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山田又吉の手紙41 上京と死

安倍さんの新居は小石川安藤坂の近くの水道端の借宅でした。大家さんは皆川広量という人で、安倍さんと同郷です。大正2年の春、安倍さんは恭子さんを連れて松山に帰省しましたが、その途中で大阪に寄り、山田さんに会いました。そのとき山田さんは、今度弟といっしょに上京するという話をして、安倍さんの家に泊めてほしいと言いましたので、安倍さんは承知しました。ところが、上京して安倍さんの家に泊まった日の夜、山田さんは亡くなりました。古い大きなナイフで首筋を切って自殺を遂げたのですが、山田さんに同行して上京した弟も、留守番をしていた安倍さんの弟も、自殺の現場を知りませんでした。
 山田さんの兄が上京し、遺骸をおさめて大阪にもどりました。命日は3月29日です。山田さんの死が中さんにどのように伝えられたのか、中さんはどのようにして知ったのか、そのあたりのことを伝えるものは何もありません。

山田さんの手紙の続き
第18書簡
〈学校のマツヨヒは何処から来たんだらうか。今は何処かで医者にでもなつてゐる人が
学校に居た時分植物の教室へ隅田川の堤ででも取つて来たのだらうか。
 もう学校が始まるね。今年はゆつくり勉強しよう。大学の入学試験は今から学校をよさなければならぬといふし又安倍も受けないといふから受けないつもりだ。君とはしばらく一所にはなれない。却而其方が宜いかとも思ふ。はじめて君を訪問する時の事(此夏に上京してから)をよく想像する。入寮の事は少しもまだ分らない。今夜北島が東京を立つて来る。きつと安倍の便りがあるだらう。昨日の僕の手紙は君はもう読むだに違ひない。此間からほんとに失敬したね。かりんの実といふのはどんな形だ。此間から西瓜やいもやはゝづきが僕の机の飾りをなして居た。西瓜が一番よかつた。(西洋西瓜)
 僕のひぢいさんが八十八で死んだ時に播州へいのふいのふて夢中で言つて居つたさうだ。僕の祖母が死ぬ時にはかかさんかかさんと言つて居つたさうだ。僕の死ぬ時は何を言ふだらうか。君は僕の話し振りを、手真似とズツト、バラバラットといふ様な形容詞が沢山入つて居るといつたが一般中国の人間の性ではあるまいか・・・〉

 大学の入学試験を受けるには今から学校を辞めなければならないというようなことが書かれていますが、このあたりの文意はよくわかりません。この時期の山田さんは大学に進もうとする気持ちが薄くなっていたのかもしれません。安倍さんも受けないというのは、安倍さんもまた進学への意欲が薄かったということでしょうか。このあたりの心情には藤村操の死の衝撃の影が射しているように思います。
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山田又吉の手紙40 日記と書簡

中さんの手紙が残されているといいのですが、若い日の書簡はもう存在しないのかもしれません。中さんの没後の安倍さんのエッセイ「中勘助の死」に興味深いエピソードが紹介されています。中さんは日記と書簡に勢力を傾けたと安倍さんは書いています。中さんは書簡を尊重する習慣があったとのことで、その習慣にしたがって、安倍さんの奥さんの恭子さんと妹が、中さんの注文に応じて清書したのだそうです。ところが、それにもかかわらず行方不明になってしまい、今はもうわからないとのこと。なんだか奇妙な話です。安倍さんが覚えているのは、中さんが葉山で桃をもらった話と、人は自分でひとりで泣くために銘々の家を建てているというような言葉ですが、これは自伝にも書かれていました。
 大正元年12月22日、安倍さんは藤村操の妹の恭子さんと結婚しました。媒酌は波多野精一先生夫妻です。神田橋辺の三河屋で披露宴があり、20数人の友人を招待した中に中さんも入っていました。中さんは、車で行くから車を申し込んでおいてくれといってきたそうで、安倍さんはそんなことで花婿殿をわずらわすのは非礼だと憤慨し、歩いてきてくれと言い返しました。それで中さんは歩いて来て、安倍さんと顔を見合わせて笑い合ったということです。

