Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート34 数学の才能とは

共鳴箱の理論に続いて、ヴェイユは数学の才能について語りました。

ヴェイユ
数学には天才というものは確かにある。ガウスをみたまえ。ガロア、アーベルをみたまえ。数学者として生れついている人というのはあるのだ。そんな人が数学者にならないことはもちろんあるが、そうでない人が数学者になることはない。
 もちろん才能のない数学者は多い。数学が非常に好きで、よく勉強してもいっこうにできない人もある。
 しかし解決がないわけではない。私の友人の・・・(カヴァリエーとか言ったが記憶不正確)は数学が非常に好きだったが、たいしたことはできなかった。しかし途中から数学史に転向し、その領域ではいろいろよい仕事をしている。彼は自分の解答を見出だしたわけだ。・・・
SSS
日本では才能があっても伸びないことも多い。第一、先生がいない。みなアメリカへ行ってしまう。われわれにとっては大きな問題だ。次に、先生がいたとしても、われわれに何を読むべきか、古典が何であるかさえも教えてくれない。みな自分で発見しなければならないのだ。
ヴェイユ
私の若いころもちょうどそれと同じだった。私がアーベル関数を始めたとき、フランスにはまともにテータ関数を知っている人さえひとりもいなかったので、自分でいろいろな文献を見出ださなければならなかった。今ではフランスにはSSSができて(ブルバキのことか?)old SSSがyoung SSSに教えるようになったが、最初フランスで始めたときは君たちと同じ事情だったのだ。
SSS
たとえば私は代数関数論をワイルのリーマン面(註。ワイルの著作『リーマン面のイデー』のこと)から勉強し始めたのだが、あれにはテータ関数が書いてないので、リーマンを読むまでヤコビの逆問題の意味を誤解していた。
ヴェイユ
リーマンから始めるべきだ。私はリーマンから始めたので誤解しなかった。

 指導者がいないとSSSが訴えかけると、自分も若いころはそうだったとヴェイユが応じました。指導者がいなければひとりでやればいいではないかと言わんばかりの発言で、このあたりのSSSの心情は伝わらなかったのでしょう。
 SSSはヴェイユとの座談会を企画していて、その日は10月22日の土曜日と予定されていました。それに先立って、日本数学界の特殊事情を多少知っておいてもらうほうがよいと対策委員会が判断し、ヴェイユに宛てて一通の手紙を書くことになりました。手分けして翻訳し、タイプになぐり打ちしてできあがったのは座談会の前日21日の午後10時でした。ただちにホテルに届けましたが、ヴェイユはまだ外出中でした。
 手紙の要旨を摘記します。

・日本では経済的理由と、研究者としても地位が非常に少ないことのために、研究を続けることのできる人は非常に少ない。一方、研究を志す人の数は、それに比べると相対的に非常に多い。従って、幸いにチャンスを得た若干の人たちを除くと、大部分は失業するか、あるいは研究を断念して別の職につくことになる。
・チャンスを与える権利を握っている教授層は古い固定観念にとりつかれた、高度に保守的な人びとの集まりである。この古い観念が少数精鋭主義と呼ばれるものである。これは多くのよくない傾向と結果を生んできた。

 ヴェイユを相手に日本における数学研究の状況を訴えかけるSSSの言葉が続きます。

スポンサーサイト

新数学人集団(SSS)の時代 ノート33共鳴箱の理論

ヴェイユの書きものに「数学の将来」というのがあり、ヴェイユはそこで「共鳴箱の理論」を語りました。数学者を一流と二流以下に分けて、「二流の数学者は、彼自身の出すことのできない音色に共鳴する共鳴箱の役割を果すにすぎない」という主張を指しているのですが、SSSはかねがねこれに反対していました。そこでヴェイユ本人に向って「共鳴箱の理論」を攻撃したところ、ヴェイユは長広舌をもってこれに応じました。

