Entries

山田又吉の手紙79 夢庵末子の母より

山田さんの病院は播州須磨にありました。病院の名前はわかりません。

山田さんの手紙
第55書簡
明治38年9月20日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈もう学校も始まったらうと思ふ。今朝から非常に涼しくなつて寄宿の雨の日はこんなだつたと思ひ出す。
 空は一面に動きもせぬ雨雲に覆はれて小雨が時々降つて居る。今長い昼寝からさめて病院の物音が他人の耳へ如く妙に聞える。頭にもやがかゝつて居る様だ。此はがきを持つて海岸へ出て入れて来よう。而して頭の掃除をして来よう。姉君は何うしておいでになる。皆は来るか。あの二階の室が恋しくなつたな。こんな天気の日に皆で又ぶたでも食つて話したら如何か。長崎村のたんぼ道は人も通らずに唯しとしと雨が降つて下駄をこねさせる用意をして居るだらう。雨具と防寒衣を十分にしたら面白い景色が余程多く見る事が出来るね。又降つて来た。さようなら。幸に。〉

山田さんの手紙
第56書簡
明治38年9月25日
播州須磨より東京へ
安倍能成へ
〈此間の写真出来たる故送る。僕はもつと肥るつたさうな。医者は診察の度毎によくなつたといふ。安倍は健在なりや。今外は虫の声にみちて居る。遠くに漁師が地引を引いて居ると見えて罵つて居るのが聞える。院長の犬がこれも遠くで時々吠える。山に其声がひゞきわたる。
 僕は蚊帳の内に机を置いて之を書いて居る。〉

病院で静養を続ける山田さんのもとに、末子さんから「パラダイスの滋味」が届いたこともありました。

山田さんの手紙
第57書簡
明治38年9月26日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈見たらうと思ふが写真を送る。今夜の九時前君たちは何うして居るだらう。一昨日大阪から小包が来たので食物みた様な入れ物だが何だらうと思うて開いたら姉君の字があつたから東京から大阪へ来たのかと思つた。中を開けて又紙切れに黄夢庵末子の母よりとあつた。パラダイスの滋味を分けて下さつたのだつた。非常にうれしかつた。毎日さみしい膳に心だのみになる。今朝小田原へ手紙を出した。〉

「夢庵末子の母」とありますが、末子さん本人です。「パラダイスの滋味」というのはどのような食べ物なのか、よくわかりません。小田原にお礼の手紙を出したとのことですから、金一さんと末子さんはこの時期には小田原の野村家の別荘に滞在していたのでしょう。
スポンサーサイト

山田又吉の手紙78 海水浴

山田さんは病院で日々をすごしている模様です。

山田さんの手紙
第54書簡
明治38年9月16日
播州須磨より東京へ
安倍能成へ
〈長らくの御無音、安倍は何うして居るかと思つて居た。中へ遊びに行つたと聞いて安心した様だつた。それからあのはがきが来た。あの絵の様な所だけでも安倍が得意になる訳だ。谷川のある山へ行つて見たい。此辺は水のある谷は一つもない。病院を出たら寺の小僧に一年間ならうかなぞと考へた。それも面白さうだね。医者が一年の休学の必要がないといつた。此年中に退院するようになるかも知れない。東京の郊外がなつかしいよ。
 帆船がむれて水の上に座つてゐる所、淡路島が赤く夕焼の雲に包まれる所、時には紀州の山々が日光をあびて山のひだがあざやかに影になつて見える所なぞ色々面白い所がある。此間鵜が夕方静に黒くなりかゝつてゐる海に浮いて居た。秋になつて海水浴の連中が少なくなつて好い。岸から釣を垂れて居る老人なぞも好い顔をして居る。陸を舟を曳きながら足拍子手拍子を揃へて走る黒い船頭の形は非常に好い。雨の降る時の山も好い。僕は本を読んだり、字を書いたり、椅子により、海辺で坐つて石を拾うたり、時には山の谷で歌うたりする。
 朝夕には海水浴をやる。一日中で楽で面白く且愉快だ。君も病気にならない様にしなければいけないね。
 僕は夜は衛生上余り外出しない。今日は余程元気が好い。朝から何か色んな事をやつて居た。二三日来少し身体がだるかつたのが今日はよくなつたのだ。皆が中の二階で欄干の所で話をして居るだらう。此一年は退院後行脚して見たいなどとも考へた。
 安倍だから好いと思つて御無音して居つた。
 今年学校へ出るかも知れないから物理の筆記を分る様に筆記して置いて呉れ。
 僕の身体は段々好い方なり。〉