山田さんの手紙
大阪より東京へ
明治37年8月16日
〈君はメヂテーションの後は涙になると言つたね。こんな事は君は言はなかつたかも知らぬが僕はさう思ふ。僕は三笠山が望みある新芽をふき出してもふき出しても焼き払はれる様に、昔の御家騒動に悪人を打取つて呉れた奴が又悪人で其奴を訴へて来る奴お亦如何にも忠実さうに見えたが矢張り私利ばかり謀つて居る奴であつたりする。
 そんな風に一も二も三も皆考へて見ると切り捨てなきやならん様に思へてつまりは一切否定の暗黒の中に迷はされてしまふ。こんな風に僕は一人はがゆくつてたまらないで筋肉がピリピリする様に思へて身体がぢつとして呉れない様になる。其あとは浪に打上げられた死骸の様に寝てしまふのが常だ、・・・僕の思想、だんだん上波から取捨てゝ行かなければいけない。終にはすつかり捨てゝしまはなければならぬ様になるかも知れない。
 学校のマツヨヒは何処から来たんだらうか。今は何処かで医者にでもなつてゐる人が学校に居た時分植物の教室へ隅田川の堤ででも取つて来たのだらうか。〉

 手紙ならではの、当事者だけにしかわからない話が続きます。

山田又吉の手紙39 折紙細工

漱石先生は胃潰瘍の療養のため、伊豆修善寺の菊屋旅館に滞在していたのですが、明治43年8月24日、800グラムの大吐血に襲われて、一時危篤状態に陥りました。これが「修善寺の大患」です。
漱石先生の「修善寺の大患」のころ、中さんは小田原の親戚の別荘に滞在中でした。親戚というのは末子さんの実家の野村家のことです。前年、すなわち明治42年7月に大学を卒業した中さんは、卒業後まもなく病気になりました。病名は急性腎臓炎ということです。翌明治43年、病後の保養のため小田原に移ったのですが、そこに漱石先生の吐血が伝えられました。中さんはお見舞いの電報を打ちました。
 数日後、漱石先生の容態がよいことがわかりました。そこで中さんは「野暮ではあるが美しく彩色した蠂形の麥藁細工の籠にいろんな色紙や千代紙でこしらへた折物やちりちりなぞを入れて」漱石先生のもとに送りました。すると漱石先生から返信がありましたが、それは小宮豊隆の代筆のようでした。
この話は中さんのエッセイ「夏目先生と私」に出ていますが、小宮さんの「修善寺日記」の明治43年9月10日の記事には中さんの手紙のことが書かれています。

〈中から御見舞が来ましたと言つて、野上が胡蝶がたの箱を持つて来る。いい箱だなあ、何が這入つてゐるんだらうと、先生が言ふ。おもちやでせうと、野上が答へる。手紙が附いてゐたといふから、それを取りに行つて、途中で読みながら、先生の部屋へ帰つて来る。妹と二人で拵らへた折紙細工だと、手紙の中に書いてある。先生に読んできかせる。箱の中に目録が入れてあつたので、蛙だの、蝉だの、鶴だの、燕だのと、一一読み上げては、それを先生の枕元に並べる。先生は、妹つて誰だと聞かれた。中は小田原に来てゐるのださうである。燕を一羽自分の掌に載せて、じつと眺める。〉

 中さんは小田原にひとりで滞在していたのではなく、妹といっしょだったことが伝えられています。漱石先生は、妹ってだれだ、と小宮さんに尋ねましたが、一番仲のよかったやす子さんだったろうと思います。
「野上」というのは野上豊一郎のことで、一高の同級生です。

山田さんの手紙の続き
第17書簡
〈非常に御無音をした様に思はれる。失敬。此間から毎日有り難う。今日は手紙が来なかつたのだからあんまり御無音だといふ心が特にやかましくなつたから御わびをする。
 暑さに身体はなまこの様になつて頭には血がまはらないかの様だ。昨日書いたのも一緒に出す。
 北島はあさつて来る。此間の虫の手紙は僕は虫を知らないからよくは分らなかつた。七夕だね。七夕の星さんを知つてるか。
 まつよひ有難う、・・・これ丈け。〉

