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山田又吉の手紙21 安倍さんが山田さんに会ったころ

明治35年7月の高等学校の入学試験のとき、安倍さんの第一志望は一高で、合格したのですが、第二、第三の志望校はどの学校だったのか、そこまではわかりません。安倍さんは岡山まで出て六高で受験しましたが、同じ日に中さんは一高で受験し、山田さんはたぶん京都の三高で受験したことと思います。試験の日程や科目のことなどは調べればわかると思いますが、安倍さんの自伝によると、初日に数学の試験があり、二日目に国語の試験があったとのこと。英語の試験は初日か二日目かわかりませんが、和文英訳の試験に漱石の「坊ちゃん」から道後温泉入浴の場面が出題されたそうです。部屋の床の間を安倍さんはプラットフォームと訳しましたが、アルコーヴalcoveが正しいのそうです。数学の試験ではできなかった問題が一問あったとも。
 この年の入試の数学の試験というと、昔、中野の中家で奥様にうかががった話が思い出されます。中さんが話していたことなのですが、なんでも数学の問題の中におそろしく難しい問題があって解けなかったけれども、山田さんはそれが解けたのだそうです。山田さんの話になるとよくこの話になって、山田は数学ができた、と言っていたというのですが、そうしてみると安倍さんが解けなかった一問というのが、山田さんが解くことのできた難問だったのかもしれません。いつか問題を探索してみたいと思います。
 9月はじめ、一高に合格した安倍さんは松山を発って東京に向かいました。日にちはたぶん4日か5日ころということです。松山から船で広島の宇品に出て、広島から汽車に乗りました。国府津から新橋までの車中だったかも知れないと安倍さんは書いているのですが、「一高の制帽をかぶった好ましい青年」が、その向いにいる女学生と静かに話しているのが目に留まりました。一高に行って教場に入るとその生徒がいました。それが山田さんでした。

山田さんの手紙
第10書簡の続き
〈薄明りでも見えたら何んなに嬉しいだらう。
自分にも分らない事で言ひ度い様な事が沢山あるが勿論言へた訳のものではない。
只仲の好い友達にならう。嬉しい友達になつて呉れ。
又雨が降つて来た。雨の方が好い。非常に心が落付く(雨の時は)時がある。物の音は勿論絶えないが其静けさを感じて居る時は却而寂寞の趣を益す様だ。
京都へ来たら行かう(よんどころなき事故なき以上は)大学入学試験はどうでもよい。先づじつくり勉強しようと思ふ。きまつたら知らせて呉れ。一文なしは気持がよささうだね・・・親に叱られて見たいとの事を読むで僕は何だか教訓を得た様な気がした。〉

よく意味のわからない文言が続きますが、中さんは京都に行きたいという考えがあったのかもしれません。中さんが京都に来たら山田さんも京都に出るつもりだったのでしょう。一文なしは気持ちがよさそうだというあたりは何のことなのか、わかりません。親に叱られてみたいというところもやはりわかりません。
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山田又吉の手紙20 高等学校受験の消息

