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数学史研究の回想16 初心に返って

古代ギリシアから西欧近代へと数学のバトンがわたされて、デカルトやフェルマの創意が加えられて独自の数学が生い立っていく様子を観察するのはたいへんな作業ですが、長い年月をかけて取り組むだけの値打ちはたしかにありますし。数学という学問の本性を知るうえでも不可欠であろうと思われたものでした。ではありますが、これを実際に実行するのは一大決意を強いられることで、安直に踏み込むというわけにはいきませんでした。それに、古典研究を志したもともとの動機に立ち返ると、古代ギリシアから説き起こして現代に及ぶというのはあまりにも迂遠に思われたことでした。
 これまでに幾度か触れたことがありますが、古典研究の動機は多変数関数論、で、それも岡潔先生の論文集でした。数学の勉強を志していろいろな数学書を読み始めたのですが、どうもおもしろくなくて弱っていたところ、岡先生の論文集を読んで、数学という学問に寄せる考えが一変するほどの衝撃に襲われ、同時に深遠な感銘を受けました。それで数学史に心が向かうようになったのですが、この間の消息を語ると、それはそれで長々とした話になります。どのような結果になったのかという、結論めいたことだけを書き留めておくと、岡先生以降の多変数関数論の変遷状況を追っていこうとする気持ちが消失し、逆に岡先生の研究が出現するまでの経緯に追随したいと願うようになりました。具体的にいうと、多変数関数論の出発点までさかのぼり、そこからはじめて川の流れに沿って岡先生の論文集に及ぶというふうにしたいというのが、当初の望みでした。
 岡先生の最初の論文集には9篇の論文が収録されています。「多変数解析関数について」という通し表題のもとに、第1報、第2報・・・と続いて第9報に及ぶのですが、全体として「ハルトークスの逆問題」の解決という目的地がめざされています。没後、増補版が出版されて、第10報が収録されたのですが、それは第9報の続きというわけではありませんので、これについては別の角度から語る必要があります。
 第1報から第9報までの9篇の論文を通じてハルトークスの逆問題が解決される様子を目の当たりにして、深い感銘を受けたのですが、その感銘をはるかに上回る衝撃を伴う事実に直面しました。それは、「岡先生の多変数関数論研究は未完結であった」という事実です。
 多変数関数論ではよく三つの未解決問題ということが言われていました。クザンの問題、
近似の問題、それにハルトークスの逆問題で、これらをことごとくみな解決したのが岡先生であるということになっていたのですが、それはそれでまちがいのこととして、岡先生には岡先生の研究の目標があり、岡先生はその究極の目的地をめざして歩みを進めたものの、ついに到達することができませんでした。それは多変数関数論のテキストを読むだけでは決してわからないことなのですが、岡先生自身の論文には率直に書かれています。古典研究の意義と醍醐味が感知されるのはそのあたりです。
 岡先生の第7報の序文を見ると、内分岐領域の解明に向かう強固な意志がはっきりと伝わってきます。しかも、これができなければ代数関数さえ考えることができないと言い添えられているのですから、究極のねらいは多変数の代数関数論の構築にあったことも諒解されます。後年、岡先生の評伝を書く決意を固めてフィールドワークに取り組んでいたときのことになりますが、岡先生が遺した大量の研究記録の山の中にいくつかの大型封筒があり、封筒の表に「リーマンの定理」と書かれていました。これを見たときはまったく驚きましたが、同時に「ああ、やっぱりそうだったのだ」と思い、心からうれしく思ったことでした。

