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フェルマの数論7 アレクサンドリアのディオファントス

 ルジャンドルの著作『数論のエッセイ』の初版の序文を続けます。

〈ディオファントスのころからヴィエトの時代にいたるまでの間、数学者たちは数の研究を継続したとはいうものの、さほどの成稿が得られたわけではないし、この学問が著しい進展を見たということもなかった。
 ヴィエトは新たに代数学の完成度を高めて、数に関するいくつもの困難な問題を解決した。バシェは『数の織り成すおもしろくて楽しいいろいろな問題』と題する著作の中で、一次不定方程式を一般的で、しかも非常に巧妙な方法を用いて解いた。ディオファントスに寄せるひとつのすぐれた註解は、この深い学識をもつ人物のたまものである。その後、このバシェの註解はフェルマの「欄外ノート」により、いっそう豊かなものになった。〉

 ディオファントス、ヴィエト、バシェという人物の名前が登場しますが、わずかに3名であっても、人となりを紹介しようとするとそれなりに調べなければならないことが多く、かんたんにはいきません。
ディオファントスについてはギリシア数学史を参照しなければなりませんが、手近に入手できるギリシア数学史の書物として、「ヒースのギリシア数学史」こと、

T.S.ヒース『復刻版 ギリシア数学史』(共立出版、訳者:平田寛(ひらた・ゆたか)、菊池俊彦、大沼正則;平成10年(1998年))

という本がありますので、ひとまずこれを参考書にしたいと思います。原書は英語で書かれていて、1931年二イギリスで出版されました。邦訳は昭和34年(1959年)に初版が刊行され、平成10年(1998年)に復刻版が刊行されました。原書は全二巻で、邦訳書の初版も全二巻でしたが、復刻版では一冊にまとめられて、前半が第一巻、後半が第二巻。全体をオイラー通じて通し番号が打たれています。
ディオファントスの生涯はほとんど知られていませんが、アレクサンドリアで活躍したことと、その時期は紀元3世紀であろうということはおおむね諒解されています。それと、『ギリシア詞華集』の中にひとつの風刺詩があり、それを見るとディオファントスの年齢がわかります。その風刺詩というのは、

<ディオファントスは一生の六分の一を少年時代としてすごし、ひげは一生の十二分の一より後にのび、さらに七分の一がすぎた後に結婚した。結婚して5年後に息子が生れた。その息子は父の二分の一の長さの人生を生き、父は息子の死の4年後に亡くなった。>

というのです。そこでディオファントスの年齢をxとして方程式を立てると

  (1/6)x+(1/12)x+(1/7)x+5+(1/2)x+4=x

という一次方程式が成立します。これを解くとx=84。これでディオファントスは84歳まで生きたことがわかります。よく知られているおもしろいエピソードですが、どの程度の信憑性があるのか、そのあたりのことは何もわかりません。
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フェルマの数論6 記数法と代数学

ルジャンドルの生い立ちはよくわからないことが多く、自分でも語らなかったようで、書くべきことがほとんどありません。生誕日と没年日は判明していますが、生地についていうと、パリで生れたことになってはいますが、一説に実はトゥールーズなのではないかとも言われている模様です。トゥールーズでしたらフェルマと同郷です。両親の名前もわからないのですが、パリで生れたのか、あるいはトゥールーズから家族とともにパリに移ってきたのか、いずれにしてもパリで育ったのはまちがいありません。コレージュ・マザランという学校で教育を受けたとのことですが、この学校は正式にはコレージュ・ド・カトル=ナシオンというのだそうで、パリ大学を構成する学校のひとつのようですが、このあたりのこともよくわかりません。貴族の子弟だけが入るエリート校のようで、そうするとルジャンドルもまた貴族かまたは貴族に準じる階層の人のようにも想うのですが、詳しい消息はやはりわかりません。コレージュ・マザランは9年制の中等学校です。
裕福な家庭に育ちましたので生活に困ることはなく、数学と物理の研究に打ち込んですごしましたが、1775年から1780年まで、ルジャンドルはÉcole Militaire(軍事学校)で教えました。ラプラスもいっしょでした。この職を得たのはダランベールのアドバイスのおかげです。
 1782年、ベルリンの科学アカデミーが出している賞に応募して当選しました。この年はちょうどラグランジュがオイラーの後任としてベルリン科学アカデミーの数学部長に就任した年でした。そこでラグランジュは賞を得たパリの若い数学者に興味を抱き、ラプラスに問い合わせました。こうしてラグランジュはルジャンドルを知りました。
ルジャンドルは力学を研究し、ラプラスがそれを高く評価しました。そのおかげかどうか、1783年3月30日、ルジャンドルはパリの科学アカデミーのadjointになりました。この年のはじめ、ラプラスがadjointからassociéに昇進してadjointの席があきましたので、ルジャンドルが継承したのでした。1785年には科学アカデミーのassociéになっていますが、adjointとかassociéとか、科学アカデミーの職階はよくわかりません。
コンドルセに励まされて『幾何学原論』を書き、天体力学の論文も書きましたが、1785年には数論に向かい、論文「不定解析研究」を出しました。翌1786年には楕円積分論の論文も出しましたし、ルジャンドルの数学と物理学の研究の中で中心に位置を占めるのは数論と楕円積分論と見てよいのではないかと思います。
 前置きが長くなりましたが、このあたりで『数論のエッセイ』の初版の序文に目を通してみたいと思います。