山田さんの手紙の宛先は中さんが一番多いのですが、安倍能成の名前もよく出てきます。安倍さんは明治16年12月23日に愛媛県松山市に生まれた人で、後年、一高の校長になったり、文部大臣になったりしましたが、大学の専攻は山田さんと同じく哲学でした。多くの著作を残しましたが、山田さんと中さんのことを考えるうえで興味が深いのは自叙伝です。『わが生ひ立ち』という本で、昭和41年11月28日付で岩波書店から刊行されました。この著作からあれこれのことを拾ってみたいと思います。安倍さんは山田さんと同年で、中さんより2歳年長です。松山中学の出身ですから正岡子規の後輩でもあります。
 まず一高の受験の話を少々。旧制度の高等学校の受験制度はわるとひんぱんに変更されたのですが、明治35年には、全国の七つの高等学校が同じ日に同じ問題で試験を行ないました。7月の初旬のことで、この時期は例年の通りです。それと、これは安倍さんの自伝に書かれていることではありませんが、「高等学校」を「高校」と略称するのは戦後の学制改革で成立した新制度の高等学校に対してのことで、旧制度の高等学校にはこの略称は使われなかったという話を聞いたことがあります。戦中の一高生だった人に教えていただいたのですが、たとえば第一高等学校の略称は「一高」であり、「第一高校」とは呼ばなかったとのこと。高等学校を高校と呼ぶこともなく、どこまでも高等学校だったのだそうです。
七つの高等学校というのは一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)のことで、番号がついていますので、「ナンバースクール」と呼ばれることがあります。ナンバースクールにはもうひとつ、名古屋に八高がありましたが、明治41年の創設ですので、安倍さんが受験したときはまだ存在しませんでした。七高はフルネームでは第七高等学校造士館というのですが、創設されたのは明治34年4月ですから、安倍さんの受験の年の前年です。それと、ナンバースクールではありませんが、山口に山口高等学校がありました。略称は山高(やまこう)。この高校も同時受験の仲間に入っていたと思うけれども、直接には知らないと安倍さんは書いています。たぶんそうだったろうと思いますが、山高を加えると高等学校は8校になります。
受験者は志望校を第三まで希望することができました。どの高等学校でも受験できましたので、安倍さんは松山から一番近い岡山の六高で受験しました。

第10書簡の続き
〈雲の一部が薄明りを持ち出して来て何所にあるか分らなかつた月が現はれた。雲のゆきゝがよく見える池面にみだされた月影がうつる。其時にこんな風になつて心の暗黒が開かれて来るんだらうと思つた。あんな薄明りが見え出したらどんなに嬉しいだらう。
 前の学校の雑誌に君は真摯なれと書いて居るが何れが真面目なのかゞ分る人は誠に誠実な人である。兎も角自己の要求に真面目なれといふんであらうが其要求といふものがよくは分らないではないか。分らないからそれを明かにしたいといふ要求だけは明であるといふならば何方へ進むだ方がよいかを明にするによく勉めよといふ丈で其勉め方をどうすればよいか分らないものには誠に困る訳ではないか。
 何だか自分にも訳が分らなくなつたが兎も角真面目も偉も小も賢も愚も何でもよい。只させられる様になるだらう。これで勿論満足して居らるゝならば初めから何もいふ事はないのだがかういふ風に苦しめられる丈けは苦しめられ(亀が抑えへ付けられて手も足も出さないで固くなつてこらへて居る様な風があるね)ようといふ決心の如きものをする心が一方にはある。〉

山田又吉の手紙19 兄の退官

金一さんと九州大学の関係をもう少し。洋行して帰朝した金一さんは新しく創設された帝国大学の医科大学の教授になり、野村子爵と縁戚関係も結ばれ、学位も取得し、このあたりまでは順風満帆の歩みでした。ところが学位取得の直後、異変が起こりました。明治42年1月24日に野村子爵が亡くなりましたので、金一さんは葬儀に参列するために急遽上京したのですが、脳出血の発作を起こしました。何月何日という、はっきりした日にちはわかりません。一命は取り留めたのですが、後遺症が残り、大学の教授職はつとまらない状態になったため、ひとまず休職の措置を取り、それから退職に向かうという方向に進みました。
休職が認可されたのは明治42年12月10日。退任の日付は明治44年3月31日です。ところが九州帝国大学の創立は金一さんの退任の翌日、すなわち明治44年4月1日ですから、正確にいうと金一さんは九州帝国大学の教授ではなく、京都帝国大学の教授だったことになります。

