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数学を語る65 先入観を排除すれば

接線法を考える場合にはdxとdyは必ずしも無限小量とは限りません。これは気づいてみれば当然のことのように見えるのですが、実はこれまで気づきませんでした。「ライプニッツ1684」はいつも手元にあって、何度も眺めていたのですが、それでも気づかなかったのはどうしてなのでしょうか。不思議といえば不思議ですが、dx、dyといえば無限小量という観念が先入観になっていたのはまちがいありません。ではありますが、当の本人のライプニッツが「dxは任意に通られた何らかの線分」と言っているのですから、dxを無限小量と決めてかかるのはライプニッツの言葉を頭から否定することになり、なんだか落ち着かない感じがあります。
 それでどうも落ち着きが悪いのですが、先入観の力も強力ですのでなかなか決着がつかず、ライプニッツの言葉は何とはなしに無視する結果になりました。なるほどライプニッツは無限小量とは言っていませんが、それは便宜上のことで、本当は無限小量と言いたいところを、何らかの理由によって避けたのであろうと思うことにしてきたように思います。無限小量という考えには当初から批判があったといううわさもありました。ライプニッツ自身も、少なくとも表面上は無限小を語りたくなかったのではないかと言われることもありました。
 先入観を排除して虚心坦懐にライプニッツの言葉に耳を傾けると、ライプニッツは無限小の概念を避けるようなことはせず、むしろ積極的に、創造性に富むアイデアと見て受け入れていたように思います。無限円を語ったクザーヌスの影響を受けて思索したライプニッツのことですし、無限小を忌避する理由はどこにもありません。「無限」は想像の泉です。
ところが接線法の場合には無限小を語る必要がありません。かたってもいいのですが、その場合には接線の無限小切片が認識されます。それを延長すれば通常の接線が生成されるのですから、微分を有限な線分と見ておけばはじめから接線それ自体が出現します。微分を有限な差とした理由の真意はそこにあります。
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数学を語る64 クザーヌスの影響を語る

曲線に接線を引くという場合には、dxやdyは必ずしも無限小量というわけではなく、有限量が考えられているのですから、視覚的にはむしろ大きければ大きいほどわかりやすくなります。曲線f(x,y)=0が与えられたというとき、xやyの文字は変化量を表わしているわけではないことも、一度は確認しておかなければならないことです。それらを変化量と見て、指定された方程式により相互に束縛しあいながら変化する状態を思い浮かべても、それはそれでさしつかえありませんが、力学の問題を考える場合ならともあれ、接線を引くということを考える場面ではその必要はありません。これを要するに、接線法の考察では変化量も無限小量も不要ということです。ライプニッツが遂行したのはただ、曲線に接線が引かれた状況を心に描いて観察し、接線を引くために必要不可欠な計算規則を抽出したことだけでした。
 もっとも、このような作業が可能になるためにはあらかじめ接線が引かれていなければなりませんが、では一般に接線というのはどのようなものと考えられていたのでしょうか。あらためて考えてみると、まさしくここが最大の論点で、接線の観念が確立されていなければ、そもそも接線法の話は始まりようがありません。
 この論点については実はこれまでに何度も繰り返して言及したことがあるのですが、ライプニッツ自身、「ライプニッツ1684」の中で〈接線を見出すということは本来、曲線上の無限に小さい距離を持つ2点を結ぶ直線を引くこと〉であると言っています。これを言い換えると、〈曲線と同値である無限個の角を持つ多角形の1辺を引くこと〉ということになるというのですが、このように曲線を見る視点をライプニッツに提供した人物こそ、ニコラウス・クザーヌスなのでした。