ここに引いたのは8月15日の文面です。あさって来ると書かれている「北島」というのは北島葭江(きたじま・よしえ)という人で、一高の同級生です。
 中さんは山田さんに「虫の手紙」を書いたとも記されていますが、内容は不明です。「七夕の星さんを知っているか」という山田さんの問い掛けも謎に満ちています。

山田又吉の手紙38 修善寺の大患

安倍さんの自伝を読むと高校、大学時代の様子がわりと詳しくわかりますが、中さんの学生時代はどうもよくわかりません。帝大でははじめ英文科に入り、二年後に国文科に転科してまた二年間をすごして卒業したのですが、英文科時代には漱石先生に教わりました。その様子は中さんの後年のエッセイ「夏目先生と私」に描かれていますが、英文科には漱石先生以外にも先生はいたことでしょうし、もっと詳しい消息を知りたいと思うのですが、情報がありません。国文科時代のことはなおさらで、どんな先生に何を習ったのか、もう少し知りたいところです。せめて卒業論文が判明するといいのですが。
 中さんが大学に進んだのは明治38年9月。明治40年3月には江木さんと万世子さんが結婚しています。同年4月、漱石先生が一高と東京帝大を辞職して朝日新聞社に入社しました。9月になって大学3年生になるとき、国文科に転科しました。明治42年7月、大学卒業。翌明治43年8月末、漱石先生は修善寺で吐血するという事件が起きました。
 漱石先生が吐血したとき、安倍さんはちょうど沼津の知人の別荘に滞在していましたので、電報を受けてただちに馳せ参じました。一番先にやって来たのが安倍さんでしたので、漱石夫人が縁起をかついで、「安倍能成(あんばいよくなる)さんが一番にかけつけたからきっとよくなる」と言いました

山田さんの手紙
第17書簡
明示37年8月14日、15日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈中、中、面白い話をしてやらうか。大に期待して読め、と書いたら後で失望するだらう。うそだうそだ。此間から五日程続けて呉れた手紙は何時頃着くんだか知つて居るか。朝母か弟かゞ起しに来る時に持つて来て呉れるんだ。床の中で半分づゝに読んで飯前に読んで机に座ると又読む。床で読む時はよくは分らないが君が知らせて来る事実は大抵承知してしまふ。思想上の事なぞは分らない儘のもある。今一つ実例を示そう。此れは君の十一日の手紙(まつよひのあつた)だ。〉
 や、「だれて」なんて書いてゐるな。あ、矢張り中も僕の様にねころんでばかり居るんだな。病気がよくなつた、位の所を床の中で読む。其次に読む時には飯五六杯食ふだの、雲が何だとか書いてると思つたのは形が書いてあるんだねとか読むと見える。最後には批評的に見る。波の崩れた後の様だて岸に打ち上げて崩れた所だね。どんな空だらう。夕立の雲は成程むらむらして居るが秋のパラパラ固まつた雲といふのは僕は知らない。冷静といふのは冷淡プラス理解力といふ様なものだね、とか或は此処は何とかいて消したのかといふこと等を見る。

