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引っ越しのお知らせ

「オイラー研究所」引っ越しのお知らせ

新住所
http://ogiwara108.blog.fc2.com/

6月12日のお昼すぎのことですが、オイラー研究所の「所長のブログ」を更新しようとして管理者のページに入ろうとしたところ、認証コードの入力を求められました。認証コードは登録されたメールアドレスに届くのですが、そのアドレスは管理人のものですので、所長には届きません。オイラー研究所の創設は平成7年にさかのぼりますが、管理人は当時の大学院生のO君でした。O君は数年前に郷里にもどり、このところ音信普通です。認証コードの件がありますので久しぶりにメールで連絡したのですが、届いたのか、届かなかったのか、返信がありません。それで少々途方に暮れて、オイラー研究所の引っ越しを思い立ちました。
 アクセスしていただいているみなさまに連絡する方法がないのですが、おいおい気づいていただけるよう、期待しています。今後ともよろしくお願いします。

追伸
6月18日(水)
O君と連絡がつき、認証コードが判明しました。このページを「オイラー研究所」の本館として、しばらくの間、新館と本館を行ったり来たりしたいと思います。
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フェルマの数論79 ラグランジュの一般理論

ラグランジュの言葉を続けます。

〈これらの定理の証明はどうかといえば、フェルマ氏は証明を与えなかった。少なくとも、われわれに残されているこの学識豊かな人物の諸著作の中には、証明の痕跡は何ひとつとして見あたらない。だが、オイラー氏はその埋め合わせを企図して、実際にはじめの二定理と、それに第三番目の定理の証明にも成功した。ただし、これまでのところでははじめの二定理の証明だけしか公表されていない(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻5、6、8参照)。〉

 ラグランジュが言及しているオイラーの三篇の論文は、それぞれ[E241](命題1)、[E256](命題3)、[E272](命題2)を指しています。

〈フェルマ氏の他の諸定理、わけても第4番目の定理については、オイラー氏は証明に到達できなかったと打ち明けている(註:[E256])。オイラー氏が帰納的考察を通じて発見した他のいくつかの類似の定理についても事情は同様である(引用された紀要の巻6、221頁および巻8、127頁参照)。それらの定理は次の通りである。
7 20n+1および20n+9という形のあらゆる素数はy^2+5z^2という形である。
8 24n+1および24n+7という形のあらゆる素数はy^2+6z^2という形である。
9 24n+5および24n+11という形のあらゆる素数は2y^2+3z^2という形である。
10 28n+1、28n+9、28n+11、28n+15、28n+23、28n+25という形のあらゆる素数はy^2+7z^2という形である。
 そのほかにもなお、ペテルブルク帝国科学アカデミー旧紀要、巻14の中に、はるかに多くの類似の定理がある。だが、今までのところ、それらのどれも証明されていない。〉

 ペテルブルク帝国科学アカデミー旧紀要、巻14には、オイラーの論文[E164]が掲載されていますが、この論文には、pa^2+qb^2という形の数の約数に関する59個の命題が証明を欠いたまま羅列されています。ラグランジュの眼前には、素数の形状に関するフェルマのわずかな言葉と、オイラーのいくつかの論文がありました。ラグランジュがそれらを土台にして一般理論を構築し、諸定理を同一の視点に立って一挙に証明しようと試みました。

フェルマの数論78 素数の形状理論を語る

ラグランジュは「アリトメチカ研究」第二部において素数の形状理論の回想していますので、まずそれを一読したいと思います。

36.
〈フェルマ氏は下記の諸定理をはじめて発見した。
1 4n+1という形のあらゆる素数はy^2+z^2という形である。
2 6n+1という形のあらゆる素数はy^2+3z^2という形である。
3 8n+1という形のあらゆる素数はy^2+2z^2という形である。
4 8n+3という形のあらゆる素数はy^2+2z^2という形である。
5 8n±1という形のあらゆる素数はy^2-2t^2(註.Zではなくtが使われているのは原文の通り)という形である。
6 4n+3という形であって、しかも末尾の数が3もしくは7であるような二つの素数の積はつねにy^2+5z^2という形である。特に、そのような数の各々の平方もまたy^2+5z^2という形である。
 これらの定理のうち、はじめの四つの定理と最後の定理はウォリス氏の『書簡集』所収のフェルマ氏のディグビィ氏宛書簡(ウォリス全集、巻2、857頁)の中にみいだされる。第5番目の定理は、実はフェルマ全集、168、170頁で公にされているフレニクル氏のフェルマ宛書簡の中にしかみいだされない。だが、これらの手紙によれば、フェルマ氏もまたすでにこの定理を独自に発見していたように思われるのである。〉