 中さんの家の所在地は小石川の小日向水道町です。二階があることは前の手紙に出ていました。

山田又吉の手紙77 長崎村のすすきの岡を思う

山田さんは病気だったのですが、次の手紙にはほんの少しだけ、病気のことが出てきます。

山田さんの手紙
第52書簡
明治38年8月某日
播州阿閇より東京へ
中勘助へ
〈北川は元気少し、横になってニコニコして居る位の所だ。此間北川の所から大阪へ夕方帰って行ったら湿つぽい父母の有様だった。それは丁度弟の死んだ前の日だつた。其晩涙まじりの御勤めをした。
 僕は病気異りなし・・・ 
二三日少し元気がわるく不快だ。釣りは此頃一寸も釣れないのでやすめ。今日は船頭がキス一匹だけより釣れなかつたさうだ。幸をいのる。〉

山田さんの手紙
第53書簡
明治38年9月14日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈手紙を書かう書かうと思ひながらなまけて居た。
 去年の今時分は長崎村の方へ毎日遊びに行つたね。薄の岡の夜は此頃どんな風であらう。あの辺の風物なつかしい。来年の春休には勿論上京出来るだらう。二三日前医者が大変よくなつたといつて此分ならば一年の休学の必要もない。大てい追ひついて及第出来る位に学校へも出られるとの事であつた。体量が毎日五十六匁の割合で増して居る。入院の時が五十キロ八、此前の日曜に五四、九、になつて居た。病気はそんなに嫌でもない。北川の帰つた日は非常にさみしかつた。同館に居る患者共の嫌な奴ばかりシヤクにさわる。僕独りで東京の友達の事ばかりそんな時には考へて居る。此間の手紙は昨日北川が幡ヶ谷の原から重谷の小さな人だちと共に居て呉れたはがきと一所についた。皆が話して居る傍で夢中に読んだ。得意だつた。嬉しかつた。君たちは何うして居るかといつでも気になつて居た。僕は此頃孟子と山家集を読み大学を写して居る。その外は大抵ねて居る。安倍に宜敷く。安倍は何うしてるかと思つて居た。〉

長崎村というのは今の池袋の近辺にあった村のことと思います。「薄の岡」というのはよくわかりませんが、これは地名ではなく、「ススキの岡」、すなわち、長崎村のどこかにすすきで覆われた岡があり、それを指しているのかもしれません。
「幡ヶ谷の原」も地名です。今も東京に「幡ヶ谷原町」というところがあります。「重谷」というのはよくわかりません。

山田又吉の手紙76 小三郎逝く

 中さんは明治38年9月から帝大の学生になりましたが、山田さんは体調がおもわしくなく、休学することになりました。この間の正確な消息はもうひとつわかりにくいのですが、第二学年を終えて第三学年に進んだところまでは確かなようですし、たぶん一高の第三学年に二年間在籍したということであろうと思います。山田さんの手紙にそんなふうにはっきりと書かれているわけではありません。

山田さんの手紙
第49書簡
明治38年7月31日
大阪より相州小田原へ
中勘助へ
<今日又小包のがついた。皆無事で、小三郎はやすみやすみながめて居る。あり難う。たのしくうれしく暮して居るか。
今日は朝から一日がけで北川へ手紙を洋紙一頁程書いた。まだ昨日から頭がいたむので横になつたり写真を出したり古手紙を見たり手紙を続けたりだつた。>