この手紙は二日間にわたって書き継がれたようで、ここまでが8月14日の文面です。

山田又吉の手紙37 江木写真館

安倍さんが落第して二回目の二年生になったとき、一学年下の江木定男と親しくなりました。江木さんは明治36年9月に一高に入学したのですが、所属したクラスは「独法科、独逸文学科」で、同じクラスには魚住影雄がいました。
 江木さんの父は江木保男といい、新橋の江木写真館を経営していました。その父の再婚相手は悦子さんという人で、その悦子さんの妹が万世子(ませこ)さん。悦子さんと万世子さんの姉妹の父は関新平という愛媛県の知事で、佐賀県の人でした。後年、江木さんは継母の妹の万世子さんと結婚し、妙子さんというお子さんが生まれました。中さんの随筆に登場するのはその妙子さんですので、江木さんと万世子さんは中さんを知るうえで重要な人物です。
 江木さんのことをもう少し。江木写真館は二つありました。ひとつは神田淡路町、もうひとつは新橋です。神田の店が本店で、新橋の店は支店で、あとからできたのですが、六層の塔をもつ壮麗な建物でした。江木さんの父の保男には松四郎という弟がいて、江木写真館は二人で協力して開設しました。
 江木さんは江木保男の一人息子でした。
 安倍さんは魚住に紹介されて江木さんと親しくなりました。魚住と江木さんは明治36年に一高に入り、同じクラスになりました。安倍さんは落第して魚住と同学年になりましたが、一学年下の魚住のことはその前から知っていました。藤村操の葬儀のとき、魚住が読んだ長い弔文を聞いたこともありました。

山田さんの手紙の続き
第16書簡
〈まだ他に何か外観に人にさう思はせるものがあるかも知れない。あの初めて君にやつた人に見せては嫌だと言つた手紙ね、あの翌日君が昨日は有難うと言つたらう。僕は昨日も書いた通り大に安心したけれ共其意はよくは分らない。君に冷笑の眼を以て見られたらどうだらうと、それは初めから考へた上でやつたのだけれ共、大に気づかうた・・・考へて見ると少しも怖れる訳はないけれど矢張りこれも心は一つではないからね。どんな心に随うふのが宜いか分らなければ矢張り自然なるよりは仕方がないね。ある時にはこれでなければならないと思へば或る時は片一方の方がゆるさない。
 これでよさう。随分乱筆だね。読めなければ読めないでも宜い。又話さう。〉

追伸をひとつ。
数学の数藤斧三郎先生は生徒たちから「斧(おの)さん」と呼ばれていたそうです。

山田又吉の手紙36 琵琶島の生活

野尻湖での安倍さんの生活は、後日、中さんも同様の生活を送ったことに鑑みて参考になります。枇杷島には食料がありませんから岸辺から運んでもらうほかはありませんが、米は湖岸の野尻村の菓子屋の倅の少年がときどき運んでくれました。米ばかりではなく、馬鈴薯や野菜も持ってきてくれました。二三度のことではありますが、牛肉を食べたこともありました。孤独を求めて来たのですから、島を出たのは30日のうちたった3回でした。8月31日に島を去りました。村の助役をしていた池田万作さんという人がいて、お世話になったということですが、後年、中さんも池田さんにお世話になりました。
 安倍さんは「野尻湖日記」をつけていましたが、その日記のはじめには、「何の為にわざわざ山奥の人の住まぬ小島へ行くと問はれたら、唯行きたいから行くのだといふ外はない」と書かれているそうです。

山田さんの手紙の続き
第16書簡
〈犬の話、ほんとにさうだね。僕はあさましからうが、いやしからうがそんな事には頓着するなといふ心もある。人間には心はいくつもあるね。併し皆自分の心だ。悲劇との話は成程少し無理な様にもある。悲劇と許りはいはれないだらうと思ふ。併し僕は何んな役を勤めさせられて居るんだらう。一番つまらなさうな所だね。誰がこんなにしたか、併し慶応ひられるといふなら何れ+-(プラスマイナス)が零になるのだから皆同じか。どうしても他人がよく見えると思はれる。羨みの念なぞも神様が与えたとすれば矢張り羨まされて励まされて行くのが宜いのかね。
 どうしても僕は自分といふ事を直に思ひ起す。君はさうではないね。まだ書く事はあるまいかと思つて君の手紙を広げて見た。君が冷酷だといふ事、僕も初めはよく君を疑つた。疑つた度に後で悔んで恥しがつた。疑ふといふのも何も君の彼の言葉がとかいふ定まつたものではないので唯君は上辺べばかりの人ではあるまいかと疑つたのだつた。それも二三度もあつたが度重なるに随つて愈々恥かしかつた。屹度君が他の人では得言はない事得為ない事を平気でやるからだらう。〉