 ウォリスの全集の巻2は未見ですが、ディグビィ宛書簡は書簡集で確認することができます。フェルマの全集というのは、ここではフェルマの子供のサミュエルが編纂した著作集のことで、1679年刊行されました。フレニクルからフェルマへの手紙は166頁から168頁にかけて1641年8月2日付の一通が掲載され、169頁から173頁にかけて1641年9月6日付の一通が収録されています。

フェルマの数論77 ペテルブルクとベルリンの科学アカデミー紀要

ペテルブルクとベルリンの科学アカデミーで出していた学術誌を「紀要」「新紀要」と呼んできましたが、紀要と新紀要の区別とか、名目上の刊行念と実際の刊行年の区別など、煩雑なところもありますので、もう少し詳しく紹介しておきたいと思います。
1725年の年末12月、ロシアのペテルブルクに科学アカデミー“Academia scientiarum imperialis Petropolitanae(ペテルブルク帝国科学アカデミー)”が創設されました。名称はラテン語。現在のロシア科学アカデミーです。数学教授はバーゼルのベルヌーイ一族の数学者ダニエル・ベルヌーイとニクラウス・ベルヌーイ(ともにヨハン・ベルヌーイの子供)、それに同じくバーゼルの数学者ヤコブ・エルマンでした。
1726年、ペテルブルク帝国科学アカデミーで学術誌“Commentarii academiae scientiarum imperialis Petropolitanae“(ペテルブルク帝国科学アカデミー紀要)(ラテン語)が創刊されました。1726年から1744/6年まで、全14巻が刊行されました。第1巻の実際の刊行年は1728年。掲載されたオイラーの論文は計76篇です。

巻1 1726年,1728年刊行.オイラーの論文 掲載論文なし
巻2 1727年,1729年刊行.オイラーの論文3篇
巻3 1728年,1732年刊行.オイラーの論文3篇
巻4 1729年,1735年刊行.オイラーの論文3篇
巻5 1730/1年,1738年刊行.オイラーの論文5篇
巻6 1732/3年,1738年刊行.オイラーの論文8篇
巻7 1734/5年,1740年刊行.オイラーの論文10篇
巻8 1736年,1741年刊行.オイラーの論文11篇
巻9 1937年,1744年刊行.オイラーの論文6篇
巻10 1738年,1747年刊行.オイラーの論文7篇
巻11 1739年,1750年刊行.オイラーの論文7篇
巻12 1740年,1750年刊行.オイラーの論文4篇
巻13 1741/3年,1751年刊行.オイラーの論文5篇
巻14 1744/6年,1751年刊行.オイラーの論文4篇

1747年、ペテルブルク帝国科学アカデミーの学術誌“Novi Commentarii academiae scientiarum imperialis Petropolitanae”(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要)(ラテン語)が創刊されました「ペテルブルク帝国科学アカデミー紀要」の継続誌(第二シリーズ)で、1747年から1775年まで、全20巻が刊行されました。第1巻の実際の刊行年は1750年。オイラーの論文は全部で179篇も掲載されました。

