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 オイラーが要約したファニャノの諸結果のうち、レムニスケートに関するものは広く知られているのではないかと思います。要約の第二番目、すなわち「レムニスケートについては、等しいか、もしくは一方が他方に対して比率2をもつような二つの弧を与えること」というのは、レムニスケートの弧を任意に指定するとき、それと同じ長さをもつもうひとつの弧(その弧は、与えられた弧とは別の始点を設定して描きます)、および2倍の長さをもつ弧(その弧は、与えられた弧と同じ始点から出発して描きます)を与えることを意味しますが、二倍化された弧の方を既知と見て方程式を解くことにより、「任意に指定された弧を二等分すること」もまた可能です。この始点を押し進めていくと、第三番目の指摘、すなわち「2以外の相互比をもつ弧を指定する方法」に到達します。もう少し具体的に言えば、ファニャノは「2以外の相互比」として「3」と「5」を取り、レムニスケートの第一象限内の部分(以下、「四分の一部分」と略称します)を三等分する方法と五等分する方法を発見したのでした。これらの発見を、任意の弧の二等分が可能という事実と組み合わせると、次のような言明が可能になります。

《第一論文においてレムニスケートの四分の一部分を二等分する方法を示したが、この論文の問題Iと問題IIでは、同じ四分の一部分を三等分する方法と五等分する方法を発見した。このことから明らかになるように、上記の問題?の解決により、レムニスケートの四分の一部分は三通りの式、すなわち2×2^n 、 3×2^n 、 5×2^nという形の式で表される個数だけの部分に、代数的に等分可能である。ここで、冪指数mは任意の正整数を表す。》

 これはファニャノの論文
 「レムニスケートを測定する論文 第二論文」
の末尾に出ている言葉ですが、このようなめざましい事実を指摘したうえで、ファニャノは
   「これは私の曲線の新しくて特異な性質である」
と魅惑的な一語を言い添えました。後年、ガウス、アーベルによる楕円関数の等分理論の端緒を開くことになる大きな発見です。ではありますが、オイラーの積分論に影響を及ぼしたのはこれではありません。
 オイラーによる要約を再読すると、ファニャノにはもうひとつの発見があると言われていることに気づきます。それは楕円と双曲線を対象にするもので、これらの曲線の二つの弧を適切に提示すると、それらの差を「幾何学的に」指定することが可能になり、しかもそのような二つの弧は無数に提示することができるという事実です。この発見を記述したのが、ファニャノの論文
「楕円、双曲線およびサイクロイドの弧の新たな測定を取り出すことのできる一定理」
です。
 二つの弧の差を「幾何学的に」指定できるということの意味を明らかにしなければなりませんが、ファニャノの言葉をそのまま引けば、おのずと諒解されると思います。上記のファニャノの論文にはただひとつの主定理が提示されていて、それを双曲線、楕円、サイクロイドに対して次々と適用すると、上述したの通りの数学的状勢が現れます。主定理は次の通りです。

定理 下記の二つの多項式XとZにおいて、また方程式(1)において、文字k、 l 、 f、 gは任意の定量を表すとする。
 第一に、もし方程式(1)において冪指数sが+1を表すなら、二つの多項式の結合X+Zの積分は-h x z/√(−f l)に等しい。
 第二に、もし同じ方程式(1)において冪指数sが-1を表すなら、X+Zの積分はx z √(-f l)に等しい。
 (X) dx√(h x^2+l)/√(f x^2+g)
 (Z) dz√(h z^2+l)/√(f z^2+g)

 (1) (f h x^2 z^2)^2+(f l x^2)^2+(f l z^2)^2+(g l)^2=0

 この事実それ自体は簡単な微分計算で確かめられますが、どうして発見することができたのかと問うとみると、ファニャノ本人以外の人にはだれも答えられません。オイラーはこのような命題を指して、アプリオリな根拠を欠く経験的観察事項と評したのでした。
 ファニャノの影響を受けて執筆されたオイラーの二篇の論文のうち、最初の論文[E252]の書き出しの部分は次の通りです。解析学の重要さが指摘されています。

《数学の諸考察は、もしそれらの有益さに目を留めることにするならば、二通りのグループに分けなければならないように思われる。第一のグループには、ひとつには日常の生活のために、またひとつには、わけても他の諸学問のために数々の著しい利益をもたらしてくれる諸考察を所属させるのが至当であろう。そのために、それらの考察の値打ちは、その利益の大きさに基づいて判断される習わしになっているのである。他方、もうひとつのグループには、決して顕著な利益を伴うわけではないが、それにもかかわらず解析学の領域を拡大するために、また、われわれの生来の資質を高めるためによいきっかけを与えてくれるような諸考察が含まれている。実際のところ、解析学が衰退するというだけで、その代償として、大きな利益が期待されるきわめて多くの研究の放棄を強いられることになるのである。それゆえ、解析学のあなどるべからざる進展を約束する諸考察を基準にして、少なからざる価値の判断がなされるべきなのではないかと思う。ところが、この目的にとっては、ほとんど偶然になされて、また経験を通じて発見された諸観察、それらに到達するべきまっすぐな道筋を通じてのアプリオリな理由づけがほんのかすかにしか、あるいはまったく認められないような諸観察が、とりわけ適切であるように思われる。もちろん、すでに知られている事実に関しては、そこにまっすぐに導いてくれるいろいろな方法により、いっそう容易に調べることができるであろう。他方、探究されるべき新しい方法により、解析学の領域が適度に、もしくは十分に拡大されるということが起らないとも思われない。》