中さんのことを「君が冷酷だということをはじめはよく疑った」とか、よく意味のわからない言葉が続きます。このあたりは山田さんと中さんの友情のはじまりに関連がありそうです。

山田又吉の手紙35 『銀の匙』のヒント

山田さんの第16書簡には『銀の匙』を考えるヒントがたくさん散りばめられています。

山田さんの手紙の続き
第16書簡
〈僕の家の辺へ蝉が来ると弟共が大騒ぎして取つて呉れ取つて呉れとせまる。此間僕が大阪で寺へ行く時蝉をとらしてやらうと思つて弟二人連れて行つてやつたら三匹取つて来た。もう飛べなくなつたので庭へ出さしてやつたら雀が来て食ひかける。で中庭の小な所へ入れてやつていたらもう居なくなつた。矢張り雀に取られたのだらう。大阪の家は君は知つて居るだらうが随分つまつて居る。ほんとに獣の檻の様だ。君の宅は静で宜いね。あ今時分君は僕の手紙を見て居るだらう、あの室で・・・
 三人の写真、一昨日だつたか見た時に僕もさう思つた。君の顔がむづかし過ぎる。僕の見ようと思つた中ではなかつた。けれども誰でも会ひたい時に写真を見たら其感じがするだらう。ぶだうもちの婆さん、椿の実、きれのはし、大変嬉しう羨ましうやさしう感じた。僕には面白くないだらうなんてよすな。思ひ出したら書いて呉れ。みいちやんの話も面白かつた。面白いといふ語はいけないかしらんと思つて思ひ出すのはいつか君が呉れた青色の手紙、あの中に(何の手紙だか分るか。栗原の所で云々の手紙)勿論冗談だよ。そんな事は忘れて呉れとか何とか書いてあつたのが大変に待ち兼ねて居つた。僕は馬鹿にされた様な気がしたやうだつたが其主意の為に忘られて居つた。其時にはそんな気がしたといふ事を此間古手紙を見た時思ひ出した。〉

「大阪の家」というのは山田さんの家のことですが、中さんは知っているだろうと山田さんは書いています。中さんは山田さんの家を訪問したことがあるのでしょう。山田さんもまた中さんの家を訪ねたことがあるようで、中さんの部屋に言及して、「あの部屋でぼくの手紙を読んでいるだろう」などと書いています。
 「ぶどうもちの婆さん」というのはよくわかりませんが、中さんの『銀の匙』に出てきます。

〈木枯らしの夜などには露店のかんてらの人がさびしい音をたてて灯心が血ばしった目玉みたいにみえる。そんなときにかわいそうでならなかったのは葡萄餅をうるばあさんであった。葡萄餅とはどんなものかしらない。七十ぢかいしなびかえったばあさんが ぶどうもち とかいたはげちょろの行灯をともして小さな台のうえに紙袋を数えるほどならべてるがついぞ人の買うのをみたことがない。私はそれを気の毒がって無上にせがんだけれどあんまりきたないのでさすがの伯母さんも二の足をふんで買ってくれなかった。何年かのち私がひとりで縁日に行けるようになってからもばあさんは相変わらずそば屋の角に店を出していた。私は市のたんびに幾度となくそのまえを行きつもどりつして涙をためていた。が、いつも買いおおせずに本意なく帰ってきてしまった。とはいえある晩とうとう思いきって葡萄餅の行灯のそばにたちよった。ばあさんはお客だとおもって
 「いらっしゃい」
といって紙袋をとりあげた。私はなんといってよいかわからず無我夢中に二銭銅貨をほうりだしてあとをも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。胸がどきどきして顔が火のでるように上気していた。〉

「ぶどうもちというのはどんなものかしらない」と中さんも書いていますが、四国にはそんな名前のお菓子があるとのこと。もしかしたら「ぶどうもちの婆さん」は四国の出身なのかもしれません。
 「椿の実」の話も『銀の匙』にあります。