数学を語る63 接線を引くのに無限小量は要請されない

ライプニッツのいう微分が無限小量ではなく有限量であることをあらためて考え直してみたいのですが、極大極小問題を究明するというのであればどうしても無限小量のアイデアが要請されるのに対し、接線を引く問題では無限小量を考える必要はないのではないかと思い当たりました。線分dxを任意に与えるとき、曲線の接線の観察を通じて「向軸線の微分dv」が導入され、計算法が規定されました。dvの導入の仕方を見ると、線分dxを軸上に取るとき、商dv/dxは接線の傾きを表わします。そのようにdvを定めたのですが、そんなふうにしてひとたび微分計算の手順が規定されてみると、今度は逆にその計算法から出発して接線を引くことができそうです。ライプニッツのねらいもそのあたりにあり、接線法の公理系のようなものを書き並べ、実際に接線を引く場面ではアルゴリズムというか、接線を引く明快な手順が示されました。接線の引き方がすでにわかっている曲線に対して適用すると同じ接線が引かれ、未知の曲線についても自在に接線を引くことができるようになりました。
 曲線が方程式f(x,y)=0で与えられているとして、この曲線上の点P(a,b)において接線を引くにはどうしたらよいのでしょうか。ライプニッツの計算法によれば、この「方程式を微分して」、
        df(x,y)=d(0)
という方程式を作ります。右辺は定量0の微分ですから0になります。左辺はAdx+Bdyという形の式になります。AとBはそれぞれ微分dx、dyの係数ですから「微分係数」という呼称が似合います。これで、
         Adx+Bdy=0
という方程式が得られますが、これはつまり微分方程式です。AとBの計算法を明示しなければなりませんが、今日の微積分の記号と用語を流用すれば、A、Bはそれぞれx、yに関するfの偏導関数で、
      A=∂f/∂x,B=∂f/∂y
と表示されます。この計算法を確立するところに微分計算のポイントがあります。
 このようにして見いだされる微分方程式Adx+Bdy=0は、このままの形ですでに接線を与えています。実際、接線は傾きが指定されれば定まりますが、傾きはdxとdyの比dx/dyで与えられるのですし、方程式Adx+Bdy=0はdxとdyの比を与える相互関係式そのものです。しかも一次ですから、この関係式は直線を表わしています。
 もう少し具体的に言うと、点P(a,b)において接線を引きたいのであれば、接線上の点を(x,y)としてdx=x-a、dy=y-bと置きます。AとBについては点Pにより数値が定まりますからそれを採用すると、
    A(x-a)+B(y-b)=0
すなわち
     Ax+By=aA+bB
という方程式が得られます。これが点P(a,b)における曲線f(x,y)=0の接線の方程式です。dxもdyも有限量であることに留意したいと思います。

数学を語る62 ライプニッツの微分には「変化するもの」が存在しない

任意の線分dxを指定して、曲線の向軸線dvを算出する様式をライプニッツは示しましたが、その様式というのはつまり「比dv/dxが接線の傾きを表わすようにする」ということに尽きています。あまりにもあたりまえすぎて、何でもないことのようですが、「接線を引く」という行為の本質、すなわち接線を引くために要請される最小限度の限定条件を抽出しようとする試みです。数学の抽象化という、ヨーロッパの数学に特有の傾向は、このようなところにもすでに現れていると言えそうです。「これだけがあれば接線を引ける」という計算法を抽象的に取り出して提示することができたなら、今度は逆にその接線法から出発することにより、どんな曲線にも接線を引くことができるようになります。もっともそうなると「接線を引く」というよりもむしろ「接線を定義する」という感じになりますし、現に、今日の微積分ではそうなっています。
 ライプニッツによる微分の定義でもうひとつ注意しておかなければならないことがあります。それは、曲線の切除線と向軸線は変化しないという一事です。切除線は軸上で始点からの距離を測っているだけですし、向軸線は曲線上の点から軸に向かって降ろした垂線の長さを測定しているにすぎず、どちらも変化量ではありません。微分の定義のために要請される線分dxも、それとの関連で規定される微分dvも、変化量ではありません。変化量という以上、何かしら「変化するもの」という力学的なイメージが伴いますし、微積分というと「何物かが変化する様子を調べる」という感じがするのですが、「ライプニッツ1684」に出てくる量は変化しないものばかりです。
 ヨハン・ベルヌーイの講義録やマルキ・ド・ロピタルの著作などを見ると、微分の対象は変化量で、「変化量を微分する」という姿勢が一貫して保持されていますが、ライプニッツはただ微分を定義する明けで、何を微分するということもありません。わかりにくいというか、ライプニッツはいったい何をしようとているのか、明快な認識が得られないのはこのあたりです。