山田さんの手紙
第50書簡
明治38年8月2日
大阪より相州小田原へ
中勘助へ
<小田原の楽しげな清いまとゐの人々に返す。僕はまだ少し熱がとれない。時々頭痛がする。一昨日小三郎の書籍を日光に曝した時、日のあたる所で日記類をしばらくながめて居つた為だ。大阪は暑いけれ共元気はちつともめげない。弟は医者から度々不治の宣告を受けた。小三郎は聞かないのだが自分ではよく知つて居るらしい。日記にそんな事が沢山書いてあつた。弟は正岡子規がすきでよく読んで居たからよく似てゐる所が書いたものにある。
 肉体の苦に抑へられて居る時の外は静に閉ぢてぢつとして居る。苦の終の来るのを待つて居るのであらう。元気の時には一センテンス丈け程の事を云ひ掛ける時もある。田舎を恋うて居る。でももう動けない。
 僕等の家は今まで憂い目はなかつたのでこれが始めて大打撃なのだ。
 今北川はホームにあつて幸に満ちて居る。江木と姉君と中とは小田原にあつて幸福に酔うて居る。北島や安倍や藤原は如何して居るか。希くば皆幸に満ち足りて今度楽しく面をあはさん事をのぞむ。此れれはまだ多分江木の居る間につくだらうと思つて居る。
 小田原に幸に酔へる人々に 大阪の友>

 この手紙を見ると、江木さんも小田原に滞在していたことがわかります。

山田さんの手紙
第51書簡
明治38年8月7日
大阪より相州小田原へ
中勘助へ
<小三郎は逝つてしまつた。黒布に覆はれて居るむくろは最早小三郎ならぬものとなつてしまつた。昼間皆の手を握つて皆に笑顔を見せた。父の命により不取敢知らせる。端書今見る。>

山田又吉の手紙75 播州須磨からの便り

山田さんは7月15日の午後、播州須磨に移りました。播州は兵庫県。次の二通は須磨からの便りです。

第46書簡
明治38年7月21日
播州須磨より東京へ
安倍能成へ
<安倍を喜ばしうらやましがらせえる端書なり。播州から質朴な人情を土産物にカバンに入れて今日北川を訪うた。あくまで海に遊ぶ。夕方後の山に登る。山に、谷に、村、他の小国を見下す。夕景非常に荘厳なり。血のしたゝるごとき雲は森あり谷あり湖あるが如き形せる雲を映しいだして天国の如し。北川と歌ふ。歌の半ばに驚嘆する事度々。これより北川と涼しくねる。>

第47書簡
明治38年7月22日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
<須磨寺は好い像があつた。鵯越を一里あまり峰をつたふ。こわかつた。泰さんの兄さんのズボン下をはき、御母さんの御注意で紺たびをはいて出た。>

明治38年の夏、中さんはすでに一高を卒業し、秋9月から帝大に進むことになっていましたが、其のお前のひとときを相州小田原ですごしました。相州は相模と同じで神奈川県。小田原には末子さんの実家の野村家の別荘がありました。

第48書簡
明治38年7月30日
大阪より相州小田原へ
中勘助へ
<画を有難う。今弟の前に置かれてある。時々手でかゝげて弟はながめて居る。弟は益々よくない。
 二三日前君にあつた夢を見た。然し声ばかりで顔が見えなかつた。さめたと思つたら北川から手紙が来て居たがそれも又夢だつた。
 今日はあたまが痛むからこれで失敬する。>

