Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

数学史を綴る13 虚数の魔力

「虚数は存在するか」という問いが気に掛かることがときおりありますが、この問いを立てると、たいていの場合、混乱におちいります。存在するようでもあり、存在しないようでもありますし、考えたくない気持ちになることもあれば、存在の有無を気にすることもなく平然と使用することもあります。複素関数論の創始者と言われるコーシーなどは虚数は形式的な「式」と思っていたようで、複素数の加減乗除の計算規則を列記するのみばかりです。
 それであらためて考えてみたいのですが、「虚数は存在するか」という問いを天下りに問うのはやはりだめで、数学という学問そのものにとってどのような意味をもつのかという視点がたいせつなのではないかと思います。これを言い換えると、虚数の存在を支えるのは虚数の実在感であるということで、実在感を感知するのはひとりひとりの数学者です。ライプニッツ、ヨハン・ベルヌーイ、オイラー、ガウスなどは虚数に対して強い実在感をもっていました。アーベルとヤコビ、リーマンとヴァイエルシュトラスも同じで、総じてガウスの影響下にある人たちは虚数の実在を確信していたように思います。確信していたというのですから、それはめいめいの感情であり、普遍性はありません。これらの人たちとは反対に、確信しないどころか、コーシーのようにただの形式と見ていた人もいました。虚数はあると思っているのか、ないと思っているのか、よくわからない人もいます。
虚数の存在の有無を問う問いは実りがありませんが、虚数に寄せる実在感はどこから生じるのかという問いは、数学という学問を考えるうえで思い意味を担っています。ひとりひとりについて詳しく観察していく必要がありますが、ライプニッツとヨハン・ベルヌーイの場合には有理関数の積分の計算の探究が契機になり、虚数の対数とは何かというテーマで長い論争を続けました。決着をみないまま放置されたのですが、後年、オイラーがこの問題に着目して、虚数の対数の無限多価性を明らかにしました。この三人に共通しているのは虚数の対数の実在をまったく疑っていないことで、その正体をつかもうとすることが論点になりました。
 ガウスの場合には4次剰余相互法則の探索が決定的な契機になりました。ガウスは若い日に平方剰余相互法則を発見し、証明にも成功しましたが、同時に高次冪剰余相互法則の存在を確信しました。この「確信した」というところが肝心なところで、ガウスの数論はここから生まれました。その後のガウスの足取りを観察すると、ガウスは3次と4次の相互法則の探索に向かい、4次の相互法則の発見にたどりつき、「4次剰余の理論」という題目の2篇の論文を書いて報告しました。この2論文にはガウスの思索の足取りがありありと描かれています。ガウスははじめ有理整数域において探索を続け、断片的な法則をいくつも見つけたのですが、満足することができなかったようで、最後に「ガウスの整数」と呼ばれる複素数の導入を決意するにいたりました。整数と整数の間に認められる相互関係に着目しているのですから、有理整数の世界において探索を続けるのは当然のことと思われるところですが、ガウスは数域の拡大に踏み切り、ガウス整数域において4次相互法則を発見することができました。
 虚数にはたしかに魔法の力が備わっています。その力は複素対数の正体の探究の際にも「対数の無限多価性」という形で現れましたが、ガウスの数論の場において出現したのは魔力いうほかに形容しがたい何ものかでした。ガウスはみずから進んでこのような現場に立ち会ったのですから、虚数の存在を問う問いなどは、ガウスにとって何の意味ももちえないのではないかと思います。
スポンサーサイト