ヴェイユ
私は共鳴箱はつまらんと言っているだけではない。それはまた必要でもあるのだが。共鳴箱がないと音叉はさびしいではないか。たとえばベルヌーイはライプニッツの弟子だが(記憶多少あいまい。註。ベルヌーイ兄弟のことと思います。兄のヤコブと弟のヨハン)、ライプニッツはベルヌーイが現れてからよけいよい仕事をするようになった。もちろんベルヌーイは単なる共鳴箱ではなく、彼自身すぐれた数学者だが、ここで私の言いたいのは、すぐれた数学者も共鳴箱がないと不幸で、あまりよい仕事ができないことが多いということだ。自分の話すことを理解してくれる共鳴箱が必要なのだ。音楽に作曲家と演奏家があるように、数学にも新しい理論を作る人と、それを多くの人びとに上手に講義する人の両方があってもよいと思う。
 いろいろな雑誌、たとえばクレルレの創刊当時のものでも開けてみたまえ。くだらない論文がいっぱい載っていることがわかるだろう。そんな論文は現在何の価値もないが、当時は必要だったのだ。なぜなら彼ら共鳴箱はすぐれた数学者に共鳴するだけでなく、自分でも何か論文を書いてみたかったに違いない。そのような論文のために紙面を広くあけておくことが必要なので、いつの世の中でも彼らが必要なのだ。

クレルレは19世紀のプロイセンの鉄道技官です。数学者というわけではありませんが、数学を愛し、ドイツで最初の数学誌「純粋数学と応用数学のためのジャーナル」を創刊しました。第1巻は1826年発行。通称は「クレルレの数学誌」。ヴェイユは「クレルレの数学誌」を指して単にクレルレと言っています。
 ヴェイユのいう共鳴箱の理論を翻案すると少数精鋭主義になりそうですし、少数精鋭主義に反対するSSSとしては当然のことのように共鳴箱の理論を攻撃したのでしょう。ヴェイユはひるむことなく言い返し、共鳴箱にもそれなりの役割はあるのだと不思議な弁明を繰り広げました。共鳴箱の理論には一理がありますし、これを打ち砕くのはむずかしそうですが、同じひとりの数学者があるときは音叉であり、またあるときは共鳴箱であることもありそうです。最初から最後まで一貫して音叉であり続けるというのも稀有なことのようにも思います相、当初は共鳴箱にすぎなかった人が何かのきっかけにより音叉に変貌するということもありそうです。共鳴箱の理論はそれ自体としては正しそうですが、純粋の音叉は存在せず、純粋の共鳴箱もまた存在しないのではないかとも思いますし、それなら共鳴箱の理論を唱えることの意味は失われてしまうのではないでしょうか。
 顧みればヴェイユもまた一個の巨大な共鳴箱のように見えないこともなく、19世紀の偉大な数学者たちがヴェイユにとって音叉の役割を果しています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート32 アイデアをめぐって

SSSとヴェイユとの対話が続きます。

ヴェイユ
アイデアはふっと浮かぶものだ。なぜ浮かんだか、自分にもわからないことが多い。しかし、よいアイデアを見出だすことのできる人が、数学の才能を持った人だ。だが、よいアイデアを少なくとも二つ持った人でないとよい数学者とは言い切れない。なぜなら凡庸な数学者によいアイデアが偶然浮かぶこともあるからだ。たとえばモースがそうで、彼は非常におろかな数学者で、数学もたいして知らないのだが、変分法でひとつのよいアイデアを持っている。しかし二つ以上のよいアイデアが凡庸な者に偶然浮かぶ確率は非常に少なく、ネグリジブル(無視できる)だ。
SSS
あなたの最初のアイデアは?
ヴェイユ
それは私のテーゼ(学位論文)だ。私は先生(名前は記憶不正確故省略。註。アダマールと思います)からモーデル(註。イギリスの数学者)の研究を聞いて、その論文を一晩で読み、ひとつのアイデアを得た。論文を返すときそれを先生に話したが、信用されなかった。私には自信があったので多くの人びとに話したが、だれも信用しなかった。しかしそれに基づいて研究を進めて、だいたいできたころ、どこかでジーゲルに会ったので、彼にそのアイデアを話したら、彼は非常に喜んで大いに激励してくれた。もうだいたい完成していたのだから、彼に激励されなくても結局はできたろうが、とにかく私はそのときたいへんうれしかった。
 その後20年ほどたってまたジーゲルに会ったとき、ジーゲルが言うには、「私(ジーゲル)は君(ヴェイユ)があのアイデアを話したとき、それに従ってうまくいくとは思わなかった。にもかかわらず私は君を激励したのだ。私はいつもそうしている。なぜなら若い人が何かアイデアをもって大問題と取り組んでいるときには、非常な不安があるものなので、だれか名の知れた数学者がそれを激励しないと途中で断念してしまうかもしれないから云々」と。私はこの話にたいへん感心して、それ以後、私自身そうすることにしている。
 ただしリーマン予想だけは例外で、それをやることは思いとどまらせたいと思うが、とにかくも激励されたために、偶然にでもその大問題が解ければ、それは数学のために非常に喜ばしいことで、また、できなくても、それは本人の不幸たるにとどまるから問題はない。数学にとってはもともとのことだ。