数学を語る61 接線の観察から微分計算の規則を抽出する

ここまでのところで微分計算の基本法則が提示されました。あらためて列挙すると、
   d(a)=0 (定量の微分。aは定量)
   d(z-y+w+x)=dz-dy+dw+dx (和と差の微分)
      d(xv)=xdv+vdx (積の微分。「ライプニッツの公式」と呼ばれることがあります。)
      d(z/y)=(±vdy∓ydv)/yy (商の微分)
というふうになります。ここで、繰り返し注意しておかなければならないことがいくつかあります。
 ライプニッツの微分計算のねらいが「万能の接線法」の確立にあったのはまちがいありませんが、そのような計算法を探り当てるためにライプニッツは何をしたかというと、曲線に接線が引かれた状態を観察することでした。曲線の位置は軸との関連のもとで切除線と向軸線を定めることによって定まりますが、曲線VVの向軸線をvで表すとき、「vの微分dv」というのは、あらかじめ指定された線分dxとの関連のもとで定まります。線分dxは別段、無限小でなくてもよく、任意の長さの有限線分です。そのdxに対してどのようにdvが定められるのかというと、「商dv/dxが接線の傾きを表わすように」という唯一の限定が課されるだけです。接線はすでに引かれていて、ライプニッツはその状況を観察しているというところが肝心なところです。
 和と差の微分は何でもなく諒解されますが、積の微分の定め方は必ずしも容易ではありません。ライプニッツもすぐに認識したわけではないようで、d(xv)=dxdvなどという規則が念頭に浮かんだこともある模様です。商の微分は実は積の微分から即座に取り出されます。そういえば差の微分は和の微分から導かれますから、結局のところ、ライプニッツが示した微分計算の規則は、和と積の微分、すなわち
     d(x+y)=dx+dy
     d(xy)=xdy+ydx
という二つの計算規則に集約されます。
この規則は接線の観察の中からライプニッツが取り出したものですから、証明の対象ではありません。接線法の確立をめざしつつ、その接線法を接線の観察から抽出し、この二つの計算規則があればどのような曲線に対しても接線を引くことができると宣言したことになります。そこで上記の二つの計算規則の妥当性を測る物差しは何かというと、接線を正しく引くことができるかどうかという一点に集約されます。たとえば、この接線法によって、既知の円やサイクロイドの接線を引くことができないようでは接線法としては失格で、とうてい受け入れることはできません。
 接線法を接線の観察から取り出すというやり方は、ヨーロッパの数学にときおり見られます。たとえばデカルトは既知の曲線を方程式で表わすというアイデアを導入しましたが、視点を逆転して方程式そのものを曲線と見るという立場に立てば、曲線の世界は一挙に拡大します。曲線というものをこのように認識するやり方は、ライプニッツの微分計算の規則の立て方によく似ています。
 後年のことになりますが、実数を定義しようとしたデデキントの試みもライプニッツに似ています。リーマン面の概念を複素多様体と見て、その定義を書き綴ったワイルの試みもライプニッツに通じます。ほかにもあちこちに同様の事例がありそうです。