山田さんの手紙
第10書簡
明治37年7月28日
大阪より東京へ
安倍能成へ
〈今朝君の手紙で起された。半分うつゝで読むで直ぐ散歩に出て手紙に就て考へた。大阪へ帰つてから朝のお天道様に初めて御目に掛つた。あさは如何にも気持がよい。日比谷公園はいかにも面白さうだね。当地は此間から雨続きで今朝になつて晴れたのだがさらさらして心が落付いて何にも好い心地だ・・・
メヂテーションの時間を得る毎に考へるのは学校の勤めに又しばられなければならないのがいやだといふ事。中がいかにも淋しさうなので手紙書くのはいつでも中の所へばかりであつた。君に御無音をして居つた。君に対して御無音してはいけないといふ義務の様な心に背いて居つた。昨夕大雨の中をづぶぬれになつて愉快だつたものだから悠々と散歩して明日から僕の此室を(二階は暑いので此頃はあの室の向ひの下に居る)物質的の止むを得ない必要のない以上は、譬へば飯だとか小便だとかの必要がない以上は出ないで精神上の無駄な要求を皆退けてやらう、而して常に対在してゐる問題を考へてやらうと思つた。兎も角僕のちと贅沢すぎる心のいたづら者をいぢめてやらうと思つて居る。併しまだ皆「思つた」といふばかりだよ。此頃仁徳天皇宮跡の東の方の池(味原の池)に好い場所を見付け出した。君が手紙を書いた晩も少し君よりは早かつたが其堤に座つて居つた。其晩は月は満天の黒雲に覆はれて地上の風物はみな灰色を帯びて前の産湯の森が物凄く影鮮やか(即興詩人にあるだらう。ピニヨロの森の黒影があやしげなる輪廓を空中に画いて居るといふのが思ひ出される)に池にうつて居る。〉

「即興詩人」というのはアンデルセンの小説ですが、森鴎外がこれを邦訳し、明治35年に春陽堂から刊行されました。山田さんも中さんも読んで語り合ったことがあったのでしょう。

山田又吉の手紙18 立身出世ということ

中さんの兄弟姉妹のことを紹介しようと思って妹のやす子さんの話になったのですが、やす子さんはなぜ福岡で亡くなったのだろうという疑問に応えようとして、勢いのおもむくところ、中金一さんの話になっていきました。金一さんは赴任先の京都帝大福岡医科大学の第一回目の58名の中から優等生の藤澤幹二を選んでやす子さんと結婚させたのですが、金一さん自身もまたよく似た人生を歩んでいました。金一さんは一高から東大を出て洋行し、新設された帝大の教授になったのですが、そればかりではなく奥さんもまた明治政府の高官のお子さんでした。奥さんは末子さんというのですが、末子さんの父親は野村靖で。第二次伊藤内閣の内務大臣や第二次松方内閣の逓信大臣などを歴任したひとですが、出身は長州で、少年期に松下村塾に学んだ経験をもっています。兄は入江九一という人で、やはり松下村村塾の出身です。
 金一さんは今尾藩の藩士のお子さんで、長州や薩摩の藩閥とは反対側の人ですから、人生を生きていくには学問に打ち込むほかはなく、それで一高から東大への道を選択したのであろうと思います。金一さん個人のみのことではなく、中家の将来も考えなければならなかったことでした。いわゆる学問で身を立てるという考えですが、金一さんはそれに成功しましたので、長州出身の政府高官との縁戚関係が結ばれることになりました。野村家から見ても、帝大出の若者には将来がありますから有望な選択でした。
 こんなふうですと人生の分かれ道は具体的には高校受験に集約されてきて、合格した者と不合格になった者とでは人生の姿がまるで違ってきます。合格して帝大に進んでも、洋行に選ばれる者と選ばれない者に分れました。受験の世界は実にたいへんで、激烈な競争が行われました。受験なら現在も行われていますが、何というか、真剣さがまるで違うという印象があります。立身出世主義などと揶揄されることもありますが、それは後年の批判であり、当事者たちが真剣に取り組んでいたのはまちがいありません。立身出世をめざしてがんばるというよりもむしろ、生きていく道はこれしかないというほどの覚悟が、意識の根底にあったのであろうと思います。
 明治41年10月27日、金一さんは東京帝大から医学博士の学位を授与されました(「10月27日」は文部大臣認可月日です)。提出した主論文は「脊髄円錐形ノ疾患」というもので、ほかに四編の副論文を添えました。

