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Author:オイラー研究所の所長です
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8月27日は数理研の研究会の最終日で、講演が四つありました。初日が8個、二日目と三日目がそれぞれ9個の講演が続き、みなさんだいぶお疲れのようでしたが、それでも四日目にも20名ほどの人が集りました。文献の指示がでたらめな講演がひとつあったのは残念でしたが、四日間を通じて和洋両洋の数学史の研究報告が続き、見るべきものがありました。
 来年は高木貞治先生の没後50年の節目の年ですので、四日のうちの一日を高木先生の特集日にあてて、関連する講演をそろえたらおもしろいのではないかというアイデアも出ました。講演のひとつはぜひ「評伝高木貞治」にしたいところですが、どなたか適任者はいないものでしょうか。
 今月は半ばに旅行に出てから旅の日が続き。もう二週間になります。数理研の研究会が始まってからはどうもゆとりがなく、ブログの更新もままならなくなってしまいました。本日29日は数学書房の数学講座があり、一連の予定はこれでひとまず完了しますので、明日からまた「情緒の数学史」に手をもどしたく思います。
京大数理研の研究会の三日目が終りました。これで26個の講演がすみました。今回は一番前の席にすわってすべての講演を聴いています。
二日目の25日の懇親会の会場は「がんこ高瀬川二条」でした。高瀬川のほとりで、復元された高瀬舟が浮んでいました。研究会はあと一日。残る講演は四つです。
研究会の終了後、東京に行き、29日、数学書房主催の数学講座に出席します。途中の休憩をはさんで90分の講義が三回という長丁場です。
数理研の研究会と数学書房の数学講座が終了をまって「情緒の数学史」の続きを書きます。

8月も末になりましたが、先日お伝えした通り、今週は週明けの月曜日24日から京都大学の数理解析研究所で数学史の研究集会が始まりました。京大の数理研は共同利用施設ですので、一年中、いつでも何らかの研究集会が行われています。
毎夏8月の数学史研究会は、発足当初は参加者もごくわずかで細々と行われていましたが、ここ数年はたいへんな盛況で、今回も30個の講演が揃いました。和算の講演が目立ちますが、ヨーロッパ中世の数学史もあり、ガウスもオイラーもあります。講演時間は40分程度になってしまうのがやや残念ですが、質疑応答も活発ですし、若い新人の参加者もいます。二日目の25日の夕刻には懇親会がありました。
 おもしろいことがありましたらまたお伝えします。

尾崎管理人から緊急事態を伝えるメールが届きました。下記の通りです。

(尾崎管理人からのメール)
(ここから)
先日私のパソコンがやられたのは外部からの攻撃だったようでその際HPのデータをアップするパスワードを抜き取られて好き放題やられてしまいました.とりあえずすべてのデータを消去しました.そして新しいドメインをとって昔のデータがフラッシュメモリに残っていたので少し手を入れてアップしておきました.まだどこか不都合があると思いますのであったら知らせてください.
 研究員blogにも書きましたが,所長blogのIDとパスワードがわからないのでこの文章を所長blogに載っけておいてください.
 色々トラブルがありHPのドメインを取り直しました.新しいアドレスは
http://leonhardeuler.web.fc2.com/
です.
(ここまで)

以上の要請がありましたので、取り急ぎお知らせします。開設以来3年になり、これまでのところ大きな事故もなくすぎたのですが、このたびのようなことが不意に起る可能性は絶えずつきまといます。すべてのデータを油断なくバックアップしておいてくれた尾崎管理人に感謝します。

