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山田又吉の手紙101 北川は僕の手を執った

山田さんの手紙の続き
<書く事があるようだけれ共一寸も出て来ない。
 鳥が見る森の景色は格別によいものだらう。
 子規と安倍と性質が似て居るところがあると思ふ。それを四国の気質かとも思つて安倍にさういつたら四国人はさうでないといつた。此病院にはもと松山中学に居た人が居て安倍の事を知つて居た。雄弁な人でせう、よく出来る人でっせうといつて居た。安倍よりも下級の人だ。賢くない而してまけぎらひな人だつた。やめ。
 姉君も御立ちになるのと京都泊なぞいふ事きまれば早く知らせてほしい。大阪から同乗して須磨まで来ようかとも思つて居る(勘助様、能成様)>

ここまでが12月26日の文面です。松山中学は安倍さんの母校で、子規は安倍さんの先輩になります。「姉君」は末子さんですが、その末子さんが「御立ちになる」というのは中さんの兄の金一さんが九州福岡に向かうのに同行するという意味です。洋行してドイツに滞在した金一さんは11月20日に帰国し、11月30日付で京都帝国大学福岡医科大学教授に就任しました。担当は内科学第二講座です。京都帝国大学福岡医科大学は九州帝国大学医科大学の前身で、正式な九大創設に先立って、ひとまず京都帝大の分科大学の形で発足しました。
 山田さんは京都まで出迎えにいきたかったのですが、この希望はかなえられた模様です。

<北側に会つた。一日共に居た。ステーションへ行かうとして先づ北川さんへ行つたら今病院へ行つた所だつたといふので追ひ掛けて帰つたら、よく肥えた人が新しい着物の両袖をふりふり急いで行くのを見た。それでないかと走つたら果してさうだつた。ドンと後からたゝいたら、オー、ソーかつてふりむいて北川は僕の手を執つた。海へ出て話し歩いては話し、午後は風琴やら唱歌やらで北川のあの座敷で楽しむだ。もう僕の心は満ちて居る。喜か楽か何かしらんがすきまなくみちて居る。君の手紙をよんだ。笑ひ出しさうだつたのだけれ共知らぬ人が沢山居た所だつたのでこらへて居た。けんくわが面白かつたのだ。>
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山田又吉の手紙100 喜びのかたまり

山田さんの手紙
第74書簡
明治38年12月25日、12月26日、12月29日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
<今日は喜のかたまりが飛んで来た。全く不意だつたので驚いた。北川が帰るといふはがきだ。今でも帰つて居るかも知れない。北川さんへききに行つた。御母様が喜こんで居られた。母君の笑はるゝのが北川のによく似て居る。御病気も大てい好いのださうだ。兄坊は風がまだなほり切らないが余程いいとの事。うれしく揚々と帰つて来た。帰り道で妹さんにあつた。家から手紙が来た。これから家に手紙を書くのだ。
 中はいつ小田原へ行くだらうか。
 昨夕夢を見て覚えて置いたが、今も覚えて居るかしらん。藁で作つた肩衣をつけて藁の裾を上からしめて、高等学校の第一大教場へ入つて行くと此処の副院長が咽喉へ薬を塗つて呉れた。出て来ると瀧田が長くかゝつたなつてヘッヘッと笑つて入つて行つた。外の事は忘れて居るが障子が風にバタバタと紙をならしたので目がさめた。何となく心細かつた。浪の音が高くなつて居て地を伝つて直接に枕から耳に入る様で雨も降つてる様だつた。>

「滝田」は一高の同期生の「瀧田正二」という人と思います。栃木県の出身です。

手紙の続き
<元気になるのだつたなぞと思ひながらねてしまつた。今朝目がさめたら妙な湿つたムシムシする日だつた。温い風がきつく吹いて居た。・・・
 今人が来て居たのでこれを書くのをよして封筒を書いた。山田と書いて下へ北川の名を入れたが北川が書くか何うか。さよなら。>

山田さんはここまでを12月25日に書きました。

手紙の続き
<中は小田原か東京か。淋しい時もあらう。
 北川はまだらしい。今夜か。昨夜は果して北川の笑顔を想像して時々笑ひつゝねむりに入つた。
 書く事があるようだけれ共一寸も出て来ない。
 鳥が診る森の景色は格別によいものだらう。>