山田又吉の手紙17 中さんの妹のやす子さんが福岡で亡くなった理由

明治38年は中さんが一高を卒業した年で、この年の7月に卒業式が行われました。9月になって東京帝国大学文科大学の英文科に入学したのですが、この年の秋11月20日、金一さんが留學を終えて帰朝しました。明治38年11月30日の官報で「本月二十日帰朝」と報じられたのですが、これはあくまでも正式な日にちであり、この日に帰りつくことになっていたことを示すもので、実際に日本の港に帰り着いた日は少しずれているかもしれません。一緒に洋行に出た稲田龍吉も同じ日に帰朝しました。
同年11月30日、金一さんはこの日の日付で京都帝国大学福岡医科大学教授に昇進しました。担当は内科学第二講座。稲田龍吉は内科学第一講座の担当です。
明治40年12月12日、京都帝国大学福岡医科大学で第一回目の卒業証書授与式が行なわれました。卒業生は58人。優等生の藤沢幹二と後藤七郎に、文部次官から恩賜品が下付されました。ここに藤澤幹二の名前が出てきます。藤澤幹二は第一期生の優等生でしたので、中金一教授の目に留まるところとなり、妹のやす子さんとの縁談がすすめられたのでした。この当時ではごく普通に見られたことですが、普通といっても恩師のお眼鏡にかなった秀才が恩師の妹と結婚するというのは、条件が満たされなければなりたたないことですしだれもが望めたことではありません。成功例のひとつの型と見てよいのではないかと思いますが、金一さんはこれでよしと思ったでしょうし、藤澤さんにとっても栄誉であったろうと思われますし、やす子さんにとっても良縁と考えられそうなところです。もっともこれは表面から見たときの型ですから、本当のことをいえば藤澤さんは嫌だったのかもしれませんし、やす子さんも兄にすすめられるままに九州福岡などという、遠方の未知の土地におもむくのは嫌だったかもしれません。
そんなわけで、本当のところはわからないというほかはありませんが、明治期に見られたひとつの型であったことはまちがいないと思います。ともあれこれで中さんの妹のやす子さんが福岡で亡くなった経緯がわかりました。

山田さんの手紙
第9書簡
明治37年7月27日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈今は雨も大方はやみ僅に影をすかせば雨の筋白く見え分くる迄にて雨だれの音も今は絶え絶えに相成候、風はさわやかに木の葉をゆるがせ、皮膚さらさらと心地よく候、心は底の底の方に落ち着きて此静けさにしみ込まれ、小生常に滞在致し居り候。問題の彼是、時を得顔に心の底に湧きいで候。そを今とりとめもなく、例の手紙に買い付け申候。昨夕泣菫の此寂寞を思ふがままに味ふを得んには、百年の甘き恋をなげうちて僧尼の孤独をも甘んじて受けむにとの意をいへるを読みたるにつけても学校のつとめにしばらくしばらるゝが今よりいやに候。君はもしやまだ床に例の眉よせたるむつかしげなる顔付しておらるゝ事もやと此はがき御前に伺はするに候。いかにや。〉