〈われわれの手元に遺されているさまざまな断片――それらの断片の若干はユークリッドに収録されている――から判断すると、古い時代の思索者たちは数の諸性質をめぐって相当に広範囲にわたる研究を行っていたように思われる。しかし彼らにはこの学問を深く研究するのに必要な二つの手立て、すなわち、記数法と代数学が欠けていた。記数法は数の表示を著しく簡易科するうえで有効に用いられる。また、代数学は諸結果を一般化する働きを示すし、しかも既知数にも道数にも同等に適用することができるのである。それゆえ、これらの技術の発明はいずれも、数の学問の進歩に大きな影響を及ぼしたにちがいない。そうしてされに、代数学の最古の創始者として知られるアレクサンドリアのディオファントスの作品は一筋に数に捧げられていること、および、その著作には、きわめて巧妙かつ明敏な仕方で解決されている数々の難問がおさめられていることもよく知られているところである。〉

 この書き出しの言葉を一瞥しただけでもすでに、いくつもの語るべき事柄に出会います。「古い時代の思索者たち」というのは古代ギリシアの数学者たちのことですが、彼らはすでに数の諸性質への関心を示していて、思索の成果はユークリッドの『原論』に収録されているとのこと。具体的には『原論』の第7,8,9巻の三巻を指しています。古代ギリシアにも数論は存在したことはしましたが、ルジャンドルの目にはあまりたいしたことはなかったようで、その原因はというと、記数法と代数学が欠如していたためというのです。
 そうすると数学の進歩において記数法の発明と代数学の創造が思い意味を担うことになりますが、代数学については、ルジャンドルはディオファントスを名を挙げています。ディオファントスこそ、代数学の創始者であるとルジャンドルはいうのです。