山田又吉の手紙99 冬ぎりたちこめて淡路は少しも見えず

山田さんの手紙の続き
<老松の枝を交へて茂つて居る下道なんか東京に居ては迚ても歩けないね。
 中とより北川と一所に居る方が楽しいな。中と一所に居るのは非常に楽しい時もあるけれ共楽しくない不満足で居る時もよくある。怖がつたり腹を立つたりして居るからかな。色々な事を今考へて居た。何も分らない。此儘ねたらいやでねられないだらうなぞ考へる。
 僕によわりぐせがあると思ふだらう。一寸した事によわつたと思ふとすつかりよわつてしまふ。それでも此頃はむやみに弱つて居ない様に漸々なつて居る。何か事があるとすぐ覚悟を定めておくといふのは中から覚えた此頃のくせだ。君子之於天下無適也無莫也義之与比こんな事を書いて見たくなつた。此間好い気持の句だと思つたのを今思ひ出したのだ。ねる。
 今日も別に書く事もなかるべらなりだ。散歩中一尉官に会つた。北川さんぢやないかとも思ふ。
 冬ぎりたちこめて淡路は少しも見えず、あたる日光も弱く海は油の如く静で舟の帆がきれいに水にうつつて居た。家から来るはづの手紙が来ない。北川北島安倍中、二三日内に手紙が来るだらう。ナベも手紙をよこすだらう。今日からやすみだね。楷書を書かなかつたら固い字が書けなくなつた。牧野に論語の面白い句を書いて送らうか。春の様に暖だつた。東京とは非常に暖い。興津には一泊した事がある。陰気な所だと思つた。・・・
誰れかゝら好い手紙が来ないかな。昨夕も今夜も淋しく手紙を書いた。
 あしたの朝から元気に起きて元気に暮さう。>

これで第73書簡は終わりです。「牧野」は一校で同期の牧野実一という人のことと思います。静岡の出身です。

山田又吉の手紙98 約而為泰(貧しくして豊かになる)

山田さんの手紙
明治38年12月25日
播州須磨より東京へ
中、北川、安倍能成へ
<北川はよだれを溢れさしてメチャメチャと笑ふ事がよくあるが、もう休みだな。休みは何んな計画があるか。
 須磨も別段異つた事もなし。今日須磨寺に散歩。遊園の上の谷を少し入つた所で日にあたりながら読書す。論語に約而為泰とあつたので北川の名を思つて居た。(今辞書を見たら約猶窮とあつた)己も君子の資格が大分ある。今日読んだ所には小人は長に威々たありとあつた。本を読んで居ると水の走る音が聞える。それも高くなつたり低くなつたりする。小鳥が鳴く。砂の上へ足を出し末にもたれて得意だ。>

論語の「約而為泰」は「述而編」の一節に出てくる言葉です。

「子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣、亡而為有、虚而為盈、約而為泰、難乎有恒矣。」
「子曰く、聖人は吾得てこれを見ず、君子者(くんししゃ)を見るを得れば斯ち(すなわち)可なり。子曰く、善人は吾得てこれを見ず。恒ある者を見るを得れば斯ち可なり。亡くして(なくして)有りと為り、虚しくして盈つ(みつ)と為り、約しく(まずしく)して泰か(ゆたか)と為る。難いかな、恒あること。」

山田さんは「約しく(まずしく)して泰か(ゆたか)と為る」というところを見て北川さんを思ったというのですが、一高の同級生の北川さんの名前は北川泰というのですから、山田さんのいう「北川」は北川泰さんのことと見てよさそうです。北川さんは東京出身と、一高の名簿に記載されているのですが、家族は大阪在住なのかもしれず、詳しい事情はまだわかりません。
 辞書に「約猶窮」という文字があったとも山田さんは書いています。それでちょっと調べてみたのですが、「礼記(らいき)」の「坊記」篇に「小人貧斯約」とあり、これに「約猶窮也」という註がついている文献がある模様です。

山田又吉の手紙97 中さんの懐疑

山田さんの手紙の続き
<今朝何か夢を不意に切られて起されたものだから不服で寝て居た。朝飯が来てから起きた。さうしたら今日は変つた事のある日だつた。兄の子供(男)が生れたといふ葉書が妹から来た。姉君の御手紙も来た。宇野からもよい端書が来た。僕の為に仏像が買つてあるといふ。
 興は雨降りで昼から手紙が書きたかつたのだけれ共、夜の楽みに取つて置いたのだ。さあかうなると何も書く事もなくなつてしまつた。
 第一に北川とは一度も議論なぞした事はない。僕は議論して人の言ふ事もよくきいて見ると、そちらの理屈はあるがこちらのいふのもほんとうだといふ様な事になるのが多いとよく思ふ。
・・・・・
 東京辺へ行き度いと思ふな。今姉君にステーションで会ふ様な想像をして居たのだ。其しまひが唱歌になつて筆の先で机の上の砂をつゝきながら高い声を出したので又気がもとの所へ帰つたのだ。・・・
 今横座りになつて机の上に書いてある詩を一寸読むで居た。僕の手紙書く時はいつもこんな風だよ。筆が滞るからだね。
 中の懐疑の問題はどんなものだ。分らぬは何でもだらうが特に分らぬ為に困るのはどんな事か、書く事が出て来ない。北川と一昨日歩いたのだな。其日は僕は何をしてゐたか。いや君の歩いたのは昨日十日の日曜か。それならば九時頃から北川さんの座敷で清様と話して居た。>

