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新数学人集団(SSS)の時代 ノート59 谷山さんの手紙より

数学における抽象と具象との関係について、谷山さんの言葉に耳を傾けてみたいと思います。谷山さんが急に亡くなったのちのことですが、「数学の歩み」(「月報」の後継誌)第6巻、第4号(1959年)は谷山さんを追悼する特集記事でいっぱいになりました。所感もたくさん集められていますが、その中に昭和29年7月15日付で杉浦光夫先生に宛てた一通があり、抽象と具象をめぐる考察が書き留められています。谷山さんの生誕日は昭和2年11月12日ですから、このとき満26歳。杉浦先生は昭和3年のお生れで、月日がわからないのですが、ほぼ同年です。大学の卒業年は同じ昭和28年でした。谷山さんの所在地は郷里の埼玉県騎西町。杉浦先生の当時のお住まいは文京区雑司谷です。
 谷山さんの手紙を摘記します。

・最近一寸考えているのですが、数学の実質的部分はclassicなものにあり、抽象的なものは、それを定式化し、解決するための方法にすぎないと云うこと、此れは一寸変だと思いませんか。Classic乃至具体的なものと、抽象的なものとを、此の様に機械的に分離することは、現在の数学を本質的に把握し、それを発展させるに適当な方法でしょうか。数学とは無矛盾な公理系から論理的に導かれる体系であると云う考え方、此れは、抽象数学を“輸入”した日本では、容易に根を張り得る考え方ですが、此れに対するアンチテーゼとしては、以上の様な考え方は、有意義ですが、やはり事の真相をとらえたものとは云い難いのではないでしょうか。

 いきなり心を惹かれる問題が提起されました。いくぶん錯綜とした感じもありますが、ともあれクラシックな数学と抽象的な数学が対比されています。クラシックな数学というのはおおむね第一次大戦の前までの数学を指し、第一次大戦後に現れてきた数学を抽象的な数学と呼んでいるのであろうと思われます。もっとも抽象数学の萌芽は第一次大戦前にも現れていたこともまちがいのないところです。
 抽象数学とは何かというと、「無矛盾な公理系から論理的に導かれる体系」と理解されています。クラシックといい、抽象数学といい、いずれにしてもヨーロッパを舞台にして出現した数学の姿ですし、日本の数学者が関与したわけではありません。日本ではもっぱらヨーロッパの数学を輸入するのですが、クラシックから抽象数学へと極端に変遷すると、折り合いをつけて両方とも受け入れるためには何かしら方便が必要になりそうです。ひとつの有力な考え方は、「数学の実質的部分はclassicなものにあり、抽象的なものは、それを定式化し、解決するための方法にすぎない」と見ることですが、谷山さんはそれに疑問を感じた様子がうかがわれます。

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新数学人集団(SSS)の時代 ノート58 ヒルベルトのように

倉田先生は日本の数学の現状を危機と見ている模様です。

・例によって危機は、わが国にあっては、二重に耐えがたく現れる。たとえば古典の伝統の不足のため、アメリカ留学または本格的帰化のため、・・・。
・しかし、われわれは高木整数論の貴重な伝統、科学的数学史の伝統(小倉金之助とその弟子たち)、果敢な民主主義的教育運動の伝統をもっている。特に最近では、静間、遠山氏らは小倉氏の伝統を継ぎつつも、数学そのものに関しての、大きな、根本的な内容豊富な問題を提供しつつある。
・他方、アカデミーの先鋭分子は、明確な目標と問題を持っており、古典の名誉の回復が次の段階への移行にあたって演じる役割を知っているし、フォーマリズムに事実上反対している。だから、現在、危機に対して、勇敢な野党派とアカデミーのすぐれた科学者との連合が可能となってきた。

 日本では数学の危機は二重に現れるとのこと。ひとつは古典の伝統の不足のためというのですが、もともと西欧近代の数学を学んでいるのですから、伝統は不足というよりもむしろ存在しないというべきなのかもしれません。それでも数学研究の方面では高木貞治先生の類体論があり、数学史の方面には小倉金之助の研究がありますから、伝統の基盤は形成されていると見ているように思います。
 危機のもうひとつの面は数学者たちが次々とアメリカに行ってしまうことのようですが、この問題はSSSでは重要な問題と見られていたようで、『月報』誌上でしばしば取り上げられています。ところが、他方では「アカデミーの先鋭分子」や「勇敢な野党派」という人びとが存在するとのこと。具体的にはどのような人たちを指しているのでしょうか。
このような認識に基づいて、危機に対する対処法が提案されました。