フェルマの数論5 アリトメチカと数論

 なるべく早くフェルマの数論の中味を語りたいのですが、ルジャンドルの論文のタイトルと掲載誌を紹介しようとしただけで次もから次へと疑問が湧き出てきますので、どうも仕方がありません。全体を通して絶えず反芻されるのは「数論とは何か」という問いですが、数論とはかくかくしかじかと天下り的に規定しようと考えるのは実りがなく、数論の名のもとに思索が重ねられてきたさまざまなテーマの総称が「数論」の一語なのであろうと考えたいところです。ただし、そうだとしても、ディオファントスがいくつもの不定問題を提示して一書を編成し、その作品にアリトメチカの一語を冠したのはなぜかという問題は依然として残ります。完全数や素数の考察も不定方程式論も同じ数論の屋根に覆われるというのはどうしてなのだろう、という疑問です。
 言葉の使い方の整理も必要ですので、整理しておきたいと思います。前に使われていた「アリトメチカ」という言葉は今では影をひそめ、代わりに「整数論」もしくは「数論」という言葉が使われています。ラテン語のアリトメチカは英語のアリスメチクですが、それは小学校で教えられる簡単な四則演算の計算のことで、日本でいう算数、昔の言い方でしたら算術に相当するのではないかと思います。ユークリッドやディオファントスやフェルマの数論は今日の算術とは違いますが、四則演算による簡単な計算などはごく普通に使われています。そこでその部分だけを取り出せば、算数もしくは算術ができあがりそうです。
 ガウスになるとこのあたりの消息をはっきりと認識し、アリトメチカを「初等的なアリトメチカ」と「高等的なアリトメチカ」に区分けしています。1801年のガウスの著作『アリトメチカ研究』の序文の冒頭でそのように語っているのですが、ガウスのいう「初等的なアリトメチカ」というのはつまり今日の算数のことであり、自分が携わるのはそのようなアリトメチカではなく、高等的なアリトメチカなのだというのです。この語法に従うなら、ルジャンドルの著作で取り扱われているアリトメチカもまた「高等的なアリトメチカ」です。
 日本でアリトメチカというとほぼすべての場合、算数のことで、ガウスのいう高等的アリトメチカのことを単に数論と呼んでいるのではないかと思います。初等的整数論もしくは少し縮めて初等整数論という言葉もあり、高木貞治先生の著作に『初等整数論講義』というのがありますが、その初等整数論というものの実体はガウスのいう「高等的アリトメチカ」を構成する諸理論のうち、有理整数の範囲内で語られる部分であり、ガウスのいう「初等的アリトメチカ」ではありません。
 今、「整数論」という言葉を使いましたが、指し示すものの実体は数論と同じです。ひところは整数論という言葉が普通に使われていましたが、だんだん衰退し、今では「数論」が優勢になりました。
 整数論もしくは数論という言葉は日本の数学者たちがかってに作ったのではなく、西欧近代の数学史の中に原語が存在します。英語でいうとNumber Theory(ナンバーセオリー)ですが、そのまた原語はフランス語のThe’orie des nombres(テオリー・デ・ノンブル)です。ところがこれはルジャンドルの著作の書名そのものにほかなりません。実際のところ、この書名こそ、今日の「数論」という言葉の初出です。
 英語のnumber theoryをそのまま日本語に訳出すると数論になりますが、その英語のフランス語の原語のThe’orie des nombresの訳語ということであれば「数の理論」となり、このほうがよいのではないかと思います。いずれにしても言葉の印象はあまりにもあけすけで、名称が直截に体を表していて、わかりやすいといえばたしかにその通りです。ライプニッツやベルヌーイ兄弟の時代に無限解析と呼ばれていた理論は今では微積分、すなわち「微分と積分」と呼ばれていますが、アリトメチカと数論の関係によく似ています。ルジャンドルの著作の3年後に出たガウスの著作『アリトメチカ研究』にはまだアリトメチカの一語が生きていますが、アリトメチカの使用例はだんだん減少し、今ではほぼ完全に消滅しました。そのためか、アリトメチカの訳語として「整数論」や「数論」が使われるようになり、ガウスの『アリトメチカ研究』も『数論研究』『整数論考究』などと呼ばれたものでした。

