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数学史研究の回想11 数学は人が創造する

曲線に接線を引くといっても、紙の上に手書きででたらめに描いた曲線に接線を引くことはできません。デカルトはシソイドやコンコイドに法線を引きましたが、それはこれらの曲線を表す方程式から出発したからでした。フェルマはサイクロイドのような超越曲線に接線を引く独自の方法を考案しましたが、それは直線上に円を滑らないように転がすという、サイクロイドの描き方がはっきりしているからです。この点はライプニッツの場合にも同様で、ライプニッツの万能の接線法の対象でありうるためには、その曲線が何らかの式で表されている必要があります。
 クザーヌスのアイデアを採用して曲線を無限小辺無限多角形と見ることにすれば、接線の観念は確かに定まりますが、それだけでは計算に乗りません。計算に乗せていくには曲線を方程式で表すことが必要で、この点ではデカルトとライプニッツは一致しています。ここまでくれば「万能の接線法」までは一歩の距離でしかありませんが、それは語るのは当面の目標ではありませんので、接線法についてはこのくらいにしておきたいと思います。
 昔日、数学の勉強を心がけるようになった当初から、数学という学問におもしろさを感じることができないために大いに困惑したことはだいぶ前に述べた通りです。曲線と接線を定義して接線を引くための計算法に習熟しても別段、おもしろいことはありませんが、古代ギリシアの未解決の作図問題に向き合って、新たな曲線の概念を模索して挑戦するデカルトの姿には感銘を受け、共感を覚えます。そのデカルトを批判して、超越曲線をも幾何学的曲線の仲間に入れて、逆接線法の世界に求積法を包み込もうとしたライプニッツの思索にも心を打たれます。デカルトとライプニッツを受けて、オイラーは関数の一般概念をもって曲線の世界全体を把握しようとしたのですが、そのねらいは変分法にありました。
 デカルトの代数曲線もライプニッツの超越曲線もオイラーの関数も抽象的といえば確かに抽象的ですが、これらの抽象には抽象のねらいがあり、抽象の風呂敷にいっぱいに具象が詰め込まれていますので、抽象が抽象に感じられません。デカルトは幾何学的曲線とは何かという問いを立てたのだろう、代数曲線に限定したのはなぜなのだろう、ライプニッツがデカルトのどこに不満を感じて批判したのだろう、オイラーはなぜ関数などというものを考えたのだろう、等々と考えていくと、歴史研究の意味合いがこの手につかめてくるような感慨を覚えます。
 数学はやはり「人が創造する学問」です。曲線とは何か、関数とは何かと観念的に問いを立てるのではなく、デカルトならどう言うだろう、ライプニッツならどうか、はたまた
 オイラーは、というふうに、数学の創造に携わった人びとのひとりひとりに聴いてみなければならないのではないかと思います。数学史研究への道がここに開かれていきます。


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