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数学史研究の回想15 古典研究の計画を立てたころ

 30年ほど前に古典研究を決意して、おおまかに解読計画を立てたのですが、ガウスの『アリトメチカ研究』は読まなければならない古典の筆頭で、古典中の古典、大古典でした。それで「ガウスを読む」という方針はすぐに決まり、それからもうひとつ、アーベルの論文「楕円関数研究」も必読の文献でした。この二つについては迷いはなかったのですが、どこまで手を広げたらよいのかと考えると、なんだか茫漠とした思いに心が覆われたものでした。
古典研究ということになれば原典をそのまま読むのが基本中の基本の作業になりますが、数学の原典というのはいったいどれくらいあるのでしょうか。オイラーの全集は80巻を越えてなお未完結。ラグランジュの全集は全14巻。ガウスの全集は全12巻、14冊。ガウス以降の数学者たちの名を回想すると、アーベルを筆頭にして、ヤコビ、アイゼンシュタイン、ディリクレ、ヴァイエルシュトラス、リーマン、クンマー、クロネッカー、デデキント、エルミート、ポアンカレ、ヒルベルト等々と、偉大な数学者たちの名が次々と念頭に浮かびます。オイラー以前にも数学者はいて、ライプニッツ、ベルヌーイ兄弟(兄とヤコブと弟のヨハン)、フェルマ、デカルトなどという人たちは、微積分の形成史を考えるうえでどのひとりも欠かせません。これに加えてニュートンなども気に掛かるところです。この広大無辺の文献の山を、どうしたら読破することができるのでしょうか。
 デカルトの前はどうかというと、古代ギリシアの数学が重い意味をもっています。遠い昔のギリシアの地で長い時間にわたって数学的思索が重ねられ、西欧の近代になって、それらに関心を寄せる人びとが相次いで現れました。デカルトはヒッピアスの『数学集録』を読み、代数学を根底に据えた新しい方法を提案して、未解決問題を解いたり、いっそう簡明な解法を提示したりしたのですが、この試みが継承されて西欧近代の数学の土壌に古代ギリシアの「曲線の理論」が復興し、ライプニッツにいたって微積分の創造という重大な出来事に結実しました。そのうえデカルトやライプニッツには、数学を支える形而上的思索の山も伴っています。
フェルマはバシェが作成したディオファントスの『アリトメチカ』のギリシア語とラテン語の対訳書を読んで、広い余白に48個のメモを記入したのですが、それらは西欧近代の数論の泉になりました。
こんなふうに考えていくと、古代ギリシアの数学を全体として学ぶのが第一歩。デカルト、フェルマとたどってライプニッツ、ベルヌーイ兄弟あたりまでをたどるのが第二歩。それからオイラー、ラグランジュと進むと、これで18世紀の数学が概観できそうです。これで第三歩。
ラグランジュの影響のもとで、フーリエ、ルジャンドル、ポアソン、コーシー、ラプラス等々、フランスに一群の数理科学者が育ちました。その姿を概観することができれば、これで第四歩になります。同時期にドイツにはガウスがいて、それからほぼ19世紀の全体を通じてガウスの継承者が連綿と続いたのは既述の通りです。その様子を概観するのが第五歩になります。
 これだけで西欧近代の数学史が尽くされるわけではありませんが、ひとまずこんな計画が立てられそうです。ただし、あまりにも広大すぎて、とても実行できそうにありません。

数学史研究の回想14 ガウスの著作の書名の邦訳をめぐって

アリトメチカに数論という訳語をあてはめるのは当初からどうも気が進まなかったのですが、そうかといってよい対案を持ち合わせていたわけでもありませんので、当初は広く行われていた流儀にならって、ガウスの著作の書名を『数論研究』と訳していたものでした。平成7年になってようやく翻訳書の出版にこぎつけて、それに先立って関係者の間で書名をどうするかという話し合いが行われたのですが、曲折の末に『ガウス整数論』という穏当な書名に落ち着きました。
 翻訳書の書名はこれでよいと思いますが、「アリトメチカ」と「数論」の関係はそれからもいつも心に掛かり、書名の訳語としてはやはりこれではまずいのではないかという考えに傾いて、このごろはガウスの著作は『アリトメチカ研究』、ルジャンドルの著作は『数の理論のエッセイ』と使い分けるようにしています。それでまた気に掛かるのは、ルジャンドルがアリトメチカという伝統的な用語に変って新たに「数の理論」という言葉を提案したのはなぜかということですが、本当のところはよくわかりません。ルジャンドルに先立ってラグランジュの論文の中に「数の科学」という言葉をみいだしたことがあり、あるいはこんなことがルジャンドルに影響を及ぼしたのだろうかと思ったこともありますが、ラグランジュはアリトメチカという言葉もごく普通に使っています。
 アリトメチカという、古代ギリシア以来の伝統を負う言葉を捨てて、数論という即物的な用語が提案されたということの背景には、もしかしたら18世紀から19世紀へと移り行くころに、数学の世界全体において起りつつあった大きな動きの片鱗なのかもしれません。ほかにもいろいろな事例が挙げられるとよいのですが、ここではとりあえずそのような問題がありうることのみを書き留めておきたいと思います。