 ヴェイユは数学にとってアイデアを持つことの重要さを、自分の体験と合わせてこんなふうに語りました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート31 ガウスのように

『月報』第3巻、第3号の記事「A.Weilに接して」にはSSSとヴェイユとの交流の模様が詳しく再現されていますので、一読してみたいと思います。IからVまで、五つの節分れています。第I節の小見出しは「フジホテル」にて。10月10日の夜、SSSの3人のメンバーK、S、Yがヴェイユを訪問したときの記録です。訪問者の実名はわかりません。以下、筆写します。

ヴェイユ
日本人の数学を見ていて特に感ずることがある。日本人には、先輩や目上の人に従うように要求する習慣があるのか。
SSS
戦前、戦争中は特にそうだった。日本人のモラルの中心でさえあった。われわれも小学校以来盛んにたたきこまれた。
ヴェイユ
時に数学では、若い人びとに、手軽にできることをやり、あまり大きいことには手をつけないようにすすめる習慣があるのか。自分の考えを押し出さず、偉い人の思想圏内で仕事をするほうが安全だと忠告する習慣があるのか。
SSS
だいたいそうだ。
ヴェイユ
日本で本当に独創的な研究を始める人は少なかった。岩澤(健吉)はその少ないひとりだが、一方小平(邦彦)は非常によくできるにもかかわらず、私やレフシェッツ、ホッジなどの仕事を完成するようなことしか手を出さなかった。ごく最近、やっと彼自身の考えに基づく研究が出始めた。もっともっこれは岩澤が小平よりすぐれた数学者だという意味ではない。私の言いたいのは、小平のようにすばらしい数学者が、自分のアイデアを見出だすのにこんなにも遅れたことで、これはまさに驚くべきことだ。
 しかし、戦後、日本の若い人の間に、自分のアイデアを持って始めようとする者が増えてきた。特に君たちはみな高みをねらっているが、日本でこのような傾向ができたのはごく最近のことで、非常によいことだ。
 とにかくも自分のアイデアを持って始めるように。ガウスはそうだった。君たちもガウスのように始めろ。そうすればまもなく君たちは自分がガウスではないことを発見するだろうが、それでもよい。とにかくガウスのようにやれ。
 モラルを変えるのはたいへんだが、数学のやり方を変えるだけならそれほどむずかしくはないだろう。