フェルマの数論4 不定解析と数論

 「科学アカデミー」「イストワール」「メモワール」などの言葉の意味がようやく判明しましたが、次に気になるのはルジャンドルの論文のタイトルに見られる「不定解析」という言葉です。この言葉は今ではあまり用いられませんが、今日の数学でいう「不定方程式の理論」に該当します。不定方程式は解をもつこともあればもたないこともありますし、解をもつとしても、有限個の場合もあれば無限個のこともあります。
このような現象はたとえば代数方程式の解法の場において2次方程式を解くという場合には見られないもので、2次方程式でしたら、複素数の範囲内で根を探索すると、きっかり2個の根が見つかります(2重根の場合もありますが、その場合には根の個数を2個と数えることにします)。3次方程式なら3個、4次方程式なら4個。一般にn次方程式ならn個の根が存在するというふうで、根が存在するか否かは問題にならず、存在する根を実際に探索する作業が理論の骨格を作りますから、不定方程式の解法理論の場合とはだいぶ様子が異なります。そこで、不定方程式の解法理論を不定解析と呼ぶのに対応して、代数方程式の解法理論のほうは「定解析」と呼ばれた時代がありました。これも今では使われることのない言葉です。
 不定解析の内実はこれでよいとして、ここで大きな問題になるのは、「不定方程式の解法理論はどうして整数論でありうるのであろうか」という一事です。ルジャンドルの1785年の論文「不定解析研究」は長篇ではありますが、いわばスケッチのような作品で、大きく拡大されて、後年の1798年の大著作『数の理論のエッセイ』ができました。この本は本文だけを数えても472頁にもなりますし、巻末には56頁にわたって12個の「表」が附され、これに加えて序文が6頁、目次が12頁、誤植訂正が2頁というありさまで、総計548頁になります。しかもなおこの著作は「エッセイ(試作)」であるというのです。
 ルジャンドルは不定解析を「数の理論」、すなわち整数論と見ていたことがわかりますが、不定方程式を解くことがなぜ「数の理論」でありうるのでしょうか。「数の理論」という以上は数に関する理論なのでしょうから、たとえば「完全数」、すなわち「自分自身とは異なる約数の総和が自分自身に等しいという性質をもつ数」に寄せる関心などでしたら、数の理論という言葉がぴったりあてはまります。ある特定の個性をもつ数に関心が寄せられているからです。あるいはまた、素数というものに引きつけられる心の姿にも、数の理論の反映が感知されますし、素数の個数を数え上げようとして、「無限に多くの素数が存在する」という認識に到達するのも、数の理論の名に相応しいおもむきがあります。完全数への関心も素数の無限性の認識も、古代ギリシアのユークリッドの『原論』にすでに表明されています。
 これに対し、不定方程式論の淵源ということを考えるとき、そのつど回想されるのは、ディオファントスの著作と伝えられる『アリトメチカ』という作品です。ユークリッドの『原論』と同じく全13巻で編成され、そのうち6巻のみが残存して西欧に伝えられ、フェルマの時代にラテン語に翻訳されました。書名のアリトメチカというのはラテン語による表記ですが、原語のギリシア語の表記を音写すると「アリトメーチケー」となります。ユークリッドの『原論』の第7、8、9巻のテーマは数論で、その場合の数論という言葉の原語はディオファントスの著作の書名に見られる言葉と同です。それなら双方のアリトメチカは同じテーマを探究しているのかというと、どうもそのようには見えません。ユークリッドが「数の個性」を探究しようとしているのに対し、ディオファントスの著作のテーマは不定方程式論のように見えますので、ディオファントスは今日の不定方程式論の淵源とみなされています。
不定方程式とディオファントス方程式は同じです。不定解析とディオファントス解析は同じです。不定問題とディオファントス問題も同じです。
 全13巻で編成されるディオファントスの著作のうち、残存するのは6巻のみですが、それはギリシア語で書かれた原典のことで、近年になってアラビア語に翻訳された巻が4巻分ほど発見されて話題になったことがあります。ギリシア数学の伝播という視点に立つと実に興味深い発見です。ただし、この発見は西欧近代の数学の形成とは関係がありません。

フェルマの数論3 イストワールとメモワール

 科学アカデミーというものの成立過程はおおよそわかりましたが、その科学アカデミーの紀要についてはもう少し詳しい説明を要します。紀要のタイトルは非常に長いのですが、タイトルをそのまま読むと、紀要というのはつまりHistoire(イストワール)のことで、そのイストワールに数学と物理のMe’moires(メモワール)が附随しているという印象があります。それでイストワールとメモワールの関係が問題になるのですが、単一の学術誌が二分されているというよりも、異なる役割を担う二種類の学術誌と見てよいのではないかと思います。イストワールには、すでに知られている学問上の話題を取り上げた論説や、アカデミーの議事録などが掲載されています。これに対し、メモワールのは新たな知見を含む学問上の研究成果を発表する場所で、紀要という言葉から誘発される通常の語感からすると、紀要の名に相応しいのはむしろメモワールのほうではないかと思います。
 科学アカデミーの紀要の実物を観察すると、イストワールとメモワールに二分されていて、頁番号も別々に振られていますので、たとえばルジャンドルの論文「不定解析研究」の所在地を指示する場合、「1785年の紀要の何頁から何頁まで」ということはできません。ルジャンドルの論文は数学研究の成果の報告ですから、掲載場所はメモワールのほうで、「1752年のメモワールの465頁から559頁まで」と指示することになります。パリの科学アカデミーの紀要のメモワールですから、これを「パリのメモワール」と呼ぶこともあります。
こんなふうでどうも紛らわしいのですが、もう一度確認すると、
イストワールとメモワールは別々の学術誌
イストワールとメモワールを合わせてイストワールと総称されることがある。
学術論文が掲載される場所はメモワール
ということになります。総称はイストワールですから、ルジャンドルの論文の掲載場所を「1752年のイストワール」と表記しても間違いとは言えませんが、その場合には頁番号を明記するのが不可能になります。
 パリのアカデミーを真似て、ロシアのペテルブルクとドイツのベルリンにもアカデミーが創設され、紀要が創刊されましたが、その体裁もまたパリのアカデミーにならい、イストワールとメモワールの二本立てになっています。