山田又吉の手紙74 天の雲と海の雲

「空前の大景」の描写が続きます。

山田さんの手紙の続き
<やがて雷が少し遠のいて戸を少しあけてのぞいて見たら左の方に高く雲が日の光に浴してゐるのが見える。蛙とかにがノソノソ歩きまはつてゐた。小降りになつて僕は海岸に出た。時の間に熱砂が水溜りになつた上を通る。松の若葉が愈翠になつて固くしまつた松原の露を受けて行つたら小犬が一疋まだ今の夢がさめぬといふ顔をして走つて居つた。家は皆まだ戸をしめたまゝだ。僕一人清冷の気を縦にして岸に出たら其景色はまあ何うだつたらう。真上から右一面は墨汁を水に解かした様に真黒の雲がこめて居り、左の方は稍淡い雲が色々の形をして満ちて居る。明るいのは只真西須磨明石の辺のみだ。北川の家の辺は降つてないと見えて山に日光を帯びてゐる様に見えてゐた。其一角を残したのみで全体は真黒だ。左の岬は松林があざやかに輪郭を顕はしてゐて、其先きのあたりに雨が降つて居て天の雲と海の雲とを黒い線で連ねてゐる。少しはなれて細い線が二つあり其右に最広い巾が高さに倍する位のが一つある。見てゐる間に皆の柱が右に右に移つて行く。帆船が二艘居たのが見る間に包まれて見えなくなつた。真西に少し赤い色を見せたと思つたら雲から日がぼんやりと赤丸をなして顕はれ、やがて山に沈んでしまつた。夕立の柱はもう大抵消えて居つた。僕は大方其時ため息をついたらう。而して後ろを見たら綿をちぎつた様な雲共が青空に真ん丸な月を囲んで跳りやうをほしいまゝにしてゐた。足を気が付けば虫が二三疋さして居つた。湿気虫の様な奴で落したら丸くなつて石の様になつた。夜大阪へ帰つたら九時頃。そしたら小三郎は今日は今迄に一番苦しかつた日だつたつて、大きなチンチリ(東京でなんといふね、松の実)を二つ置いといた。今朝明れば果物と一所に飾つてあつて弟が二つ両方へチンチリを並べてあると正月の門松の様だつていつた。>

山田又吉の手紙73 空前の大景に接する

山田さんは浜寺で「空前の大景」に接しました。

山田さんの手紙の続き
<病気は其後またよくない。もう書物が読めなくなつたつて。あしたから弟や妹をあつめて枕元で僕が読んでやる事にしようと楽しんでゐる。姉君にもらつた人形は行列の最後に四足と尾とを付けたなすびの上に乗つてゐた。僕はあしたから播州へ四五日行く。
 昨日午後正三を連れて(良三は病気がなほつたばかりだつたのでよしたのだ)浜寺へ行つた。すくなくも僕には空前の大景に接した。汽車を降りた時分から雷が聞えてゐた。親類(例の母の兄の家)へ行つて直ぐ海へ行つた。前は淡路と攝山(せつざん)との連峰に包まれ左は長く松ある岬に限られてゐる。海は稍(やや)浪があつて空は一面にはれ右の稍高い山の上に雲の峯が強く輝いてゐる。其最左のは一つ抽(ぬき)んで、衆を率ゆる様に高く高く中空に聳えて居つた。一面に雲が広がつて居て海面は黒くなつて居る。浪は大分高くなり潮も満ちて居つた。右の第一丁許りの所に一人浴して居るのを見て僕も入つた。泳いだり少しすごい四方をながめたりして居たが不図見れば大粒の雨が落ちて来た。一寸位の白い泡を黒い水面にたてゝ消えて行く。僕は驚いて上る時分にざつと音を立てゝ降つて来た。先つきの人の白い浴衣が青い松原に馳け込むのを見ながら僕も着物を引つかけたまゝ大走りに馳け込んだ。雷がなりだした。ピカリッと光ると思つてゐると大空一面に鳴り廻る。従姉妹が戸をしめるやら蚊帳をつるやら大さわぎして真黒になつて皆蚊帳の傍へ固まつた。雷は益々荒れまはる。ピカッパチパチゴーゴーといふ胸のすく様なのが続けさまに十程なつた。丁度其日植木屋が来て居たのがこれも上り口へ来て何かいつて人を笑はしてゐる。もつと此方へ集らうと伯母がいへば此処で紙なり様の火にあたつて居まんねなんていつて人を笑はっせる。併し笑は室にひゞける様で益陰気になる。植木屋もピカッと来るとワワと上り口から尻を下へ降ろす。伯母は首をちゞめる。口の内で桑原々々つていつてたにちがひない。>