・ヒルベルトがそうであったように、語り合い、討論の広場を各所に作ること。
・ヒルベルトがそうであったように、共通のできるだけ広く、大きな問題目標をだいたんに提供しなければならない。
・ヒルベルトのように、古典の正しい理解を深め、安易なフォルマリズムに反対しないわけにはいかないし、科学の相対的独自性の過小評価に反対しないわけにはいかない。
・特に応用偏重主義に反対しなければならない。というのは、むろん、ヒルベルトがそうであったように、応用を正しく評価すべきだ。だが、他方、植民地になってから生じたひとつの新しい傾向は、成果を急ぐ卑俗な実用主義であり、それは不毛の抽象癖とともに、アメリカ経験主義の双生児であり、特に無内容な点で瓜二つの双生児なのだから。
・最後に、われわれの時代は、ヒルベルトの時代よりも、「問題」にせよ、概念にせよ、計算にせよ、ひどく込み入ってきた。ヒルベルトがそうであったようにではなく、集約された概念の各発達段階、対象の質の性格についての深い、大規模な理解が要求されている。これに対してわれわれは、たとえば物理学などに比べて立ち遅れている。このことの達成は伝統の不足をカバーするだろう。

 「成果を急ぐ卑俗な実用主義」と「不毛の抽象癖」はアメリカ経験主義の双生児と言われています。倉田先生はこれを批判して、「ヒルベルトのように」という言葉を繰り返しました。正確な認識と思いますが、倉田先生のいう「アメリカ経験主義の双生児」は60年余ののちの今も猛威を振っています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート57 抽象数学の時代

倉田先生のみるところ、後年のヒルベルトの見解は哲学的単純さとドグマを含むものですが、ヒルベルトの名とともに不滅な多くの仕事と公理的方法の重要性を損なうものではないということです。「哲学的単純さとドグマ」というのはどのような意味なのでしょうか。

・ヒルベルト以後、今日にいたるまで、基礎論、古典数学の基礎づけ、および抽象数学と、ひとつのヒルベルトの精神は歴史において必然的であったが、他方、もうひとつのヒルベルト精神が主張したように、発展の原動力は依然として古典的問題と応用部門から提供された「問題」であった。全体としてそのモチーフは、1910年ころから始まるところの、抽象数学による大掃除の時期、および1935-36年以後の古典数学の全面的かつ徹底的な再検討の時期を通じて変化してきた。もっともこれは、世界数学の最良部分の問題意識の変化の過程であり、上記の判断は1934―42年、高木貞治によって与えられたものだ。

 ここに高木先生が登場するのはいくぶん唐突な感じがしますが、高木先生は数学の姿の変化に非常に敏感に反応して、「過渡期の数学」をはじめ、盛んに発言を重ねていました。倉田先生の念頭には、その一連の高木先生の発言があったのでしょう。

・それと同時に、不毛な抽象化(アメリカのフォルマリストたちの)の流行、分散的かつ末梢的な研究態度、目標の喪失、教育制度の欠陥もまた出現する。その中で、1935-6年ころから活躍するブルバキらの方法的統一性と古典の名誉の回復運動はむろん特筆に値する。