数学史研究の回想13 アリトメチカと数論

昔、はじめて『方法序説』をひもといたときは特別の感想を抱くこともなかったのですが、このたびの再読ではわかりそうなところが大幅に増えていましたので、われながら驚いたことでした。それで、わかるとかわからないとかいうのはどのようなことを指してそのように言うのだろうと再考してみると、デカルトには数学において何事かをなそうとする強固な意図があり、その心情を理解し、共鳴することができたときに、もう少し正確に言うと、共鳴することができたと思えたとき、そのときはじめて「わかった」という心情に襲われるのではないかと思います。自分ひとりが「わかる」のではなく、「デカルトといっしょにわかる」という感じでしょうか。
 このようなわかり方はライプニッツやオイラーの場合にも同様です。無限小量がわかるというのはどのようなことかというと、無限小量そのものを多少とも合理的に説明することではなく、無限小量、すなわちどのような量よりもなお小さい量という不思議な量を考える事態に立ちいたったライプニッツの心情を理解するということです。関数がわかるというのは関数の定義を具体例を挙げて説明したりすることではなく、関数を提案することを要請されたオイラーの心情を理解することにほかなりません。数学の勉強を重ねているうちに、だんだんとそんなふうに考えるようになりました。
 もともと多変数関数論の勉強を通じて数学の世界に分け入っていきましたので、「関数とは何か」という問いはもっとも根源的な意味合いを帯びています。この問いを立てるとオイラーが気に掛かるのですが、古典研究の計画を立てた当初はオイラーの名は計画表に記入されていませんでした。多変数関数論の出発点を見たいと強く願っていましたので、おおよそガウスとアーベルあたりからはじめればよいだろうというほどの考えで、具体的にはガウスの著作『アリトメチカ研究』とアーベルの論文「楕円関数研究」を読むことから始めました。この選択には高木貞治先生の著作『近世数学史談』の影響も働いていたように思います。
 ガウスの『アリトメチカ研究』の原書名はDisquisitiones Arithmeticaeというのですが、ここにはたった二つのラテン語しかありません。disquisitionesは「研究」という意味の名士の複数形ですので、この単語については問題はありません。arithmeticaeは名詞のように見えますのでつい「アリトメチカの」という訳語をあてたくなるのですが、実は形容詞です。それで、ガウスの著作の書名は「アリトメチカに関するいろいろな研究」というほどの意味合いになりますが、ここにおいて問題になるのはアリトメチカの一語です。
 この言葉自体は古いギリシアの数学にも現れているもので、全13巻で編成されているユークリッドの『原論』でも、第7、8、9巻はアリトメチカにあてられています。「数の理論」という意味ですので、日本語の文献ではガウスの著作はよく『整数論考究』『数論研究』などと書かれています。これでもよいのですが、もう少し考えてみると、今度は「整数論」とか「数論」という言葉が気に掛かります。この言葉の原語は英語ならTheori of NumberやNumber Theoryが該当します。フランス語でもドイツ語でも同類の表記になりますが、西欧近代の数学史での最初の使用例はルジャンドルの著作“Essai sur la theorie des nombres”(数の理論のエッセイ、1798年)の書名です。ここに見られるtheorie des nombresという語句をそのまま訳出すると「数の理論」になりますが、実はこれが西欧近代の数学史における「数論」という言葉の初出です。
 古代ギリシア以来の伝統を背負うアリトメチカという言葉は次第に使われなくなり、代わって「数論」が広く受け入れられるようになりました。ガウスの著作に見られるアリトメチカの一語に「数論」という訳語を当てるようになったのもそのためですが、「アリトメチカ」は伝統を負い、「数論」にはルジャンドル個人の意志が働いていることに鑑みると、「数論」に統一するのはあまりよくないようにも思います。