巻1 1747/8年,1750年刊行 オイラーの論文7篇
巻2 1749年,1751年刊行 オイラーの論文2篇
巻3 1750/51年,1753年刊行 オイラーの論文9篇
巻4 1752/53年,1758年刊行 オイラーの論文5篇
巻5 1754/5年,1760年刊行 オイラーの論文9篇
巻6 1756/7年,1761年刊行 オイラーの論文11篇
巻7 1758/9年,1761年刊行 オイラーの論文5篇
巻8 1760/1年,1763年刊行 オイラーの論文10篇
巻9 1762/3年,1764年刊行 オイラーの論文10篇
巻10 1764年,1766年刊行 オイラーの論文10篇
巻11 1765年,1767年刊行 オイラーの論文10篇
巻12 1766/7年,1768年刊行 オイラーの論文7篇
巻13 1768年,1769年刊行 オイラーの論文8篇
巻14 1769年,1770年刊行 オイラーの論文8篇
巻15 1770年,1771年刊行 オイラーの論文7篇
巻16 1771年,1772年刊行 オイラーの論文7篇
巻17 1772年,1773年刊行 オイラーの論文18篇
巻18 1773年,1774年刊行 オイラーの論文14篇
巻19 1774年,1775年刊行 オイラーの論文11篇
巻20 1775年,1776年刊行 オイラーの論文11篇

1741年夏、ペテルブルクにいたオイラーはフリードリヒ二世の招聘を受け、ペテルブルクを離れてベルリンに向かいました。6月19日、ペテルブルク発。7月25日、ベルリン着。ベルリンで科学アカデミーが創設されることになりましたので、支援するためのベルリン行でした。アカデミーの名称は“Academie Royale des Sciences et Belles Lettres(フランス語。王立科学文芸アカデミー)”と決まり、1744年1月、新アカデミーの第1回目の会議が開かれました。翌1745年から紀要の刊行が始まりました。

ベルリン科学文芸アカデミー紀要
巻1 1745年,1746年 オイラーの論文9篇
巻2 1746年,1748年 オイラーの論文3篇
巻3 1747年,1749年 オイラーの論文7篇
巻4 1748年,1750年 オイラーの論文10篇
巻5 1749年,1751年 オイラーの論文5篇
巻6 1750年,1752年 オイラーの論文7篇
巻7 1751年,1753年 オイラーの論文7篇
巻8 1752年,1754年 オイラーの論文4篇
巻9 1753年,1755年 オイラーの論文5篇
巻10 1754年,1756年 オイラーの論文5篇
巻11 1755年,1757年 オイラーの論文3篇
巻12 1756年,1758年 オイラーの論文4篇
巻13 1757年,1759年 オイラーの論文4篇
巻14 1758年,1765年 オイラーの論文3篇
巻15 1759年,1766年 オイラーの論文5篇
巻16 1760年,1767年 オイラーの論文6篇
巻17 1761年,1768年 オイラーの論文7篇
巻18 1762年,1769年 オイラーの論文7篇
巻19 1763年,1770年 オイラーの論文5篇
巻20 1764年,1766年 オイラーの論文7篇
巻21 1765年,1767年 オイラーの論文3篇;ラグランジュ 1篇
巻22 1766年,1768年 オイラーの論文4篇;ラグランジュ 1篇
巻23 1767年,1769年 オイラーの論文1篇;ラグランジュ 2篇
巻24 1768年,1770年 オイラーの論文 掲載なし;ラグランジュ 3篇
巻25 1769年,1771年 オイラーの論文1篇;ラグランジュ 6篇

1770年、ベルリンの科学アカデミーで新学術誌“Nouveaux M'emoires de l'Academie Royale des Sciences et Belles-Lettres,Avec l'Histoire pour la meme Annee(ベルリン王立科学文芸アカデミー新紀要)”が創刊されました。巻1の実際の刊行年は1772年。最終巻になった巻17の刊行は1788年です。毎年1巻ずつが割り当てられた模様です。便宜上、巻1、巻2・・・と表示しましたが、実際には巻数は記載されていません。ラグランジュの論文は計46篇掲載されました。