数学史を綴る12 3次方程式の「還元不能の場合」

西欧近代の数学を古代ギリシアの数学と同時に眺め、継承されていることと創造されたこととを識別しようとして、思いつくままに事例を挙げているところですが、古代ギリシアにはまったく見あたらず、西欧近代の数学に固有の創造としか思えないものが存在します。それは虚数です。古代ギリシアばかりではなく、西欧近代の数学以外のどのような数学にも虚数は存在しませんし、虚数こそ、西欧近代の数学の本質をもっともよく象徴する「魔法の数」です。
 「自乗すると負になる数」には2次方程式を解く際にも出会いますが、この出会いは数学と虚数の最初の遭遇ではないかと思います。2次方程式の場合には、虚根は根と認めないことにするというのもそれなりに明確な態度ですが、3次方程式に移るとちょっと困った現象に直面します。たとえば、これはよく引用される事例ですが、3次方程式
      x^3-63x=162
を解くのにカルダノの解法を適用すると、
    x=(81+30√-3))の3乗根-(81-30√-3))の3乗根
という形の根の表示式が出現します。一見すると虚数のように見えますが、実はこれは実根-6にほかなりません。もうひとつの例を挙げると、方程式
      x^3=15x+4
はx=4という根をもちますが、カルダノの解法を適用すると、
   x=(2+√-121))の3乗根-(2-√-121))の3乗根
という形の表示式が出てきます。この表示には虚数が出現しますが、実際にはこの根は4であることがわかります。実根であるにもかかわらず、一般的解法を適用するとどうしても虚数を避けられない場合があることを、これらの事例は示しています。「還元不能の場合」と呼ばれることもあります。何だか変な感じはたしかにありますし、これだけではまだ虚数の実在感を感知するというにはいたらないかもしれませんが、頭から無視して平然としているのもむずかしそうです。

数学史を綴る11 ガウスの数論

積分法に関する補足事項はこのくらいにして、再び数論に立ち返りたいと思います。西欧近代の数学には数論の泉が二つ存在するというのは30年来の主張ですが、泉のひとつはフェルマ、もうひとつの泉はガウスです。フェルマの数論の契機となったのはディオファントスの著作『アリトメチカ』でしたが、ガウスの数論の場合、フェルマにおけるディオファントスに対応するのは、強いて言うならばユークリッドの『原論』でした。そんなふうに言うのは、若い日のガウスが円周の幾何学的17等分を発見したと言う事実を根拠にしているのですが、それならガウスは『原論』を手掛かりにして数論に向かう道を発見したと言えるのかというと、そういうわけでもありません。『原論』はガウスの数論形成のきっかけであることはまちがいありませんが、『原論』は数学に関心を抱くほどのすべての人が親しんでいた古典ですし、それに、正17角形の幾何学的作図法はそれ自体としては初等幾何の範疇に所属する事実です。そこに数論の萌芽を見たのはどこまでもガウスの創意です。
 ガウスが数学的思索をはじめたころはもう18世紀も終わりがけでしたし、西欧近代の数学もデカルトからこのかたすでに200年ほどの歳月が流れていました。ガウスの前には偉大な先人が何人もいるのですが、本質的な方面に目を向ける限り、ガウスはほとんどだれにも影響を受けませんでした。1801年の著作『アリトメチカ研究』にはオイラーやラグランジュの名前がしばしば登場しますが、それはただ、自分が発見した事柄をオイラーとラグランジュは気づいていたことを確認するためだけのことにすぎません。そんなわけでガウスの数論にはすみずみまでガウスの創意が充満していますが、それでもユークリッドの『原論』がなければ正多角形の作図ということに思いいたることもなかったでしょうから、その意味においてガウスの数論は古代ギリシアの継承と言えそうです。
ガウスの数論と古代ギリシアの数学との関係は「継承と創造」という言葉がぴったりと当てはまりますが、この観点から見ると代数方程式論などはどのように見えるでしょうか。2次方程式の解法のことでしたら、古代ギリシアというよりもむしろ9世紀のアラビアの数学者アル=フワーリズミーの名に言及したい気持ちになりますが、代数方程式論において画期をなすのはやはり3次と4次の代数方程式の解法の発見ではないかと思います。16世紀のイタリアの数学者たちの手で得られた成果で、代数方程式論が真に始まるのはここからです。5次方程式の解法の探索の数々、ラグランジュの「省察」、ガウスの円周等分方程式論と進み、アーベルの「不可能の証明」と「アーベル方程式の理論」、ガロアの「ガロア理論」と大きく展開しました。これらは古代ギリシアの数学とは関係がありませんが、強いて言うなら、ガウスの円周等分方程式論は正多角形の作図問題とを代数方程式論の言葉に翻案した理論ですので、わずかな接触が観察されます。
代数方程式論は純粋に西欧近代の数学の創造です。