〈伯母さんは「木の実どち」をして遊ばせるといって白玉椿の実を落としてくれたが目が悪いのと力がないのとでねらいをはずして枝葉ばかりたたき落とした。〉

「栗原の所で云々の手紙」の「栗原」というのは一高の同期生で福島出身の栗原一郎のことかもしれません。中さんと山田さんは一年二の組で、栗原は一の組ですのでクラスは違いますが、どちらも英法科文科のクラスです。

山田又吉の手紙34  安倍さんの野尻湖逗留

安倍さんと岩波茂雄が同級生になったという話になりましたので、岩波の話をもう少し続けたいと思いますが、岩波は一高では安倍さんや中さん、山田さんの一年上で、明治36年5月22日に藤村操が亡くなったとき、岩波は二年生でした。岩波は一学年下の藤村の死に衝撃を受けて煩悶し、夏季休暇に入って7月13日から信州野尻湖の琵琶島に籠りました。琵琶島は弁天島とも呼ばれています。後年、安倍さんと中さんも野尻湖に向かいましたが、先鞭をつけたのは岩波茂雄です。
岩波は野尻湖に8月23日まで逗留して、それから野尻湖を去りました。9月、試験を放棄して落第。その後はほとんど通学せず、試験も放棄してしまいましたので、二年続けて落第ということになり、規定により一高を除名されました。除名の日付は明治37年9月12日です。
安倍さんは第二学年までは順調に進級したのですが、明治38年7月の学期末試験に落第して、二年生をやりなおすことになったのですが、岩波に前年夏の野尻湖逗留の話を聞いてうらやましく思い、この年の夏8月いっぱいを野尻湖ですごしました。琵琶島は細長い小島で、奥に弁財天を祭る宇賀神社がありました。それで弁天島と呼ばれたのだろうと思います。宇賀神社には前に神官が住んでいたという8畳ほどの広さの家がありました。神社の拝殿と同じ棟に並んでいたというのですから、別棟のように思いますが、はっきりしません。板の間があり、半分あばら家になっているところに古畳を5,6枚敷いて、そこに寝起きすることになりました。畳は湖畔の村から運んでもらったのですが、島の生活を支援してくれる人たちを岩波に紹介してもらったのでしょう。

山田さんの手紙の続き
第16書簡
〈いつも根底がこはれて空に終る。実際考へると同じ事ばかりして尚悟らない心は何だらう。愚なんだらうか。
 仏教の究極は人間に谷間の水の様に「なる様に任せて行け」といふ事になるんだらうか。今露伴の随筆をよむで大変面白かつた。僕が面白いと思ふのは大抵僕の仕事に交渉があると思ふからだ。何かある事を考え得た時でも、考へ得る様に思はれる時でも快だと思ふのは大抵さうだ。けれ共顧みて考へて見れば残つて居るものは何がある。只空ばかりだと思ふとなさけなくなる。
 此間居た時釈迦の遺言みた様なものを読むだら不戯論といふ命令が書いてあつた。此本は僕には面白かつたよ。名は仏遺教経。小さな本。うたあり難う。よくあんなに書いたね。〉

山田又吉の手紙33 岩波茂雄を知る

安倍さんの自伝の続き。前に、藤村操を死に衝撃を受けて安倍さんのクラスでは学年末に17人もの落第者が出たという話を紹介しましたが、紹介の仕方がいくぶんあいまいで、学年末というのは第一年目の学年末のことのように読めそうな書き方になっていました。読み返してそう思ったのですが、正しくは「第二学年の学年末」です。安倍さんたちは明治36年9月に二年生に進級したのですが、翌明治37年の学年末、すなわち7月の学年試験に落第して、二年生をもう一度、繰り返すことになりました。
 落第は好んですることではないのはもちろんですが、新たな友人ができる機会でもあります。
明治36年9月から翌明治37年7月にかけての一回目の二年生のときのことですが、一学年上のクラスにいた岩波茂雄が落第して、安倍さんと同じクラスになりました。中さんと山田さんもいっしょです。安倍さんは岩波と同級になったことを「私の生涯にとっての大事件」と回想しています。

