『シュヴァルツ解析学』の微分法はわかりにくくて弱りましたが,それでいて記述の仕方は非常に明晰でした.複雑で難解な諸概念も正確に定義が記されていましたし,諸定理の証明も懇切でした.ただし,証明が煩雑な定理については「証明しない」という方針が採用されていました.教育的に見て適切な配慮だったと思います.
それならどのあたりがわからなかったのかというと,何よりもまず関数の微分可能性の定義からしてすでに不思議でした.微積分の講義ではたいていの場合,まずはじめに一変数関数の微積分を扱い,それから多変数関数の微積分に移ります.関数の値は実数ですから,一変数または多変数の実関数(実数値を取る関数という意味です)の微積分が展開されることになります.ところがシュヴァルツは変数の個数をはじめから任意とし,しかも関数の値もまた「数」ではなくてベクトルです.nとmは任意の自然数として,n次元のユークリッド空間R^nからm次元のユークリッド空間への写像
f:R^n→R^m
を考えて,写像fの微分可能性の概念を規定していくのがシュヴァルツの微分法です.その概念規定は線型代数が基礎になっていて,ひとことで言えば,写像fが微分可能というのは「局所的に線型写像によって近似されること」というふうに言い表わされます.数学の定義ですから,意味がわかってもわからなくてもそのまま飲み込めばよさそうにも思いますが,「曲線に接線を引くのが微分法」という程度のイメージからすると,多少通い合うかのような印象はあるものの,あまりにもかけ離れている印象があり,どうしてこのような定義になるのか,不可解でした.定義の記述それ自体を単独の概念として受け入れることはできたとしても,背景に控えているはずの歴史がまったく見えず,そのために「わからない」という感情が生れたのではないかと今は思います.これを逆向きに考えると,数学の理論や定義が「わかる」というのは,歴史に支えられてはじめて発生する感情なのであり,この一点において数学は他の自然諸科学とはっきりと一線を画しています.
さて,高木貞治の『解析概論』では,関数の微分可能性は微分商の極限値が存在することと規定されています.一個の実変数の実数値関数,すなわち関数
f:R→R
(これをよくy=f(x)と表記します)
に対し,微分商
(f(a+h)-(a))/h
を作り,hを0に近づけていくとき,この微分商がある有限確定値にどこまでも接近していくなら,そのとき関数fはx=aにおいて微分可能であるといい,その極限値を
dy/dx, f'(x)
などど書き表します.これは微分可能性の通常の定義ですが,シュヴァルツほどではないにしても,これはこれで抽象の度合いが高く,安易に「わかった」とは言い切れません.
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://reuler.blog108.fc2.com/tb.php/427-a4e2774f