数学史を綴る10 面積を算出したいと思う心

クザーヌスと求積法の関係については前に言及したことがありますので、ここでは詳述は避けますが、クザーヌスはサイクロイド曲線を考案した人であること、その契機になったのは古代ギリシアの三大作図問題のひとつである「円積問題」であったことを、あらためて想起しておきたいと思います。古代ギリシアと西欧近代の二つの数学が円積問題において接触し、サイクロイドという、古代ギリシアには見られなかった新しい曲線が発見されました。サイクロイドの人気は高く、クザーヌス以後、西欧近代の数学を創った人たちはこぞってサイクロイドを取り上げて、接線を引こうとしたり、サイクロイドと軸で囲まれる領域の面積を算出しようとしたりしました。
 もっともここにおいて、「なぜ面積を求めたいと思うのだろう」という、素朴な疑問が発生します。接線を引きたい心も謎めいていましたが、面積を求めたいと思う心もまた同じくらい謎めいています。古代ギリシアには見られなかったことで、やはり西欧近代に特養の現象です。アルキメデスが放物線の求積に関心を寄せたというだけで説明するのはむずかしく、何かしら根本的な理由があったのではないかと想像されますが、こういうところは考えてもわかりません。西欧近代の数学を創った人たちはそうだったという事象が観察されるだけで、それ以上のことはわかりようがなく、数学という学問の正真正銘の神秘はそのあたりに宿っています。

数学史を綴る9 積分法の泉もクザーヌス

フェルマの数論に続いてガウスの数論の話をしたいのですが、微積分の話の中で積分についての言及が不足していたように思いました。積分というと普通に思い当たるのは求積、すなわち「面積を求める方法」で、古代ギリシアの数学でいうとしばしばアルキメデスが引き合いに出されます。高木貞治先生の『解析概論』でも、積分の章はアルキメデスの話から始まっています。アルキメデスは放物線の求積法の発見で知られている人で、放物線に直線が交叉しているとき、その直線と放物線により囲まれる領域の面積の算出に成功しました。今日の積分法の端緒を求積に求めることにすると、このアルキメデスの試みと成稿はひときわ際立った印象をもたらしますが、この方面でアルキメデスを継承する者というといきなり話が飛んで、舞台は西欧近代の数学へと移ります。
 西欧近代の数学では草創期からすでに求積への関心が見られますが、ではなぜ「図形の面積」に関心を寄せたのだろうかという疑問もまた生じます。それと、ひとくちに求積といってもその対象は「面積」に限定されるわけではなく、「曲線の長さ」や「立体の体積」の算出も求積法の守備範囲です。
 求積法の淵源を求めて古代ギリシアの数学を観察しても、目に留まるのはせいぜいアルキメデスによる放物線の求積程度のことで、そのほかには、円の面積、円周の長さ、球の体積、球の表面積などの算出が行われています。円と球に関しては、求積法というよりもむしろ円周率の発見という方面から見るほうがよさそうに思います。
 今日の微積分ではまずはじめに曲線の方程式が提示され、その概形を描くと閉じたループが出現することがあり、そんなときにその面積を求めようとすると積分法の出番になるのですが、古代のギリシアにはそもそも曲線の種類がきわめて少なかったのですから、求積法が大きな関心事になったようにも思えません。接線法の場合には、古代ギリシアの数学には西欧近代の数学における接線法に影響を及ぼすような出来事はなかったのですが、求積法の場合にはアルキメデスの試みがありますので、なんだか大昔から関心が寄せられていたかのような感じがするのですが、錯覚ではないかという疑念は消えません。
 円とその接線についてはユークリッドの『原論』に記述がありますが、ここから出発して今日の接線法への道がおのずと伸びていくとは思えません。ただし、何らかの示唆を与えたことはありえますし、実際にデカルトの接線法には「円とその接線」の影響が見られます。それでもなお西欧近代の数学における接線法の泉はクザーヌスに求めるのが本当のところであろうと思います。
 これと同様に、積分法の場合にも、だれかしらアルキメデス以外の人物がいて、その人がいたからこそ積分法が成立したということが言える可能性はあります。そのような人は確かに存在し、実は接線法の場合のクザーヌスこそがその人です。