山田さんは12月11日にこれだけ書きました。「姉君」は末さんですが、「清様」というのはどのような人なのか、どうもよくわかりません。「北川さん」も頻繁に登場しますが、やはりわかりません。「北川さん」と「清様」の関係も不明。「宇野」もわかりません。
 北川は一高の同級生の北川泰のことではないかと思うのですが、山田さんの手紙も文面を見ると、「北川さん」すなわち同級生の北側の家族が大阪にいるかのような印象があります。清様も北川家の一員なのだろうと思われるところですが、同級生の北川の出身地は東京ですので、このあたりがどうも不明瞭です。

山田又吉の手紙96 一国者

山田さんの手紙
第70書簡
明治38年11月30日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈中は一国者だと思ふ。安倍や藤原はさうではなからう。〉

「一国者」というのは「一徹者」と同じで、頑固で自分を曲げない人というほどの意味ですが、山田さんの目に中さんはそんなふうに見えたのでしょう。

第71書簡
明治38年12月3日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈一昨日の朝大阪へ行き今三日夕方帰つて来たところだ。手紙が来て居なかつた事やら病院へ帰つて来た事やらで心淋しく落付かない。・・・あのはがきを呉れてから何んなにして居るのであらうか。こんな夕方には何んなになつて居るか。或は何うもしないで只本でも見つめて居るのではあるまいか。涙に曇つて詩も見えぬ様になつては何んなにするのか。ちつとでも君の苦しみを少くしたいと思ふのだけれ共だめだ。僕は今度須磨へ大なる勇気をもつて帰つて来たのだ。初めに診てもらつた医者はもう全治したといつた。兎も角全治に近づいたにちがひない。勇気といふのは君もいつか言つた様に思ひきつてハキハキやりたいといふ勇気だ。宇野もそんな事をいつた。大阪は愉快だつた。〉

第72書簡
明治38年12月9日夜、11日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈今北島への手紙にも書いたのだが、他人の中に居ると何うしてあゝよい人々が友達といつて僕と接して居るのかと嬉しく思ふ。
 今日は日曜。北川さんへ行き、鉄の尺八をきいたりして長い間清様と楽しく話して来た。帰つたら中から手紙があつた。
 清様と話して来て今度清様と山へ行つて歌をきかうといふのと歌はふといふ二つの新らしい望を得て来た。又話の序に出て来た学問の話で数学や博物や音楽や色々な物がやつて見たい様だ。僕が理科でもやつて居たら今時分は面白く暮して居たらうかと思ふ。大抵の不満は好い加減な所で押し込めつて居て面白く勉強して居るかも知れない。併し今が面白くないといふのでもない。鉄製の尺八といふのは中は知るまいが数学的に試みられた清様の手製のこんな只穴のあいた鉄棒だ。それから其音階の話をきいたり電子の話をきいたりして科学的野心が起つたのだね。
 中の手紙にあつた面にくいといふ事はあゝそれだと思つた。併し今考へて見るとどんな風だか思ひ出せない。君に会つたら又分るだらう。あの手紙はどういふわけであした学校へ行く道で出したのか。又何故あんな事を書いたのか。只僕の真似か。
 今日は浜で石崖(いしがけ)を積むのを見て居た。面白かつた。
 其の傍で地曳きを引いたがだし雑魚の様なものが大きな網に一斗も入つて居たかしら。只そればかりだつた。漁師が海の垢見たいなもんやなと言つて居た。
 昨日岡本さんで貰つた花の中の薔薇二輪が机にのつて居て筆を動かす毎に首を振つて居る。岡本さんの庭で鼻を切つて居られた有様を思ひ出す。色んな話をしながら落付いて細い道を廻つて居られた有様。
 もう寝る。朝はねむい間に起される。〉