 おもしろい観察が語られています。アメリカでは抽象化が進展し、それは不毛とのこと。ブルバキの試みは不毛な抽象化とは無縁のようで、「方法的統一性と古典の名誉の回復運動」というのですが、このあたりは議論の余地がありそうです。この叙述によると、抽象数学にはアメリカの抽象とブルバキの抽象の二つが存在するかのような印象を受けます。アメリカの抽象は不毛ですが、ブルバキの抽象には方法の統一と古典があるとのこと。方法の統一というのは、数学を構築する際の構造主義的な建築術を指しているように見えます。古典の名誉回復というと、ブルバキの叢書「数学原論」に附せられている「歴史覚書」が連想されますが、ブルバキのメンバーもたいていは歴史に無関心で、関心を寄せていたのはヴェイユだけのように思います。「歴史覚書」も少なくとも初期のものはヴェイユがひとりで書きました。
「1935-36年以後の古典数学の全面的かつ徹底的な再検討」というのも、具体的にはヴェイユのことを指しているように思います。
 ヴェイユがいたためにブルバキはアメリカの抽象と一線を画することができたのですが、ヒルベルトの公理主義との関係はどのように見たらよいのでしょうか。こんなことを念頭に置いて、倉田先生の言葉の続きに耳を傾けたいと思います。

・数学全体に対して、威嚇的な姿で立ち現れるという意味での「基礎の危機」は、現代では過ぎ去ったと考えられる。

 ここに、「たとえば、ヴェイユ、ワイルなどの見解」という註記が附されているのですが、これは何を指しているのか、よくわかりません。


新数学人集団(SSS)の時代 ノート56 数学における「問題」の役割をめぐって

ヒルベルトの現代的意義を語る倉田先生の言葉を続けます。

・ヒルベルトのパリ講演とは、1900年の国際数学者会議の教育部会でヒルベルトが行った「数学の将来について」と題する講演である。将来数学の発展に重要な役割を演じるであろうと思われる23個の問題を挙げた。ヒルベルト自身は、不変式(1885-1895年)、代数的数論(1893-1898年)、幾何学基礎論(1898-1902年)、積分方程式・変分法(1902-1912年)、一般基礎論(1922-1930年)を各時期に集中的に行ってきたのであるから、1900年は不変式と整数論を終えて、変分法に関心が移ろうとした時期にあたる。当時、40歳。もっとも生気充溢した時期であった。
・当時の数学はガウス、リーマンの伝統の花咲くゲッチンゲン君臨の時代で、ドイツ純粋数学が満開のときであった。批判的数学ができかかった時代であるとともに、基礎の危機が云々され始めたころであり、文字通り19世紀の終り、20世紀のはじめであった。
・ヒルベルトの言わんとするところは、数学の発展において果す「数学の問題」の役割の決定的重要性に関してである。数学の世界の外では、ヒルベルトは、あたかも公理主義という哲学的なひとつの要請でもって、数学を無内容な形式論理の体系に変えた男だと言われる。だが、実際は反対に、ヒルベルトは同講演で次の諸点を指摘した。

 このように前置きして、倉田先生はヒルベルトの6個の指摘を紹介しました。

・各時代はその問題をもっている。問題の死滅は数学の死を意味する。問題や目標のない方法は無意味である。ヒルベルトはここで各種の例を挙げた。わけてもフェルマの問題、あるいはベルヌーイの問題や三体問題の役割を正史的に述べ、前者が内部から、後者が外部から生じた点を指摘した。だが、新しい問題は、その起源を外部にもっていても、それはただ野生の木であり、園丁の技術によって母株に接木されるべきことを要求し、数学の相対的独自性の性格と、古典伝統の問題を投げかけた。
。厳密さをかんたんさの敵と考えるのに反対し、級数論の厳密性が数学を明朗にしたことを示し、厳密性は煩雑さではない点を強調した。
・直観的素材(たとえば図形のような)の役割を強調した。
・方法に関して、ヒルベルトは、重要な問題とは、それが全体の困難な鎖の中で、そこを把握すれば全体が解けるような環たるべきことを強調した(たとえばイデアル論)。
・特殊化の重要性
・数学の全体性、有機的な統一性を見失わざること。

 このような前置きに続いて、ヒルベルトは23個の問題を挙げました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート55 ヒルベルトの現代的意義

