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 ガウスの数学日記の第1項目はD.A.の第7章の成立宣言です。既に紹介しましたが、再現すると次の通りです。

《円周の分割が依拠する諸原理、わけても円周の17個の部分への幾何学的分割が可能であることを・・・
ブラウンシュヴァイク,[1796年]3月30日》

 1796年3月30日の時点でガウスは満18歳。ブラウンシュヴァイクはガウスの故郷です。数学日記はガウス全集の巻10の分冊1に収録されていますが、この第1項目にはクラインとシュレジンガーによる註記が添えられていて、このガウスの発見にまつわる記事のあれこれが紹介されています。
 ガウスは手持ちのD.A.のあちこちに多餓鬼で書き込みをしていたようで、D.A.は全集の巻1に収録されているのですが、この巻の末尾にガウスのメモが集められています。D.A.の第7章は335条から366条まで、32個の小節に分けられていて、あちこちに小見出しが出ているのですが、最後の二つの節、すなわち第365節と第366節に附されているのは、

「二次方程式を用いて、言い換えると、幾何学的構成を通じて遂行される円の分割」

という小見出しです。これをさらに言い換えると、ここで取り上げられるのは、定規とコンパスのみを用いて作図可能な正多角形はどのようなものか、というテーマです。
 ガウスはこの第365条の場所に、

《1796年3月30日、円は17個の部分に幾何学的に分割可能であることを発見した。》(ガウス全集1,476頁)

という書き込みを残しました。1796年3月30日という日付は数学日記の第1項目と一致しています。
 他の証言をもう少し集めると、1855年4月12年付のヴォルフガング・ボヤイのクライル(ウィーンの天文学者)宛書簡と、1855年4月12日付のボリヤイのザルトリウス宛の手紙にも関連する言葉が見られます。ボヤイは、子どものヨハン・ボヤイとともに、非ユークリッド幾何の研究で知られるハンガリーの数学者です。「ヴォルフガング」というのはドイツ名で、ハンガリー名はファルカシュ。ヨハン・ボヤイの「ヨハン」もドイツ名で、ハンガリー名は「ヤノーシュ」です。ザルトリウスはガウスの親しい友人で、ガウスの歿後、「ガウスの思い出」という回想録を書き、ガウスの評伝のための基礎となる資料を後世に伝えました。『ガウスとボヤイの往復書簡集』はシュテッケルとシュミットが編纂し、1899年、ライプチヒで刊行されました。ボヤイのクライル宛書簡に出ている言葉は次の通りです。

《(D.A.662頁の)cos(P/17) =・・・ は1797年より前に発見された。なぜなら、ガウスはある晩ゲッチンゲンで私にそう言ったのだから。》
(1855年4月12年付。ボヤイからクライルへ。書簡集、144頁)

また、ボヤイからザルトリウスへの手紙には、こんなふうに書かれています。

《私は一度だけ、ガウスが控えめに喜んでいる姿を見たことがある。そのときガウスは私に小さなTafel(註。ターフェル。黒板とか掲示板という意味の言葉ですが、ガウスがもっていたターフェルがどのようなものだったのか、よくわかりません)を、記念の意を込めて私にくれた。そのTafelに,ガウスはD.A.662頁の17角形を計算していたのだ。少々興味のあるものなので、私はそれをゲッチンゲンに送付した。》
(1855年4月12日付。ボヤイからザルトリウスへ。書簡集、152頁)

 正17角形の作図の可能性の発見をガウスがどれほど喜んでいたことか、ボヤイの手紙が語る二つの証言のどちらからも、ガウスの喜びが今もよく伝わってきます。

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