山田さんはここまでを9日夜に書きました。

山田又吉の手紙95 須磨に山田さんを見舞う

山田さんの手紙の続き
〈太井畑は山から見たらう。音楽堂の裏の方の村だ。谷間の静かな平和な村。子供と鳥の音が谷に満ちて居た。太井畑から西方の丘陵を見渡す岡に立つて居た。一面にうねうねとした間に家や畑や森が見える。向ふは青い山がいくつも重なつて限りがしられない。静な静な落ちついた景色だ。学校帰りの子供が五六人並んで来て後から来る女生徒をいぢめて居たと見える。一人が女のそばで峠で女をいぢめるとか何とか言つて居たが、ふと上に僕が立つて居るのが目についたものだから笑つて頭をおさへて立つて行つてしまつた。草履をはいてズックの袋を提げて田舎の小学生徒は又可愛いゝな。今日もリンダウを吸ふ。うまかつた。
 小学生徒が僕を何処の和尚さんだとかいつて居た。此間頭をごくみぢかくかつた許りで眉だけ黒くてをかしい様だ。其上に黒紋付の羽織を着て居るから坊主と見えたのだらう。
 太井畑の八幡は谷の岡のこんもり茂つた中にある。子供も居ない。静で綺麗に砂をかいてあつた。堂守の爺さんが居た。何もする事もないのだらう。御守なんかを並べた後に座つて居て火鉢に手をかざして居た。爺さんぢつと僕を見守つて居た。〉

「太井畑は山から見たらう」と、山田さんは中さんに語りかけました。ということは、中さんは須磨にやってきて山田さんに会い、いっしょに山に登って太井畑を眺めたことがあることになります。山田さんの手紙を読んできた限りでは、文面に中さん来訪の様子は見られませんが、振り返ると、第51書簡の日付は8月7日で、大阪から相州小田原への手紙です。この手紙で、山田さんの弟の小三郎が亡くなったことが告げられました。次の第52書簡は播州阿閇から東京の中さんに宛てて書かれました。日付は8月某日ということで、はっきりしません。簡単な数行の手紙ですが、そこに「僕は病気異りなし・・・」という言葉が見られます。その次の第53書簡は須磨で書かれています。日付はだいぶ先に飛んで9月14日。山田さんの家では小三郎が亡くなり、山田さんもまた病気になって須磨の病院に移ったことがわかります。この状況を受けて、中さんは大阪に出向いたのではないかと思います。山田家を弔問し、それから須磨に山田さんを見舞ったのでしょう。その時期は「8月7日以降の某日から9月14日までの間」です。
第69書簡の日付は11月26日ですが、同じ日に二回に分けて書かれたようで、ここまでで一段落しています。続いてもう少し書き継がれました。

〈中は何うして居るか。まるでちつとも分らない。手紙をまだゞつたら一寸でもいゝから出して呉れ。
 今日は電気燈がともらないので細い蝋燭を立てゝ居る。安倍や江木やは来るか。僕は鼻の切開に大阪へ行かうかと思うて居る(四五日間)がいつにするか分らない。北川さんの家の紋は(図略)だそうだ。僕の内のは(図略)で昔は加賀から来たのだといふ事をきいて居るので、今度北川の御母様にきいて見よう。〉

ここまでが第69書簡です。

山田又吉の手紙94 運命に人の情あらば

山田さんの手紙
第68書簡
明治38年11月24日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
<別に書く事もなし。何か僕にさせる事があらば喜んでする。淋しき温き笑を以て顕はれたといふ運命の面影は僕も接する事が出来る。運命の命令は厳粛だ。
 人間の能力内の事丈の残りなくやつてあれば後は運命にゆだねて置けばよい事だ。今にまたどんなか知らない顔を見せて呉れる。それまでは本務をつとめて待つて居れば好いだらう。さうでなければ名号でも念じて居るかだね。さうだけれ共怖がらない訳にゆかなければ心の動きはやむを得ない。心の動きも万事を運命にゆだねた以上は手紙にでももらす方が宜いだらう。喜んで苦を分たうといふ人々が居るのを忘れてはいけない。
 何も分らないのにこんなことを書いたがをかしかつたら笑つといて呉れ。嫌だつたら許して置け。
 東京へ退院したら行く積りで居るが何れよく相談して見よう。動物園や石神井や方々へ君や北川と歩きたい。
 つとむる事至らざるなき我友よ。運命に人の情あらば正に向けるに笑顔を以てすべきである。併し運命の好意は笑顔ばかりと想うては勿論あやまりだらう。要するに運命の意は人に分らないのが理で非情と見えるのが正なのだらう。>

