節子さんの父親は相当に変った人のようでしたが、節子さんもまた変ったところのある人だったようで、三人の小さな子どもとともに自活するのは大きな困難が伴いました。盛岡医専のドイツ語の教師になるという話があったときは法安さんを連れて面接に出かけましたが、自分から辞退してしまいました。そのわけはといえば、応対した教頭先生が、給料をどのくらいにするかという話を始めたから、というのでした。お金のやりとりで動いていく俗世間が厭わしかったのでしょう。それでも花巻厚生病院の看護婦養成学校の教師になり、一般教養を教えました。宮沢賢治の研究サークルに加わった時期もありました。戦争たけなわの昭和18、19年ころは、群馬県の中島飛行機の寮母の仕事をしていました。
中島飛行機に勤務していたころ、昭和18年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島の将兵が全滅するという事件が起り、翌30日午後の大本営発表でアッツ島守備隊の玉砕が公表されました。この悲報に接した節子さんは「アッツ島の将兵に捧ぐ」という一文を書いて新聞に投稿し、掲載されたと法安さんにうかがいました。記事のタイトルは正確ではないかもしれません。また、掲載誌は全国紙ではなく、たしか岩手県の地方紙だったと思うとのことですので、まだ花巻で暮らしていたころのことかもしれません。ぼくはこの話に強く心を惹かれました。節子さんの人柄を知る貴重な書き物と思い、読んでみたいと願っているのですが、まだ実現していません。
治宇二郎さんは洋行先のパリから故国の節子さんに宛てておびただしい手紙を書き続け、節子さんもまたひんぱんに返信しました。まるで手紙を書くために生れてきたかのようだと法安さんはいうのですが、法安さんが保管している書簡の山を見せていただいて、ぼくも感慨があり、法安さんの心事に心から共感を覚えました。治宇二郎さんは考古学者で、その方面の著作も何冊もあり、著作の元になった原稿や書物には収録されていない書き物の原稿がたくさんありました。行李にいっぱいになるほどの分量だったというのですが、節子さんは三人の子どもとともに遺稿の詰まった行李もいっしょに移動して、戦中の困難な時期を乗り切りました。ところが、昭和28、29年ころ、何をどう思ったのか、心境が変化したのでしょう、せっかく守ってきた遺稿を燃やしてしまったのだそうです。この話には胸をつかれました。
それでもなお残された原稿もあり、それらは法安さんが保管しているのですが、ただ保管するばかりではなく、整理して書物の形にして出版するという作業を続けてきました。ぼくが入手した『考古学研究の道 科学的研究法を求めて』(渓水社)はそれらの一系の遺稿集の一冊です。
節子さんは昭和55年に東京で亡くなりました。その前年には、法安さんの妹の洋子さんが亡くなっています。洋子さんは治宇二郎さんがパリに向かう直前に生れた人で、お名前の洋子さんの「洋」の一字は洋行の「洋」のつもりなのでした。
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