 「ガウスのように始めよ」と、おそるべき言葉をヴェイユは3人のSSSに語り掛けました。「ガウスのように」とはどのようなことなのか、具体的なことはまだわかりません。

新刊案内

  新刊書刊行案内
  書名:発見と創造の数学史
  副題:情緒の数学史を求めて
  出版社:萬書房
  発行日:平成29年(2017年)2月10日           


            発見と創造の数学史


新数学人集団(SSS)の時代 ノート30 原典を読むことについて

ヴェイユは「まともに数学史をやる人が実に少ない」と嘆息めいたことを口にして、「数学史の本を書く人は原典を読まないのでだめだ」と数学史家を批判し、「専門の数学者は日本でもヨーロッパでも古典を読む人は少なくなっているが、これはよくない」と、古典を読まない数学者を批判しました。古典に精通している数学者はごくわずかで、自分はそのひとりだと言っていることになります。
 ヴェイユは1926年から1927年にかけてドイツに滞在したことがあり、ゲッチンゲンではエミー・ネーターと知り合い、ベルリンではホップに会ってトポロジーの手ほどきを受けました。それからフランクフルトでデーンやジーゲルと知り合ったのですが、この二人は数学史の方面でヴェイユに大きな影響を及ぼしました。デーンは1921年にフランクフルト大学に赴任し、翌1922年に数学史のセミナーを始めました。数学の古典を原典で読んで語り合うというセミナーです。ヴェイユはもともと数学史に関心の深い人だったのですが、デーンのセミナーにはよほど感銘を受けたようで、後年、ブルバキの『数学原論』の刊行が始まったとき、ごく自然に「歴史覚書」を添えることを提案するという成り行きになりました。ヴェイユは数学と数学史に関するこのような体験を、日本で谷山さんを相手に語ったのでした。
前に「学習についての二三の提案」という文章を読んだときのことですが、「理論」と問題ということが話題になっていました。数学を学ぶというのは「理論」を学ぶのですが、その「理論」が「もとの具体的な問題」を知ることを妨げていて、そのためにしばしば「何をやっているのかわからない」という状況におちいってしまうというのでした。ヴェイユの言葉はこの悩みに対してひとつの、おそらく唯一の解答を与えているように思います。「原典を読むこと」がその解答です。
 「ボロボロ数学生の印象」にもどると、最後に「我慢のならぬこと」という小見出しが現れます。組織委員のひとりにA氏という人がいて、少数精鋭主義を主張したということが語られています。A氏の非公開主義は徹底していて、公開講演に先立って、「本会議はもとより非公開を旨とするものであって今から始める公開講演はその主旨に反するものである」という演説をしたほどでした。SSSはこのような考えに反対し、彌永先生との話し合いの席などで少数精鋭主義と正反対のことを主張し続けたところ、その主張がいくぶんか通り、傍聴者を入れることに決まりました。
 傍聴を申し込む人は非常に多かったようですが、拒絶された人もまた多く、傍聴を許された人はごくわずかにとどまった模様です。正規の出席者もなるべく少なくするという方針がとられたようですし、この時期の数学界には少数精鋭主義という考え方が強い大きな力をもっていた様子がうかがわれます。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート29 ヴェイユの数学論

 あるとき外国人グループとSSSの一同が集まって数学者の分類を始めました。「例によって」と記されていますから、何かというとこの話を交わしていたのでしょう。ヴェイユの見るところ、数学には理論的な数学と実験的な数学があるということで、「おれは理論家だ。アルティンもそうだ。典型的な理論家というと、たとえばガロアがそうだ。ジーゲルは純粋な実験家、ポリアは典型的な実験家。ヘッケは混合型だ」と持論を開陳しました。
他方、T.T.助教授はデリケートと非デリケートに分けて、シュヴァレーとヴェイユは両極端にあるという、きわめてデリケートなことを発言しました。これを受けて、ヴェイユが「おれはどっちだ」と勢い込んで問うたところ、T.T.先生は、「それは彌永氏の意見です」と答えました。彌永氏というのは彌永昌吉先生のことですが、このT.T.先生の返答はヴェイユのお尋ねに対する答にはなっていません。彌永先生の名前を持ち出しのも変です。
これを聞いたヴェイユは卑怯だとか、手口だとか言ってわめきちらし、「おまえももうじきアメリカに来るなら俗語のひとつも教えてやろう」と言って、possibly backというのがあるが、今のがそれだと指摘しました。possibly backというのは、球を順繰りにまわすように、次から次へと他人のせいにすることをいうのだそうです。
Weilの数学論」という小見出しのもとではもっぱらヴェイユの挙動が紹介されています。ヴェイユは奇行が目立つ人で、いろいろなエピソードを残したもようです。中には紙上で公表するにたえないいかがわしい話もないわけではないなどと書かれていて、そのうえ「多少ともごろつきがかっているというのはまぎれもない事実だ」と指摘されました。ただし、肝心なところでは、数学のうえでも人間のうえでもオーソドックスな筋を通そうと努力する人とのことで、このことは強調してよいであろうとのこと。ヴェイユはどのような人なのか、これだけではよくわかりませんが、続いて谷山さんから聞いた話というのが紹介されています。谷山さんはヴェイユと二人だけで語り合う機会があった模様です。以下、摘記します。