 本年もすでに半ばをすぎ、梅雨の時期もとうに去って夏の日々が続く今日このごろですが、オイラー研究所は先月、三周年を迎えました。尾崎管理人の尽力により開設されたのは、平成18年6月17日と記録されています。開設当初の所員は所長と管理人の二人でしたが、まもなく名誉所長が就任し、だんだんと所員も増えてきました。
 名誉所員の鈴木先生は平山諦先生を師匠とする和算史の研究者で、本研究所にもしばしば長文の連載エッセイを投稿されています。フェローの三浦先生はヨーロッパ中世とアラビアの数学史の専門家です。エディターの和泉さんは書籍出版担当で、まもなく和泉さんが担当して、所員の西村さんが翻訳したコーシーの『解析教程』が刊行される見通しです。
 日々の数学的思索をいくぶん公に語る場所として、インターネット上の研究所のブログを活用するのはよい考えと思います。昨年秋には、岩波新書の一冊として
  『岡潔 数学の詩人』
が刊行されましたが、今月にもまた、筑摩書房の学芸文庫のM&Sシリーズの一冊として、
  『無限解析のはじまり わたしのオイラー』
が出版されました。どちらもオイラー研究所に連載した記事が下敷きになっています。
 オイラー研究所は公的資金により支えられた研究所ではありませんが、実体があり、生きています。日本の近代の文芸運動史上に現れた数々の同人結社はみな私的な集まりで、同人たちの発言の場として同人誌が発行されました。永遠に続く文芸同人結社はありませんが、三周年を迎えたオイラー研究所にはなお余裕があります。来月下旬には京都大学附属の共同利用研究施設、数理解析研究所で数学史の研究集会が行われますが、オイラー研究所の所員の参加者も多く、講演総数30件のうち、8件にのぼります。
 オイラー研究所への参加を大いに歓迎したいと思います。

熊本行の報告(3)

大学の諸問題
 大学で数学を学ぼうと志したほどの人が数学を嫌いなはずはなく、数学のどこかに魅力を感じていたに違いありませんが、大学に入学後、急速に数学から心が離れていく学生は少なくありません。講義に出てこなくなり、卒業にいたらずに姿の見えなくなる学生も非常に多く、大学側の悩みの種になっています。これは学部の学生の問題ですが、もうひとつ、大学院もまた志願者が極端に少ないという大きな問題を抱えています。大学院を修了しても、その後の進路が漠然として確信がもてないためという理由がしばしば耳に入りますが、当たっているところも確かにあります。
 それでも大学院の前期課程はようやく定員が満たされる程度の志願者がありますが、後期課程となると、志願者の総数は大きく定員を割り、その結果、ほとんど無試験入学のようになっているのが現状です。入学者を確保するための工夫はいろいろ試みられていて、たとえば、修了後の就職状況の改善をねらって、産学共同を強力に押し進めることなどはしばしば見受けられるところです。
 大学院の定員確保の問題は学問とは関係がありませんのでしばらく措き、数学から離れていく大学生が非常に多いのはなぜか、という問題を考えてみたいと思います。10年前、あるいはもっと以前から目立ち始めた現象ですが、大学で行われる数学の講義は年々易しくなり、年を追うほどに相次いで安直な教科書が出版されるようになってきました。数学のテキストであるにもかかわらず、詳しい証明を記述しないのはすっかり普通のことになり、代わって主流になりつつあるのはやさしい例題とその解法を中心に据える流儀です。すなわち、受験時代と同じ勉強法を大学でも取り入れようとする手法です。
 今日の微積分の記述では、極限や連続性などの概念規定にイプシロン-デルタ方式が不可欠ということになっているのですが、教えても歩留りが悪く、効果が上がらないというので、まったく無視するか、あるいはそのようなものもあると軽く触れる程度に留める傾向がほぼ定着しています。これはこれでやむをえない事情があってのことではありますが、このような数学には「数学の魅力」は失われていますから、数学はつまらない、という印象が強まるばかりです。これが、学生が数学から離れていく本当の理由と思います。

Math for teacher’s educationの提案
 大学で教わる数学には興味がもてないとしても、数学という学問から感受される神秘感が消失しなければ、本来の数学を求め続けようとする意志は生き続けます。数学の神秘感を保持し続けるにはどうすればよいのかといえば、受験問題の解き方そのものの中に、この問題を考えるヒントが宿っています。もう少し具体的にいうと、再現が不可能な解法を断然放棄して、ひとつひとつの問題の背景に広がる世界や根柢に横たわる土壌の姿を踏まえて解くようにしてほしい。高校生がはじめからそんなふうに解くのは困難ですから、高校の授業でそんなふうに教えてほしい。そのためには大学院を高校の先生たちに向けて開放してほしいと思いますし、先生たちも再び大学にもどって積極的に学んでほしい。おおよそこのような話をしました。
 今年から教員免許更新制が実施されることになり、35歳、45歳、55歳の教員は各地の大学で開かれる講習会に参加して、30時間の講習を受けなければならないことになりました。30時間程度の講習を受けてもいたずらにくたびれるばかりで意味はありませんし、そんなことをするよりも大学院に籍を置き、2年(前期課程)とか3年(後期課程)にわたって学び、論文を提出して学位を取得して現場にもどり、教育の現場に生かしてほしいと思います。
 熊本ではこんな話をして、高校の数学教育に寄せる大きな期待を表明してきました。「中高一貫」ならぬ「高大一貫」も重要な課題です。微積分のテキストなども、安直な例題集ではなく、数学の流れを踏まえて、生成過程が生き生きと伝わってくるようなものを書かなければならないと、このごろしきりに思います。