7月26日、27日と、山田さんは中さんに宛てて二日続けて手紙を書きました。

山田又吉の手紙16 九州帝国大学医科大学のはじまり

九州大学は一昨年の2011年が創立百周年というので、いろいろな記念事業がきかくされました。2011年の百年前というと1911年で、明治44年になりますが、この年の1月1日付で九州帝国大学工科大学が設置されました。これが九州大学の一番はじめの姿で、工科大学だけしかなかったのですが、もうひとつ、4月1日付で京都帝国大学福岡医科大学が九州帝大に移管され、九州帝国大学医科大学になりました。大正8年に帝国大学令が改正されて学部制になり、工科大学は工学部、医科大学は医学部になりました。この学部制は今も継続していますが、それまでは分科大学制と称されていました。カレッジがいくつもあって、それらが合わさってユニヴァーシティーを編成するというほどの考へ方で、イギリスの大学のスタイルにならってそうなりました。
蛇足を少々。カレッジはそれ自体が大学ですから学長がいましたが、いくつかのカレッジを合わせて帝国大学ができているのですから、帝大の長は学長ではなく「総長」と呼ばれました。学部生に移行すると学部長の上に大学の長がいるのですから、大学長、すなわち学長という呼称がぴったりですが、今でも長を総長と称している大学があります。東大はその一例ですが、実は九大の長も総長です。
九州大学医科大学は京都帝国大学福岡医科大学が九州帝大に移管されて成立したのですが、この状況を指して、九大の医学部は京大の分校として発足したと言われることがあります。これはまちがいで、もともと九州に新しく帝国大学を創ろうとする機運が盛り上がる中で福岡県立福岡病院に注目が集まり、この病院を新帝大の医科大学の母体にするというアイデアが生まれたのでした。それでもいきなり帝大を創ることもできませんから、まず京都帝大を構成する分科大学のひとつという形で大学の組織に組み込みました。京都帝大はすでに医科大学をもっていたのですが、医科大学が二つになりましたので、従来の医科大学は京都医科大学、福岡の医科大学は福岡医科大学と称することになりました。
福岡医科大学の創設は明治36年で、この年の9月16日から講義が始まりました。ドイツに留学中の金一さんが助教授に任ぜられたのは同年12月14日です。帰朝したのは明治38年11月20日。11月30日付で教授に昇進しました。担当は内科学第二講座。内科学第一講座の担当は稲田龍吉で、金一さんと同じく東大の助手だった人です。
それで、厳密なことをいうと金一さんは九大の教授になったのではなく、京大の教授になったというのが正しいのですが、福岡医科大学はもともと九大の創設の前段階として創設されたのですから、心理的にはあくまでも九大です。現に、現在の九大医学部の同窓会名簿にも、初代の内科の教授として金一さんの名前が記載されています。

第8書簡の続き
〈それで僕が美だと感じた全ての点を考へだしてはきいて見、又弟の心持を色々きいて見た所が、つまりは弟が感じて居るのは美感と名づく可きものではない様だつたので其晩は直に帰つた。それから翌月二十三日に僕は昨日の所へ行つて少し沈思の時間を得たいと思つたので出掛けに『良三(其弟の名)又兄さんは昨日の所へ行つて来るよ』と言つたら連れて行つて呉れといふ。今日ゆつくり座つて居る積りだといつてもまだ連れて行つて呉れといふから連れて行つた。此度は何を聞いても面白いと答へる。向ふ岸に子供の高い声がした時に弟はさも自然の寂寞を破るのを恐れる様に、ひそかに話しかけたのでも弟は僕と同じ感情を得て居ると思つて居た。
 暫くして弟は『兄さんは怖い所が好きだつたか』ときいた。これで僕は気が付いた。昨日の怖れが今日は一種の美感に変じて居るんだなと。それはまだ夕方の事であつた。月が東の方仰角七八十度位にあつた時分だつた。
二十三日は盛な雷だつたつてね。〉