SSSは「数学とは何か」という問いにこだわっていましたが、この問題は「少数精鋭主義」に抗する心情と関係がありそうに思います。数学の真理というものがどこかにあって、それを見つけるのが数学者の仕事と思うと、少数精鋭主義で対処するのがよさそうに見えないこともありません。数学には未解決の難問もあり、たとえば素数分布に関する「リーマンの予想」などの解決に取り組むというのであれば、たいていの人には解けないのですからやってもむだで、少数の精鋭にまかせておけばよいではないかという主張が成立しそうです。数学の研究というのはそのようなものであろうと、広く考えられているようにも思われます。
ですが、数学の問題はどこからやってくるのでしょうか。このあたりが数学の不思議なところで、容易に答えることのできない神秘が秘められています。リーマンがいなくても「リーマンの予想」はありえたのでしょうか。「リーマンの予想」は、それ自体がリーマンに固有の創造物なのでしょうか。数学を「創造する学問」と見ると、少数精鋭主義は無意味になりそうです。創造する心をもつ少数者を、前もって選定することはできないからです。
数学とは何かという問いに対するSSSの考えが表明されている記事に、「ヒルベルトの現代的意義」というのがあります。「月報」第4号に掲載されました。副題は「パリ講演について」。第3回科学史および科学方法論研究サークル連合シンポジウムにおける新数学人集団の報告の要旨という説明が附されています。
 科学史および科学方法論研究サークル連合というのは、東京の各大学の科学史、科学方法論に興味をもつサークルが集まって、十数もの団体で組織された団体で、日本科学史学会の主催で半年に一回、連合シンポジウムを開催していた模様です。1953年6月に第2回目のシンポジウムが行われ、SSSもこれに加わり、「日本近代数学史」という報告を行いました。第3回目のシンポジウムは同年11月29日に東大で開催されました。約100名の聴衆が集まりました。報告は計九つ。15分の報告に15分の討論が附随しました。
「ヒルベルトの現代的意義」は「月報」に掲載されたときは著者名のない記事だったのですが、後に倉田令二朗先生と判明しました。以下、摘記してみます。

・新数学人集団は、すうがくについての正しい学習方針を立てるために、「数学者」としてのヒルベルトの見解を研究することが必要であると考えた。すでに各自の研究を進めている若干の人びといよって、1900年のパリ講演の翻訳と検討が、現代数学の課題と照らして試みられ始めた。それは後に述べるように、現代数学のいくつかの好ましくない傾向を克服する上に一定の役割を果すことを示した。

 書き出しの時点で早くも、現代数学には好ましくない傾向が見られると指摘されました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート54 大学院問題など

明治時代の大学にも大学院はあり、高木貞治先生も大学を卒業してから1年ほど在籍していましたが、そのころの大学院というのは特に何もすることはなかったようで、単に在籍するだけでした。高木先生は大学院生のころは好き勝手に数学の本を読み、著作を書くなどしていて、洋行に出発するのに先立って中退しています。洋行は早くから決まっていたようで、出発するまでの間の経歴に隙間が生じないようにするために大学院に在籍したのであろうと思います。
 高木先生の時代には大学に進み、卒業するということ自体がすでに「少数精鋭」でした。数学ばかりではなく、学問芸術工業などなど、あらゆる分野でごく少数の人が選抜されて大学に進み、その中のまた少数が洋行し、帰国して大学の教授などになる時代でした。大学は当初は日本にひとつしかなく、それから京都にひとつ、先代にまたひとつというふうに増えていきましたが、大学生であることそれ自体が「少数精鋭」であったことは変りませんでした。終戦ののちに学制が一変し、大学院も定員が設けられて入学試験が行われるようになりましたが、定員とは名ばかりだったのはLさんが報告しているとおりです。
 大学の学生数は現在ほどではないにしても学制改革の前と比べると大幅に増えていて、大学生であるからといって必ずしも少数精鋭とは言えなくなっていたと思います。選抜する側の大学の教員たちは戦前の少数精鋭時代の人たちでしたから、そのころの感受性がそのまま生きていて、定員を無視して大学院生をごくわずかしかとらないという現象が発生したのではないかと思います。ところが、その結果、大学院に進んでさらに勉強を続けたいと願う学生たちの排除につながり、ここに軋轢が生れることになりました。定員が決まっているのだから定員いっぱいの学生をとり、数学の勉強を続ける機会を与えるべきだというのはもっともな議論です。
 このような学制の変化に伴う軋轢とともに、数学という学問そのものの変化という出来事もまたSSSの結成に影響を及ぼしています。数学は第1次大戦後あたりから抽象化に向う傾向1950年代に大学に在籍していた人たちにとって、数学をどのように学ぶべきかということは深刻な問題として受け止められていたことと思われますし、そこから発生した諸問題が「月報」のいろいろな記事になって論じられました。数学とは何か、という根源的な問い。数学はいかにして今日のような姿になったのか、という歴史的な問い。数学は何を研究するべきなのか、という実践的な問い。数学はこれからどうなっていくのか、という将来の展望。このような雰囲気の中でブルバキの動向が注目を集め、谷山さんなどもブルバキの音頭取りみたいなアンドレ・ヴェイユに関心を寄せ続けました。ブルバキとヴェイユはここに挙げた諸問題について、明確な見通しをもっていたように感じられたためであろうと思います。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート53 振り返って