熊本行の報告(2)

情緒から生まれる数学
 ガウスは存在するともしないともつかない法則の存在を確信し、孤独な思索を続けましたが、若い日の予感はみごとに的中し、四次剰余相互法則の姿をとらえることができました。それを記述したのが1832年の第二論文ですが、1777年に生まれたガウスは、このとき55歳になっていました。平方剰余相互法則の第一補充法則を発見したのは17歳のときでしたから、この間、実に38年の歳月が流れています。このような法則が必ず存在するという、世界でただひとり、ガウスのみに固有の実在感が具現したのですから、「無が有を生む」とか、「心の世界から数学が生まれる」という言葉がぴったりあてはまる情景です。「数学は何を研究する学問なのか」という単刀直入な問い掛け、あるいはまた、数学はどこから生まれるのかという素朴な疑問に対し、ガウスの歩みは有力なヒントを与えてくれるように思います。岡先生にならって「心」を「情緒」と言い換えるなら、ガウスの情緒の世界から相互法則が生まれたというほかはなく、顧みてしみじみと心を打たれます。
 岡先生多変数関数論の領域で「ハルトークスの逆問題」という難問に取り組みましたが、岡先生は「リーマン予想」とか「ポアンカレ予想」のようなだれもが知る未解決問題に立ち向かったのではなく、みずから問題を造形したのでした。解けるとも解けないともつかない問題ですから、精密には問題とも呼べないかもしれないのですが、岡先生には多変数関数論の世界で何事かを明らかにしたいという理想があり、それを描写しようとするところに、ハルトークスの逆問題の意味がありました。解けると確信して思索を深めていくと、ずいぶん長い時間がかかったものの、それに、実際にはなお完全な解決とは言えないかもしれないものの、相当に大きな部分が本当に解けました。問題は解けてしまえば知的な普遍性を帯びますから、世界の数学者の共有財産になります。ですが、解けないうちは、この問題は岡先生の心の中に存在しているだけのことですから、岡先生の人生と運命を共にすることになります。次数が5以上の代数方程式の解の公式を見つける問題のように、何十年打ち込んでも解けないかもしれませんが、その場合には二通りの可能性が考えられます。すなわち、もともと解けない問題だったのか、あるいは、まだまだ思索が不足しているかのいずれかです。
 数学の問題は解けることもあれば解けないこともあります。解けたなら解けたなりに、解けないなら解けないなりに、いずれにしても成否を左右する根本的な理由があります。ガウスや岡先生が取り組んだ問題とまでいかなくても、受験問題といえども、この点に関する限り事情は同じです。ただし、受験問題の場合には「解けない」ということはありえません。

天の啓示
 ガウスの数論がガウスの情緒から生まれたのはまちがいないとしても、17歳のガウスの心に平方剰余相互法則の第一補充法則が現れたのはどうしてなのでしょうか。いかにも神秘的な現象ですが、かってな思いつきというのではなく、このあたりは「天の啓示」というほかはないところです。ガウスの心に芽生えた「天の啓示」は、どこまでもガウスひとりの思索の世界に所属しながら、しかもガウスの主観の産物ではない何物かであり、出所来歴をさらにたどれば、おのずと「数学の世界」が開示されるように思います。