山田さんの弟の名は良三であることがわかります。

山田又吉の手紙15 兄の洋行

中さんの兄の金一さんは医科大学を卒業した後、助手になったのですが、まもなく洋行することになり、「内科學研究の為メ満三箇年独国ヘ留學ヲ命ス」という辞令が交付されました。その日付は明治35年8月2日ですから、中さんと山田さんの高校受験の直後のことになります。この事例により、金一さんはドイツに向かいました。明治35年9月5日の官報で「8月23日出発」と報じられましたから、出発は8月23日と見てよいと思いますが、官報の日にちと実際の出発日は異なることもあります。資格は文部省外国留学生。期間は満3年間と定められました。
 洋行が決まったということは帝国大学の教官要員に選ばれたということを意味します。明治35年当時でしたら帝大は東京と京都の二つしかありませんが、九州の福岡にもうひとつの帝大が創設されることになっていましたので、教官を揃える必要がありました。それで候補者を選定し、着任に先立って洋行させるという手順でした。明治36年12月14日には金一さんはまだドイツに滞在中でしたが、この日の日付で京都帝国大学福岡医科大学の助教授に任命されました。金一さんひとりではなく、同日、東京帝国大学医科大学から2名の助教授と7名の助手が福岡医科大学の助教授に就任しています。金一さんは7名の助手のひとりでした。
 福岡にある医科大学なのに京都大学となっているのはなぜなのだろうという疑問がわきますが、これは大学設置の手順と関係があります。

山田さんの第8書簡
明治37年7月26日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈どうかしたいが大阪に居ては迚(とて)も君の枕もとにすわる事は出来ない・・・悲か、同情か、心配か、習慣か何か分らないがよさせたいと思ふ。僕でも居て慰めてやる事が出来るのならばどんなに僕はうれしいだらう。若しそんな時に僕を思ひ出していくらか君が慰められ得たといふ様の事でもあらば、それこそ僕は何んなに喜ぶだらう。
 二十三日の月と言へば僕にも話す事があるよ。其前の晩一番下の弟七か八かを連れて産湯(地名)の傍らの味原池へ行つた時、弟に何うだ面白いかといへば面白くないと答へる。産湯の森が池にうつつて其前に白い衣着た人が立つて居るのがぼんやりと見えて居るのがきれいじやないかと言つても、きれい事おまへんと答へる。〉

 山田さんには弟がいて、一番下が7歳か8歳ということでしょうか。弟といっしょに産湯(うぶゆ)というところに出かけて「味原池」を見たときの問答が紹介されています。「味原池」というのは何だか不思議な言葉ですが、調べてみるとこれは「あじはらのいけ」と読み、天王寺区味原本町にあった大池なのだそうです。比売許曽神社御影池(ひめこそじんじゃみえいのいけ)とか、富池と呼ばれ、農家の灌漑池として利用されていたのだとか。「富池」は「とみいけ」と読むのだろうと思います。なんだか古い伝承を感じさせる名前です。大正7年9月に埋め立てられたということもわかりました。
 天王寺区味原本町というのは現在の地名表記ですが、山田さんが見に行ったころは天王寺区小橋町というところだったようです。比売許曽神社も今はなくなったようで、その跡地に産湯稲荷神社(うぶゆいなりじんじゃ)があるとのこと。地名も神社もはじめて耳にするものばかりです。