数学を語る60 加減乗除の微分計算

定量の微分と「等しいもの」の微分に続いて、ライプニッツの考察は「和と差の微分」の考察に移ります。曲線の向軸線を足したり引いたりして、たとえばz-y+w+xという式を作り、これをvと置いて、その微分を作ろうというのですが、ライプニッツが明示した計算式は
      dv=dz-dy+dw+dx
というものです。z、y、w、xはただの文字ではなく、それぞれ曲線の向軸線の長さを表わしています。ここで急いで言い添えておかなければならないのですが、向軸線という名の有限線分の長さを表わすという以上、それらはみな正の値をもっています。切除線についても同様で、負の値を表わしたいときには負符号をつけて対応することになります。
 z、y、w、x の各々はそれぞれ与えられた曲線の向軸線を表わすとして、ではv=z-y+w+xは何を表わしているのでしょうか。この式で見ると4本の曲線の向軸線を足したり引いたりされています。ライプニッツの微分は曲線に対して考えられるのですから、vの微分を考えるという以上、vもまた何らかの曲線の向軸線でなければならないことになりますが、それはどのような曲線なのでしょうか。
積についても同様の疑問が生じます。xとvは与えられた2本の曲線のそれぞれの向軸線として、ライプニッツはそれらの積y=xvの微分を与える式
     dy=xdv+vdx
を書き留めています。また、商についてはどうかというと、二つの向軸線v、yの商z=v/yを作り、その微分を与える式
      dz=(±vdy∓ydv)/yy
が書かれています(分子に正負の符号が混在しているのは、向軸線をつねに正に取っているためです)。では、積y=xvや商z=v/yはどのような曲線の向軸線を表わしているのでしょうか。
 ライプニッツの言葉をそのまま受け取るなら、複数個の曲線が与えられたとき、加減乗除の四則演算により、そのつど新しい曲線が生成されるという状況が念頭に浮かびます。曲線が与えられれば向軸線が定まりますが、逆に向軸線が指定されれば、それに対応する曲線が定まりそうです。曲線が存在しない状況のもとで向軸線を指定するというのはなんだか変ですが、曲線は切除線xと、xに対応するyが指定されれば定まります。和と差の場合にはv=z-y+w+x、積の場合にはy=xv、商の場合にはz=v/yと置けば、切除線xとv、y、zの各々との関係が指定されたのですから、これによってそれぞれv、y、zを向軸線にもつ曲線が生成されます。
 デカルトは曲線を方程式で表わしましたが、逆に方程式が指定されれば、それで表わされる曲線が生成されます。ライプニッツにはこのデカルトのアイデアが継承されていると思います。

数学を語る59 接線法の公理系

前述の通りの状況を踏まえたうえで、差分ではなく微分という用語を用いることにしたいと思います。そこで微分dxが与えられたというとき、それは「任意に取られた何らかの線分」というのですから、必ずしも無限小というわけではなく、有限の長さをもつ線分のこともあります。このdxに対して、曲線VVの接線との関連のもとで微分dvが定まります。与えられた微分dxに対応して、もうひとつの微分dvが定められるのですが、その定め方というのは、「比dv/dxが接線の軸に対する傾斜度を表わす」という要請に制御されています。ということはつまり、dxに対してdvを定める規則、すなわち微分計算の規則が確立されれば接線を引くことができるということになりますが、逆に見ると、微分計算というもののねらいは当初から接線法そのものにあったことが諒解されます。微分計算は接線法を確立するために考案された計算の工夫です。
 そこでライプニッツは微分計算の規則を書き並べていきます。dxは固定したままにしておいて、aは与えられた定量とすると、その微分daは0になります。定量の微分というと、曲線との関係はどのようになっているのか、気に掛かりますが、ここでは軸と並行で軸との距離がつねにaに等しい線が考えられていると見てよいと思います。dxとの関連でいうとda/dx=0。すなわち。軸と平行な直線は軸に対して傾いていないという、ごくあたりまえに見える現象から、da=0という計算規則が抽出されたことになります。
 このda=0という計算規則はライプニッツがそのように定めたのですから、真偽を問うのは無意味で、証明の対象ではありません。
 次に、ライプニッツはyがvに等しいという場合を設定します。ライプニッツは「もしyがvに等しいなら」というのですが、すぐに、「つまり曲線YYの任意の向軸線が曲線VVのそれに対応する任意の向軸線に等しいなら」と言い直しています。なんだかあいまいな感じがありますが、日本の曲線YYとVVがぴったり重ね合わさっている状況が考えられているように思います。この場合、dy=dxとなるというのが、ライプニッツが定めたもうひとつの計算規則です。数式風に書くと、「y=vならdy=dv」ということになりますし、接線との関連でいうなら、「ぴったり重なり合う二曲線の傾きはいたるところで同じ」ということで、あたりまえといえばあたりまえすぎる状況です。
 当たり前に見えることをいくつか列挙して、そこを土台にして、他のあれこれの複雑な諸事実を整然と導いていくというやり方は、ユークリッドの『原論』と同じです。このあたりにもギリシアの数学の影響がありありと感知されます。ライプニッツは「接線法の公理系」を確立したかったのでしょう。