山田又吉の手紙72 奈良の法隆寺

山田さんの長文の手紙が続きます。

山田さんの手紙の続き
<今手紙をよむだ。何うして君はそんなになつたのだらう。読んだ時は身にしみて悲しかつた。こんな嫌な己をなつかしいと思つて呉れる。僕は身を退く可きだとも思つたが何うか力になる時は用ゐて呉れ。嫌な事わるい事があれば何卒いつて呉れ。併し永久に帰つたと覚ゆるとは如何にも悲しい淋しい事である。何うか呉々も己については全くの気まゝで居つて呉れ。己は自分に取つても全く嫌なつまらない事をやる奴なのだから、言ふ可き事はこの外にはない様だ。
 夏来て呉れる。何んなにか嬉しいだらう。あつた時色んな話をきかう。奈良が一番に行つて見たい。今宇野の所から古仏の写真を弟にもらつて帰つた。君に奈良法隆寺なぞを見させるのが楽みだ・・・>

ここにも「宇野」さんが出てきますが、山田さんは宇野さんのところで弟のために古仏の写真をもらってきたとのこと。病気の重い小三郎のためなのでしょう。中さんの大阪行も計画されていたようで、山田さんも楽しみして、中さんが来たらいっしょに奈良の法隆寺を見に行こうと考えている模様です。この計画は実行されたのかどうか、そのあたりは不明瞭ですが、後年、中さんは奈良に滞在した一時期がありました。和辻哲郎が古寺巡礼の旅に出たとき、法隆寺で中さんに会い、そのおりの会話の断片が和辻さんの著作『古寺巡礼』に記録されています。中さんの奈良滞在には、若い日の山田さんの手紙の記憶がそこはかとなく反映されているような感じでもあります。

手紙の続き
<吾が行く可き路を尋ねんと思ひては大なる力なきにしもあらずと君は書いてゐる。僕は君の精進に従つて行く可き方に行かう。此間哲学史で独逸のスピノーザを読むだ。嬉しい哲学であつた。併し之れも最早破られたる地盤に立つた家となつてゐる・・・
 額ぶちの寸法を聞かせろ。ひよつとするとしないかも知れないよ。安倍のも寸法をきいておいて呉れ。此間安倍にたのまうかと思つたのだが。画の写真を買つてもらはうと思つて。そしたら弟がそんなにしなくとも好いといふのでよした。大阪をさがしたんだけれ共ないんだからね。君でも安倍でも九段の方へ行つた時にあんまり画面が複雑でない昔の画で面白いのがあれば送つて呉れないか。近世の画は好かないつて。子供の顔なんかが一番好きだつて。今日小三郎は妹に人形を買ひにやつた。気に入らないつて替へさして武者人形を買はせて枕元で行列させてゐた。北島の画はがきと今一つの画とが枕の横の箪笥の戸に横向きにはつてあつた。寝てながめるのだからね。>

