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新数学人集団(SSS)の時代 ノート14 「学習についての二三の提案」より(その2)

「学習についての二三の提案」の書き抜きを続けます。

・伝統のある国々では、もとの問題を提出した数学者がまだ生きていたり、少なくとも精神だけは受け継がれていて、このような困難も無意識のうちに解決されているのかもしれない。日本では整数論など二三の分野を別にして伝統がなく、ほとんどすべてを論文と書物から得なければならない。そのためにこの問題は非常に深刻である。
・これに加えて、ヒルベルト以後、数学はいっそう多くの分野に分かれて、その各々が独自の発達を遂げてきたため、ひとりの数学者が全数学を体現するというようなことはヒルベルトをもって最後とする。
・このようなわけで、数学はまず本来の形の問題を知るのが困難である。第二に、本来の問題が現代の「理論」といかに結びついているのかを知ることに困難がある。第三に、数学の分野が非常に多様になっているために、個人の専門分野が次第に狭まっていき、お互いに理解し合うのが困難になっている。
・数学全体が生気を失ったり萎縮したり矮小化したりしないようにするために、協同研究に期待できるのではないか。「問題こそが数学の生命である」というヒルベルトの言葉に帰るなら、協同研究によって各自が豊富な問題を持ちうるのではないかと期待する。
・すぐれた協同研究の一例としてブルバキを挙げたい。ブルバキがどの程度まで密接な協同研究をやっているのか、それはわからない。だが、たとえばヴェイユが自分のアイデアをアンリ・カルタンのもとに送り、カルタンのセミナーの人びとがそれをもとにしていろいろな新しい結果を出したという話はよく耳にする。日本でもこれにならい、自分の考えや思いつきを完成するまでひとりでやるというような狭い料簡を捨てて、お互いに知らせ合えばずっとりっぱな結果が得られるのではないか。これが協同研究を提案する第一の理由である。
・日本における特殊な悪条件について。わたしたちが求めているのは過去に業績のあった人びとではなく、現在りっぱな仕事を続けている人びとの指導である。ところがそのような人たちの多くはアメリカにいる。数学では偉大な指導者が必要だ。たとえば、ヒルベルトのもとでもワイルやヘッケ。ヴェイユのもとでのブルバキ派、アレクサンドロフのもとのモスクワ学派など。
・これに加えて生活の苦しみも覆いかぶさっている。何の見透しもないことを道楽のつもりで続けていくわけにはいかない。そこで同じ道に進む者が互いに励まし合って努力していくことと、深い見透しをもったすぐれた人びとのまわりに集って勉強していくことが一段と必要と思う。
・外国の事情をよく知って取り残されないようにすることが必要だが、特にロシア語を読める人がすくないことや文献の入手がむずかしい事情もあって、ソビエトの数学の現状がほとんど知られていない。これは位相数学、確率論、偏微分方程式をやっている人にとって特に重要だ。そこでロシア語のできる人が自分の文献の要旨だけでもみなに伝えれば非常によいのではないか。

 このような説明の後に協同研究の提案が持ち出され、続いてその中味が5段階に分けて提示されました。

(1) クラスやゼミナールの中で、お互いに数学の問題を話し合うグループを作る。

これは取り立てて提案するほどのことではなさそうですが、単にグループを作るだけではなく、

(2) すぐれた見透しをもつ人をグループの中心にもつことが望ましい。それができない場合にも、できるだけそういう人の考えを聞くように努める。

と明記されています。この提案が打ち出された時点ですでに新数学人集団には数論グループが結成されていて、谷山さんが「すぐれた見透しをもつ人」と見られていたと思われます。これをモデルにして、数論以外の分野にも及ぼしていくことが期待されたのでしょう。
 ヒルベルトと相互法則のディリクレ氏たち、ヴェイユとブルバキ、アレクサンドロフとモスクワ学派。新数学人集団有志を名乗る人たちはそのようなグループを憧憬し、ヒルベルト、ヴェイユ、アレクサンドロフに相当する人物として谷山さんを念頭に置いていたのであろうと思います。

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新数学人集団(SSS)の時代 ノート13 「学習についての二三の提案」より

「月報」第2号にもおもしろい記事が続きます。谷山さんはここでもまた「T」という署名で「類体の構成について」というエッセイを書いていますが、これを見ると数学者としての谷山さんは「クロネッカーの青春の夢」の延長線上において、「ヒルベルトの第12問題」に深い関心を寄せていたことがわかります。早い時期に高木先生の『近世数学史談』に親しみ、数学科の学生のときはヴェイユを読み、ヴェイユを乗り越えようとする気構えをもっていた谷山さんですが、「クロネッカーの青春の夢」に期待を寄せていた様子がうかがわれます。
 「月報」第3号は1953年12月8日発行。大幅に頁数が増えて22頁になりました。定価は記されていませんが、次の第4号が18頁で20円ですから、第3号も20円前後だったのではないかと思います。注目に値するのは、

≪東大新数学人集団、都立大民科、東京工大有志、京大有志、岡山大有志、九大民科 連合機関誌≫

と明記され、新数学人集団の単独の機関誌というわけではないという位置づけが表明されたところです。実際の編集は新数学人集団が担当し、原稿の投稿先も清水先生になっていますが、どうもおのおのの大学ごとに新数学人集団を設立して全国に展開する組織をつくろうとしていたような気配が感じられます。
 「新数学人集団数論グループの発足にあたって」という記事は、数論グループの創設宣言です。著者として「K.Y.」という署名が記入されていますが、山崎圭次郎先生のことであろうと思います。
 「新数学人集団有志」の書名で書かれた記事
「学習についての二三の提案―数学の見透しのために―」
には、数学に対する新数学人集団の考え方の一面が書かれていますので、要点を書きぬいて紹介したいと思います。

・数学を勉強していて非常に困るのは、「いったい何をやろうとしているのか」全然わからないことが非常に多いことだ。
・現代数学の性格についての考え。私たちが直面する困難は、ひとつには現代数学の全体的な性格から発していると思われる。20世紀の数学と19世紀の数学を比較して次のように言うことは、おそらく独断ではないと思う。すなわち、「19世紀には個々の具体的な問題が数学のすべてだったが、今ではどちらかと言えば膨大な体系が支配している」と。
・ヒルベルトの方法の特色を解説するワイルの言葉。「ヒルベルトは本来の簡単な形の問題にさかのぼる。」この方法によってのみ、ヒルベルトは数学をひとつの全体として把握することができたのだ。
・今ではどうか。問題と私たちの間には抽象的な「理論」があるのが普通である。そのためもとの問題は全く見えないか、少なくともアレンジされている。一方、「理論」が扱い得ない問題は忘れ去られているようである。この「アレンジされて提出される問題」は、多くの場合、もとの具体的な問題を知っての上ならば、もとの問題から本質的でない部分を取り除いたいっそう見透しのよい形と感じるが、もとの問題を知らないと非常に晦渋に思われる。しばしば「何をやっているのかわからない」と嘆く声が聞かれるのも、原因はそこにあるのではないか。

 「何をやっているのかわからない」という、60年後の今も数学を学ぼうとする人を悩ませる難問に新数学人集団は直面し、何かしら対策を提案しようとしています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート12 谷山さんの言葉の続き

アンドレ・ヴェイユを語る谷山さんの言葉を続けます。

・ヴェイユの思想は明晰判明だが、ヴェイユの論文は、表現は簡潔、援用手段は豊富、方法は強引、はなはだ読みづらい。
・(ヴェイユの秘密 その1)もっとも興味のあるものを二、三取り出してみる。不定方程式の理論(学位論文)、代数関数に関する三部作、類体論とL-関数の理論。これらには共通する著しい特徴がある。ヴェイユは古典の中からその本質的なもの、キーストーン(要石)を鋭く洞察する。何が、如何に抽象され、一般化されるべきか。これが第一の問題である。
・(ヴェイユの秘密 その2)この計画を実行に移そうとすると重大な障碍が山積みになる。たいていの数学者はそこで挫折するか、あるいは迂回路を取ろうとするが、ヴェイユは当初の計画を変えない。障碍をひとつひとつ、強引にねじ伏せる。この腕力の強さと域の長さがヴェイユの第二の才能である。単なる抽象を越えたヴェイユの業績の深遠さはここに由来する。
・(ヴェイユの限界)才人は才に走る。あまりにも多くのことに手をつけるため、ひとつの問題を十分に深く追求しないうらみがある。そのためにヴェイユの重要な諸結果は繊細を欠いてしまう。
・(現代数学に対する疑問)確実な基礎が得られて、見通しのよい一般化が成し遂げられたが、ただそれだけのことではないか。19世紀の脛をいつまでかじっていればよいのか。まったく新しい分野、予期されない展開、いくつかの部門の形式的類似性を越えた深い関連。これらはもう存在しないのだろうか。ヴェイユの方法ではこの新天地を開拓するのは不可能である。われわれは第二、第三のヴェイユを必要とするのではないか。

 谷山さんの所論は以上のとおりです。現代数学というのはヴェイユの数学のことと考えられているような気配がありますが、正確な認識と思います。その現代数学は19世紀の数学のすねかじりの産物とのこと。この指摘も正確です。そうすると真に深遠なのは19世紀の数学であり、その脛をかじっているからこそ、ヴェイユの数学もまた深遠になるのだということになります。ヴェイユは抽象化の手法を19世紀の数学に適用していろいろな結果を導いているのですが、まさしくそこに深遠さと同時に限界が現れていて、ヴェイユの方法では19世紀を越えた新天地を開くことはできないと谷山さんは所見を述べました。本当に言いたかったのはこのことであろうと思います。深くヴェイユに学びつつ、ヴェイユを越えた場所に出たいという夢が語られているのですが、このようなところに谷山さんの魅力の秘密があるのではないかと思います。
 他の記事についても語りたいことはたくさんありますが、全容の概観をめざすという当面の方針に沿って先に進みたいと思います。「月報」の第2号は第1号から三箇月後の1953年10月15日に発行されました。定価は15円。第1号は10円でしたから5円の値上がりですが、頁数も増えて12頁になっています。連絡先は「東大数学教室内 新数学人集団」と明記されました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート11 アンドレ・ヴェイユを論じる

遠山先生は1953年には東京工業大学にお勤めでした。その遠山先生を囲んで、東大の数学科の学生たちが座談会をもったということの背景にはどのような事情が控えていたのでしょうか。興味の深い出来事ですが、考察するべき課題のひとつとして念頭に置きたいと思います。前回、岩澤、矢野両先生が新数学人集団にとってのガストン・ジュリアに相当するのではないかと書きましたが、実際にはこのお二人は日本にいなかったのですから新数学人集団とは関係がありません。遠山線の著作の読書会と、遠山先生を囲む座談会が契機となって発足したのですから、新数学人集団におけるガストン・ジュリアはやはり遠山先生と見るべきであろうと思いあたりました。
 新数学人集団の創立メンバーを確定することも基本的な課題ですが、谷山さんは動かすことができません。谷山さんと同期で同じ1953年に卒業した杉浦光夫先生も創立メンバーのひとりです。団長の清水先生と副団長の倉田先生も創立メンバー。ほかに斎藤正彦先生、渡辺毅先生などのお名前が念頭に浮かびますが、正確な情報が手に入るまでは断言を避けることにします。
 谷山さんは早い時期に高木先生の『近世数学史談』を愛読し、大いに影響を受けたと言われていますが、それと関係があるのかどうか、アンドレ・ヴェイユに寄せる関心も並々ならぬものがあった模様です。1952年11月12日には「数学方法論研究会(仮称)」の第7回例会で「ヴェイユ」という題目で話をしています。この時期の谷山さんは東大の3年生ですが、略年譜を見ると、前年の1951年にヴェイユの三部作を読み、1952年には玉河ゼミでヴェイユの学位論文を読んでいます。このような体験を踏まえてヴェイユの話を試みたのであろうと思われます。その話の内容はわかりませんが、「月報」創刊号に「T」という署名で掲載された谷山さんのエッセイ「A.Weilをめぐって」を見ると、ヴェイユに対するいくぶん複雑な感慨が率直に述べられています。
 新数学人集団に関する諸事実の収集をめざすという当面の方針から離れてしまいますが、概要を書き留めておきたいと思います。以下、谷山さんの言葉の要約です。