数学を語る58 差分と微分

切除線と向軸線の説明がしましたので続きを読みたいと思いますが、訳文で見ると、ここまででまだ3行しか進んでいません。
 ライプニッツは各々の曲線に接線VB、WC、YD、ZEを引いています。ここで、これまでにそうしてきたように、V、W、Y、Zはそれぞれ曲線VV、WW、YY、ZZ上の任意の点を表わしています。B、C、D、Eは何かというと、それぞれの接線と軸との交点です。このような状勢を整えたうえで、ライプニッツは、さて、と言葉をあらためて、任意に取られた何らかの線分をdxと表記します。まるで「xの微分」みたいな記号ですが、任意の長さの線分というのですから、「無限小の長さの線分」という特別の線分が指定されているわけではありません。このdxに対して、「vがXBに対するような直線」をdv、つまりvの差と呼べ、とライプニッツは指示しています。少々わかりにくいのですが、図を描いて観察するとよくわかります。XBは接線影と呼ばれる線分です。dvは何かというと、比例式
        v : XB=dv : dx
を満たすように定められる線分です。dv/dx=v/XBと書くと微分の計算みたいな感じになりますが、dv/dxはつまり接線の傾きを表わしていることがわかります。
 他の曲線についても同様で、dw、dy、dzが定められます。これで、与えられた線分dxに対して、線分dv、dw、dy、dzを定める計算規則が指定されました。これらの線分のことをライプニッツは「differentia」と呼んでいます。そこでさっそく問題になるのは、この言葉の訳語です。「微分」という訳語でよさそうですが、無限小の線分というわけではありませんのでそのようには訳せないというのが
訳者の意見で、それで訳者は「差分」という言葉を採用しています。一理のある解釈ですが、ライプニッツの心にはもとより無限小の観念がありました。無限小の線分を有限線分とおなじように取り扱おうとしているのであり、ライプニッツの思索の本質はまさしくそこにあります。有限を語りながら同時に無限小を語っているということです。それで、ここはあえて「差分」としなくても、堂々と「微分」という訳語を割り当ててもいっこうにかまわないのではないかと思います。

数学を語る57 切除線と向軸線

「ライプニッツ1684」を続けます。曲線VV、WW、YY、ZZから軸に向かって降ろされた垂線VX、WX、YX、ZXのことをライプニッツは「縦線」と呼んでいます。「縦線」というのは訳文で使われている言葉ですが、ここに訳註が附されていて、原語は“ordinate”であることが明記され、さらにそれは “recta ordinatim applicata(秩序正しく置かれた直線)”に由来すると説明されています。「秩序正しく置かれた直線」がどうして「縦線」なのか、いくぶん不可解ですが、“ordinate”に「縦線」という訳語を当てるのは半ば定説になっています。ではありますが、これはやはり変で、現にライプニッツが挙げている図でも軸は縦に引かれ、“ordinate”は横向きに引かれています。
 ライプニッツは垂線VX、WX、YX、ZXのことを、アルファベットの小文字を使って、それぞれv、w、y、zと呼ぶと書いていますが、これはつまり垂線の長さを表わしています。その次が問題ですが、ライプニッツは「軸から切り取られた」AXをxと名づけています。「軸から切り取られた」のところに訳註が附され、原語は「abscissa ab axe」であることが明示されています。「ab axe」は「軸から」の意、「abscissa」は「切り取られた」という意味ですから、そのまま訳出して「軸から切り取られた」となります。続いて、後に「1692年になってこれはabscissaと単独で用いられるようになる」と訳注が続きます。動詞から名詞に転じてabscissaという言葉ができたということで、ここまでは何事もありませんが、問題はそのabscissaの訳語で、訳註では「横線」という訳語が割り当てられています。これで「縦線」と「横線」が揃い、さながら直交座標系もしくはデカルト座標系が構成されたかのような感じがあります。
 今日の習慣に従って平面上に直交座標系を描こうとすると、直交する2本の直線を引くとき、ついつい横と縦に一本づつになってしまいます。別にそうしなければならない理由はなく、斜めに傾いていてもいっこうにさしつかえないのですが、習慣の力というほかはありません。それで横に引いた線を横線、縦に引いた線を縦線と呼ぶのですが、これもまたそのような習慣になっているというだけのことで、縦と横に特別の意味はありません。そんなわけでordinateを縦線、abscissaを横線と呼ぶのはやはり不適切なのではないかと思います。それならどうするかというと、abscissaは「軸から切り取られた線」という意味を汲んで「切除線」とし、ordinateは「軸に向かっていく線」というほどの意味合いで「向軸線」とするのがよさそうです。
 もう少し附言すると、軸は必ずしも直線である必要はありません。また、向軸線は必ずしも軸と直交する必要もなく、傾いていてもかまいません。向軸線は真っ直ぐでなければならないこともなく、曲がっていてもかまいません。このあたりは自由自在です。

