりに大阪の天満宮の近辺の壺屋町の近辺を散策し、かつて岡先生が通学した菅南尋常小学校を見つけようとしたことがありました。そのおり菅南小学校が見つかりましたので、ここに違いないと思ったのですが、背景に複雑な経緯があったことにまでは思いが及ばず、ぬか喜びに終りました。それでも菅南尋常小学校の面影を今日に伝える基本資料は現在の西天満小学校に保管されていることがわかりましたので、訪問の機会を探っていたという次第です。
 フィールドワークも実際にはじめてみるととめどもなく規模が拡大するばかりで、簡単には収拾のつきそうにない様相を呈してきたのですが、この年の8月、心情が再び菅南尋常小学校へと傾きました。
 あらかじめ電話で訪問の意向をお伝えし、午後、西天満小学校に到着すると、播本校長先生が待っていてくれて、校長室でしばらく懇談しました。具体的に知りたかったのは岡先生のエッセイに出てくる二人の先生のことでした。ひとりは藤岡先生という人、もうひとりは唱歌の女の先生というばかりでお名前はわかりません。播本先生にそのように伝えると、先生は少時席を離れ、戸棚から古びた書類を束ねたものを持ってきてくれました。拝見すると、岡先生が通学した当時の菅南尋常小学校に関する諸事項が記載されていて、その中に諸先生の経歴があり、たちまち消息が判明しました。
 藤岡先生は大阪府出身で、明治21年5月3日生れ。明治43年10月15日、天王寺師範学校卒業して、同年10月18日、菅南尋常小学校に赴任しました。数えて24歳のときのことになります。岡先生のエッセイではフルネームはわからなかったのですが、はじめて藤岡英信先生とわかりました。
 「唱歌の女の先生」については、なにしろお名前がわからないのですから、少々まごつきましたが、何人かの有力な候補者のうち、木村ひで先生に間違いないと判断しました。木村先生は大阪府出身で、明治20年11月生れ。明治42年12月20日、菅南尋常小学校に赴任しました。師範学校出身ではなく、おそらく高等女学校出身と推定されました。
 西天満小学校に出かければ難なくわかることですが、そのような場所は世界中でここだけなのですから、どうしても足を運ばなければなりません。何事かを知ろうとするのであれば、フィールドワークはやはり不可欠な作業です。

 この年の6月と7月にはずいぶんあちこちに電話をかけました。当時のノートを見返してみると、内田仁さんと中央光明教会のほかに、下記のような電話先が記録されています。

広島市の公文書館、
奈良師友会、和歌山師友会、関西師友会
奈良市役所、奈良市教育委員会、
橋本市の北村市長の兄の北村暾(きたむら・とん)さん、
大阪の茨木市の如来光明会、甲子園の田中光さん(光明会の木叉上人のお子さん)、和歌山の池田和夫さん(光明会)、
日本郵船の九州支店、日本郵船横浜歴史博物館、神戸市立図書館、明石の兵庫県立図書館、
広島の牛田の早稲田神社、
伊豆伊東市の伊東市立図書館、
京都産業大学(北大の功力先生の晩年のお勤め先)、
奈良県立奈良図書館、同市立図書館、
旧制高等学校記念館

 それぞれ目当てがあっての調査のつもりだったのですが、次の調査につながるヒントが得られることもあれば、何も情報のないこともありました。和歌山にお住まいの池田和夫さんは早くから光明会の活動に打ち込んできた人ですが、池田さんには「梅ヶ畑の修道院」のことを教えていただきました。戦後間もないころ、梅ヶ畑の修道院ではしばしばお念仏のお別時が行われ、岡先生も何度も足を運んでいますので、どのようなところなのだろうと、前から関心があったのです。神戸の通照院の佐橋上人にお尋ねしたこともありました。
 佐橋上人にうかがった話と重なるところもありますが、池田さんの話では、梅ヶ畑の修道院を作ったのは恒村夏山で、お別時にはいつも200人以上も参集したとのことですが、恒村さんの没後、後継者の意向もあって取り壊されました。今は真宗のお寺が建っているそうです。梅ヶ畑はフィールドワークの対象となってしかるべき重要な土地なのですが、今日にいたるまでとうとう出かけていく機会に恵まれませんでした。修道院は今はないとうかがったことも、原因のひとつではないかと思います。
 恒村家では盛時には朝の3時から京都学生光明会の集まりがありました。聖護院の角の恒村医院は今もあり、内科の恒村麗子さんという医師が経営しているともうかがいました。すぐ近くに熊野神社がありますが、京大の近くでもあり、その恒村医院でしたら京都に出かけたおりに何度も見かけたことがあります。