ベルリン王立科学文芸アカデミー新紀要
巻1 1770年,1772年;ラグランジュ 3篇
巻2 1771年,1773年;ラグランジュ 2篇
巻3 1772年,1774年;オイラー 1篇;ラグランジュ 4篇
巻4 1773年,1775年;ラグランジュ 4篇
巻5 1774年,1776年;ラグランジュ 2篇
巻6 1775年,1777年;ラグランジュ 3篇
巻7 1776年,1779年;ラグランジュ 3篇
巻8 1777年,1779年;ラグランジュ 4篇
巻9 1778年,1780年;ラグランジュ 3篇
巻10 1779年,1781年;ラグランジュ 2篇
巻11 1780年,1782年;ラグランジュ 1篇
巻12 1781年,1783年;ラグランジュ 3篇
巻13 1782年,1784年;ラグランジュ 2篇
巻14 1783年,1785年;ラグランジュ 6篇
巻15 1784年,1786年;ラグランジュ 1篇
巻16 1785年,1787年;ラグランジュ 1篇
巻17 1786年,1788年;ラグランジュ 2篇

フェルマの数論75 素数の形状に関する理論

 ラグランジュが挙げているいくつかの式のうち、最初の三例、すなわち
   t^2+u^2, t^2+2u^2, t^2+3u^2
について、ラグランジュは次のような註記を書き留めています。

19.
〈はじめの三つの定理は久しい以前から幾何学者たちに知られていたものだが、フェルマ氏に負っていると私は思う。だが、オイラー氏こそ、それらを証明した最初の人物である。オイラー氏の証明はペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻4,6,8において見ることができる。彼の方法はわれわれの方法とはまったく異なっている。そのうえ、その方法が適用可能なのは数aが3を越えない場合に対してのみである。たぶんこのような事情のために、この偉大な幾何学者はこのテーマに関する研究をいっそう遠い地点まで押し進めることを妨げられたのである。〉

〈それよりも前に彼が旧紀要、巻14において証明を欠いたままで与えた諸定理について言えば、彼は新紀要の引用された諸巻では、それらをめぐって何事も語っていないし、そのうえ、それらの証明はt^2+u^2、t^2+2u^2、それにt^2+3u^2という形のもの以外の数には及ぼしえないことに気づいてさえいた(巻6、214頁)。それゆえ、彼がそれらを帰納的な道筋をたどって発見したにすぎないというのは本当のようである。〉

 これだけの記述ではわかりにくいのですが、ラグランジュが語っているのは「素数の形状に関する理論」というべき理論のことで、もっとも適切な範例は「直角三角形の基本定理」です。この定理の文言を言い換えると、
「4n+1という形の素数は2次式x^2+y^2で表される。」
というふうになりますが、「4で割ると1が余る素数」、言い換えると「4の倍数よりも1だけ大きい素数」というのは4n+1という形の素数のことですが、これを素数の「線型的形状」と呼ぶことにします。他方、x^2+y^2という形に対しては「2次的形状」という呼称が相応しいと思います。そこで「直角三角形の基本定理」は、
〈4n+1という線型的形状をもつ素数はつねにx^2+y^2という2次的形状をもつ。〉
というふうに表明されることになります。これを原型として、「素数の形状に関する理論」が生れました。この理論を作ったのはラグランジュで、そのラグランジュには、ここでもまたオイラーの影響が深く及ぼされています。
ラグランジュは「新紀要」の巻4、6、8に掲載されたオイラーの論文を参照するように指示していますが、それらは下記の通りです。

[E228]二つの平方数の和であるような数について
(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻4、1758年。オイラー全集、第一系列、巻2、295-327頁)
この論文では「直角三角形の基本定理」の証明が試みられています。

[E256]純粋数学における観察の有益さの模範例
(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻6、1761年。オイラー全集、第一系列、巻2、459-492頁)
ここでは「8n+1型および8n+3型の素数は2a^2+b^2という形である」という命題が表明されています。前者の命題についてはオイラーは証明に成功した模様ですが、未発表に終わりました。後者については、オイラーは証明することができませんでした。

[E272]多くの証明において前提とされているアリトメチカの二、三の定理の補足
(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻8、1763年。オイラー全集、第一系列、巻2、556-575頁)
「6n+1型の素数はa^2+3b^2という形である」という命題の証明が記載されています。

 オイラーの「旧紀要、巻14」の論文というのは、2篇の論文

[E256]純粋数学における観察の有益さの模範例
(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻6、1761年。オイラー全集、第一系列、巻2、459-492頁)
[E164]paa±qbbという形状に含まれる数の約数に関する諸定理
ペテルブルク帝国科学アカデミー紀要、巻14,1751年。オイラー全集、第一系列、巻2、194-222頁