数学を語る56 「ライプニッツ1684」

接線法の身体はデカルトの解析幾何で、ここは通説の通りと思いますが、接線法の心は何かというと、クザーヌスの特異な神秘思想であろうというのがただいまの時点での考えです。心と体が両々相俟って微積分が形成されました。それならだれが作ったのかというと、それがライプニッツです。「ライプニッツ1684」で微分法ができ、「ライプニッツ1686」で積分法ができました。
 「ライプニッツ1684」の表題をもう一度回想すると、

〈分数量にも無理量にもさまたげられることのない極大・極小ならびに接線を求めるための新しい方法、およびそれらのための特異な計算法〉

というもので、非常に長大でした。ここでライプニッツのいう「特異な計算法」というのがつまり微分計算にほかなりません。ライプニッツはデカルトがしたこともフェルマがしたこともよく承知していたと思いますが、「ライプニッツ1684」の表題に「極大極小」と「接線」が同時に取り上げられたところには、フェルマの強い影響が感じられます、
 長大な表題に比べて本文は短く、工作舎から出ている邦訳書でみてもようやく12頁程度にすぎません。本文を見るといきなり軸と曲線が登場します。特に明記されているわけではありませんが、ある同一の平面上で繰り広げられる物語です。ライプニッツは平面上に一本の無限直線AXを配置します。Aは軸の始点、Xは軸上の任意の点を示す記号ですが、「始点」というのは後年の用語で、ライプニッツが用いているわけではありません。軸のほかに多くの曲線を描き、それらをVV、WW、YY、ZZなどという記号で表します。これらの曲線の各々から軸に向かって垂線VX、WX、YX、ZXを降ろします。
今日の目には記号がわかりにくい感じがありますが、たとえばVXというのは何を表わしているのかというと、Vは曲線VV上の点、XはVから軸に向かって降ろされた垂線の足を表わしています。曲線VVなどと書くからわかりにくいのですが、これはその上の任意の点を表わすのにアルファベットのVを使うということで、曲線と曲線の区別は、その任意の点を表わすアルファベットの違いという形で行うということです。それで、曲線VVと曲線WWは別の曲線であることになります。
軸はAXで表わされていますが、これをどうしてXXと表示しないのかというと、一個の点Aが特定されているからです。
それで曲線VVから軸AXに降ろした垂線の足は軸上の点ですが、Vは任意の点ですから垂線の足の位置もまた任意で、特定できません。それでXで表すことになります。今日の記号法はもう少し精密というか、正確というか、注意深いというか、こだわりが強すぎるというか、線を表わす記号と線の上の点を表わす記号を明確に区別しようとしていますので、「曲線VV」などという言い方はしませんが、かえって煩雑な感じもします。ライプニッツは曲線VVと曲線WWを区別しているのですから、それはそれで精密ですし、慣れればなんでもありません。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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