山田又吉の手紙14 明治の受験界

中さんの兄弟をひと通り紹介しましたので、今度は兄の金一さんのことをもう少し詳しく報告しておきたいと思います。『銀の匙』に出てくる人ですし、中さんとの関係は深く、人生の道連れのような感じもあります。
 金一さんの生地と生誕日については既述の通りですが、その後、明治27年に第一高等中学校を卒業しています。第三部学科医科志望のクラスで、同級生は28名。7月7日に第8回目の卒業証書授與式が行われました。一高に入る前はどうしたかというと、中学校は独逸学協会中学校を出ています。この学校のことも沿革を語れば長くなりますが、まず明治14年に独逸学協会というのができました。目的はその名の通り、ドイツ文化の摂取移入です。2年後の明治16年に独逸学協会学校ができて、翌明治17年には普通化と専修科が併設されました。このうち普通科のほうが中学校に対応するのですが、「独逸学協会中学校」と改称したのは明治26年ですから、金一さんの在学中のことになり、あす。入学したときは「独逸学協会普通科」という名前だったのでしょう。
 明治に前半期のことですが、各種の学校の制度も次第に確定し、一高から東大をめざすコースがひとつの目標になりました。一高に入るためには入学試験に合格しなければなりませんが、そこに独逸学協会が運営する学校などの出番がありました。一高の合格者を何人出すかを競争するのですが、ドイツ学協会の普通科もしくは中学校はその面で非常に有名でした。ほかに岩波茂雄や山田さんが編入した日本中学も有名でした。前に名前の出てきた岩永裕吉は正則英語学校から一高に進みましたが、ここは英語教育で知られた斎藤秀三郎が創設した学校です。この当時も受験競争の世界があったわけで、その点では今と同じです。競争に参加できるのは相当の資産家の子弟に限られていましたから、人数は今とは比較にならないほど少なかったのですが、その代わり合格者も非常に少ないため、おそろしくきびしい競争が行われました。
 それともうひとつ、合格した者と合格できなかった者とでは将来がまったく異なりました。このあたりの消息については当時の社会情勢の全体像を見ないとよくわからないことがあります。
ここに挙げた三校はみな私立学校ですが、公立では府立一中が有名でした。府立の「府」は「東京府」の「府」で、現在の都立日比谷高校です。中さんは府立の城北中学を出て一高に入りました。ここは現在の都立戸山高校です。
 金一さんは一高から東京帝大医科大学に進み、卒業して助手になりました。医科大学で師事したのは青山 胤通(あおやま たねみち)という人です。この人は著名な内科医ですが、野口英世を批判したことでも知られています。

第7書簡の続き
〈××の所で嫌になる云々の手紙、あれを読んだ時の僕のよろこびはどんなだつたらう。よく覚えて居るよ。何か君の気に入らない事があつたら何卒すぐに教へて呉れよ。僕の理性は忠実によく片ッ端から感情をこはしてまはる。
 僕が東京に居る間は君の所の二階のあの室はよく僕をこまらした。僕がはなれて居ると絶えず引きつけるし、其処に居ると何か気が落ち付かないで面白くなるのでまたはね反す。さういふ事がよくあつた。〉

「××」のところは級友の名前と思いますが、よくわかりません。

山田又吉の手紙13 姉と妹

中さんは中家の男の子の中では末の五番目で、そのうち次兄の金一さんと中さんだけが残りました。4人の兄のほかに姉と妹もいました。一番上の姉は「はつ」という人で、明治11年の生まれです。次姉は「ちよ」という人で、明治13年に生まれています。生年はわかりましたが、何月何日まではわかりません。妹のことはもう少し詳しくわかります。明治21年1月に妹の「栄」さんが生まれ、翌明治22年9月に次の妹の「やす」さんが生まれました。姉が二人、妹も二人です。
 このころの女の子の名前には「子」がつかないのが普通だったようで、中さんの奥様の和子さんも、本当は「和」さんなのですが、「中和」と書くとついつい「ちゅうわ」と読まれてしまっておかしいからというので、たいてい「和子」さんと名乗っていました。少々蛇足ですが、奥様には妹が二人いて、順に「豊」さん、「秀」さんというのですが、このお二人もいつもは「豊子」さん、「秀子」さんと名乗っていました。それでこれからも「子」をつけて呼ぶことにしたいと思いますが、中さんが一番仲がよかったのは末の妹のやす子さんでした。やす子さんは屋壽子さんと表記されることもありますが、明治45年7月16日に福岡市で亡くなりました。まだ若く、満年齢で22歳でした。
 東京で生まれたやす子さんがどうして福岡市で亡くなったのかというと、小倉出身の藤澤幹二さんという医師と結婚して福岡市に住んでいたからです。ではどうしてそんなご縁ができたのかというと、藤澤さんは九州大学の医学部を出た人で、中さんの兄の金一さんのお眼鏡にかなったからです。
 それで金一さんの略歴をもう少し詳しく紹介したいところですが、それはそれで長くなりますので、ここでは山田さんの手紙の続きを読みたいと思います。まだ夏休み中で、山田さんは大工をやって本立てや写真の枠を作ったりしていました。