数学史を綴る8 「直角三角形の基本定理」と「フェルマの大定理」

「フェルマの小定理」には素数というものの属性が表明されています。他の数との関係性において語られる性質ですから、完全数のような「数それ自体」の性質とはだいぶおもむきが異なります。「直角三角形の基本定理」で語られるのも素数の性質で、素数の全体を「4で割ると1余るもの」と「4で割ると3余るもの」に二分して、前者の数は二つの平方数の和の形に書き表されるのに対し、後者の素数に対してはそのよう表示は不可能であることが主張されています。二つの平方数の和の形に表示されるか否かという点に着目するところには、ピタゴラスの定理が反映しているように思いますので、そのような形においてギリシアの影響が見て取れそうですが、数論という視点から見ると、感知されるのはやはりフェルマの創意です。
「フェルマの大定理」はディオファントスの『アリトメチカ』の余白に記入された「欄外ノート」のひとつですが、フェルマの書き込みはみなディオファントスの本に書かれていることに対する反応です。ディオファントスは、「平方数を二つの平方数の和の形に分解する」ことを考えていて、フェルマはそれに反応して、それなら、というので表明されたのが「大定理」です。ディオファントスが書き留めた命題それ自体がピタゴラスの定理に示唆を受けたものですし、フェルマはそれを見て二通りの仕方で反応したことになります。ひとつは「二つの平方数の和の形に表示される数はどのようなものか」という問いを問うことで、「直角三角形の基本定理」はこれに答えています。もうひとつは「平方数」のところを3乗数、4乗数、一般にn乗数を考える方向に歩を進めることで、これが「大定理」っですが、こうなるともうピタゴラスの定理のような幾何学的イメージは完全に払しょくされて、純粋に「数の理論」というほかはない感じになります。
「フェルマの大定理」には西欧近代の数学に固有の創意が現れています。
フェルマとオイラーの数論はラグランジュに継承されて完成度が高まりました。ここまでのところを集大成したのがルジャンドルで、ルジャンドルは『数の理論のエッセイ』という大きな著作を出しました。アリトメチカという伝統のある言葉ではなく、「数の理論」という即物的な言葉をはじめて用いたのもルジャンドルで、この著作の書名に使われました。ルジャンドル自身による寄与も多少は見られますが、ほぼすべてフェルマとオイラーとラグランジュの三人で作り上げた理論です。

数学史を綴る7 フェルマの数論とは

西欧近代の数学は古代ギリシアから「曲線への関心」を継承し、クザーヌスの神秘的な思想を媒介として接線法の発見に成功しました。しかも接線法が発見されたのと同時に逆接線法と求積法も獲得されました。デカルトからライプニッツ、ベルヌーイ兄弟にいたるまで、100年足らずの間に生起した出来事です。これで「曲線の理論」は完成の域に達しましたが、これだけではまだ今日の微積分にはなりません。
 微積分の形成史は三層から成るというのは20年来の持論ですが、ライプニッツとベルヌーイ兄弟の手で完成した「曲線の理論」を第一層として、オイラーとラグランジュによる第二層、コーシーが方向を示した第三層と続きます。どの層も重厚ですので、微積分の全史を叙述するのは実に大変な作業です。
 今ここで試みているのは数学史叙述のスケッチですので、微積分形成史を詳述するのは後回しにして、数学の他の方面に目を向けたいと思います。西欧近代の数学は古代ギリシアの数学を継承しながらも、独自の創造に向かっていったという話をする中で、まず微積分を取り上げたのですが、もう一つの著しい事例はフェルマの数論です。フェルマの時代にディオファントスの著作『アリトメチカ』のラテン語訳が行われたことや、フェルマは「バシェのディオファントス」の一本を入手してこれを読み、広い欄外に独自に発見した48個の数論の命題を書き込んだこと、フェルマの発見はほかにもいくつもあり、友人宛の書簡で伝えていたことは既述の通りです。証明は記されていなかったのですが、100年後になってオイラーが着目して証明を試みて、いくつかの命題については成功し、これで西欧近代の数学における数論の根底が定まりました。
 こんなふうな経緯がありましたので継承と創造のうち、継承に関しては明白ですが、問題は「創造」についてです。フェルマが発見した数論の諸命題にはディオファントスを超える何物かが認められるだろうかということが問題になるのですが、この点を具体的に指摘することができなければ、西欧近代の数学における数論を語る値打ちはありません。はたしてどうだろうと思いながら観察してみると、フェルマの数論には古代のギリシアにはない新しい視点が確かに認められることに気がついて、当初の不安はたちまち解消されてしまいます。
 フェルマが提示した数論の命題の中で今もよく知られているものを挙げると、まず「フェルマの小定理」、次に「直角三角形の基本定理」、それから「多角数による数の表示に関する定理」、最後に「フェルマの大定理」あたりでしょうか。「フェルマの小定理」と「直角三角形の基本定理」はオイラーが証明しました。「多角数による数の表示に関する定理」は、三角数や四角数のような簡単な場合にはそれほどむずかしくありませんが、一般のn角数の場合を考えると難問になります。「フェルマの大定理」はフェルマが「バシェのディオファントス」に書き込んだ48個の命題のひとつですが、証明がむずかしくて最後まで未解決のまま残りましたので、「最後の定理」と呼ばれることもあります。
 試みにこれらの命題を古代ギリシアの数論と比較してみたいのですが、まず「フェルマの小定理」は、素数pとpで割り切れない数aを対象にして、「pの(a-1)次の冪をpで割るとき、剰余はつねに1になる」というふうに表明されます。この命題がどうして数論の命題なのかというと、素数というものの一性質がここに現れているからです。素数に寄せる関心なら古代ギリシアの数学にもすでに表れていました。そもそも素数という観念があったのはまちがいありませんし、素数が無限に多く存在することもまた認識されていました。それと、素数の話ではありませんが、完全数への着目も見られます。これはつまり「数の個性」に関心が寄せられていたということにほかなりません。これらの話はユークリッドの『原論』に記載されているのですが、これにディオファントスの『アリトメチカ』が加わったのが、古代ギリシアの数論的世界です。