・ヴェイユはヘッケを重視している。ヘッケの仕事については、その理論の意味をさがすよりもまずヘッケと同じ方向に沿って結果を出すほうが先決問題だ。ヘッケの仕事に附随して、アイヒラーとマースの最近の仕事にも関心を寄せている。
・まともに数学史をやる人が実に少ない。数学史の本を書く人は原典を読まないのでだめだ。専門の数学者は日本でもヨーロッパでも古典を読む人は少なくなっているが、これはよくない。
・ヴェイユの言葉
「私はアーベル関数の理論をリーマン全集から始めた。」
「だれを読めばよいのかは少し読んでみればわかる。アイデアを含んでいるものと技巧だけしかもっていないものとの区別はやさしい。」
・ヴェイユの師匠は依然としてガウスとリーマンである。クロネッカーもよい。ヴァイエルシュトラスは読んでいないが、あるものは重要だ。クラインには人のやったことしかない。ガウスを読むのはガウスがガウスであるからだが、クラインを読むのはほかにモジュラー関数について書かれた本がないからだ。
・ポアンカレはよいアイデアを含んでいるが、ちょっと読んだだけでは彼が何をやっているのかわからないことが多い。ポアンカレ自身、途中でやめてしまうためか、それに気づいてないようだ。ポアンカレのやったことは全部自分で再構成してみなければ、彼がどんなアイデアをもっているのか、何をなそうとしているのかわからない。
・ヴェイユの学位論文のテーマはポアンカレの論文に基づいているが、それをやってみるまでポアンカレのことがよくわからなかった。
・楕円関数をやる人はぜひヤコビを読むべきだ。ジョルダンの『解析概論』(全2巻)はよい教科書だから、そこだけでも(註。楕円関数論が書かれている部分)翻訳してはどうか。
・ブルバキの『数学原論』の歴史覚書について。はじめのころは全部ヴェイユが書いた。最近はデュドンネとサミュエルが少し書いている。

 こんなふうにおもしろいエピソードが並んでいます。ヴェイユは20世紀の数学の根幹を作った人ですが、そのヴェイユの数学の師匠はガウスとリーマンとのこと。ガウスとその継承者たちの数学の遺産を、強固な自覚をもって引き継いでいたのでしょう。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート28 ボロボロとは何か

ヴェイユとかアルティンとか、戦争が終結して10年目の日本の数学者たちの目には、外国からやってきた数学者たちのひとりひとりがまるで数学の神様のように見えたのかもしれません。SSSの面々にとってもそうだったのかもしれませんが、SSSは臆することなく自由自在に振舞いました。その姿がT.T.先生のような人の目には傍若無人と映じ、さぞかし不快だったことと思います。
 SSSはもっぱら外国の数学者たちに関心を示しました。英訳して配布した『月報』の抜粋というのは次に挙げる6篇の記事です。

1 谷山豊「A.Weilをめぐって」(第1巻、第1号)
2 倉田令二朗「ヒルベルトの現代的意義」(第1巻、第4号)
3 谷山豊「日本の整数論史」(第2巻、第5号)
4 M.M.「数学をやって」(第2巻、第4号)(これはお茶の水女子大学の数学科の学生の投書です。)
5 討論室の記事「少数精鋭主義に反対する」(第3巻、第1号)
6 「シムポジウムについて」(第3巻、第1号)(これも投書です。)

 これらの記事の英訳を作成し、「怪しげな紙」にタイプしたというのですが、「怪しげな紙」というのはいったいどのような紙なのでしょうか。このようなおもしろい言葉遣いや、「ボロボロ数学生」などという言葉を見ていると、なんだかこの記事を書いたのは倉田令二朗先生なのではないかとつい思ってしまうのですが、もちろん確証があるわけではありません。
 ともあれ『月報』の抜粋を外国の数学者たちに配り始めたところ、みな異常な関心を示し始めたということです。だいたいにおいてブルバキとのアナロジーでSSSを理解したようで、アルティンなどは「SSSとはブルバキのようなものか」と問うてきました。そこで「ブルバキのようなこともやるし、ブルバキのやらなかったこともやる」と応じたところ、「Oh! Super Bourbaki !!」と言ったそうです。ブルバキを越えるブルバキ、スーパーブルバキということのようですが、意味はよくわかりません。少数精鋭主義はselected minority principleと訳しましたが、この言葉の意味は最後まで伝わらなかった模様です。 少数精鋭主義の意味はわかりますが、そうするとボロボロというのは少数の精鋭の仲間に入れなかった数学の学生というほどの意味になります。数学は特別の秀才だけがやればよいのだというのが少数精鋭主義で、それに抗議しようとするところにSSSの問題意識がありました。数学に限ったことではなく、日本には途方もなく多くの科学者が途方もなくボロボロになっているという現状認識が根底に控えていて、そのような国はほかにないのであるから、どう翻訳しても意味は伝わるものではないという判断が下されました。
 少数の精鋭はだれが選ぶのだろうかとか、選ばれずにボロボロになった人たちはどうやって生活し、数学を続けていったのだろうかとか、素朴な疑問が次々と生れます。
 スーパーブルバキズムに続いて「delicateな問題」という小見出しが現れます。国際会議の会場は金谷ホテルですが、SSSはどうやらLake-side Hotelに陣取ったようで、この二つのホテルの間をブルバキとSSSが招待したりされたりして行き来していた模様です。日本の偉い先生たちとはまったく無関係に交流をはかっていたのですが、それがSSSにとっての国際会議でした。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート27 傍聴者問題について