フェルマの数論2 学士院とアカデミー

 ルジャンドルの数論は1785年の論文「不定解析研究」から始まりますが、この論文の掲載誌はパリの王立科学アカデミーで発行していた定期刊行物で、日本語でいう「紀要」に該当すると思いますので、ここでもこれから先は簡単に「紀要」と呼ぶことにしますが、フランス語の正式な名称をそのまま訳出すると、
「王立科学アカデミーのHistoire(イストワール)。同じ年の数学と物理のMe’moires(メモワール)も添えられている」
という感じになります。創刊は1699年と記録されています。年刊ですが、実際の刊行年は少しずつずれて遅くなりがちで、たとえば上記のルジャンドルの論文が掲載された1785年の紀要は1788年に刊行されました。それで文献引用の際にしばしば困惑させられるのですが、3年もずれたりするのであれば、二つの年を併記して、
「不定解析の研究」(1785/1788年)
と表記するのがよさそうです。
 パリの科学アカデミーが創設されたのは1666年です。ルイ十四世の治下、財務省ジャン=バティスト・コルベールの助言を受けて創立されました。それから3年ほど活動した後、1699年1月20日付で正式に王立と認定され、それに伴って紀要が創刊されました。紀要の最終巻が刊行されたのは1793年ですが、おりしもフランス革命の真っ最中の時期で、ルイ十六世が処刑され、ジャコバン派による独裁が始まったのがこの年です。この年の8月3日、国民公会が科学アカデミーの閉鎖を決定しました。
 アカデミーの変遷過程の話を始めるとこれはこれできりがありませんが、もう少し続けると、1793年8月3日以前には科学アカデミーのほかにもいくつもの王立アカデミーが存在していました。ざっと数えると次の通りです。

アカデミー・フランセーズ(1635年2月10日創立)
碑文・芸文アカデミー(1663年創立)
絵画・彫刻アカデミー(1648年創立)
音楽アカデミー(1669年創立)
建築アカデミー(1671年創立)

これらのアカデミーが1793年の時点でいっせいに廃止されたのですが、2年後の1795年にフランス学士院が発足しました。フランス学士院の原語はInstitut de Franceですが、日本語で学士院というとアカデミーの邦訳語として使われているのではないかと思います。日本にも学士院がありますが、日本学士院の英語表記はThe Japan Academyですから、「日本アカデミー」です。これに対し、フランスの学士院は下記の五つのアカデミーの総称です。

 アカデミー・フランセーズ
 科学アカデミー
 碑文・芸文アカデミー
 芸術アカデミー(絵画・彫刻アカデミー、音楽アカデミー、建築アカデミーが1816年二統合されて芸術アカデミーが成立しました)
 倫理・政治学アカデミー(1795年創立)