 この長い前置きの眼目は、「この目的にとっては、ほとんど偶然になされて、また経験を通じて発見された諸観察、それらに到達するべきまっすぐな道筋を通じてのアプリオリな理由づけがほんのかすかにしか、あるいはまったく認められないような諸観察が、とりわけ適切であるように思われる」という所見を表明するところに認められるように思います。大きな進展の端緒が開かれるためには、個々の数学的発見が重要であるというのですが、明らかにファニャノの発見を念頭に置いてなされた発言です。ファニャノの発見にはアプリオリな根拠はありませんが、それでもなお解析学の進展のための第一着手を与えてくれるというのです。岡潔先生なら、この種の発見を指して「曠野に杭を打ち込むようなもの」と形容するところです。
 オイラーの言葉は続き、ファニャノの発見に寄せる関心の所在が具体的に語られていきます。

《ところで、私は最近刊行されたファニャノ伯爵の著作の中で、確実な方法でなされたのではなく、また、その理由づけは奥深く隠されているように思われる観察をいくつか見いだした。それゆえ、それらの観察はありとあらゆる注目に値するとみなされてしかるべきであるが、他方、それらの観察のいっそう立ち入った究明に費やされて実を結ばずに終った努力は、公にされるべきではないであろう。ところで、この本では、楕円、双曲線、それにレムニスケートが備えている二三の著しい性質が語られて、これらの曲線の相異なる弧と弧が相互に比較されている。それらの性質の根拠は奥深く隠されているように思われるのであるから、私が深い関心を寄せないとは全く信じられないことである。もし私がそれらをいっそう注意深く調べたとして、それによって私の心がこれらの曲線にいっそう引きつけられることになったとするならば、私はその旨を人々に伝えたであろう。》

《まず第一に、これらの曲線に関する限り、それらの求長は解析学のあらゆる手段を越えている事柄であって、それらの曲線の弧は代数的に表現されえないばかりではなく、円や双曲線の求積法に帰着させることもできないことはよく知られている。ファニャノ伯爵は、楕円と双曲線については、それらの差を幾何学的に指定することができるような二つの弧を無限に多くの仕方で提示することが可能であることを発見している。また、レムニスケートについては、等しいか、もしくは一方が他方に対して比率2をもつような二つの弧を無限に多くの仕方で与えることができることを発見し、そのことから次々と、やはりこの曲線において他の相互比をもつような弧を指定する方法を得ている。ファニャノ伯爵がどのようにしてこれらの事柄を発見したのかということについては、むしろ不思議なことと思わなければならない。》

《楕円と双曲線に対しては、確かに、私はこれ以上究明を進めることはできない。それゆえ、私はそれらの差を幾何学的に示すことが可能であるような弧と弧のいっそう容易な構成を与えたことで満足するであろう。だが、レムニスケートに対しては、同じ歩みを押し進めて、決して無数というわけではないが、はるかに多くの公式を私はみいだした。それらの公式の助けを借りて、私は、等しいか、あるいは相互比2をもつような二つの弧を無限に多くの仕方で定めることができるばかりか、どのような相互比をもつ二つの弧を定めることもまたできるのである。》