第7書簡の続き
〈これ迄昨夕書いた。今朝君の手紙に起された。僕こそ君の手紙で何んなに喜ばせられるだらう。机をはなれる度毎に手紙は来て居ないかとのぞいて見る。
 花の事は帰阪の時に何か一つ手に提げて来ればよかつたにと後悔して居る。気の毒だと思つて居るんだ。もうよして呉れ。何時か学校で芍薬の花をもらつた事があつたね。あの時に非常に嬉しくて面白かつたものだから此花を願つたのだが、帰つてから気の毒に思つて居る。
 安倍には会つたか。会つたらね宜敷(安倍は帰郷したら君の所へも行くといつて居た)。此手紙は義務の様に感じてかいたので頭の中の方々から寄せあつめて書いた。実際面白くないながらも書いたのだ。何だか手紙を出したいので只書いたのだ。実際は君の事を考へない日はないのだから語りたいといふ要求はあるんだが、探つて見ると只会ひたい、話したい、喜ばしたい、喜びたい、とこれ丈けで盡きて居る。いやな時には君を思ひ出す、君に手紙を書く、君の手紙を読む、と考へて居つて僕の後で大に力を付けて居つて呉れるよ君は。
 銀杏の下で腰かけて居る君が見ゆる様だ。十九日朝だけれ共後で一度読むで見るから多分午後出す。〉

 「銀杏の下」の銀杏というのは、駒場の一高のキャンパス内の銀杏並木のことでしょうか。

山田又吉の手紙12 中さんの兄弟たち

詳しく書いていくときりのないことでもありますが、中さんの家族のことなどをもう少し報告しておきたいと思います。中さんは中家の五男であることは既述の通りですが、長男は明治3年8月5日に亡くなっています。名前はわかりません。お墓は美濃国の高徳寺にありますが、正確な所在地はわかりません。岐阜県の中津川に高徳寺というお寺があり、恵那市にも同じ名前のお寺がありますが、どちらかが該当するのか、どちらも該当しないのか、これ以上のことを知るには現地に出向いて調査をするしかありません。
 明治3年に長男が亡くなって、翌明治4年6月3日に次兄の金一が生まれました。金一さんは医師になったのですが、このあたりには中家の伝統が生きているのかもしれません。次に、明治10年6月28日に三男が亡くなりました。名前は銀二。金一の弟が銀二です。この日とのお墓も高徳寺にあります。それから明治17年7月8日に四男の益吉が亡くなりました。この時点では中家は東京に出ていますから、お墓も東京で、青山の玉窓寺にあります。『銀の匙』の主人公は伯母さんに可愛がられて育ちましたが、その伯母さんは中さんの母の一番上の姉です。生まれた子供が亡くなって悲しくてならなかったところに中さんが生まれましたので、伯母さんは生まれ変わりだと喜んだという話が『銀の匙』に書かれていますが、亡くなった子供というのが益吉のことです。
益吉が亡くなってすぐ次の年の5月に中さんが生まれました。

山田さんの第7書簡の続き
〈此頃は午後は大工をやつて居る。此間本だてを造るつたら大分うまく出来た。東京でとつた三人の写真のわくを造つたが失敗だつた。それでもそれに入れて今掛けてあるが中々つりあひが宜い。又造りなほすつもりで今日はのみと鉋とを磨いて置いた。中々愉快だ。益々面白くなる様だつたら此夏は大工ばかりして居るかもしれない。見るもの聞くもの皆何か僕の平生の要求にhintを与へる様な気がして、少し追求すれば大満足を得られさうに思へて活気が満ちて世を睥睨する様な自負心が起る。この様な日が時々あるよ。出会ふ物毎に心ときめいて嬉しさが心の何処かに見える様だが、其時が過ぎ去ると何の痕跡も残らない。全くの空だ。〉

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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