治宇二郎さんがフランスに向かったのは法安さんが生れて間もないころでしたので、法安さんは父親の印象を知らないで育ちました。はじめ母の節子さんとともに盛岡で暮らし、幼稚園も盛岡でした。昭和8年の秋、節子さんが治宇二郎さんの看病のため由布院に行くことになりましたので、法安さんと妹の洋子さんは岩手県和賀郡小山田村の節子さんの実家に移りました。小山田村はその後、和賀郡東和町になり、それからさらに合併が進み、現在は花巻市の一区域になっています。
法安さんが東京の千駄木で岡先生に会ったとき、一歳になるお子さん(女の子)がいたのですが、一歳になってもまだ歩けず、一歳二ヶ月になってようやく歩き始めたというので気をもんでいたそうです。近所には10ヶ月で歩いている子もいるというのに、遅すぎるのではないかと思い、心配になったというのですが、この話を岡先生にしたところ、岡先生は急にご機嫌が悪くなりました。岡先生は、歩ければそれでいい、ときっぱりと言い、さらに言い添えて、人間なら15ヶ月で歩き出すのが普通だ、今は牛乳などを飲ませているから人がけだもの並になっているのだ、というのでした。これには法安さんもびっくりしたそうです。
岡田家の玄関にはぴかぴかの長靴と傘がありました。
治宇二郎さんは昭和11年3月22日に由布院で亡くなり、節子さんは遺骨とともに小山田村にもどりました。後年、節子さんに聞いたところでは治宇二郎さんはわがままなところがあり、冬なのにアイスクリームを食べたいと言い出したりしました。それで節子さんは恭子さんを連れて外に出て、アイスクリームの材料をかき回して雪の中で作ったそうです。
節子さんの実家は菅原家といい、中谷家や岡家と同様、大地主でした。治宇二郎さんと節子さんが結婚したころは菅原家から毎月100円の仕送りがありましたので、生活に余裕があり、女中を使っていたそうですが、そうこうするうちに菅原家が破産の危機に直面するという事態になったため、送金ができなくなりました。節子さんの父は変った人で、慶應大学の理財科に進んだはずなのに、なぜか物理学科の卒業証書をもち、ござをかぶって、まるで「ほいと(乞食)」のような恰好で小山田村にもどってきたのだとか。それで、治宇二郎さんの没後、節子さんはいつまでも実家の世話になるわけにもいかないことになり、二人の子どもとともに家を出て自活の道の模索を始めました。
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