Entries
新数学人集団(SSS)の時代 ノート19 数学研究の意義とは
Lさんの投書の摘記を続けます。
・T氏はまた、思い上った芸術至上主義の幼稚なまねごとのような理由や、一見すると自然な人間本来の本能のようでいて、実はエゴイズムの押し売りにすぎない理由や、このようなごみ溜めの中から取り出してきたような理由をもっともらしく主張してすましている態度を激しく非難した。しかも非難するだけで筆を置き、それ以上何も言わなかった。これが悲観と自嘲だろうか。
ここには、谷山さんは別に悲観したり自嘲したいしているわけではないという所見が表明されています。谷山さんが俗流の理由や主張を非難するのはなぜかというと、それらとは別の理由を模索して、別の何事かを主張したいと願っているのではないかと考えられますし、語らないのはつまり語れないからであり、数学を勉強することを無意味と決めつけているわけではなさそうです。Lさんもそんなふうに思って、谷山さんは悲観も自嘲もしていないと判断したのでしょう。
続いて谷山さんの投書に対するLさんの所見が語られます。
・自分はこの投書は「欺瞞はやめよう」という積極的な提案と思った。社会生活の態度も数学をやっている目的にも、しっかりしたものがないか、不足しているか、正しいところを把握しているようでも、真に見解に相応しく振舞っていないなら、なぜ自分はいいかげんだとはっきりと認めないのか、いいかげんならばそのことをはっきり認めたうえでみなで真剣にしっかりしたものを求めながら進んでいかなければならないではないか。そのための一番大きな障害は欺瞞だと強く主張しているのだ。
谷山さんの投書の主旨を「欺瞞はやめよう」という提案と理解する姿勢は正鵠を射ていると思います。それはそのとおりと思いますが、ただし、これだけではまだ「数学は何のためか」という質問に答えているわけではありません。
「月報」第2巻、第3号には当初とは別にもうひとつ、「数学と数学者」というエッセイが掲載されています。著者は清水先生ですが、末尾の附記によると、新数学人集団の有志が討議し、その結果を清水先生が書き記したということです。読み進めていくと、谷山さんの投書の影響が色濃く反映している様子が感じられます。
いくつかの項目に分けて記述されていますが、「数学教室」「就職」に続いて「研究意欲」という話題に移り、ここにおいて谷山さんの投書と関係がありそうな言葉が現れます。いくつか拾ってみます。
・数学研究の意義がわからないという声。それは現代的消耗のひとつの特徴ではないか。わからなくてもやっていける場合もあるかもしれないが、一般的に言うと、意義がわからないという悩みに襲われたなら、消耗は深刻である。
・これに対し、「考えることはない。数学をやっていればよい」などという慰めの声が聞こえてくることもあるが、これでは救われない。問題が解決したわけではなく、ただ覆いをされただけだからである。
・めいめいにつけてみる理屈みたいなものもある。天賦、永遠、詩、などなど。これらは理屈の中でも極端な種類のものかもしれないが、このような一系の理屈に対して決定的な批判が現れた。それが
T氏の批判である。数学研究の意義を見定めかねて、何か理屈を試みても、このような批判にあっては考えを練り直さないわけにはいかない。
清水先生はこのように書き綴り、それから、「数学研究者の根源的なその悩みに救いはないのであろうか」と問い掛けました。
・T氏はまた、思い上った芸術至上主義の幼稚なまねごとのような理由や、一見すると自然な人間本来の本能のようでいて、実はエゴイズムの押し売りにすぎない理由や、このようなごみ溜めの中から取り出してきたような理由をもっともらしく主張してすましている態度を激しく非難した。しかも非難するだけで筆を置き、それ以上何も言わなかった。これが悲観と自嘲だろうか。
ここには、谷山さんは別に悲観したり自嘲したいしているわけではないという所見が表明されています。谷山さんが俗流の理由や主張を非難するのはなぜかというと、それらとは別の理由を模索して、別の何事かを主張したいと願っているのではないかと考えられますし、語らないのはつまり語れないからであり、数学を勉強することを無意味と決めつけているわけではなさそうです。Lさんもそんなふうに思って、谷山さんは悲観も自嘲もしていないと判断したのでしょう。
続いて谷山さんの投書に対するLさんの所見が語られます。
・自分はこの投書は「欺瞞はやめよう」という積極的な提案と思った。社会生活の態度も数学をやっている目的にも、しっかりしたものがないか、不足しているか、正しいところを把握しているようでも、真に見解に相応しく振舞っていないなら、なぜ自分はいいかげんだとはっきりと認めないのか、いいかげんならばそのことをはっきり認めたうえでみなで真剣にしっかりしたものを求めながら進んでいかなければならないではないか。そのための一番大きな障害は欺瞞だと強く主張しているのだ。
谷山さんの投書の主旨を「欺瞞はやめよう」という提案と理解する姿勢は正鵠を射ていると思います。それはそのとおりと思いますが、ただし、これだけではまだ「数学は何のためか」という質問に答えているわけではありません。
「月報」第2巻、第3号には当初とは別にもうひとつ、「数学と数学者」というエッセイが掲載されています。著者は清水先生ですが、末尾の附記によると、新数学人集団の有志が討議し、その結果を清水先生が書き記したということです。読み進めていくと、谷山さんの投書の影響が色濃く反映している様子が感じられます。
いくつかの項目に分けて記述されていますが、「数学教室」「就職」に続いて「研究意欲」という話題に移り、ここにおいて谷山さんの投書と関係がありそうな言葉が現れます。いくつか拾ってみます。
・数学研究の意義がわからないという声。それは現代的消耗のひとつの特徴ではないか。わからなくてもやっていける場合もあるかもしれないが、一般的に言うと、意義がわからないという悩みに襲われたなら、消耗は深刻である。
・これに対し、「考えることはない。数学をやっていればよい」などという慰めの声が聞こえてくることもあるが、これでは救われない。問題が解決したわけではなく、ただ覆いをされただけだからである。
・めいめいにつけてみる理屈みたいなものもある。天賦、永遠、詩、などなど。これらは理屈の中でも極端な種類のものかもしれないが、このような一系の理屈に対して決定的な批判が現れた。それが
T氏の批判である。数学研究の意義を見定めかねて、何か理屈を試みても、このような批判にあっては考えを練り直さないわけにはいかない。
清水先生はこのように書き綴り、それから、「数学研究者の根源的なその悩みに救いはないのであろうか」と問い掛けました。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://reuler.blog108.fc2.com/tb.php/2463-23c81053
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)