前回の記事で昭和18、19年ころの節子さんのお仕事に言及し、中島飛行機の寮母の仕事をしていたと書きましたが、少々補足すると、この時期の節子さんの所在地は群馬県ではなく、東京です。中島飛行機の創業の地は群馬県尾島町(現在は太田市)ですが、節子さんは花巻から上京し、荻窪にあった東京工場に勤務しました。
法安さんとは初対面の後も親しいおつきあいが続き、治宇二郎さんと節子さんの往復書簡をほぼすべて見せていただくまでになりましたが、それはそれとして、はじめてお会いしたおりに中谷芙二子さんの消息を教えていただいたのはうれしい出来事でした。芙二子さんは宇吉郎先生の次女で、東京の原宿で暮らしています。電話番号も教えていただきましたので、平成8年8月23日、ともあれ御挨拶をと思い、電話をかけました。広島で法安さんにお目にかかった後、東京に出たのですが、電話をかけたときは群馬県に移動していました。
電話の主旨はすぐに通じました。芙二子さんは岡先生と宇吉郎先生のことをよく承知していて、伝えたいことがたくさんありそうな雰囲気を感じました。昭和14年に新しい家を作ったという話がありましたが、宇吉郎先生はこの年の6月に昭和11年秋以来の伊豆伊東の逗留先を引き払って札幌にもどりましたので、そのとき新居を建てたということと思います。大阪に住んでいた母のてるさんも、このときいっしょに札幌に移りました。その札幌の家に離れに岡先生が住んでいたという話もありました。宇吉郎先生が引き取ったというのですが、これはおそらく昭和16年の秋から翌年9月にかけての一年ほどの間のことを指すと思います。この時期の岡先生は北大に勤務することになって紀見村から札幌に移り、荻野さんという人がやっている通称「おぎの」という下宿屋に滞在したのですが、実際には中谷先生のお宅にひんぱんに逗留しました。芙二子さんの目には、岡先生が同居していると映じたのでしょう。
その当時のことですが、岡先生は病院でも見放されていたほどで、正常と信じていたのは宇吉郎先生と秋月康夫先生のみだったという話もありました。岡先生の奥さんのみちさんが宇吉郎先生に手紙を書いて相談したとのことで、数十通の手紙が残されているとうかがいました。これには仰天し、いつか拝見したいと願うようになりました。
雪と氷の研究で名高い宇吉郎先生は寺田寅彦先生の系譜を継ぐ科学エッセイストでもあり、おびただしいエッセイを書き残しましたが、岡先生との交流の消息を伝えるエッセイは非常に少なく、ごくわずかな言及はあるにはありますが、ほぼ皆無です。これに対し岡先生のエッセイには宇吉郎先生がひんぱんに登場し、親しい交友の様子が語られていますので、なんだかバランスが悪く、不審でもありました。実際には宇吉郎先生は岡先生のことをこの世でもっともよく知る人なのですが、それにもかかわらず御自分ではほとんど何も語らないのは不可解で、何かしら深遠なわけがあるのではないかと推測されるところです。中谷家に残されている大量の書簡には、その間の経緯が記録されているのであろうと思われました。
第一回目の芙二子さんとの会話はこれ以上は深まらず、今後の課題に向けて示唆を受けただけで終りました。
ちょっと寄らせてもらいましたぁ〜
また、今度ゆっくり寄らせてもらいます。