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新数学人集団(SSS)の時代 ノート20 数学研究の意義とは(続)

「研究意欲」に続いて「数学の社会的機能」という小見出しが現れます。摘記を続けます。

・T氏の投書は、数学をやるあらゆる合理的な根拠を消滅させてしまったかのようだ。だが、最初の部分の論旨をあらためて見直してみたい。だいたい次のとおり。
・数学は全体として科学の基礎であり、科学は技術を可能とし、技術は産業に仕え、産業は人類の生活を支える。だから数学の研究も人類の幸福に役立つ有意義な仕事である。だが、この論は空々しい。
 このように言われれば「空々しく響く」ことには同意する。ただし、空々しく感じられるだけなのか、あるいは事実そのものにいわれがあるのか、もっと現実に即して考えてみる必要がある。なぜなら、数学―科学―技術―産業―生活の連鎖そのものを否定し、科学の現実的役割を視界から消し去ると、そのときすでに「根拠」の問題は解き難くなってしまうからである。
 この関連は本来は基本的なものだ。問題は、産業が人類の幸福に使えるか否かにある。上記の連鎖反応は、その最後の環のところで社会的政治的性格をもつ。社会的機構がどうであり、どれだけを保証するかなど、そのことが一番の問題であったと思う。
・ヒルベルトは数学の統一性に基づき、整数論を含めた全数学の発展が自然認識に貢献すべき旨をパリで語った(註。1900年、パリで開催された国際数学者会議における講演「数学の将来の問題について」)。それは確信にみちあふれて、数学が人類の進歩に使えるべきことは当然のようであった。1900年は19世紀であった。そのことに客観的な根拠はある程度あったと言える。

 ヒルベルトを例に挙げて「19世紀」ということが強調され、次の世紀に起った激動が示唆されています。「数学は何のためか」という問題は世界の姿と切り離して考えることはできないという考えが、ここに読み取れます。

・だが、二度の世界大戦は人類の進歩と科学の進歩の並行性というような素朴な確信を打ち破った。実際、水素爆弾の被害をあびた国民は科学の進歩を無条件に喜ばない。科学者自身も楽天的ではいられない。ただし、物理学者などと違って、数学者には、その学問的性格からして、水爆問題のような生々しい形の問題が現れることはない。それでも、学問が十分に役立てられず、役立てられたとしても人類に幸福をもたらさないという悲劇は数学にも妥当するように思われる。

 このような状勢認識に続いて、

・このようなことこそが、数学者の悩みの源ではなかろうか。

という言葉が語られました。

・こうした悲劇、さきの「空々しさ」を生み出してくる現実、それは国民にとって、また科学者自身にとって、不幸なことである。この不幸の前を、目をつぶって通りすぎることなく、数学が人類に本当に役立つような状態を、この世で実際に回復するために、努力すべきではなかろうか。それこそが「空々しさ」の感覚を過去のものとし、それこそが、数学研究の意欲を真に裏打ちし、豊かな創意を生み、多角的な発展を将来するであろう。

 長い議論の末に、「空々しさ」の感覚を過去のものとする道は、数学が人類に本当に役立つような状態をこの世に実際に回復することだという、ひとつの帰結へと導かれました。ひとりひとりの数学者による数学の研究がそのまま人類の幸福につながっていくような状況を理想とする考えと思われますが、「数学は何のためか」という問いに答えたとは必ずしも言えないように思います。問題を社会化するのではなく、数学それ自体に答を見出だしたいと谷山さんは願っていたのではないかと思うのですが、この論点について結論めいたことを言うのは尚早ですし、今後の成り行きを見守りたいところです。

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