・ヴェイユはおそらく世界第一の現役数学者であろう。ただし、ジーゲルは除く。
・ヴェイユは視野が広く、見識が高い。それは「数学の将来」や1950年の国際数学者会議での講演を見ればわかる。
・あまりにもだいたんに推測し、はったりではないかと思われるところもないわけではないが、凡庸な目をもって天才の思想を云々するのは危険である。
・ヴェイユはブルバキの中心人物である。フランスにはあまりにも強固な解析学の伝統があった。ブルバキはそれに反抗して生れたが、外見がモダニズムだからといって、かれらのもつ古典の素養の深さを見落としてはならない。
・かつて数学とは抽象化であり、公理系であり、無矛盾の体系であると言われた時代があった。しかし30年代の陶酔から醒めた「現代」数学はこの形式的規定をはなはだ不十分なものと感じている。
・無矛盾らしく見える抽象的体系の中で「意味」のあるものは何か。それは、古典的な諸結果を抽象し、統一し、見通しよく再編成しうるものでなければならない。その構成と展開。それが現代数学の任務であると言われる。しかも、ひとつの抽象的基盤の上のみに閉じこもった分野はスコラ化する危険にさらされる。アメリカの一部の学派にはすでにその徴候が見られる。ブルバキの仲間には伝統につちかわれた見識があり、それによってこの危険が克服されている。
・この意味においてヴェイユは現代数学を代表する人物である。そこにヴェイユの秘密があり、同時に限界もまたそこに見出だされる。

 まだ続きますが、谷山さんは30年代の抽象数学と「現代数学」を識別し、現代数学というのはヴェイユのやっている数学のことと理解しているように思います。ヴェイユの「秘密」と「限界」については、もう少し先まで読み進める必要があります。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート10 指導者の不在と遠山先生の登場

「月報」創刊号の記事「東大新数学人集団」を見ると、概略ではありますが新数学人集団の誕生の経緯が使わってきます。なによりも先に目を引くのは「東大新数学人集団」という呼称で、東大の数学科の学生を中心にしたグループとして発足したことがわかります。記事の冒頭に「東大の新数学人集団は今年三月、本年度卒業生を中心に結成された研究団体」と明記され、「略称SSS」と書き添えられています。「協同研究、教室運営の民主化、五月祭等に活発に活動」し、現在の会員は40名ということです。谷山さんは創立メンバーのひとりだったことになります。
 もう少し情報を拾うと、東大の数学教室では1949年(昭和24年)当時の主任は彌永昌吉先生でした。先日、津田塾大学でお会いした福富節夫先生は助手でした。学生の中に佐武一郎先生がいて、この三人が中心になって努力して教室会議が設立されました。福富先生は1919年(大正8年)10月31日に樺太に生れた人ですので、1949年には30歳です。
これで民主的運営の体裁が整いましたが、主任が交代して末綱恕一先生になると有名無実となりました。これに加えて、朝鮮戦争の勃発とともに、ということは1950年(昭和25年)6月末日ころということになりますが、岩澤健吉先生と矢野健太郎先生が渡米して、そのまま帰ってきませんでした。この二人の先生が日本にいなくなった結果、学生や若い研究者に対する指導がまったくなおざりにされるという事態になりました。新数学人集団の結成が要請される理由がここにあります。
 このような事情はブルバキの場合と似ています。フランスでは第1次大戦で多くの数学者が戦死したため、老大家たちはいたものの、アンドレ・ヴェイユやアンリ・カルタンなど、戦後の卒業生たちの指導にあたるべき少し上の世代の数学者がいませんでした。かろうじてガストン・ジュリアが戦死を免れていましたので、ヴェイユやカルタンたちは同世代の仲間を集めてジュリアのもとでセミナーをもちました。これがブルバキのはじまりです。
 新数学人集団の場合には、岩澤、矢野両先生あたりがブルバキにとってのジュリアに相当する人物と見られていたのかもしれません。
 また、1949年に設立された教室会議はわずか1年後の1950年には有名無実になったということですが、1953年3月の卒業生たちが数学科に進んだのはまさにその1950年でした。それから3年間の在籍中には指導はまったくなおざりにされたということですが、谷山さんの場合でしたら玉河恒夫先生のゼミでヴェイユの学位論文を読んでいます。講義もあり、ゼミも行われていた様子がうかがわれますが、それなら指導者はいたということにはならないのでしょうか。あるいはまた、教室主任は彌永先生から末綱先生に交代したとしても、彌永先生は学生たちに対してどうしていたのでしょうか。
 いくつかの素朴な疑問があることはありますが、ともあれ谷山さんの仲間たちは現状に不満がありました。そのような中で有志10数名が遠山啓先生を囲む座談会を開くという出来事がありました。この日付はすでに見たとおり1952年6月26日ですが、その三日前の6月23日には遠山先生の著作『無限と連続』(岩波新書)の合評会がもたれています。
 遠山先生との座談会がきっかけになって「数学方法論研究会(仮称)」が結成され、週に一度、例会がもたれるようになりました。ここまでのところだけでもだいぶ詳しく様子が明らかになりましたが、なぜここで遠山先生が登場するのでしょうか。『無限と連続』の影響が考えられそうですが、もう少し考えていきたいところです。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート9 「月報」創刊号にもどって