数学の魅力
 熊本での講演の模様を報告しようとしたところ、おもわず岡先生やガウスの話に深入りしてしまいました。なんだか奇妙に成り行きになってしまいましたが、数学という学問の魅力の源泉を語ろうとしてこんなふうになったのです。数学には独特の魅力があり、人気があります。出版の世界では、物理や化学に比べて数学の本はよく売れると言われていますし、「数学セミナー」のような広い読者層を対象にした月刊の数学誌も出ているくらいです。ガウスや岡先生のように数学に向かうことはだれにもできることではありませんが、数学の世界にはそんな「創造のこころ」が充満しているのではないかという予感を抱き、心を惹かれる人は多いのではないかと思います。数学の魅力は非常に強く、単に魅力というだけでは足らず、魔力と言いたいほどの力があると思うこともあります。
 受験の数学の勉強には魔力はありませんが、数学は数学ですから、魅力がないことはありません。ぼく自身の経験でいうと、数学は何を研究する学問なのかがさっぱりわからず、この点において物理や化学とはまったく異なる印象がありました。それでも、数学という学問が存在するのはまちがいありませんし、数学を研究する数学者と呼ばれる人も存在するのですから、「研究の対象」の実在することに疑いをはさむ余地はありません。それが何なのか、さっぱり見当のつかないところが、かえって数学の魅力の源泉を作っていたように思います。数学の印象は、かすかに匂いをかいだだけですでにきわめて神秘的でした。

熊本行の報告(1)

数学の研究と教育をめぐって
 熊本からもどりました。熊本県下の高校の数学の先生たちが100名ほど集りました。講演90分。受験用の問題集に出ている問題には必ず解答がついていますが、「再現が不可能な解答」が目立つと最近強く感じていますので、問題集の模範解答とともに独自の解答を添えました。どのように解くのがよいのか、問題を提起したつもりです。成否はわかりませんが、非常に大掛かりな集会で、数学教育に向けて熱心な取組みが行われていることを知り、感慨がありました。
 岡潔先生は40年前に盛んに教育を論じました。人の中心は情緒であるという考えを基礎にして、数学教育のあり方を語っていましたが、それから40年、岡先生が理想とした教育は何一つとして実現していません。
 岡先生は三高の学生のとき、ポアンカレのエッセイを岩波文庫で読み、ポアンカレの語るリーマンの数学的思索の姿に深い感銘を受け、リーマンの続きをやる、と決意したということです。それから先の岡先生の人生にはいろいろなことが起りましたが、30代のはじめに多変数関数論に方向を定めた後は迷いがありませんでしたし、最晩年の未発表の一系の研究ノートには、実に「リーマンの定理」というタイトルが書き留められました。


ガウスの「青春の夢」の回想
 このあたりの消息はガウスにも認められます。ガウスは17歳のとき平方剰余相互法則の第一補充法則を発見下のですが、この法則は何かしら「大きなもの」の片鱗であることを即座に感知し、それから数論研究に心身を打ち込んでいきました。平方剰余相互法則の本体はすぐに見つかり、証明にも成功したのですが、基本原理を異にするいろいろな証明を探求し、長い時間をかけて7通り(数え方により8通りになります)もの別証明を発見しました。同じ定理の証明をどうしてそこまでして追い求めたのかといえば、ガウスの「青春の夢」に関連があります。17歳のガウスがまずはじめに発見したのは平方剰余相互法則のかけらにすぎませんが、その発見と同時にガウスの数学の魂が感知したのは、平方剰余の世界をはるかに超越した高次冪剰余の理論の世界であり、平方剰余相互法則のみならず、一般の次数の高次冪剰余相互法則の存在なのでした。
 西暦1795年の年初、世界でただひとり、17歳のガウスのみが高次冪剰余相互法則を感知し、存在することを確信し、法則の姿と証明を追い求めようとしました。平方剰余の場合の相互法則の証明を何通りも試みたのは、高次冪剰余相互法則の証明にも適用可能な力をもつ証明法を見つけようとするためで、このあたりの消息は代数方程式の解法理論がたどった道筋と酷似しています。代数方程式の場合には、3次と4次の方程式の解の公式は何通りもの仕方で導かれましたが、どのひとつも、5次以上の方程式の解法にはつながりませんでした。この場合には存在しないものを追い求めたのですから見つからないのは当然ですが、それでも、存在することを確信して多くの人々が探求したということはまちがいありません。高次代数方程式の解の公式は実は存在しないこと、すなわち、いわゆる「不可能の証明」がアーベルの手で遂行される前夜、ラグランジュは低次数の方程式の代数的解法についてそれまでに知られていたことのすべてを取り上げて省察し、低次数の場合にはどうして成功したのかという問いを問い、分析を試みました。冪剰余相互法則を追求するガウスの姿勢には、代数方程式論におけるこのような経緯のすべてが集約されているように思います。
 ガウスは平方剰余相互法則の7通りもしくは8通りの証明をひとりで発見しましたが、このあたりはカルダノの時代からオイラーにいたるおおよそ300年の数学史が想起されるところです。この間、ガウスの心の中では終始、ラグランジュの「省察」と同様の思索が繰り広げられていたことと推定されますが、この推定が正鵠を射ているであろうことは、数論の領域でのガウスの最後の論文を見ることにより確認されます。ガウスは1828年に
 「四次剰余の理論 第一論文」
という論文を公表し、次いで四年後の1832年には、
 「四次剰余の理論 第二論文」
を公表しました。ガウスは四次剰余相互法則の発見に成功し、この二篇の論文においてそれを表明したのですが、ただし、ここには証明は既述されていませんでした。もう一篇、第三論文を執筆して、そこに証明を叙述する考えだったようで、ガウスの遺稿の中に証明のあらすじを書いた紙片が存在します。それはガウス全集に収録されていますので、参照することができますが、平方剰余相互法則の証明のひとつと同じ原理に基づく証明です。ですが、この第三番目の論文はなぜか日の目を見ませんでした。意に満たない何物かがあったのでしょう。

