中谷兄弟は岡先生の若い時期の親友でしたが、晩年の岡先生にも深いおつきあいのあった二人の友がいました。ひとりは保田與重郎先生、もうひとりは胡蘭成という中国人です。刊行されたエッセイ集などで見る限り、このお二人のことは岡先生もそれほど詳しく語っているわけではありませんが、ここかしこにお名前が散見しますので、心を惹かれてきました。昭和44年に学習研究社から『岡潔集』(全5巻)が刊行されたとき、全巻の解題を執筆したのは保田先生でした。
8月27日のお昼をすぎたころ、やはり群馬県からですが、京都の新学社に電話をかけて奥西保さんと話をしました。新学社は戦後まもないころ、保田先生のお弟子の奥西さんと、もうひとり、高鳥賢司さんが中心になって創設された出版社で、この時期には奥西さんは新学社の代表でした。
奥西さんに挨拶してすぐに話題になったのは梅田美保さんのことでした。梅田さんは筑波山の梅田開拓筵の筵主です。梅田開拓筵は正確に表記すると「とおかみ社梅田開拓筵」といい、梅田さんの御主人の梅田伊和磨という人が創始した古神道系の宗教組織です。梅田学筵と呼ばれることもありますが、これは梅田開拓筵に学校を作りたいという梅田さんのアイデアに由来する呼称で、梅田さんが構想する学筵には三人の教授がいることになっていました。ひとりは岡先生、もうひとりは保田先生、そして三人目は胡蘭成でした。
胡蘭成はかつて中国に成立した第二の国民政府、すなわち汪兆銘を主席とする南京の国民政府の創設に参加した経歴をもつ人ですが、本来はジャーナリストであろうと思います。戦後、汪兆銘の政府の崩壊を受けて中国共産党と蒋介石の国民政府の双方から漢奸として追われ、拘束されれば必ず処刑されるところ、日本に亡命して難を逃れました。中国各地を転々とした後、昭和25年、上海から香港に移り、香港から船で日本に向かいました。日本では福生に自宅がありましたが、昭和40年ころから梅田開拓筵に逗留することが多くなり、梅田さんの支援を受けて「斯道館」という勉学塾を主催しました。このころは梅田伊和磨は亡くなっていました。
ある時期から胡蘭成と保田先生が知り合いになりました。毎日新聞に掲載された「春宵十話」がきっかけになって保田先生と岡先生の出会いがあり、その保田先生の仲介を得て岡先生と胡蘭成の交流もまた始まりました。こんなふうに事が進展し、胡蘭成が主催する斯道館に岡先生と保田先生が参加して、梅田学筵という学校を建てたいというのが梅田さんのアイデアなのでした。岡先生も保田先生も筑波山を訪問し、講演をしたことがあります。
奥西さんによると、梅田さんは胡蘭成を通して岡先生と親しくなったということでした。また、保田先生と岡先生のことなら栢木さんに尋ねるといいというアドバイスをいただきました。湊川神社の吉田宮司に教えられた近畿迢空会の会長の栢木先生のお名前に、ここで再び出会いました。栢木先生と保田先生は父同士が友だちで、奥西さんは栢木先生と兄弟同様。桜井の山の方に住んでいるという話でした。
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