 このような序文に続いて、オイラーは本論へと歩を進めます。本論は三部に分かれ、
I  楕円
II  双曲線
III レムニスケート
というふうに、三種類の曲線が次々と取り上げられていきます。究明の目標は序文に明記されている通りですが、これらの曲線の求長、すなわち弧長の算出は解析学のあらゆる手段を越えているとオイラーは述べています。弧長を表す積分、すなわち弧長積分を書き下すことは可能であっても、それらの積分を「代数的に」表示することはできないという意味の数学的事実の指摘ですが、そればかりではなく、「円や双曲線の求積法に帰着させることもまたできない」とオイラーは言い添えました。これらは周知の事実として、オイラーが要約するところによれば、ファニャノは、
(1) 楕円と双曲線については、それらの差を幾何学的に指定することができるような二つの弧を無限に多くの仕方で提示することが可能であること
(2) レムニスケートについては、等しいか、もしくは一方が他方に対して比率2をもつような二つの弧を無限に多くの仕方で与えることができること
を示し、レムニスケートについてはなお一歩を進めて、
(3) 2以外の相互比をもつ弧を指定する方法
を手に入れました。オイラーはそのように要約したうえで、「ファニャノ伯爵がどのようにしてこれらの事柄を発見したのかということについては、むしろ不思議なことと思わなければならない」というのでした。どうしてこのような発見に到達したのかというところまではわからないものの、これらは何かしら大きな数学的領域の糸口であることを、オイラーは洞察したかのように受け取れる文言です。しかも、そのオイラーの直観や洞察にも、アプリオリな根拠があるわけではありません。
 昨年11月、「岡潔先生を語る」という通し標題のもとで書き始めた連載も、第93回まで進んだところで一段落した恰好になりました。正確に数えてわけではありませんが、400字詰原稿用紙に換算してざっと500枚ほどの分量です。これを素材にして、全体の構成を再考し、300枚程度を目安にして一冊の作品を仕上げたいと考えています。
「オイラーを語る」に立ち返ると、昨年11月16日付の記事「レムニスケート積分」を最後にして、中断されたままになっています。レムニスケート積分は近代数学史上で重い意味を担うことになった積分です。後にガウスとアーベルを語る機会が訪れたおりに詳しく語りたいと考えていますが、レムニスケート曲線とレムニスケート積分と聞いて真っ先に思い出されるのは、アーベルの名であろうと思います。アーベルはノルウェーの生んだ数学の英雄で、首都オスロにはアーベルの銅像があり、その台座にはレムニスケート曲線が描かれているということです(実物を見たことはありません)。
 アーベル以前にさかのぼると、レムニスケート曲線とゆかりの深い数学者として思い当たるのは、ヨハン・ベルヌーイとファニャノです。ファニャノは1682年12月6日にイタリア中部の町シニガリアに生れた人ですが、イタリアの貴族だったようで、オイラーも「ファニャノ伯爵」と敬称をつけて呼んでいます。シニガリアは現在のマルケ州アンコーナ県のコムーネ「セニガリア」に該当します。1750年,68歳のファニャノはそれまでに蓄積された論文をとりまとめ,
 『数学論文集』(全二巻)
を刊行しましたが、この書物に添えられたファニャノの肖像画を見ると、小さな紙片を手にしているのですが、その紙片にはレムニスケート曲線が描かれています。はじめてこれを見たときは意表をつかれました。レムニスケート曲線はファニャノのお気に入りの曲線だったのです。
 ファニャノの数学論文集に収録されている諸論文のうち、ここでは次に挙げる5篇の基礎的論文に着目したいと思います。

1.楕円,双曲線およびサイクロイドの弧の新たな測定を取り出すことのできる一定理
2.レムニスケートを測定する方法 第一論文
3.レムニスケートの測定に関する第一論文への補足
4.レムニスケートを測定する方法 第二論文
5.主三次放物線の弧の新たな測定の仕方を見つける方法

 1751年、ファニャノは数学論文集をベルリンのオイラーのもとに送付しました。そのころオイラーは微分方程式の積分の問題で行き詰まっていたのですが、ファニャノの論文集がよい刺激となって2篇の論文を執筆し、眼前の壁を超えることに成功しました。それらの二論文は次の通りですが、どちらもオイラー全集,第一系列,巻20に収録されています。

1.[E251]微分方程式m dx/√(1-x^4)=n dy/√(1-y^4)の積分について
初出はペテルブルグ帝国科学アカデミー新紀要6(1756/7年。1761年刊行)、 37-57頁。オイラー全集、第一系列、巻20、58-79頁.1753年4月30日,ペテルブルグのアカデミーに提出されました.
2.[E252]求長不能曲線の弧の比較に関するさまざまな観察
初出はペテルブルグ科学アカデミー新紀要6(1756/7年。1761年刊行)、 58-84頁。オイラー全集、第一系列、巻20、80-107頁。1752年1月27日、ベルリンのアカデミーに提出されました。