 岡先生が粉河中学の生徒のころ、粉中には内田與八先生という英語の先生がいました。内田先生は寄宿舎の舎監でもありました。岡先生のエッセイにしばしば内田先生のお名前が現れますので、かねがね注目していたのですが、ここにきて思い立って山梨県の甲府にお住まいの内田仁さんに電話をかけました。内田仁さんは與八先生の四男で、歯医者です。
 6月14日はお留守でした。19日に再度お電話すると、今度はお話をうかがうことができました。與八先生は身延中学の初代の校長で、韮崎中学におつとめの時期もあったということでした。お子さんが7人いて、男の子が4人、女の子が3人ですが、もう亡くなった兄弟姉妹もいる中で、所沢に末娘の橋本さよさんが健在と教えていただきました。
 與八先生は徳島の阿波の出身で、男女4人ずつの兄弟が8人。明治14年のお生まれで、91歳で亡くなりました。その後、内田家は無人になりました。教え子たちが寄贈した久遠荘という茶室が母屋に隣接していて、岡先生の色紙が飾られていますが、そこもまた空き家です。四男の仁さんは同じ敷地に別個に家を建て、歯医者を開業しました。與八先生の見るところ、先生には定年があるが、医者には定年がないというので、医師になるようにとお子さんたちにすすめたのだそうです。
 これでまたフィールドワークの目標ができました。一度はぜひ甲府に出向きたいと思い、ともあれ所沢にお住まいの橋本さよさんにお手紙を書くことにしました。
 7月5日、大阪の大今里の中央光明教会に電話をかけました。岡先生が一時期、熱心に打ち込んでいたお念仏のことを知りたかったのですが、電話口に出た人が親切で、いろいろな話をしてくれました。岡先生が敬意を払っていた光明会の先達に清水恒三郎という人がいて、奈良の岡家には清水先生から岡先生に宛てたはがきや、岡先生が清水先生宛に書いた書簡の下書きが遺されています。清水先生は戦災にあってから各地を転々として、大阪の福島の地蔵寺に住んだこともありますが、後、昭和24 年ころ大今里に移り、中央光明教会を起しました。昭和30年2月、私が亡くなったら観音様になってこの地を守ります、と言って79歳で亡くなりました。そこで、観音様を建てて、今も祭っているということでした。
 岡先生が大今里にやって来たこともあります。清水先生を訪ねてきたのですが、柳行李の弁当をもっていたそうです。大今里にも出かけてみたかったのですが、ついいつい後回しになりがちで、大今里行は今も実現していません。

 平成9年初夏の札幌行の印象は非常に深く、後々まで記憶に残る旅になりました。飛行機ではなく、電車を乗り継いで札幌に向かいました。東北新幹線で東京から盛岡まで。深夜、到着し、盛岡で一泊し、翌日の早朝、盛岡を発ったのですが、札幌に到着したのはお昼すぎの3時をすぎたころでした。駅前に植物園があり、入り口に「北海道大学附属植物園」と刻まれたプレートが目に入りました。よく見ると、「北海道」と「大学」の間に隙間があり、文字が二つ、削除された痕跡が認められました。これは「帝國」の二文字に違いないと思いました。
 植物園を歩き、それから北大構内を一回りしました。札幌市内もずいぶん歩き回りました。古書店では、往年の札幌の喫茶店の数々を紹介する小冊子を見つけました。北海道と札幌のことを知りたいと思い、北海道立文書館にも出かけてみましたが、たまたま古い官報を手に取ると、戦前の各種の学校の入学者の氏名を掲載するページが見つかりました。これは札幌とは関係がないのですが、それなら岡先生が三高に入学したときのすべての同期生が判明するのではないかと思いました。この予想は的中しました。三高や京大の岡先生の同期生を知りたいと、かねがね望んでいたのですが、官報に出ていることは気づきませんでした。
 6月9日、札幌を発ち、東京に向かいました。それから帰省して、11日、再び上京。岡先生の妹の岡田泰子さんを訪ねました。泰子さんはこの年の4月10日、自宅を離れ、白山の特別養護老人ホーム「白山の郷」に移ったという消息を奈良で聞いていましたので、御様子をうかがいたいと思ったのです。
 泰子さんはお元気で、かつて紀見村ですごしたころの思い出を話してくれました。柱本小学校には紀見峠から「馬転がし坂」を降りて通いました。北村赳夫さんと同級生で、いっしょに通学しました。雷が鳴ると、おそろしくて坂を駆け上がり、北村家にかけこんで「かや」に入りました。そんなとき、赳夫さんは待っていてくれればいいのに、どんどん先に行ってしまいました。
 岡先生も泰子さんも始終、北村家に行って、ご飯を食べたり、お風呂に入ったりしました。岡先生は柱本尋常小学校を出た後、紀見高等小学校に通ったのですが、通学路は巡礼坂でした。泰子さんは天見の相宅家から堺の女学校に通ったのですが、祖父の文一郎さんが亡くなると、祖母のつるのさんが、さびしいからもどってくるようにと言ってきました。そこでまた岡家にもどり、紀見峠から天見に降りて通学しました。お父さんの寛治さんと岡先生が送り迎えをしてくれました。
 岡先生と泰子さんは結婚式が同じ日で、大正14年の4月1日だったのですが、日取りが決まったのは別々だったところ、たまたま日が重なりました。そこでお父さんの寛治さんは4月1日には岡先生の結婚式に出て、それから上京して泰子さんの嫁ぎ先の岡田家に挨拶しました。こんな話のあれこれをしばらくうかがいました。泰子さんにとってはもう何十年も昔のことになる思い出の話です。


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