を指しています。

フェルマの数論74 ラグランジュの論文「アリトメチカ研究」より

ラグランジュには数論の論文が5篇ありますが、どの論文にも歴史的回想が伴っていて、とてもおもしろい読み物になっています。ラグランジュの書き物の特色で、数論への最高の入門書です。
5篇の論文のひとつに「アリトメチカ研究」というのがあり、フランス語で書かれているのですが、1801年のガウスの著作とまったく同じ名前であることにも興味をそそられます。第一部、第二部と二部構成で、2回に分けて公表されました。第一部はベルリン王立科学アカデミー新紀要(1773年/刊行年は1775年)の265頁から312頁までを占め、ラグランジュ全集で見ると第3巻の695頁から738頁までを占めています。第二部は同じベルリン王立科学アカデミー新紀要(1775年/1777年刊行)に掲載され、323頁から356頁まで。ラグランジュ全集の第3巻の739頁から795頁までを占めています。初出の新紀要のテキストでは総計82頁。全集版のテキストで見ると総計101頁になります。本論は第二部で、第一部は予備的考察にあてられています。
以下に引くのは第一部の書き出しの言葉です。

〈この研究の対象は、式
      Bt^2+Ctu+Du^2
で表すことのできる数である。ここで、B、C、Dは与えられた整数とする。tとuも整数だが、これらは不定とする。私はまずこの種の数が受け入れるさまざまな形状をことごとくみなみいだす方法を与える。次に、これらの形状を可能な範囲で最も少ない個数に削減する方法を与える。それらの実用向きの諸表の作成法を指示して、数の約数の研究におけるそれらの表の使い方を明らかにする。最後に、Bt^2+Ctu+Du^2という同じ形状の素数に関する若干の定理の証明を与える。それらのうちのいくつかはすでに知られているものだが、これまで証明されたことはなかった。他のものはまったく新しい。〉

この後、「はしがき」「所見」「註釈」と続きます。

1.はしがき
〈以下の叙述では、あらゆる文字はつねに正または負の整数を表すものとする。また、アルファベットのはじめのほうの文字では与えられた数が、末尾のああたりの文字では不定数が表されるのが普通である。〉

2.所見
〈1次式Bt+Cuは任意の数を表すことができる。ここで、BとCは任意の与えられた数であり、互いに素である。だが、2次式Bt^2+Ctu+Du^2については状勢は一変する。なぜなら、われわれがすでに示したように(1767年と1768年のアカデミー紀要参照:註.ベルリン王立科学アカデミー紀要に掲載された2論文「2次不定問題の解法について」「整数による不定問題の新しい解法」を指す)、方程式
      A=Bt^2+Ctu+Du^2
が整数解をもつのは若干の特別の場合のみであり、与えられた数A、B、C、Dの間に一定の諸条件が成立するときに限られるからである。2次およびそれ以上の次数の式についてはなおさら同じことを言わなければならない。〉

3.註釈
〈それゆえ、1次式と2次式の間には大きな相違がある。後者の式はある種の特定の数だけしか表すことができない。それらの数は固有の諸性質を通じてそれら以外のあらゆる数と区別しなければならないのである。ところが、それに対し、前者の式はおよそ可能な限りのあらゆる数を表すことができるのである。真に偉大な幾何学者たちはすでに、
   t^2+u^2, t^2+2u^2, t^2+3u^2, t^4+u^4, t^8+u^8,・・・〉
というような、2次式もしくはそれ以上の次数の式のいくつかで表されうる数の諸性質を考察した(フェルマ氏の著作集、およびペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻1,4,5,6,8参照)。だが、私の知る限りでは、このテーマを直接的でしかも一般的に取り扱った人はこれまでにいなかったし、任意の与えられた式に関わりうる数の主要な諸性質をアプリオリにみいだすための規則を与えた人もまたいなかった。
 この問題はアリトメチカの最も興味深い諸問題のひとつであり、また、わけてもそこに内包される種々の大きな困難のために、幾何学者たちの注意を引くだけの値打ちがある。そこで私は、これまでになされたよりもはるかに徹底してこの問題を取扱うようにつとめるつもりである。だが、さしあたり2次式に限定し、まずはじめに、2次式で表されうる数の約数の形状はどのようなものであるべきかということを調べることにする。〉