学問が継承される姿
 ガウスに及ぼされたラグランジュの影響ということに、ここで特に留意しておきたいと思います。ラグランジュがしたことの個々のあれこれから具体的に影響を受けたというのではなく、そもそもラグランジュは相互法則とは無関係なのですから、ガウスにしてみればラグランジュを引用するべき場所はありません。ではありますが、代数方程式論の領域において明示されたラグランジュに特有の思索の様式、すなわち長い歳月にわたる数学の流れそのものに省察を加えるという流儀そのものが、数論の場においてガウスの心に深遠な影響を及ぼしたのは間違いのないところです。一流の師匠のわざを凡庸な弟子がまねるのではなく、真の数学者の資質をもつ者が、もうひとりの真の数学者に学んで数学者に変容するという、人から人へと学問が継承されていくときの真実相が、ここにありありと目に映じます。

三度目の熊本行

3月と4月に二度にわたって熊本に出かけましたが、縁あって三たび熊本に行ってきます。今回の目的は、熊本県下全域の高校の数学の諸先生と交流することです。講演会があり、それから懇親会。こちらからもちかけたい話もあれば、うかがいたい話もありますので、とても楽しみです。おもしろいことがありましたら、御報告します。

いつもコメントを寄せていただいてありがとうございます。宮崎兄弟資料館の見学はおもしろい体験で、収穫がありました。資料館で出している
 「夢 翔ける 宮崎兄弟の世界へ」
という冊子を買ってきました。テーマ別の論説集になっているのですが、個々の論説そのものはともかく、写真がたくさん掲載されていて、参考になります。
 論説のひとつは本田節子さんという人の「宮崎家の女たち」という一文に宮崎兄弟の母親の一面が紹介されていますので、ちょっと御紹介します。明治27年は日清戦争が始まった年ですが、これに合せて国民兵の募集の準備がすすめられていました。年が明けて、明治28年のお正月に荒尾の宮崎家に三人の兄弟が揃い、母を囲んで話をしました。三兄弟というのは、民蔵と滔天のほかにもうひとり、民蔵の弟で滔天の兄になる彌蔵を含めてそう言うのですが、彌蔵は翌明治29年に30歳で亡くなっています。父の長蔵はすでに世を去っていました。母はサキさんといい、このお正月の時点で66歳でした。
 さて、国民兵役のことが話題にのぼったときことですが、滔天が、
「国民兵に取られちゃかなわんばい。どうかして逃げようじゃないか。」
「早う逃げんとその場になっちゃ間に合わんぞ。」
と言いました。民蔵と彌蔵も同意しました。そこへサキさんが裂帛の気合いを込めて、
「黙れ!」
と一喝。怒りに身体を震わせて、
「女親だと思って馬鹿にして・・・。言い訳は聞かぬ。聞くのも汚らわしい。出て行け!百姓の子までお国のためと喜んで征くのに。己の子でない。この家の子でない。お前らを逐い出して割腹し、ご先祖父上に申し訳する。出て行け!」
と言って泣き伏したというのです。
 このエピソードにはまったく感心しました。宮崎兄弟も一兵卒ではつまらないと思ったのかもしれませんが、滔天もこのとき満23歳と若く、心根が定まっていなかったのでしょう。
 熊本は徳富蘇峰の故郷でもありますし、近々お会いしましたら大いに熊本を語り合いましょう。

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