 フランス革命の影響で王立アカデミーが廃止され、その後に装いを改めて復活したという恰好ですが、五つのアカデミーの総合体をまたアカデミーと呼ぶのはたしかにちょっと変ですし、それでinstitut(アンスティチュ)という言葉が使われたのですが、institutというと「研究所」とか「学院」みたいな感じがします。東京にInstitut français du Japonという文化センターのような組織があり、日本語では、最後の「Japon」だけ「日本」として、他の単語はそのまま音読みして「アンスティチュ・フランセ日本」と呼ばれていますが、この文化センターは東京と横浜にあった二つの日仏学院と、関西と九州の二つの日仏学館が統合された組織です。それで、この場合、institutには「学院」「学館」という訳語があてられていることになりますが、これが通常の訳語です。それならInstitut de Franceの場合にも「フランス学院」などと呼ぶことにすればよさそうですが、そうはならず、「フランス学士院」になりました。ところが、そうするとアンスティチュという学士院のもとにアカデミーという学士院が配置されることになって、少々変な感じもあります。そこでアンスティチュのほうを学士院にして、アカデミーのほうは訳出せずにそのまま片仮名で表記することにしたのであろうと思います。
 明治のはじめ、日本に帝国大学が創設されたときのことですが、帝国大学は医科大学、文科大学、理科大学、工科大学というようないくつかの大学で構成されていました。分科大学制というのですが、複数の分科大学で構成される組織の総称が帝国大学です。大学の中にまた大学があるみたいになり、今の目にはちょっと変に見えないこともありません。

フェルマの数論1 数論とルジャンドル

 西欧近代の数学史を俯瞰してひときわめざましい印象を受けるのは、微積分と数論の創造です。微積分と数論の形成史についてはこれまでに何度も繰り返して語ってきましたが、このあたりでもう一度フェルマに立ち返り、数論史を回想してみたいと、このごろ強く思うようになりました。
 あまり概論風の話になってもつまりませんので、手掛かりをルジャンドルの著作『数の理論のエッセイ』に求めたいと思います。この著作は1798年に初版が刊行されましたが、20年後の1808年に第2版が出て、それからまた22年後の1830年に第3版が刊行されました。ルジャンドルは1752年9月18日にパリで生れた人ですから、初版が出版された1798年の時点で46歳です。第2版が出た1808年の時点でもう66歳ですし、第3版は実に78歳のときの著作です。第3版から3年後の1833年1月10日に満80歳という高齢でパリで亡くなっていますから、長い生涯の大半を通じて、数論に関心を寄せ続けていた様子がうかがわれます。
 初版刊行の時点で46歳ですので、ずいぶん出発が遅いという印象を受けるのですが、それまではどうしていたのかというと、1785年に「不定解析研究」という論文を書いています。パリの王立科学アカデミーから発行されていた学術誌に掲載されたのですが、95頁にも及ぶ長篇です。1785年のルジャンドルは33歳ですし、この長篇を書き上げるまでにはたいへんな日時を要したことでしょうから、ルジャンドルの数論研究は相当に早い時期から始まっていると見てよさそうです。ところが、それなら数論はルジャンドルの若い日から最晩年にいたるまで、生涯の課題であり続けたことになります。
 数論はルジャンドルにとってどのような数学だったのでしょうか。このあたりの考察からはじめて、数論史に分け入ってみたいと思います。

新連載のお知らせ

 連載「山田又吉の手紙」は114回まで進み、ここまでで82通の手紙を読みました。道はまだ半ばですが、このあたりでひと休みして、これからしばらく数学の話にもどりたいと思います。微積分のことはこれまでに何度も語る機会があり、数論についてもあちこちで触れてきました。もう少し深いところまで立ち入って言及するべきテーマがあります。それは「フェルマの数論」です。
 ディオファントスの『アリトメチカ』とか、「バシェのディオファントス」と「サミュエルのディオファントス」とか、フェルマの数論の概要についてはときおり語ってきましたが、隔靴掻痒というか、どうも不十分な感じがあるのは否めません。そこであらためてフェルマに焦点をあてて数論史を概観してみたいと思います。
 「山田又吉の手紙」については、後日必ず手をもどします。

山田又吉の手紙114 学校に通う道

第82書簡の続き
〈友達さへなければ学校よしても大ていこまらないがな。今によくなつて早く行ける様によく養生をしよう。而して中にも会ひ、安倍を喜ばし、たよりなく居る北島に会ひ、北川と遊び、其他石神井や方々見たいな。君の家へ行く道を見てみたい様だ。君は大学へは何の道を通つて行くか。筆記帳と弁当との黒の風呂敷にインキをさげて居るのか。学校で遊び時間は何をして居る。昨夕は床に入つて君と話さない前の教室での有様を思つた。中をちつとも知らなかつたな。細長い人位に思つてたらしい。今ふと思ひ出した。中々口の達者な傍へもよれない東京人だわいと思つたのがあるらしいわい。而して僕がさう思つたグルッペがある様だ。中が其中に居る時は知つて居るかも知れないな。〉