 額ぶちを作ってほしいと中さんが山田さんに頼んだのでしょうか。

山田又吉の手紙71 住吉の海辺

北川さんは7月8日に帰りました。

山田さんの手紙
第44書簡
明治38年7月10日
大阪より東京へ
安倍能成へ
〈はがきを有り難う。両親にも小三郎にもさういはう。
 昨日は熱が低かつたといつて喜んで居た。北川は一昨日帰つて行つた。今朝手紙が来た。いかにも得意さうだ。ムッターの喜が察せられる。家では北川を大人シイ好イ人だつて曰つた。二十五位だらうと云つた。去年安倍と歩いた時よりもつと元気に面白くあるいた。住吉では海辺へ出て見たよ。そしたら海がきたなくてだめ。でも四国や淡路が見えて居た。君は屹度其景を覚えて居るだらう。僕は今日これから浜寺の親類へ行く。水をあびて来よう。昨日と一昨日とは此辺の祭。弟共がこんな妙な物を買つて来た。赤ん坊の泣き声のする笛なんてものもあつた。
 今日から大変あつくなるらしい。江木によろしく。〉

「ムッター」というのはドイツ語で「母」のことです。
次の手紙は中さん宛ですが、非常に長文です。

山田さんの手紙
第45書簡
明治38年7月16日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈今日夕方横になつてゐた時君へ暫く御無音した事、君から手紙が来なかつた事を思つて淋敷悲敷なつて立つて行つたら君から手紙が来てゐた。ふるへる手でよむだ。嬉しかつたり悲しかつたり驚いたりいろいろな情で訳が分らなくなつて今宇野を訪うて帰つて床の上でこれを書く。〉

「宇野」というのは山田さんの友人のようで、中さんも知っている人のような感じがありますが、よくわかりません。

山田又吉の手紙70 出征兵士を送る

山田さんの手紙にはときおり「北川」という人が登場しますが、一高に入学したときの同級生に東京出身の北川泰という人がいますから、たぶんこの人であろうと思います。どのような人生を歩んだ人なのか、詳しい消息は不明です。

山田さんの手紙
第42書簡
明治38年7月8日
大阪より東京へ
安倍能成へ
〈北川は帰つたと思つてゐて今朝君や北島へはがきを出した後へ北川の手紙が来て僕はステーションへ迎へに行つた。よく君は北川に勧めてくれたね。今二階で会て君と茶をのみながら話した室で北川とくつろいで話してゐる。今朝北川から行くつて手紙が来た時は思ひ掛けなかつたので驚き且喜んだ。時間表をさがしたりまごまごしながら迎へに行つた。今君の望んでゐた様にくつろいで楽しく話してゐる。北川は右に横になつて本の画をながめてゐる。土瓶がある。団扇がある。写真がある。皆君のなじみのものだらう。北川に託した土産は有り難う。二人で読んだ。北川がゆたかを引つかけたら兵隊サンの様になつた。〉

この手紙を見ると、中さんは大阪の山田さんの家に滞在したことがあることがわかります。山田さんの家には二階があったことも。中さんは北川さんにお土産を託したようですが、それは何かの本で、山田さんはそれを北川さんと二人で読みました。

山田さんの手紙
明治38年7月10日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈一昨夕北川を送つて帰つたら君の手紙が来て居た。父が傍に居たもので中がかう書いて居るつて話した。嬉しさうであつた。そこへ北島葭江から画ハガキが来て東京の友達の話が出た。弟は顔に腫物があつたのがうみが出て其為か昨日は熱が八度より上らなかつて喜んで居た。熱を早く取らないとクセになつていけないなんていつてゐた。昨日は或少尉の出征をおくつた。兵隊が可哀想であつた。青森から汽車で来てつかれて居るし夜の十一時頃ではあり見送りの人も少なし同室の戦友とも話はつきたであらうし夢の様に故郷を思つて居るだらうとあはれであつた。僕の乗つて行つた人力車の車夫が子供の時分に顔を知つて居た人だつた。濟まないと思つた。〉

北川さんは7月8日のお昼前に大阪に着き、その日のうちに大阪を離れた模様です。
日露戦争の渦中でもあり、山田さんはある少尉の出征を見送りました。ある部隊が大阪駅を発ち、その中に知人の軍人がいたということと思いますが、その部隊は青森で編成された部隊でした。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる