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新数学人集団(SSS)の時代 ノート10 指導者の不在と遠山先生の登場

「月報」創刊号の記事「東大新数学人集団」を見ると、概略ではありますが新数学人集団の誕生の経緯が使わってきます。なによりも先に目を引くのは「東大新数学人集団」という呼称で、東大の数学科の学生を中心にしたグループとして発足したことがわかります。記事の冒頭に「東大の新数学人集団は今年三月、本年度卒業生を中心に結成された研究団体」と明記され、「略称SSS」と書き添えられています。「協同研究、教室運営の民主化、五月祭等に活発に活動」し、現在の会員は40名ということです。谷山さんは創立メンバーのひとりだったことになります。
 もう少し情報を拾うと、東大の数学教室では1949年(昭和24年)当時の主任は彌永昌吉先生でした。先日、津田塾大学でお会いした福富節夫先生は助手でした。学生の中に佐武一郎先生がいて、この三人が中心になって努力して教室会議が設立されました。福富先生は1919年(大正8年)10月31日に樺太に生れた人ですので、1949年には30歳です。
これで民主的運営の体裁が整いましたが、主任が交代して末綱恕一先生になると有名無実となりました。これに加えて、朝鮮戦争の勃発とともに、ということは1950年(昭和25年)6月末日ころということになりますが、岩澤健吉先生と矢野健太郎先生が渡米して、そのまま帰ってきませんでした。この二人の先生が日本にいなくなった結果、学生や若い研究者に対する指導がまったくなおざりにされるという事態になりました。新数学人集団の結成が要請される理由がここにあります。
 このような事情はブルバキの場合と似ています。フランスでは第1次大戦で多くの数学者が戦死したため、老大家たちはいたものの、アンドレ・ヴェイユやアンリ・カルタンなど、戦後の卒業生たちの指導にあたるべき少し上の世代の数学者がいませんでした。かろうじてガストン・ジュリアが戦死を免れていましたので、ヴェイユやカルタンたちは同世代の仲間を集めてジュリアのもとでセミナーをもちました。これがブルバキのはじまりです。
 新数学人集団の場合には、岩澤、矢野両先生あたりがブルバキにとってのジュリアに相当する人物と見られていたのかもしれません。
 また、1949年に設立された教室会議はわずか1年後の1950年には有名無実になったということですが、1953年3月の卒業生たちが数学科に進んだのはまさにその1950年でした。それから3年間の在籍中には指導はまったくなおざりにされたということですが、谷山さんの場合でしたら玉河恒夫先生のゼミでヴェイユの学位論文を読んでいます。講義もあり、ゼミも行われていた様子がうかがわれますが、それなら指導者はいたということにはならないのでしょうか。あるいはまた、教室主任は彌永先生から末綱先生に交代したとしても、彌永先生は学生たちに対してどうしていたのでしょうか。
 いくつかの素朴な疑問があることはありますが、ともあれ谷山さんの仲間たちは現状に不満がありました。そのような中で有志10数名が遠山啓先生を囲む座談会を開くという出来事がありました。この日付はすでに見たとおり1952年6月26日ですが、その三日前の6月23日には遠山先生の著作『無限と連続』(岩波新書)の合評会がもたれています。
 遠山先生との座談会がきっかけになって「数学方法論研究会(仮称)」が結成され、週に一度、例会がもたれるようになりました。ここまでのところだけでもだいぶ詳しく様子が明らかになりましたが、なぜここで遠山先生が登場するのでしょうか。『無限と連続』の影響が考えられそうですが、もう少し考えていきたいところです。

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