ここまでのところで会議の出席者と日程のおおよそが判明しましたが、出席者の名簿を見ると新数学人集団のメンバーはごくわずかです。出席した諸先生も招待された人と傍聴を許された人とに区分けされていて、このくべつはどのような基準でなされたのかもまだ不明です。会議の中味を見ると講演と報告が続くばかりで、議論や質疑応答が行われた様子は見られません。それにもかかわらず新数学人集団は積極的に関与しようと試みたようで、現に『月報』誌上で長大な特集を組んでいます。
 特集記事のひとつに「傍聴者問題について」という投書があります。著者は「H」と記されているのみで、実名はわかりませんが、全体に批判的な調子に覆われています。以下、摘記します。

・今度のシンポジウムに傍聴者として出席したが、不当、不快を感じたので投書する。
・はじめの話では、今度のシンポジウムでは野次馬を入れないで、数学のよくわかる人たちで落ち着いてやろうということだったが、まったく落ち着いた会議だった。討論などはまったくなく、儀式のような講演が次々と行われた。たしかにこのような落ち着いた会議を実現させるためには、質問や討論の好きな野次馬どもは出席させないほうがよいにちがいない。数論を知らず、微笑ともったいぶったことの好きな連中を並べておくのが良策だ。
・どう見ても数論の専門家に見えない出席者がいた。他方では、数論を志していながら出席はおろか、傍聴からも締め出された人もたくさんいた。田舎で数学を教え、研究している人たちが傍聴を拒否された。だが、これらの人たちこそ、日本の数学を支えている土台なのではないか。これらの人たちにとって、この会議に出席することは数学をやるエネルギーのひとつの源泉になりうるのではないか。これらの人たちが、会場で写真を撮ることに専念していたあの出席者より騒がしいとでもいうのか。
・傍聴者の待遇はよくなかった。演壇ははるかかなたにあり、しばしば聴き取りにくかった。傍聴者の席はしぶしぶ設けたという感じを受けた。
・今度のシンポジウムは少数の特権者以外の人が虐待を受けたことはまぎれもない。

 これによると、出席者とみなされるのは招待された人だけで、傍聴者は附録のような扱いだったという印象があります。「田舎」というのは「東京以外」という意味と思います。写真撮影に専念していた人というのはだれのことなのか、わかりません。
 もうひとつ、「IMU・ボロボロ数学生の印象」という長文の記事があります。著者名は記されていませんが、われわれはシンポジウムに招待されなかったことはもとより傍聴も許されなかった連中だということが冒頭に書かれているところをみると、いろいろなうわさ話を収集して書き並べた一文のように思います。「ボロボロ数学生」というのは意味がよくわかりませんが、新数学人集団のメンバーの自称です。
 小見出しを立てて記述されていて、最初は「Super-Bourbaki」。「会議を通じて最も傍若無人に振舞ったのはSSSとブルバキだった」と書き始められています。新数学人集団のメンバーの中からは谷山さんと志村五郎先生が出席していて(この両名のほかにもいるかもしれませんが、はっきりしたことはまだわかりません)、虚数乗法論に関する重大な報告を行いました。それを受けて、ヴェイユは「谷山、志村の研究と俺の研究によって虚数乗法の一般化はほぼ完全となった」と言ったそうです。ただし、だれに向って語ったのか、詳細は不明です。
 SSSのメンバーはたいていは出席も傍聴もできなかったようですが、出席もしくは聴講した人も何人かいて、その人たちがいわばSSSを代表して会場で活動しました。9月7日のビアパーティのおりに「怪しげな紙に英訳タイプした月報の抜粋」を配り歩いたところ、外人数学者たちは異常な関心を示し始めたそうで、それを見た東大助教授のT.T.先生は「いやないたずらしますねえ」と横目でつぶやいたのだそうです。
 T.T.先生は会議が終るとすぐにアメリカに無期限留学したということですが、思い当る人はひとりしかいません。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート26 会議の日程