 エネストレームナンバーは初出誌への掲載順に割り当てられているのですが、実際に執筆されてアカデミーに提出された順序は逆で、[E252]の方が[E251]より先です。[E252]の提出日は1752年1月27日ですから、前年、ファニャノの論文集を受け取ってすぐに想を得て、書き始めた様子がうかがえるように思います。
 オイラーの第一論文[E1]のタイトルは「抵抗媒質内での等時曲線の作図」というもので、1826年の「学術報告」誌上に掲載されました。361頁から363頁まで、わずか3頁の短篇です。「等時曲線は英語で表記すると"isochronous curves"となりますが、ファニャノの言葉に見られる「イソクロナパラケントリカ」とおおよそ同じもので、変分計算に現れる曲線です。イソクロナパラケントリカにはよく、測心等時曲線という訳語があてられます。1826年といえばオイラーはまだ19歳ですが、数学者としての出発点に変分計算があったという事実は注目に値すると思います。
 さて、ファニャノによると、イソクロナパラケントリカの作図のためにベルヌーイ兄弟がレムニスケートの弧を利用したという事実があり、レムニスケートが有名になったのもそのためだということです。レムニスケートは方程式
(1)  x^2+y^2=a√(x^2-y^2) (aは定量)
により規定される曲線で、算用数字の「8」を横にした形のようでもあり、無限大記号∞のようでもあります。x-y座標が指定された平面上にレムニスケートを描くと、記号∞のまん中の結び目の点が、ちょうど原点の位置に対応します。x軸に関してもy軸に関しても対称的です。そこでx-y平面の四つの象限のうち、第一象限内に配置されている弧を考えて、原点O=(0,0)から、この弧の上の任意の点P(x,y)に向かって弦OPを引き、その長さをrで表すと、(弦OPではなくて)弧OPの長さの方は、積分
(2)  ∫[0→r](a^2dr)/√(a^4-r^4)
で表されます。これが「レムニスケート積分」です。この積分は、微分計算によりレムニスケートの線素、すなわちレムニスケート曲線の無限小部分の長さdsを算出することにより手に入ります。ファニャノもオイラーもベルヌーイ兄弟もみな知っていたことですが、ここではアーベルにならって弧長積分(2)を導いてみたいと思います。
 状勢を多少とも簡易化して計算を進めるために、a=1としてみます。極座標
(3)  x=r cosθ、 y=r sinθ
を導入し、これをレムニスケートの方程式(1)に代入すると、
(4)  r=√(cos 2θ)
という方程式が得られます。これが、レムニスケート曲線の極方程式です。直交座標(x,y)と極座標(r, θ)の関係を与える方程式 (3)を微分すると、
(5)  dx=cosθdr-r sinθdθ、dy=sinθdr+r cosθdθ
(6)  dr=(-sin 2θdθ)/√(cos 2θ)、dθ=(-dr√(cos 2θ))/sin 2θ
となり、微分dx、dyとdr、dθの間の関係が判明します。これを用いてレムニスケートの線素を算出すると、
(7)  (ds)^2=(dx)^2+(dy)^2=(dr)^2+r^2(dθ)^2
     =(dr)^2×(1+(r^2 cos 2θ)/(sin 2θ)^2)
となります。ここで、r=√(cos 2θ)より、
  (cos 2θ )^2=r^4、
  cos 2θ=r^2、
  1-(cos 2θ )^2=1-r^4=(sin 2θ )^2。
よって、
(8)  (ds)^2=(dr)^2(1+r^4/(1-r^4))=(dr)^2/(1-r^4)
と計算が進み、極座標による線素の表示式
(9)  ds=dr/√(1-r^4)
が手に入ります。これはアーベルの論文「楕円関数研究」に出ている計算ですが、積分計算の基礎は微分計算にあることがよくわかります。

ライプチヒ論文集

 岡潔先生の人生と学問をテーマにして一冊の小さな書物を書くことになりましたので、この機会に岡先生の生涯と学問を回想し、心に浮かぶあれこれをつれづれなるままに書き綴ってみたいと思うようになりました。オイラーの物語は目下、ファニャノとオイラーの出合いの情景を語ろうとしつつあるところですが、ここを起点としてルジャンドル、ガウス、アーベル、ヤコビと続く楕円積分論、楕円関数論の大河が流れていくのですから、道の半ばにさしかかってなお到達点が見えないという状態です。オイラーと平行して岡先生を語りたいのですが、毎日のことですので片方に偏してしまうかもしれず、どのようになるのやら、ぼくもわかりません。ひとつだけ前もって言えることがあります。それは、オイラーをどこまでも語り続けていくと、その先には必ず岡先生の姿が立ち現れて、結局のところ、オイラーの物語は岡先生を語ることに帰着されていくことになるという一事です。
 そんなわけですので、これからしばらくの間、「オイラーを語る」と「岡潔先生を語る」が二本立てで交互に進行することになります。全然別の話が入り交じり、筋道を追いにくくなりそうですが、二本の流れがいつか融合し、首尾よく大団円を迎える日が訪れたなら、ヨーロッパの近代数学史の成立と、日本の近代数学史のはじまりが同時に概観できる地点に立てるのではないかという想像にかられます。

閑話休題。オイラーの二論文の紹介に先立って、しばらくファニャノの発見について語りたいと思いますが、ファニャノの四論文のうち、第二番目の論文
  「レムニスケートを測定する方法 第一論文」
の書き出しの言葉は注目に値します。ファニャノは研究の動機を吐露して、こんなふうに語っています。