数学史を綴る6 接線を引きたいと思う心

古代ギリシアの数学者たちの関心は作図問題にあり、さまざまな作図問題の解決の探索の中からいろいろな曲線が提案されました。関心の焦点はあくまでも作図問題にあったのですから、曲線それ自体の性質を探るという方向には進みませんでした。これに対し西欧近代の数学では曲線そのものへの関心が際立ち、接線を引こうとする熱情にとりつかれたかのような趨勢を示しました。このあたりの対比がおもしろいところで、ギリシアの数学と西欧近代の数学の相違が際立っています。「接線を引きたいと思う心」から、どのような道筋をたどって微積分が生まれたのを叙述することができれば、それがそのまま微積分の形成史になるのですから、微積分の本質ということをいうのであれば、本質は「接線を行きたいという心情」に宿り、理解できるか否かは、そんな心情との共鳴が発生するか否かと言う一点にかかっています。数学を理解するというのはそのようなことであろうと思います。
 ひるがえって考えると、古代ギリシアの数学者たちがあれほどまでに作図問題に心を惹かれたのはなぜなのでしょうか。また、デカルトやフェルマなど、西欧近代の数学の担い手たちが、曲線に接線を引きたいという思いにあれほどまでにとりつかれたのはなぜなのでしょうか。このように問いを立てるともう答えることはできず、ただ「彼らはそうだった」と、事実の観察に留めるほかはありません。数学の神秘感はこのあたりの消息に根ざしています。
「接線を引きたいと思う心」に共鳴し、その泉から流れ出る思索の流れを追っていけばおのずと微積分形成史が叙述されますが、その際、接線法の成否を左右する根本的な観念があります。曲線に接線を引きたいと思っても、そもそも曲線とは何か、接線とは何か、という問いに対して何かしら明確な答えを持ち合わせていなければ、数学的思索は働きようがありません。この問いも古代ギリシアには存在しませんでした。ところが、15世紀のドイツの神秘主義者にニコラウス・クザーヌスという人がいて、「円は多角形である」というふうなことを言いました。正確な言葉を引用したいところですが、それはひとまず措き、クザーヌスの思想に追随するならば円は多角形として認識されます。多角形ならどのようなものか明白に感知されますから、「多角形とは何か」と問わなくてもよさそうですが、クザーヌスのいわゆる「円は多角形」という場合の多角形の辺には長さがありません。長さのない辺が連なって円が形成されるというのですから、辺の個数もまた有限ではありえません。すなわち、円は「無限に小さい円が無限に連なって作られる多角形」です。クザーヌスは15世紀の人ですが、ライプニッツなどにも大きな影響を及ぼしました。
 数学におけるクザーヌスの思想の影響は曲線の認識の様式において現れました。曲線に接線を引くといっても、曲線と接線をどのように認識するのか、その視点が確定していなければなすすべはありません。ユークリッドの『原論』では円の接線が語られていますが、円のような単純な形の図形なら「円とは何か」とわざわざ問わなくても明晰判明に認識できますし、接線は直径に垂直な線にほかならないのですから、認識上の困難はありません。ですが、「円とその接線」から「曲線とその接線」に移行するのはたいへんなことで、両者の間には無限の距離があります。古代ギリシアには円錐曲線や螺旋の接線が登場する場面もありますが、具体例をいくつか並べても無限の距離は縮まりません。無限の距離を超えるには、「円は多角形である」というクザーヌスの言葉のような超越的な(神秘的な、とも言えそうです)認識が必要になり、クザーヌスを媒介にして、「曲線は折れ線である」という認識が、西欧近代の数学数学の形成者たちに共有されるようになっていきました。
 曲線を折れ線であるといっても、折れ線を構成するひとつひとつの線分の長さは無限小です。曲線上の点は折れ線のひとつに所属することになりますが、その折れ線を無限大に延長すれば、それがその点における接線です。その接線を捕捉する具体的な計算法が発見されたなら、微分法が成立したことになりますが、デカルト、フェルマを経て、最終的にこれを遂行したのがライプニッツです。
 古代ギリシアと西欧近代の数学の間にクザーヌスがいて、新たな創造が生まれました。西欧近代の数学の接線法は「継承と創造」における「創造」の見事な事例です。