 「二次式で表される数」の形に関心が寄せられている様子が伝わってきます。

フェルマの数論73 不定方程式論が「数の理論」でありうる理由

ラグランジュの序文を続けます。

〈私は、たったいま言及した論文(註:「2次不定問題の解法について」)の中で、2個のの不定数をもつあらゆる2次方程式はどのようにして、
     A=p^2-Bq^2
というきわめて簡単な形状につねに帰着されうるかということを示し、続いて、この種の方程式のおよそ存在する限りのすべての整数解と分数解をみいだすための直接的で、しかも一般的な方法を与えた。Bが正数で、pとqが整数であるべき場合に対する方法は、実際のところ、少々長くて複雑である。しかもそんなふうになるのはある一点においてのことであり、その一点のために、この方法はたどりがたいものになってしまうのである。私はそれを認める。だが、この困難な事柄の本性そのものを措いて、他のいかなるものにも帰すべきではないと私は思う。しかし私は、その後、この方法を著しく簡易化して、しかも任意次数の方程式に拡張する手段を発見した。それこそ、私がこの論文において力の及ぶ限り整然と、しかも明晰に展開しようと思っていることなのである。〉

 序文はまだもう少し続きますが、ここから先は連分数に関する注意事項が書かれているだけですので省略します。2篇の論文「2次不定問題の解法について」「整数による不定問題の新しい解法」の序文を通読してあらためて心に沁みるのは、不定方程式論はラグランジュとともに始まったのだというしみじみとした感慨です。直角三角形にまつわる平方数へのこだわりはラグランジュには微塵もなく、一般の2次不定方程式に進むさらに高次の不定方程式への道も模索されています。
 ディオファントスとバシェの著作やフェルマの「欄外ノート」に書かれていることは不定方程式の解法理論のように見えますが、そのように見えるのはラグランジュの視点に立つからで、ディオファントスとバシェ、それにフェルマが探究したのはどこまでも「数の性質」でした。それらをラグランジュは不定方程式という、いわば大きな風呂敷に包みました。するとディオファントス、バシェ、フェルマには思いもよらなかった対象が発生しました。一般の形の2次不定方程式などはその際立った事例ですが、ラグランジュの風呂敷の中には高次の不定方程式なども包まれている模様です。
ラグランジュが広げた不定方程式論の風呂敷には、「数の理論」、すなわちギリシアの昔からのアリトメチカが包まれています。不定方程式を解くことがなぜ「数の理論」と言えるのだろうと、あらためて考えるといかにも不思議ですが、それはラグランジュの目に映じた光景が今日まで継承されているからです。これでようやく数論の謎のひとつが解けました。

フェルマの数論72 オイラーの研究を批判する

ラグランジュの序文はまだ続きます。

〈この規則は、
   A=p^2-Bq^2(AとBは与えられた整数。pとqは二つの不定数)
という形のどの方程式も、Aが
   4nB+a^2 もしくは 4nB+a^2-B(nとaは任意の整数)
という形の素数のとき、あるいは、Aの素因子がそれぞれみなこれらのいずれかの形状のときにはつねに整数を用いて解けるというものである(ペテルブルク帝国科学アカデミー新紀要、巻9の第1論文参照)。〉