《二人の偉大な幾何学者、ベルヌーイ家のヤコブ氏とヨハン氏の兄弟は、1694年のライプチヒ論文集において見られるように、イソクロナパラケントリカを作図するためにレムニスケートの弧を利用して、レムニスケートの名を高からしめた。レムニスケートよりもいっそう簡単な何かある他の曲線を媒介としてレムニスケートを作図するとき、イソクロナパラケントリカのみならず、レムニスケートに依拠して作図することの可能な他の無数の曲線の,いっそう完全な作図が達成されることは明らかである。》

「ライプチヒ論文集」というのは、1682年にライプチヒでオットー・メンケ(Otto Mencke)が創刊した学術誌"Acta eruditorum(学術報告)"のことで、ドイツにおける学術誌の嚆矢です。掲載論文はみなラテン語で書かれ、全部で50巻まで続きました。ライプニッツが微分計算の方法を報告した一番はじめの論文

「分数量にも無理量にも適用される,極大と極小および接線に対する新しい方法.ならびに
それらのための特殊な計算法」

と、積分計算の原理を最初に報告した論文

「深い場所に秘められた幾何学,および不可分量と無限の解析について」

は、いずれも「学術報告」誌に掲載されました(微分計算の論文は1684年、積分計算の論文は1686年)。エネストレームナンバー「1」をもつオイラーの最初の論文[E1]が世に出る舞台になったのも、この「学術報告」でした。

 アーベルによれば、楕円関数のアイデアを数学に持ち込んだのは「不滅のオイラー」ということですが、このような言葉もまたぼくらの耳にいかにも謎めいて響きます。しかもオイラーにその契機を与えたのは、
   dx/√P(x)+dy/√P(y)=0
   (ここで、P(x)はxの4次多項式を表します)
というタイプの微分方程式の代数的積分に成功したことであるというのですから、オイラーはどのようにしてこの積分に成功したのか、具体的な経緯を知りたい気持ちに強く誘われます。実はオイラーは、微分方程式の積分の探究の途次、このタイプの微分方程式の積分のところで壁に突き当たり、行き悩んでいたのですが、1751年のある日、ベルリンに届いた書物を見てようやく愁眉を開きました。それは、イタリアの数学者ファニャノの『数学作品集』全二巻でした。
 ファニャノは1682年、イタリア中部の町シニガリアで生れた人で、貴族(侯爵)でした。独学で数学を学び、多くの論文を書き、1750年になって自費で『数学作品集』を刊行しました。1766年、生地と同じシニガリアで亡くなりました。シニガリアは、現在のマルケ州アンコーナ県のコムーネ(イタリアの自治体を構成する最小単位)でいうと「セニガリア」にあたります。
 ファニャノは自分の数学研究の成果を当代第一の数学者オイラーに見てもらいたいと願ったのですが、ファニャノの予測を越えて、オイラーの研究を大きく促進する働きを示しました。アーベルの言葉を思い合わせるならば、楕円関数論の誕生はオイラーにさかのぼるとして、そのオイラーに具体的な契機を与えたのはファニャノであったことになります。昨日、微分方程式
   dx/√(1-x^4)+ dy/√(1-y^4)=0
を例示して、その代数的積分
   x^2y^2+x^2+y^2-1=0
を提示しましたが、この積分を発見したのはファニャノです。簡単な積分ではありますが、オイラーは見つけることができなかったのです。
 オイラーに深い影響を及ぼしたファニャノの論文は次の4篇です。

「楕円、双曲線およびサイクロイドの弧の新たな測定を取り出すことのできる一定理」
「レムニスケートを測定する方法 第一論文」
「レムニスケートの測定に関する第一論文への補足」
「レムニスケートを測定する方法 第二論文」

 これらの4篇の論文を受けて、オイラーが執筆した論文は次の2篇です。

[E251]
「微分方程式(mdx)/√(1-x^4)= (mdy)/√(1-y^4)の積分について」
 ペテルブルグ科学アカデミー新紀要6、 1756/7年(1761年刊行)、 37-57頁。オイラー全集、第一系列、巻20、58-79頁。1753年4月30日、ペテルブルグのアカデミーに提出されました。
[E252]
「求長不能曲線の弧の比較に関するさまざまな観察」
ペテルブルク科学アカデミー新紀要6(1756/7年。1761年刊行)、 58-84頁。 オイラー全集、第一系列、巻20、80-107頁。1752年1月27日、ベルリンのアカデミーに提出されました。

エネストレームナンバーの順番とは逆に、先に執筆されたのは[E252]の方でした。

アーベルの言葉

 オイラーと微分方程式の話というと、アーベルの論文「楕円関数研究」の書き出しの部分の言葉が即座に念頭に浮かびます。アーベルは19世紀初期に活躍したノルウェーの数学者です。論文「楕円関数研究」は1727年と28年に、ドイツのベルリンでクレルレという人が創刊した数学誌「純粋数学と応用数学のための雑誌」、いわゆる「クレルレの数学誌」に掲載されました。こんなふうに書き出されています。