数学史研究の回想12 デカルトの『幾何学』を読む

関数と曲線の話が長々と続きましたが、どうしてこんなことになったのかというと、一昨年あたりからデカルトの『方法序説』を読み始めたためです。といっても、「序説」はともかく三つの試論のうち「気象学」と「光学」は難解ですし、もっぱら「幾何学」に読みふけりました。読みふけるとはいうものの、わかりそうなところはおもしろいので何度も読み、読み返すとそのたびに理解がふかまっていくような気がしてうれしく思いました。その反面、わかりそうもないところは(このあたりは読んでもわからないだろうと、ちょっと見るだけでなぜかわかってしまうものです)何度読んでも同じことで、全然わかるようになりません。
 このあたりの消息は謎めいていて、どうしてそうなのか自分でもよくわからないのですが、ひとことで言えば「わかるところしかわからない」ということです。それならどうして今ころになってデカルトを読もうと思い立ったのかというと、なんだか今ならわかるかもしれないと思ったからです。実際に読み始めてみると実におもしろく、(わかりそうなところに限ってのことですが)とてもよくわかりました。
 これだけではまだデカルトを読み始めた理由を語ったことにはなっていませんが、根本的には「微積分とは何か」という問いに対し、自分なりに答えたいという思いがありました。微積分とのおつきあいは長いのですが、端的に「微積分とは何か」と自問すると、簡単に答えられるようでもあり、案外むずかしいようでもあり、いつもあいまいになりがちでした。微積分を解説する本は汗牛充棟、山のように存在しますが、どれを読んでも判然としませんでした。それでいつか自分で微積分の歴史をたどってみたいと思っていたのですが、このあたりが出発点であろうと想定されたのはやはりデカルトでした。原亨吉先生の翻訳で読んだのですが、意味を取りにくいところに出会ったときは原文を参照して考えました。
 デカルトの『幾何学』のおもしろさは無類だったのですが、考えてみるとこの本のことは昔から気に掛かっていました。何度も読もうとしたのですが、読んでもわからないだろうという気持ちが先に立って実行に移せませんでした。どんなことでも、わかりそうになる時期にならないとわからないものです。
 デカルトは大昔のギリシアの人パップスが編纂したと伝えられる『数学集録』という書物を読み、古代ギリシアの作図問題を観察し、未解決のまま放置されていた一系の問題を知りました。それらを代数の力を借りて解こうとした試みの軌跡が『幾何学』の契機になっているのですが、深い感銘を受けたことが二つあります。ひとつはデカルトが千数百年もの時空を越えて古い数学書に向き合い、継承しようとしているという事実です。『幾何学』を読むということは、古代ギリシアの数学が西欧近代の土壌に移されつつある現場に立ち会うことになるのですが、デカルトはどうしてこのようなことができたのでしょうか。考えるほどにいかにも不思議です。
 それからもうひとつ、代数の力を借りるというアイデアも驚嘆に値します。代数の歴史も細かく見ればいろいろなことを言わなければならいのですが、デカルト以前の段階で特筆に値するのは16世紀のイタリアで3次と4次の代数方程式の解法が発見されたことであろうと思います。デカルトはこのわずかな事実に励まされて前進する勇気を与えられたのであろう思いますが、それもまた実に大胆な行為です。あるやなしやというほどのささやかな事実に秘められている巨大な氷塊を見ることのできる不思議な能力をもつ人が、数学史にはときおり現れます。デカルトはまさしくそんな人びとのひとりでした。


数学史研究の回想11 数学は人が創造する

曲線に接線を引くといっても、紙の上に手書きででたらめに描いた曲線に接線を引くことはできません。デカルトはシソイドやコンコイドに法線を引きましたが、それはこれらの曲線を表す方程式から出発したからでした。フェルマはサイクロイドのような超越曲線に接線を引く独自の方法を考案しましたが、それは直線上に円を滑らないように転がすという、サイクロイドの描き方がはっきりしているからです。この点はライプニッツの場合にも同様で、ライプニッツの万能の接線法の対象でありうるためには、その曲線が何らかの式で表されている必要があります。
 クザーヌスのアイデアを採用して曲線を無限小辺無限多角形と見ることにすれば、接線の観念は確かに定まりますが、それだけでは計算に乗りません。計算に乗せていくには曲線を方程式で表すことが必要で、この点ではデカルトとライプニッツは一致しています。ここまでくれば「万能の接線法」までは一歩の距離でしかありませんが、それは語るのは当面の目標ではありませんので、接線法についてはこのくらいにしておきたいと思います。
 昔日、数学の勉強を心がけるようになった当初から、数学という学問におもしろさを感じることができないために大いに困惑したことはだいぶ前に述べた通りです。曲線と接線を定義して接線を引くための計算法に習熟しても別段、おもしろいことはありませんが、古代ギリシアの未解決の作図問題に向き合って、新たな曲線の概念を模索して挑戦するデカルトの姿には感銘を受け、共感を覚えます。そのデカルトを批判して、超越曲線をも幾何学的曲線の仲間に入れて、逆接線法の世界に求積法を包み込もうとしたライプニッツの思索にも心を打たれます。デカルトとライプニッツを受けて、オイラーは関数の一般概念をもって曲線の世界全体を把握しようとしたのですが、そのねらいは変分法にありました。
 デカルトの代数曲線もライプニッツの超越曲線もオイラーの関数も抽象的といえば確かに抽象的ですが、これらの抽象には抽象のねらいがあり、抽象の風呂敷にいっぱいに具象が詰め込まれていますので、抽象が抽象に感じられません。デカルトは幾何学的曲線とは何かという問いを立てたのだろう、代数曲線に限定したのはなぜなのだろう、ライプニッツがデカルトのどこに不満を感じて批判したのだろう、オイラーはなぜ関数などというものを考えたのだろう、等々と考えていくと、歴史研究の意味合いがこの手につかめてくるような感慨を覚えます。
 数学はやはり「人が創造する学問」です。曲線とは何か、関数とは何かと観念的に問いを立てるのではなく、デカルトならどう言うだろう、ライプニッツならどうか、はたまた
 オイラーは、というふうに、数学の創造に携わった人びとのひとりひとりに聴いてみなければならないのではないかと思います。数学史研究への道がここに開かれていきます。


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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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