新数学人集団とは何かという当初の問題に立ち返り、再考してみたいと思います。新数学人集団は「数学方法論研究会(仮称)」として始まったのですが、それに先立って遠山啓先生の著作『無限と連続』の合評会があり、東大の数学科の学生たちが集まりました。遠山先生の著作によほど大きな魅力があったのだろうと思われますが、その魅力というのはどのようなものだったのでしょうか。この点がまず気にかかります。
読書会に集ったメンバーの名前はわかりませんが、少しのちに新数学人集団に加わった人たちのことは相当具体的にわかっています。谷山豊、銀林浩、杉浦光夫、山崎圭次郎という諸先生は1953年3月卒業。倉田令二朗先生と斎藤正彦先生は1954年3月卒業。みなSSSの草創期からのメンバーでした。SSSはだんだん拡大して、全国の大学の数学科の学生たちが集結する全国協議会みたいな恰好になりましたが、1953年と1954年の卒業生たちの親睦会というか、勉強会のような形で発足したことにも注目したいと思います。
『無限と連続』は現代数学入門みたいな感じの本ですが、そういう本に関心を示したということは、数学が抽象化に向って変容していきつつある状況と無関係ではありえません。数学はまったく新しい方向にむかっているという認識と自覚があり、その流れに飛び込みたいという念願があったのではないかと思われます。
そうすると世代間の断絶ということも考えられるところです。東大の諸先生の講義はなんだか古臭く感じられたのでしょう。そこで仲間が集まって勉強会をしようということになり、そうすると『無限と連続』が輝いて見えたということなのかもしれません。新しい数学への道標のような感じでしょうか。
 新しい数学を指導する力のある先輩たちはまったくいなかったわけではなかったのですが、終戦ののちに相次いでアメリカに移ってしまったため、指導を受ける機会はありませんでした。『月報』では指導者の不在ということもひんぱんに話題になっていました。数学者の海外流出ということが大きな話題として浮上して、在米の岩澤健吉先生に帰ってきてほしいなどと願った模様ですが、実際にはなかなか実現しません。そこで協同研究というアイデアを出し、みなで協力して勉強していこうという考えがあったように思います。
 数学の新たな潮流というとブルバキが連想されますが、ブルバキの音頭取りはヴェイユです。そのヴェイユが、東京と日光で開催された整数論シンポジウムのおりに来日したのですから、SSSにもたらした刺激の強烈さも想像されます。来日したのはヴェイユひとりではなく、セールやシュヴァレーなど、ブルバキのメンバーもいっしょでした。そこで、SSSは来日した外国人数学者たちとの交流に熱心に取り組みました。
 少数精鋭主義に対する反発は非常に強く、「ぼろぼろ」という呼称もそこから生れました。大学に職を得て研究生活を送ることができる人は少数の精鋭で、その他の多くは自活の道を探りながら数学に向き合っていくということになりますが、あまりにも過酷な道であるのはまちがいありませんし、「ぼろぼろ」という不思議な呼称もそこから生れました。倉田先生もよく「ぼろぼろ」について語っていたものでした。
「ぼろぼろ」は数学を続ける必要はないというのが少数精鋭主義で、これに抗するというのは、「ぼろぼろ」にも数学を続ける機会があるべきだという主張になり、具体的には大学院の学生を定員のとおりに採用するか否かという状況として現れてきます。

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