ここでラグランジュが参照するようにと指示しているオイラーの論文は[E279]「2次不定式の整数による解法について」です。

〈オイラー氏はこの定理の証明を与えていない。そのうえ、証明を見つけることができなかったと打ち明けている。私もまた長い間、証明を探し求めたが、実を結ばなかった。だが、ついに、私は偶然にもある方程式に出会った。私は、その方程式ではオイラー氏の規則が成立しないことを認めたのである。その方程式は
     101=p^2-79q^2
である。ここで、101は素数であり、B=79、a=38およびn=-4とすると、4nB+a^2-Bという形である。したがって、この方程式は整数を用いて解けなければならないはずである。だが、われわれの方法で容易に確かめられるように、この方程式は解けないのである。
 もしオイラー氏の定理を限定して、4nB+αという形の素数はどれもみなp^2-Bq^2という形でもある、ただしαがp^2-Bq^2という同じ形の素数のとき、というふうに言うことにしたいのであれば、先ほどの例はこのようなげんていもなお不十分であることを示している。なぜなら、n=-2およびB=79とすると、
     101=4nB+733
となり、733は、p=38およびq=3とするとp^2-Bq^2という形である。ところが101はp^2-Bq^2という同じ形状ではないのである。〉

 こんなふうにして2次の不定方程式の解法に関するオイラーの研究は不十分であることが示されましたが、視点を変えると、ラグランジュの探究の出発点になったのはオイラーであることがはっきりとわかります。

〈ここまでに述べてきた通りのあらゆる事柄により明らかになるように、1613年に刊行されたバシェ氏の著作(註:『数の織り成すおもしろくて楽しいいろいろな問題』)以来、今日にいたるまで、あるいは少なくとも私が昨年公表した論文「2次不定問題の解法について」にいたるまで、この種の諸問題の理論は、適切な言い方をするなら、1次を越えて押し進められたことはなかったのである。〉

 ここに語られているのは不定方程式論の成立を宣言する言葉です。

フェルマの数論71 ラグランジュの言葉の続き

ラグランジュの論文「整数による不定問題の新しい解法」の序文を続けます。バシェが1次不定方程式の解法を研究していたことはフェルマも知っていたはずなのに、フェルマは次数を高めて高次の不定方程式の解法を探究しようとはしなかったと、ラグランジュは指摘しています。一般の2次不定方程式のことでしたら、フェルマが解き方を探究した痕跡は確かに見あたりませんが、まったく無関心だったかというとそうでもないとラグランジュは思ったようで、具体的な事例としてペルの方程式を挙げています。

〈あれほどの長期間にわたって幾多の成功をおさめつつ整数の理論に携わったフェルマ氏は、バシェ氏が1次不定問題の解決につとめたように、一般に2次およびより高次の不定問題を解決しようとはしなかった。実際のところ、それはまことに驚くべきことである。だが、彼がこの研究にも力を込めて従事していたことについては、信じるに足る理由がある。彼がウォリス氏およびイギリスの全数学者に対して一種の挑戦として提出した問題、すなわち、2個の整平方数を見つけて、一方にある与えられた整数を乗じて、その後に他方から引くとき、残余が1に等しくなるようにするという内容の問題を通じて、そのように考えられるのである。なぜなら、この問題は2個の未知数をもつ2次不定方程式のひとつの特別の場合であるばかりではなく、そのような方程式の一般的解法の鍵でもあるからである。だが、フェルマ氏がこのテーマの研究を継続しなかったにせよ、彼の研究がわれわれのところまで届かなかったにせよ、いずれにしても、彼の諸著作の中にその痕跡が何ひとつとして見あたらないのは確かである。〉

ペルの方程式は単に2次不定方程式の一例であるばかりではなく、一般の2次不定方程式の解法の鍵をにぎっていることを、ラグランジュは洞察しました。だからこそ、ペルの方程式を提示したフェルマは2次不定っ問題の一般理論を考えていたのではないかと推察されるというのです。ラグランジュならではの深い洞察ですが、真相は不明です。

〈そのうえ、フェルマ氏の問題を解決したイギリスの幾何学者たちは、2次不定問題の一般的解決に対するこの問題の重要性について何も知らなかったように思われる。少なくとも彼らがそれを利用した形跡はない。もし私が誤っているのでなければ、2個の未知数をもつ任意の2次方程式について、そのひとつの解がすでにわかっているものとするときに、どのようにしたなら無限に多くの整数解をみいだすことが可能かということを示した最初の人物はオイラー氏である。
 数学のあらゆる分野が恩恵をこうむっているこの偉大な幾何学者は、この種の方程式が何らかの整数解を受け入れるのあいつかということぉ、アプリオリに識別する研究をも手掛けた。そうして帰納的な道筋をたどって、ひとつの規則を発見した。それは、もし一般的に成立するのであれば、アリトメチカの最も美しい諸定理のひとつを、その内部に秘めているのである。〉