「名号」というのはたぶん真宗のほうでいう「南無阿弥陀仏」の六字名号のことと思います。

山田さんの手紙
第69書簡
明治38年11月26日
播州須磨から東京へ
中勘助へ
<今日は北川さんへ行つたら香子さんは留守。御母様は寒いのでこたつにねて居られた所だつた。起きて来て下さつて縁側で少し話して帰つて来た。それから切り通しの方へ行き太井畑村まで行く。>

太井畑村とはまた珍しい地名です。

山田又吉の手紙93 本郷弓町のクス

前に「弓町」という地名が出てきましたが、あれから調べたところ、「本郷弓町」のことと思います。山田さんが手紙を書いた明治38年のころなら、地名表記は「東京市本郷区本郷弓町」です。現在の表記では文京区保温号の一丁目と二丁目あたりになるのではないかと思います。
 本郷弓町には「本郷弓町のクス」と呼ばれる有名な楠の大木があり、ぼくも一度、案内していただいて見物したことがあります。

山田さんの手紙の続き
<須磨の別荘の門に「噛犬あり御用心」といふ札がよく出て居る。初め誰かやつたのが伝染したのだらう。滑稽でもあり且失敬な事だ。門標には色んなのがある。法主のにはいばつたのがはつてある。字は中々うまい。
 たとひ園内土工に雇はれたるものと雖此垣飛び越すに於ては他人と見做し出訴致可く候也。
 今日酒糟(さけかす)を須磨で買つて来て今焼いて食つた。甘かつた。昔の味がした。今朝火鉢で紙がもえたらきな臭かつたが、それが久し振りだつたものだから昔に返つた様な気がした。病院の嗅でなく家の中の嗅だといふ様な感がした。みかんも食つた。君の家でみかんも甘酒ぶたなぞやつたのから一年目の冬になつた。昨夕書いた上京したいといふ事はどうなるか分らない。>

これで第67書簡の全文が終りました。二日に分けて書かれた手紙で、前半の日付は11月22日ですが、どうしたわけか後半の日付は21日になっています。そのまま受け止めて21日に後半部が書かれたとすると、「昨夕」は20日の夕刻ということになり、それなら第65書簡が該当します。それで山田さんは、昨夕、上京したいということを書いたというのですが、第65書簡にはそのような記事が見あたりません。何だか変ですが、遺稿集の編纂にあたり、書簡は隅から隅まで全文が写されたわけではないのかもしれません。

山田又吉の手紙92 知行同一

山田さんの手紙
第66書簡
明治38年11月21日
播州須磨より東京へ
安倍能成へ
<御無沙汰。元気なしとか、叱責の声を希ふとか、今にめっざましく一方に泳ぎ付くのだらう。
 写真はよかつた。
 病間録の様なものは読みたかつたが読まない方がよからうか位の事で読まずに居た。二三日前もう全快に近いときいて注文して置いた(君のはがきを見てから)。
 昨日君のはがきと共に中、北川から手紙が来てゐた。
 今窓の日を背に受けて書いて居る。好い天気、濤(なみ)の音、松風の声が一面に静にみちて居る。>

第67書簡
明治38年11月22日、24日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
<人間は運動の必要教育の必要などを知つて居る所が動物にまさつて居る所以だなぞ思つた。
 病気は謀反で肺や胃は執拗な陰険な友人。之に較べると歯痛や腹痛やは幼稚な無邪気な友人だ。
 推理といふものは斜面的に上るものではなくて階段を飛び上がるやうなものだ。行き止まつたらいくら推しても上らない。推理になやまされるのは此時だ。此の工夫に達したら大きな科学的組織が造られるのかと思つた。
 昨日かきかけて消した君が一番ハッキリして居るといふのは一番知行同一に近いといふ事だつた。君は知行同一な事を勤めて居ない。自ら同一なりとの様に見える。又さうだと思ひ其の積りで話もして居た(其積りで話して居たといふのは誰にでもだつた。其人を軽蔑して居ない限りは)。この事は君も前に言つたかと思ふ。併し僕も又前に言つた事もあると思ふ。之は非常に好い気持なの少い君のいゝ点だらう。自分の主張をはばかりなく主張すると僕が言つたのはこれも同じ事だつた。僕がたのみになるならどうかたのみに思つて呉れ。姉上に宜しく。>

山田さんはここまでを22日に書きました。「之は非常に好い気持なの少い君のいゝ点だらう」のところは意味を汲みにくく、誤植ではないかとも思うのですが、ひとまずそのまま写しました。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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