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新数学人集団(SSS)の時代 ノート61 数学的実体とは

数学の姿が大きな変容を経験した時期は第一次世界大戦後のことで、1930年になって休息に抽象化が進行しましたが、この現象を目の当りにして、日本の数学者たちの間にはさまざまな葛藤が生れたのではないかと思います。高木先生は「過渡期の数学」ということを語って、変化の諸相をありのままに観察しようとしていたように思いますが、数学の実質はあくまでもクラシックにあり、抽象は衣裳のようなものだという考え方も広く行われていたのではないかという推測も可能です。谷山さんの世代になると数学はもうすっかり抽象の時代に入っていたのですから、もはやクラシックなどは顧みないという姿勢になっても不思議ではありません。
 ところが谷山さんはそうではなく、クラシックを無視せずに、抽象との内的調和を探究するという構えをとりました。このあたりが谷山さんならではのことで、SSSの他のメンバーにも影響を及ぼしたことと思います。数学とどのような学問なのかということを考えていたのですから、ブルバキで言えばヴェイユと同じような位置をSSSにおいて占めていたのでした。
 谷山さんはファイバーバンドルを例にとって自説を敷衍していきました。以下、多少の語句を補いながら(括弧内に入れました)谷山さんの言葉の紹介を続けます。

・ではfibre bundle(ファイバーバンドル、ファイバー束)を考えましょう。・・・多変数函数論のCousin(クザン)の第二問題が、本質的にはprojective line bundle(射影的直線束)の分類の問題であることは、此の間の一松(信)さんの話にあった通りです。此れは、公理主義の一つの勝利とも見られますが、然し此の場合にも、公理主義の果した主要な役割は、整理することにあったので、例えば、岡(潔)さんの方法はfaisceau(層)の概念の一つの基礎になったものですが、岡さんがfibre bundleとの類推からその様な方法に到達したのではない。此の時、2つの考え方が可能である。「fibre bundleなる一つの概念が多くの物の基礎にあるのであるが、それを体系的に発展させるのは、単なる抽象論では駄目で、それの表れている具体的な事実から、或る意味で帰納的に進んで行かなければならない。」「或る部門に於ける重要な事実は、fibre bundleなる概念によりうまく表現され、又それにより他の部門の同様な事実との関連が明らかになり、此の抽象概念を使うことにより、その具体的な問題を、見透しよく進めることが出来る」――何を目的とし、何を手段として考えるかの相違ですが、両方とも正しいとは言い難い様な気がします。

 岡潔先生の不定域イデアルの理論は層の理論に転化して、現代数学を支える有力な基礎概念のひとつになりました。谷山さんはそのことを念頭においてファイバーバンドルを語り、二つの考え方を述べました。どちらの考え方ももっともらしい印象があり、ほかには考えようがないようにも思えるのですが、「両方とも正しいとは言い難い様な気がします」と谷山さんは言うのです。
 具体と抽象のその奥に「数学的実体」が存在するというのが谷山さんの所見です。

・具体的なものと抽象的なものとの交錯するその奥に、数学に於ける実体がある。大体、実体なるものは固定したものではなくて、時と共に移り変って行くものなので、例えば昔、計算の手段として考えられた複素数が、現在では実体と考えることに誰も異議はないでしょう。そのとき、以前にはそれが実体であることがわからなかったのだと考えるよりも、18世紀の数学では実体でなかったものが、19世紀には実体となったと考える方が自然でしょう。大体、数学的実体なるものは存在しないと考えた方が良いか、さもなければ、実体であるか否かの判定法は、それから導かれる定理によるので、此れはいつか君の云っていた・・・

 数学的実体に寄せる実在感が語られるのではないかという予感もありましたが、そういうことではないようで、「実体なるものは固定したものではなく、時と共に移り変って行くもの」だと指摘され、例として複素数が挙げられました。数学的実体なるものは存在しないと考えたほうがよいという判断もありうるかのようですし、実体が存在するとしても、その判定はそこから導かれる定理によるという考え方も語られました。
 数学には実体なるものが存在して、その究明をめざすのが数学という学問だという考え方を採用すると、どことなく物理や化学のような自然科学の一種のように見えないでもありません。ところが谷山さんは突然転調し、実体などというものはどうでもよいと言葉を続けていきました。

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