 不定問題の領域においてもまた、ラグランジュはオイラーの継承者であること、ラグランジュ自身も深く自覚していたことがよくわかります。

著作の完成をめざして12 デカルト『幾何学』に現れた線のいろいろ(2)

『幾何学』第2巻から線のいろいろを拾ってみます。

曲線=lignes courbes
平面的=plans 直線と円を描くだけで作図可能
立体的=solides 円錐曲線が必要
曲線的=lineaires 訳文「より複雑な他の曲線を用いなければ作図しえない」 
この訳文における「曲線」の原語はquelque autre ligne plus compose’es。すなわち、原語は「線」です。

デカルトの言葉
〈幾何学の問題のうち、或るものは平面的、或るものは立体的、或るものは曲線的であることは古代人は十分気づいていた。〉

幾何学的=原語はGeometriques。「幾何学的な線」
機械的=原語はMechaniques。「機械的な線」

デカルトの言葉
〈私がここに導入しようとしているあらゆる曲線を描くためには、2本またはそれ以上の線が互いに他によって動かされ、それらの交点が他の線を作り出す、ということを仮定するだけでよいのであって、この仮定が古代人のものよりむずかしいとは私には思えない。〉
〈古代人は円錐曲線を完全には彼らの幾何学に受けいれなかった。〉
〈幾何学とは的確で精密なもの、機械的とはそうではないもの〉
〈古代の幾何学者たちが円錐曲線より複雑な線を受けいれなかったのは、おそらく次の事情によるのであろう。彼らが考えたこの種の最初の線はたまたま螺旋、円積線、そのほか類似のものであったが、これらは精密に測りうるいかなる関係ももたない別々のふたつの運動によって描かれると想像されるものであるから、まさしく機械的な線に属し、私がここの受けいれるべきであると考えている線の範囲に入らない。〉

「曲線的な線」は作図機械を工夫すれば描くことができます。実際、ギリシアではいろいろな機会が考案されました。そこで、「曲線的な線」は「機械的な線」とも呼ばれることになりました。デカルトはこの古代の分類法に不満があったようで、ギリシアで「機械的な曲線」と呼ばれていた曲線の中に分け入って、さらに分類をめざした模様です。
 ギリシアの「機械的曲線」の中には正真正銘、デカルトの目にも機械的としか見えない曲線もあります。たとえば螺旋や円積線がそうで、それらは「精密に測りうるいかなる関係ももたない別々のふたつの運動によって描かれると想像される」ものであるから、まさしく機械的であるというのがデカルトの所見です。そこでデカルトはこれらの曲線は考察の対象から除外しました。
 これに対し、シソイドやコンコイドはギリシアの数学では機械的とされましたが、デカルトは考察の対象として受け入れようとしています。受け入れたり、受け入れなかったり、区分けの基準はどこにあったのかというと、デカルトが提案した「幾何学的計算(calcul Geometrique)」の適用が可能か否かというあたりが分岐点でした。
 デカルトが「幾何学的」と呼んだ曲線をライプニッツは「代数的」と呼ぶことを提案しました。

ライプニッツの言葉
1686年7月14日付のアルノーへの手紙より
〈それゆえ私は、デカルト氏によって受け入れられた曲線を代数的Algebraicasと呼びます。なぜならある次数の代数方程式に属するからです。そしてその他のものを超越的Transcendentesと呼び、それらを算法に従わせ、その作図も点か運動を用いて示します。そして、敢えていうならば、そうすることによってヘラクレスの柱を越えて解析を促進しようと考えています。〉(『ライプニッツ著作集』巻2、309頁)

 このライプニッツの提案は今も生きています。螺旋と円積線はライプニッツの用語でいう超越的な曲線ですが、シソイドとコンコイドは代数的な曲線で、それらはデカルトの考察の範疇に入ります。

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