数学史を綴る5 古代ギリシアの三大作図問題といろいろな曲線

西欧近代の数学は古代ギリシアの数学の単純な復興もしくは延長ではなく、ギリシアには見られなかった固有の特質が認められ、ギリシアの数学とはまったく別の数学になりました。担い手が異なる以上、創造される学問の姿もまた異なるのは当然のことですし、継承と創造という両面から観察したいと思いますが、創造の方面に際立った傾向が見られないようでは歴史を語るべき対象にはなりません。
それで西欧近代の数学の成立ということを考えていくと、初期の大事件は何といっても微積分の創造で、これによって新たな数学の形成に向けて大きな一歩が運ばれました。出発点に位置するのはデカルトの『幾何学』ですが、この小さな書物に顕著に現れているのは曲線に寄せる異様に強い関心と、「曲線に接線を引きたいと想う心」です。微積分はこの心から生まれました。
 曲線への関心は古代ギリシアにも見られましたから、「関心があった」という点に着目するならば、西欧近代の数学にはたしかにギリシアの数学の継承という性格が認められますが、肝心なのは「曲線への関心の根底にあるもの」は何かということで、そこは大きく異なっています。ギリシアの数学では曲線の種類はごくわずかでした。直線も曲線の仲間に入れることにすると、直線と円、ニコメデスのコンコイド、ディオクレスのシソイド、アルキメデスの螺旋(らせん)、それに円錐曲線(楕円と双曲線と放物線)くらいしか思い浮かびません。そのうえギリシアには、接線という観念があったことは確かではあるものの、「接線を引きたい」という強い心はありませんでした。実際、コンコイドやシソイドや螺旋に接線を引く方法が発見されたのは17世紀になってからのことで、しかもその発見の道筋は微積分の形成史と軌を一にしています。
 それならギリシアではどうして曲線に関心を寄せたのかといえば、ギリシアにはギリシアに特有の関心事がありました。ユークリッドの『原論』にも多くの作図問題が見られますし、正三角形やっ正五角形の作図も示されていますが、ギリシアの数学の作図問題をもっともよく象徴しているのは、「三大作図問題」と言われる問題、すなわち
1 一般角の三等分の問題
2 立方体倍積問題(与えられた立方体の2倍の体積をもつ立方体を作る問題)
3 円積問題(与えられた円と面積の等しい正方形を作る問題)
という三つの問題であろうと思います。定規とコンパスだけを用いるのでは、これらの問題を解くのは不可能ですが、ギリシアの数学者たちは別段、定規とコンパスのみということにこだわっていたわけでもないようです。実際、角の三等分はディオクレスのシソイドをつかえば解決できますし、立方体倍積問題はニコメデスのコンコイドの発見により解決されました。円積問題は円積曲線を用いて解けますし、アルキメデスの螺旋を用いても解けます。そもそもこれらの曲線が導入されたのは、三大問題の解決のためだったと見てさしつかえありません。
 「曲線に関心を寄せる」というところは同じでも、古代ギリシアの数学に現れた作図問題への関心はデカルトには見られませんし、逆に古代ギリシアには接線を引こうとする心を感知されません。このようなところを見ると、西欧近代の数学は古代ギリシアの数学の単純な継承とは言えず、むしろまったく異質のもうひとつの数学と見るべきなのではないかと思います。

数学史を綴る4 数学の移植について

古代ギリシアの数学と西欧近代の数学を繋ぐ道を具体的に考えてみたところ、パップスとデカルト、ディオファントスとフェルマの二例が即座に念頭に浮かび、これで西欧近代に代数と解析の泉が生まれました。これに加えてユークリッドの幾何学の伝統がありますが、その影響は特定の個人に対してというのではなく、広い範囲に及びました。西欧近代の数学では数学者のことを幾何学者と呼ぶ習わしがありましたが、そんなところにもユークリッドの影響が見られるように思います。
 ユークリッドの影響ということをいうのであれば、さらにもうひとつ、際立った例があります。それはガウスの数論です。ユークリッドの『原論』には正三角形と正五角形の(定規とコンパスのみを用いて)作図可能性が記されていますが、1796年3月30日の日付をもつガウスの《数学日記》の第一項目は、実に正17角形の作図可能性の発見を伝えています。これらのほかにもニュートンにはアポロニウスの円錐曲線の影響が観察されますし、アポロニウスであればデカルトの『幾何学』にも引用されている箇所があります。同様の事例を挙げていけば果てしがありません。
そんなわけで西欧近代の数学に古代ギリシアの影響が色濃く反映しているのは間違いありませんが、ここに認められるのは単なる継承ではないという一事もまた強調しておきたいと思います。古代ギリシアの数学をそのまま延長していくとおのずと西欧近代の数学が生い立っていくというのではなく、西欧近代の数学には固有の創意があり、古代ギリシアの数学は西欧近代の数学という、まったく新しい数学が生まれるための契機として作用したと考えたいところです。
日本の江戸期に発展し、和算と呼ばれることの多い数学の淵源は古代中国の数学と見るのが通説ですが、興味深い異説として、16世紀に日本にやってきたキリスト教の宣教師たちの影響を重く見る見方があります。週語句と西洋のいずれにしても「数学の移植」という現象が観察されることになりますが、古代ギリシアの数学と西欧近代の数学の関係とよく似ています。その西欧近代の数学が、明治維新の後に成立した近代の日本に移植され、今日に及んでいます。バビロニア、エジプト、ギリシア、インド、中国、江戸期の日本、近代の西欧、近代の日本。こうして俯瞰すると数学の姿は実に多彩です。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。