国際数学会議の概観を続けます。まず日程のことですが、シンポジウムそのものはビアパーティから閉会式まで続きます。外国から参加する数学者たちは8月中ころから少しずつ来日し、東京や東京以外の地方で講義を行ったりしました。東京では、9月5日の午後1時半から東大でセールの講義がありました。これは公開講義でした。
 9月6日の夕方からフランス大使館の招待によりカクテルパーティがありました。9月7日には午後1時半から東大でブラウアーの講義がありました。これも公開講義でした。その後、夕方5時からビアパーティーがありました。開会式の前なのですが、これをもって国際数学会議のはじまりとみなされたということと思います。招待された人と傍聴者が出席しました。
 9月8日、午前10時半に開会式が始まりました。場所は第一生命会議室(東京)。会議に招待された人と傍聴者のほかに、日本の数学者たちも大勢招待されました。文部大臣も出席して挨拶しましたが、この挨拶のみ、日本語で行われました。11時、開会式終了。
 12時から2時までは東大総長の招待による昼食会。高木貞治先生も出席しました。昼食会ののち、2時から4時半まで東大で下記の三つの公開講演が行われました。
1 アルティン「組み糸の理論」
2 ヴェイユ「ゼータ関数の育成」
3 シュヴァレー「数学雑誌について」
講演終了後、4時半から5時までは学士会館でお茶の時間。6時から8時まで、学術会議の議長の招待によるカクテルパーティーがありました。9月8日の行事はこれで終りですが、東大総長や学術会議の議長まで登場したりというふうで、盛りだくさんの一日でした。
 開会式の翌日の9月9日は実質的に会議の第一日になりました。第一生命会議室でアルティン、岩澤健吉、ヴェイユ、ブラウアー、淡中忠郎、久保田富雄という人たちの講演と、寺田文行、竹田清の2名の報告がありました。午前中は9時半から12時まで。お昼休みに続いて午後2時から4時半まで続きました。講演者と報告者のうち、竹田清先生は武蔵工大の教授で、招待された人と傍聴者の名簿には名前がないのですが、短い報告を行ったということです。この日の夜は歌舞伎町見物でした。
 9月10日、第二日。午前9時半から11時45分まで講演と報告が行われました。会場は第一生命ビル。講演者はシュヴァレー、山崎圭次郎、ゼリンスキー、中山正。報告者は稲葉栄次、池田正験。午後、1時55分の東武電車で日光に向いました。
 9月11日は日光見物。
 9月12日、第三日。午前9時から12時までと、お昼休みをはさんで午後2時から4時半まで、講演と討論会が行われました。会場は日光金谷ホテル舞踏室。講演者は志村五郎、谷山豊、ヴェイユ、ドイリング、佐武一郎、ラマナタン。討論会のテーマは虚数乗法論でした。
 9月13日。この日が最終日です。午前9時から12時まで講演と報告。会場は金谷ホテルの舞踏室。講演者はセール、ネロン、中井嘉和、永田雅宣。報告者は東屋五郎、増田勝彦、国吉秀夫、高橋秀一、河田敬義、玉河恒夫、滝沢周雄、森嶋太郎、成田正雄、小野孝、守屋美賀雄、森川寿、山本幸一。次いで二次形式に関する討論会が行われ、それから閉会式となりました。夜はお別れパーティーでした。
 会議はこれで終了し、9月14日の昼、東京にもどりました。夕刻5時からカクテルパーティーがあり、寄付者が招待されました。実業家などに寄付を依頼した模様です。
 9月15日、午後2時から東京工大でラマナタンの講演がありました。公開講演です。こののち外国の数学者たちは北大、東北大、東大、教育大、京大、阪大、広島大で講義または講演を行いました。あるものは日本数学会主催、あるものは各々の大学が招待したものでした。帰国の日程は、9月16日にセール、24日にブラウアー、シュヴァレー、ネロン。27日にラマナタン。30日にアルティン、ドイリング。ヴェイユは10月中旬。ゼリンスキーは1年ほど日本に滞在するとのことでした。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。