新数学人集団の機関誌「月報」と「数学の歩み」のバックナンバーがようやく全巻手もとにそろいましたので、あらためて「月報」の第1巻からはじめて観察してみたいと思います。紙の酸化がひどく進んでいて、字の判読は可能ですが、早晩崩壊してしまうのではないかという恐れがあります。特に第1巻などはぼろぼろになりつつある状態で、頁を繰るたびにぽろぽろと散ってしまいかねないというありさまです。
 本当は全巻マイクロフィルムにおさめるなどして保存する処置を工夫しなければならないのですが、全頁にわたってデジタル化するのも実にたいへんな作業です。
 「月報」第1巻の発行日は1953年7月15日と記録されています。1953年は昭和28年で、終戦後8年目。この年の3月に谷山豊さんが大学を卒業して、4月から大学院特別研究生になっています。定価10円。全部でわずか8頁。寄せられた記事の表題は下記のとおりです。

  清水達雄「創刊号に寄せて」
 学会に新風を 若き数学者の集い
 光は西方より
 九大民科準備会
 都立大民科
 東大新数学人集団
 教室めぐりのよびかけ
 S「数学の歴史に接して」(著者名「S」は清水達雄先生と思われます。)
 T「A.Weilをめぐって」(著者「T」は谷山豊さんです。)
 新人紹介 Peter Roquette
 行く人 来る人(アイレンベルクとシュヴァレーと矢野健太郎先生の消息が紹介されています。)
 T.T.「伊藤清の"確率論"」(著者名T.T.は不明です。)
 文献交流に努力したい 渡欧留学生送別会

新数学人集団(SSS)の時代 ノート8 アールフォルスを囲んで

「月報」第3巻、第5号の観察にもどりたいと思います。17頁から19頁まで、3頁にわたって「新数学人集団 例会の歩み」という記事があることは既述のとおりです。第3巻、第5号は1956年5月の発行ですから、その直前の1956年3月までの例会が記録されています。もう一度最初にもどると、そもそものはじまりは遠山啓先生の著作『無限と連続』の合評会で、開催されたのは1952年6月23日。三日後の6月26日には「遠山教授をかこんで」という集まりがもたれています。「例会の歩み」がここから説き起こされているところから推すと、遠山先生の存在は新数学人集団の結成にあたって特別に大きな影響を及ぼしていたのではないかと思われます。このあたりの消息の解明はこれからの考察の基本的な課題です。
 9月14日に準備会がもたれました。出席者数の記録はありません。それからいよいよ「数学方法論研究会(仮称)」が発足し、第1回目の例会がもたれたのは9月24日です。年末になり、年が明けて3月になり、同月14日、「回顧と展望の会」がもたれました。出席者は16名。ここまでが「数学方法論研究会(仮称)」で、次の4月15日の第22回目の例会から「新数学人集団」になりました。
 1956年3月17日の例会は第88回目になりますが、この日のテーマは「アールフォース氏をかこんで」ですアールフォルスは1変数の複素解析で知られるフィンランドの数学者で、この年の2月6日に来日し、各地の大学で講義を続けました。3月9日からの2週間は東京に滞在し、都内のあちこちの大学で講義をしていたのですが、3月17日の午後、SSSがアールフォルスを招いて座談会を開きました。場所は東大の本郷キャンパスの山上会議所。出席者は「18+」と記されていますから、「18人以上」ということでしょう。この記録は「月報」第3巻、第5号に「Ahlfors教授を囲んで」という題目で掲載されています。

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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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