《長い間、幾何学者たちの注意をひいた超越関数は、対数関数、指数関数、それに円関数のみであった。そのほかの二、三の超越関数の考察が始まったのはごく最近のことにすぎない。それらの超越関数の間で、もろもろの美しい解析的性質のために、また数学のさまざまな分野における応用のためにも、楕円関数と名づけられる関数を区別しなければならない。このような関数のアイデアは、分離方程式
   dx/√(α+βx+γx^2+δx^3+εx^4)
    + dy/√(α+βy+γy^2+δy^3+εy^4)=0
が代数的に積分可能であることを証明する際に、不滅のオイラーによって与えられた。》

 ただこれだけの短い文章ですが、いくつかの不思議な言葉が散見します。「分離方程式」というのは、変化量が分離されているタイプの微分方程式、いわゆる変数分離型の微分方程式のことですが、微分dxとdyがはじめから分離した状態で、
(1)  dx/√P(x)+dy/√P(y)=0
という形で提示されるのはいかにも奇妙で、四半世紀の昔、はじめてここを読んだとき、非常に不可解な印象を受けました。それからだんだんと理解が進み、変な感じを受けるのは、今日の解析教程が教えているように微分方程式を「関数とその導関数」の世界において考えるからであること、オイラーのように「変化量とその微分」の世界に身を置けば、微分方程式をアーベルのように語るのは当然であることが諒解されるようになりました。次に、この種の微分方程式が「代数的に積分可能」という一語もまた非常に奇妙で、意味がつかめませんでした。これを理解するためのポイントはいくつかありますが、第一に、オイラーの「変化量とその微分」の世界では微分方程式の解は関数ではなく、変化量と変化量の相互を連結する関係式であることを認識すること、第二に、同じくオイラーの世界では微分方程式を解くことを「積分する」と言い、微分方程式の解は「積分」と呼ばれていることを理解する必要があります。今では明確にそのように言明できますが、そのためには長い時間をかけてオイラーに親しんでいかなければなりませんでした。逆向きに考えると、上記のアーベルの言葉は、オイラーの無限解析の世界の扉を開いてくれる恰好の鍵なのでした。
 微分方程式(1)の簡単な例として、
(2)   dx/√(1-x^4)+ dy/√(1-y^4)=0
を取り上げると、方程式
(3)   x^2y^2+x^2+y^2-1=0
は方程式(2)の解すなわち積分のひとつです。これを確かめるために方程式(3)の微分を作ると、
   2xy^2dx+2x^2ydy+2xdx+2ydy=0
よって、
(4)  xdx/(x^2+1)+ydy/(y^2+1)=0
という微分方程式が生じます。他方、(3)により、
(5)  √(1-x^4)=2y/(1+y^2)
     √(1-y^4)=2x/(1+x^2)
となります。これを(4)に代入すれば方程式(2)が得られ、(3)は(4)の解すなわち積分であることが判明します。方程式(3)はxとyの間の代数方程式ですから、(3)は(4)の代数的積分です。
 オイラー積分という数学用語は今日ではあまり見かけませんが、オイラー積分に該当するものとして、ベータ関数とガンマ関数が語られます。オイラー積分とはベータ関数とガンマ関数の別名と説明されることもしばしばです。ベータ関数というのは、
(1)   B(x,y)=∫[0→1]t^(x-1)(1-t)^(y-1)dt
という積分を通じて規定される二個の変化量xとyの関数のことで、この積分はx>0、y>0のときに有限確定値を保持します。また、ガンマ関数の方もまた積部分を経由して、
(2)   Γ(x)=∫[0→∞]e^(-t)t^(x-1)dt
と規定されます。この積分はx>0となるxの値に対して確定します。これらの関数を数学にはじめに導入したのはルジャンドルで、初出は

『積分計算演習』
"Exercices de calcul inteユgral sur divers ordres de transcendantes et sur les quadratures"

