奥西さんに梅田開拓筵の所在地と電話番号を教えていただきましたので、その日のうちにすぐに梅田さんに電話をかけたところ、受話器をとったのは梅田さん本人でした。岡先生の名前を出すとすぐに話が通じました。筑波開拓筵に通う若い人たちも多いのですが、その中に数学を志す人がいて、あるとき岡先生に数学を研究したいという希望を述べたところ、岡先生はにわかに興奮して、いきなり、数学なんか、ばかやろう、やめちまえ、と言ったとか。またあるとき、岡先生と電話で話をしていたときのこと、岡先生が、今すぐに来い、と言ったそうです。筑波山から奈良まですぐに来るようにというのですが、そのとき梅田さんは本当に奈良に出向いたのだそうです。すると岡先生は何も食べずにじっと待っていて、梅田さんが到着すると、ああ、やっと来た、待っていた、と言い、ほら、梅田さん、すみれが咲いてるよ、と話しかけたのだそうです。岡先生は神経痛だったという話もありました。
こんな話をうかがっているうちに、ぜひ梅田開拓筵に出向いてみたいという気持ちが起り、翌日うかがうことになりました。
8月28日、上野駅から常磐線に乗り、土浦まで行きました。土浦から先がよくわかりませんでしたので、駅前のタクシーに乗り、筑波山まで連れていってもらいました。筑波山には筑波神社がありますので、運転手さんははじめ、そこのことと思ったようですが、少し話すとすぐに意が通じました。梅田開拓筵の位置は筑波山の中腹で、筑波神社よりも少し下になります。
筑波山行はこれで二回目になります。一度目は大学の二年生のときで、父に連れられて途中まで登りました。大正2年生れの父は昭和18年6月に応召したのですが、南方の前線に出る出ないかといううちに戦争も末期に向かい、本土決戦の準備というので所属部隊が筑波山に移動しました。米軍の上陸地点の有力候補地のひとつを九十九里浜と想定し、筑波山に陣地を構築して迎撃するという方針だったようで、山のあちこちにいろいろな穴を掘ったのだそうです。その洞窟陣地を見物に行くというのでお供をしたのですが、実際に出かけてみると、洞窟の近くの田畑に大小の蛇がここかしこでちょろちょろとうごめいていて、危なくて近寄れませんでした。それでほうほうの体で退散したのですが、戦争中にも蛇はいたことでしょうし、当時は平然と穴を掘っていたということでしょうか。がまの油を売る店が何軒もありました。蛇とがまはお似合いの組合せです。
梅田さんは上機嫌で出迎えてくれました。サワズ株式会社という会社の社員のが何人か滞在していましたが、聞くと、泊まり込みで修業に来ているとのことでした。サワズは芸能プロダクションのようでもあり、出版社のようでもあり、このときの話ではよくわかりませんでした。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://reuler.blog108.fc2.com/tb.php/541-2e697c3d