山田さんの手紙
第16書簡
明治37年8月11日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈僕が昨日の朝出した手紙を見る迄は山田はどうして居るんだらうと思つて君は手紙を控えて居るんだらうから君のところからまだ来まいと思つて居た。昨夕涼み台で横になつて空をながめながら例のとりとめもない事を色々と考へて居たら妹が君の手紙を持つて来た。思ひ掛けない友が久し振りに来たやうだつた。
 君は元気な様だね。あゝいふ風な手紙ははじめてだと思ふ。今一瞬間に戦が始まらうといふ。何かあるんだらうか。
 戦争が起らうとして居るんだらうか。それとも只譬へに借りて来たばかりだらうが、もしあるとすれば何だらう。不退転の勇猛心を起して人間の解決に精進しょうといふ決心でも起つたのかと思つたが、いや是は僕の起しさうな想像、僕には何か物にふれてヒントを与へられた様に感じてかう勇ましい気になる事はよくあるがだめだめ。〉

明治37年の日本は日露戦争の渦中にあり、5月19日には第一回目の旅順総攻撃が始まっています。

山田又吉の手紙32 葉山の桃の話

安倍さんの自伝から中さんに関係のありそうな箇所をもう少し。一高に入学して一年目の冬休みには、寮生たちはみな自分の家や親戚の家に向かったり、帰省したりして寮を開けましたが、安倍さんはたったひとりで寮に留まりました。中さんの家は小石川にあり、自宅にもどったのかどうか、そのあたりは不明瞭ですが、なんでもこの冬休みの間に寮のどこかで百人一緒の歌カルタをした記憶があるそうです。東京風のカルタ遊びのようだったとのことですが、中さんの取り方が俊敏なのに感心したということです。
 一高の一年目の三学期の五月に藤村操が亡くなりましたが、その衝撃を受けてクラス全体に動揺が起り、学科を勉強する気持ちが薄れ、学年末に実に17人もの落第生が出ました。安倍さんも山田さんも落第組ですが、「中勘助は意外に落ちなかった」などと安倍さんは書いています。
 安倍さんは一高に入学するために東京に向かう車中で山田さんの姿を見かけたのですが、中さんと親しくなったのは一年の後半から二年になるころでした。中さんは山田さんに手紙を何通も書いたようで、安倍さんはそれらの手紙を読んで、中さんという人を知ったように思ったということです。当時の中さんの手紙が残されているといいのですが、もう見るすべはありません。手紙に書かれていたことの中で安倍さんが今でも覚えていることとして紹介しているのは、中さんが葉山へ避暑にいったとき、「或る佳人」から桃をもらった思い出と、「人はみんな自分ひとりで泣くために家を作っている」というセンチメントです。前者の桃の思い出は『銀の匙』の末尾に書かれています。
 中さんの家にいったこともあり、そんなときは夜の2時、3時までも話し込み、翌日はそのまま昼近くまで寝て、昼夜を兼ねた食事をするというふうで、まったく無遠慮でした。
 中さんの父は元気のある老人のように思いましたが、話をしたことはなく、下の間で(ということは、中さんの家は二階建てだったのでしょう)謡を教える声が聞こえただけに留まりました。中さんの兄の金一さんは洋行中でしたが、奥さんの末子さんには会いました。中さんの妹たちもいました。末の妹のやす子さんはとてもかわいらしく、美しい人で、小宮豊隆さんがみそめた時期もあったそうです。

山田さんの手紙
第15書簡の続き
〈そしたら其次の日歴史の時間にでる時に廊下で君は有り難うといつた。意外だつた。其意がよく分らなかつたが兎に角安心した。君は少しも女らしくないと思ふ。大胆に感情に従つてゐると思ふ。
 僕にはそんな事をいやしまなけやならんといふ様な愚な感情を「みえ」といふものが命ずる時がある様に思へる。自分一人で居るとよく僕は嘲けつて居る。よく書けなかつたから此れで失敬する。
 僕の手紙はよめるか否やといふ事を返事して呉れ。此次の時に。〉

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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