という大きな書物です。全三巻で、巻1の刊行は1811年、巻2は1814年、巻3は1816年に刊行されました。ルジャンドル自身はベータ関数そのものを提示したわけではなく、オイラーが記号(p/q)で表した積分を「第一種オイラー積分」と名づけました。ガンマ関数についても、ルジャンドルがそのように呼んでいたわけではなく、ルジャンドルによる呼称は「第二種オイラー積分」というものでしたが、第二種オイラー積分を表すのにギリシア文字ガンマの大文字「Γ」が使われていましたので、ルジャンドル以降、ガンマ関数という呼び方が定着しました。ベータ関数の方は、1839年になってフランスの数学者ビネ(Binet)が、論文
  「オイラーの定積分について」
   (エコールポリテクニク雑誌16、1839年)
において導入したのがはじめですが、少々形が違うだけで、第二種オイラー積分(p/q)と同じものです。ビネはベータ関数を表すのにギリシア文字ベータの大文字「B」を使うことを提案しました。自分の名前の頭文字のBを取り、それをギリシア風に発音したのです。ルジャンドルの歿後の出来事です。
 ルジャンドルがベータ関数とガンマ関数を導入したのはなぜかというと、オイラー積分の多種多様な世界を整理整頓し、見通しよくみわたせるようにしたいというところに真意がりました。オイラーが創ったオイラー積分の世界はよく整理が行き届いていて、別段、錯綜をきわめているというわけではありませんが、ルジャンドルはルジャンドルで、自分の流儀でオイラーを理解したかったのであろうと思います。このあたりはルジャンドルの学問の特徴で、数論でもそんなふうな仕事をやっていました。数学の諸領域で、オイラーを理解するために腐心したのです。
 「積分計算演習」に続き、ルジャンドルはすっかり構想をあらためて、

『楕円関数とオイラー積分概論』
"Traite' des fonctions elliptiques et des inte'grales euleriennes : avec des tables pour en faciliter le calcul numerique"

という本を著しました。またも全三巻に及ぶ大作で、巻1は1825年、巻2は1826年、巻3は1828年に刊行されました。
 ルジャンドルの二つの著作を見たいを思い、探したところ、「バシェのディオファントス」「サミュエルのディオファントス」、それにオイラーの変分計算のテキストのときと同様に、東京大学の大学院、数理科学研究科の図書館が両方とももっていました。国内ではほかに所蔵しているところはないと思いますが、このあたりは歴史の古い大学に独自の持ち味です。ところが、マイクロフィルムの作成を実際に申込んだところ、全部で3000頁を越えるため、おおよそ25万円ほどの費用がかかるとのことでした。それで少時ためらっていたところ、教えてくれる人がいて、『積分計算演習』はインターネット上の文書館「アメリカンライブラリーズ」にあること、『楕円関数概論』の方は同じくインターネットで「グーグルブック検索」を利用すれば見つかることが判明しました。すべての頁がpdfファイルの形で掲示されていて、簡単にダウンロードすることができ、印刷したところまずまず鮮明で、きれいに読み取ることができました。非常に印象の深い出来事でした。
 この種のサービスは近年、欧米では非常に盛んで、ゲッチンゲン大学のデジタル図書館にアクセスすれば、ガウス全集のすべての巻が入手できますし、ダ−トマス大学のオイラーアーカイブではオイラーのほぼすべての作品のオリジナルが手に入ります。グ−グルなどは欧米のすべての図書館の所蔵本の電子化を企てているという話を耳にしたこともありますが、このようなめざましい動きは何を意味しているのかと、大いに考えさせられました。