ここまでが2月4日夜の文面です。

〈今見れば今日の雪空がすつかり晴れて澄んだ星と月と白雲とが見える。風もおさまつて冷たい空気が窓から流通して居る。昼間は雪だからねて居た。姉君、君の事を思つて居た。こんな事を思つた。僕が最も初め小学校で哲学的(?)な問題にふれたのは警察や巡査でもなかつたら悪い事でもするかつて小学の先生がきいた時に、何故悪い事をしてはわるいのか僕には分らなかつた。といふよりさうなればわるい事をする方が好いのかしない方が好いのか分らなかつた様だ。又も一つは或子供が不孝なので親が叱つたら、子供がこんな子供にあなたが生みつけたのだと返事した。それは好い事かわるい事かつてきいた。僕は子供の言葉は成程尤もだ。併しどつちが好いのか分らなかつた。其時子供が悪いと思ふ人は手を上げてと先生がいつたら大抵の生徒が手を挙げたので僕も分らぬながら挙げた。併し何故さうだかは分らなかつた。
 人のを見て手を挙げた性質は今でも持つて居る性質だ・・・〉

山田さんの病気はなかなか快方に向かう気配を見せず、療養の日々がすぎていきました。学校をやめてもたいして困らないけれども、友だちのことは念頭を離れないようで、まるで友だちがそのまま学校であるかのようです。山田さんが一高に通ったのは実際には二年ほどのことにすぎないのですが、多くの友人に出会い、学校に通えなくなってからも友を思う心情はそのまま生きています。山田さんの生活にとって、「友情」はいかにも重い意味を担っています。

山田又吉の手紙113 君の手紙はいつもうれしい

第81書簡の続き
〈全体に此頃は君の手紙いつもうれし。僕はどうしてかう幸だらうと思ふ事がある。九州の所を教へて呉れ。母に此間君が大阪への手紙を読んで聞かせた。見たさうだつたから読みませうかといつたら読めといつた。親しいのがうれしかつたらうと思ふ。宇野が中に宇野へ手紙を書けといつて見ろといつた。中の事をよく話した此頃、大阪への中の手紙も宇野は見た。宇野は宇野に友達がもつとあつても好いなといつた。中は面白さうだとも曰つた。山田も宜いけれ共深刻でないので物足りないといつた。中を物足ると思つて話相手にしたいのかも知れない。
 僕の病気は異つた事なし。どしどしよくなれだの読書でもしろだのいうて呉れるのは非常にうれしく勇む気が出る。二階へ君がいつたのは寂しげだ。〉

最後の一文、「二階へ君がいつたのは寂しげだ」というのはどのような意味なのでしょうか。

〈当分御無沙汰するつてよろしい。事務をよく片つけてしまへ。僕は手紙はかく。一寸筆をやすめると今日は筆が氷る。室は外界と空気の流通を保たしてあるからだらう、寒い。ねやうねやうと思ひながら書いて居る。
 北川さんへも久しく行かない。あした風がやむだら行かう。岡本さんは随分久しくなる。泰さんにも御無沙汰。此頃手紙は君にばかりになつてしまつた。
 君が自分勝手にして殆ど自由で居られるのがうれしい・・・
 僕はもう学校なぞ殆ど何うでも宜いな。学校へ出なくとも是れからは一人でやれさうだ。
 暁、夕、雨の日は此頃いかゞ・・・〉

このごろは中さんにばかり手紙を書いていると、山田さんは言っています。こんごろというばかりではなく、第一書簡から数えても、81通の手紙のうち65通が中さん宛の手紙です。

山田さんの手紙
第82書簡
明治39年2月4日夜、5日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈・・・昨日の手紙は言いひのこした様で物足りなかった。といつても書く事があるのでもないが中の孤独をきつく感ずるのだ。
 今日は嵐。一日たれこめて暮した。日曜だが中は何うしたか。北川は楽しく暮したらうか。此間の手紙で安倍が日曜か土曜に訪ねる位なものだとあつたので淋しく思つた。妹とはよく話さないが、今日は北川が尋ねたかも知れぬなぞ思ふ。〉

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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