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 オイラーの心情のカンバスに「無限小の世界」がくっきりと描かれたこと、言い換えると、オイラーが「無限小の世界」というものに確固とした実在感を感じていたことに、疑いをはさむ余地はないと思いますが、このような通常の論理の世界を超越した観念が広く人々に共有されるか否かということになると、おのずと別の問題になります。一般的に考えると、このままの姿で共有されることはありえず、「無限小の世界」に寄せるオイラー自身の実在感はそれはそれとして、あくまでもこの世を統べる通常の論理の世界に身を置きながら数学的観念の世界におけるあれこれの事象が見えるようにするための、何らかの方便が工夫されることになるのではないかと考えられます。「無限小の世界」にまっすぐに移動するのに困難を感じるというのであれば、「極限移行」というアイデアが有効で、すでにオイラー自身、そんなことを口にしていました。無限小の階層を考える代りに、「限りなく小さくなっていくなり方の度合い」ということを考えたり、微分係数や定積分を極限の考えの上に組み立てたりするのは、どれもみな、この種の方便を望む心の産物です。オイラー以降、コーシーを経て、近代解析はこのような道筋に沿って進みました。いわゆる「解析の厳密化」もこの流れの中に発生した出来事で、実数論が生れたり、数学の基礎に寄せる深刻な関心が現れたりしました。
 ではありますが、数学的発見という見地に立てば風景は一変します。この世の論理の世界に留まる限り、どこまでもトートロジー(「AならばAである」というタイプの同語反復)が続くだけで、発見ということはありえません。数学の発展を促し、数学の根幹を作っているのは、ある特定の個人が発見した特異な数学的実在なのであり、その発見された何物かの存在を支えるのは、一番はじめに発見した人に固有の実在感のみにすぎません。オイラーの無限解析の場合で言えば、「無限小の世界」の発見と「無限小の世界」に寄せるオイラーの実在感が、よくあてはまります。そこで数学史の意義もおのずと明らかで、何であれ最初の発見者の発見に寄せる実在感に共鳴できるようになるか否かが、数学史を学ぶということの成否を判定する究極の基準になるのではないかと思います。
ライプニッツとベルヌーイ兄弟の数学的思索を受けて、オイラーが明確な自覚をもって発見したのは「無限小の世界」であったと思います。有限の世界に身を置く限り、無限小量は0としか見えませんが、ひとたび無限小の世界に移動するならば、そこにはいろいろなタイプの無限小量が存在し、大きな無限小もあれば小さな無限小もあるというふうで、いわば階層化されています。ライプニッツは微分計算の規則
   d(x+y)=dx+dy
   d(xy)=xdy+ydx
を書き下し、有限の世界から無限小の世界へと移る道筋を明示しましたが、無限小の世界そのものを自覚して見ていたのかどうか、遺されたものを読む限りでは判断しかねるところもあります。ベルヌーイ兄弟がライプニッツの思索をなお一歩進めたのは間違いなく、その足跡は、ヨハン・ベルヌーイの講義録やロピタルのテキスト『曲線の理解のための無限小解析』などを通じて具体的に遺されています。オイラーにいたり、「無限小の世界」のリアルな姿が明確に自覚され、無限解析もしくは無限小解析の根柢が定まりました。
 無限小の世界に移ると、曲線に接線を引いたり、弧長を算出したり、曲線で囲まれた領域の面積を求めたりする作業がごく簡単に遂行されます。平面上に、方程式
(1)  f(x,y)=0
で規定される曲線が描かれたとき、この曲線上の点(a,b)において接線を引くには、この方程式をそのまま微分します。これを実行すると、
(2)  Adx+Bdy=0
という形の微分方程式ができます。ここでAとBは関数f(x,y)の、それぞれx、yに関する偏微分係数を表します。そこで、AとBの点(a,b)における数値を取り、方程式
(3)  A(a,b)dx+B(a,b)dy=0
を作ると、これはdxとdyの関係を記述する一次方程式ですから、無限小の世界に描かれた直線の方程式にほかなりません。A(a,b)とB(a,b)が同時に消失する場合にはこの限りではありませんが、そのような場合というのは接線が存在しない場合ですから、考慮する必要はありません。そこで、この直線を「無限に延長して」有限の世界に及ぶなら、求める接線がおのずと描かれていくことになります。これが、ライプニッツが発見した万能の接線法の基本原理です。
 方程式(3)は曲線の弧長を求める計算にもそのまま使えます。点(a,b)において無限小の世界に移れば、提示された曲線は点(a,b)における接線そのものになります。そこで、点(a,b)を頂点のひとつとし、直角をはさむ二辺がdxとdyになる直角三角形を描くと、斜辺、すなわち接線の長さは、ピタゴラスの定理により、
(4) ds=√((dx)^2+(dy)^2)
  =√((dx)^2+(- A(a,b)/ B(a,b))^2(dx)^2)
  =dx√(1+(- A(a,b)/ B(a,b))^2)
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というふうに求められます。これはB(a,b)が0ではない場合の計算ですが、A(a,b)が0でなければ、同様の計算を繰り返して、dyを用いてdsを表示することもできます。この数値を曲線上の各点において算出しておいて、曲線上の任意の二点PとQを指定した上で、曲線に沿ってPからQまで「寄せ集めていけば」、PからQまでの弧長を表す数値が手に入ります。dsは「線素」と呼ばれることもあります。
 平面上に曲線を描き、その曲線で囲まれた部分の面積を求めるにも、無限小の世界への移行は有効です。面積を求めたいと思う領域をDとし、Dの各点において無限小の世界に移り、たとえば「縦×横」のように、さながら有限の世界であるかのように研鑽を進めて面積を算出します。dxとdyを二辺とする長方形を描けば、その面積は
(5)  dS=dxdy
で求められますから、これを領域Dの全体にわたって「寄せ集めていけば」、Dの面積を表す数値が求められます。dSはしばしば「面素」という名で呼ばれます。その際、寄せ集め方にはいろいろな工夫があり、たとえば円で囲まれた領域の場合などには、直交座標x、yの代りに、方程式
(6)  x=r cosθ、y=r sinθ
を経由して極座標(r,θ) に移るのがしばしば有効です。
 ピタゴラスの定理といい、「縦×横」といい、いったん無限小の世界に移った上で、有限の世界で通用するのも同じ計算を平然と遂行し、さてそれから有限の世界にもどろうとするところに、微分計算と積分計算の妙味があります。別々の歩みを歩んで微分と積分があるとき出会って無限解析が成立したというのではなく、微分も積分も結局のところ同じひとつの計算なのであり、無限小の世界に存在に強固でリアルな実感を抱き、有限の世界と無限小の世界を自在に往還できるようになることが、ライプニッツの無限解析をオイラーとともに理解したということであろうと思います。


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