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「微積分難問集」の書名決定

懸案の「微積分難問集」の書名は、
『古典的難問に学ぶ微分積分』
と決まりました。「あとがき」も書き終わり、印刷も始まっています。刊行の日が近づいてきました。
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数学を語る16 デカルトの『幾何学』より

連休中に所用があり、白水社版の『デカルト著作集』の巻1をもって東京に出てきました。巻1は500頁ほどの大きな本ですが、全巻が『方法序説』にあてられています。三つの試論のうち、「幾何学」は中味が数学ですので横書きで書かれているのですが、あとは縦書き。それで「幾何学」のみ、巻末に配置され、逆向きに頁番号が記入されています。今まで真剣に読みにかかったことがないのですが、今度はなにしろ微積分のはじまりをおさえたいという考えですので、ていねいに読んでいるところです。本文は80頁。訳註が24頁。ほかに詳細目次と解説がついています。小さな本ですが、実際に目を通すと連想が群がり起こり、なかなか前に進みません。
 どうしてデカルトの「幾何学」の話をしたいのかというと、曲線というものに対してデカルトがどれほど深く関心を寄せていたのか、その様子を見たいと思ったからですが、同時に、そのような関心の出所を知りたいとも思いました。おおよそのことを言うと、曲線への関心は古代のギリシア時代にも非常に強く、デカルトはそれを継承したというのが通説です。それはその通りですが、等しく曲線への関心といっても、ギリシアには存在せず、デカルト以降に新たに出現した関心もあります。「接線を引きたい」という熱情がまさしくそれで、そこから微積分が発生したことを実際に確認したいと思い立ちました。
 曲線への関心はギリシアからの継承としても、接線を引きたいと思う心は近代の産物です。ライプニッツの無限解析が現れて万能の接線法が確立されると、この熱情は急速に消失し、数学の姿もまた変貌して今日に及んでいます。
 デカルトの「幾何学」は3巻で編纂されています。巻1には
「円と直線だけを用いて作図しうる問題について」
というタイトルが附されていますが、これを見るだけでも古いギリシアの数学への連想を誘われます。作図問題も特異ですし、自由に使える図形を円と直線のみに限定するという考えもまた特異です。円も直線もこれ以上は考えられないほど単純な図形ですが、簡単なものから複雑なものを構成していくという、そのこと自体に心を惹かれるという心情に支えられていたのでしょう。日本の和算などにはまったく見られません。
 デカルトが挙げている例を見ると、二本の線分が与えられたとき、それらの長さの積に等しい線分を作図することができます。また、一方の長さを他方の長さで割るとおき、その割り算の結果に等しい長さをもつ線分を作図することができます。これらの作図は「線を引く」だけで。言い換えると「定規を用いる」だけで可能です。
 与えられた線分の長さの平方根に等しい長さをもつ線分の作図も可能です。ただし、今度は「円を描く」必要があります。言い換えると、定規のほかに「コンパスを使う」必要があります。

数学を語る15 デカルトの葉

デカルトの『方法序説』を紹介しましたが、微積分とその形成史について語ろうとすればデカルトを無視することはできません。ではありますが、あまり大きく構えてしまうとデカルトひとりを語るために生涯を費やすようなことにもなりかねませんので、ここでは『方法序説』に附随する「三つの試論」のうち、「幾何学」に着目したいと思います。曲線というものに、デカルトがどれほど心を奪われていたのか、その様子をのぞいてみたいという誘惑に駆られます。
 その前にもうひとこと、「デカルトの葉」の話をしておきたいと思います。今日の微積分のテキストにもいろいろな曲線が出てきますが、「デカルトの葉」は有名な曲線ですし、たいていのテキストに概形が描かれています。「デカルトの葉」は第一象限内に一枚の葉を描き、第二象限と第四象限内ではそれぞれ一本の枝が無限遠に向かって伸びていきます。第三象限内には通過点はありません。
ヨハン・ベルヌーイがロピタルのために行った積分計算の講義録を見ると,冒頭にいきなり「デカルトの葉」が登場し、誕生してまもない積分計算の手法を駆使して,この曲線が第一象限内で囲む葉の面積が算出されています。はじめてこれを見たときのことですが、なんだか非常に感動し、ああ、ここに微積分がある、微積分が誕生したのだという、深遠な感慨に襲われたものでした。
 デカルトの名が冠せられているくらいですから、数学史の流れの中でデカルトの葉を一番はじめに取り上げたのはデカルトです。デカルトはメルセンヌに宛てた二通の手紙の中でこの曲線に言及しました。一通の日付は1638年1月18日、もう一通の日付は1638年8月23日ですが、1638年といえば、その前年の1637年はちょうど『方法序説』が刊行された年でした。「序説」に随伴する三つの学問、すなわち屈折光学と気象学と幾何学のうち、「幾何学」において表明された新しい数学の適用例として、デカルトが提示したのが「デカルトの葉」でした。
 1638年の「デカルトの葉」から「ライプニッツ1684」まで、この間、46年です。微積分の揺籃期と見るべき時代です。
 デカルトは曲線を方程式で記述するというアイデアを提案したのですが、このアイデアの力は非常に強く、それまでに知られていたたいていの曲線や,器具を用いて描かれるさまざまな曲線を方程式で表示することができました。それだけでもおもしろい出来事ですが、出発点を曲線それ自体から方程式に移し、方程式から出発しようとするところに、デデキントかルジャンドルのアイデアの真価がありました。曲線があればそれを表示する方程式が見つかりますが、逆に方程式が指定されれば,それに対応して曲線が描かれます。デカルトの葉はこの斬新なアイデアの一例として、デカルト自身の手で提示されました。ただし、と急いで付け加えなければならないのですが、デカルトのいう方程式というのはどれもみな代数方程式です。
 平明上に描かれた曲線をf(x,y)=0などという方程式で表すというとき、f(x,y)の正体は何なのでしょうか。今日の微積分なら、「関数」と平然と答えるところですが、デカルトとしてはそうもいきませんし、「xとyの間の何らかの関係を表わす式」と観念的に考えておくほかはないところです。もっとも「関数」と答えても具体性を欠いていて、観念的であるところは変わりません。多項式でしたら何の問題もなく、それで代数的な曲線が特別の意味を帯びてきます。
方程式から出発するという立場に立てば曲線の種類は格段に増加しますが、こんのようなものもあるとデカルトが提示したのが「デカルトの葉」でした。
デカルトの葉はどのような形なのでしょうか。デカルトは,デカルトの葉の第一象限内に位置する葉が第二,三,四象限にも同じ形で出現すると考えたようで、正しく描くことができませんでした。ロベルヴァルは、デカルトの葉の形はジャスミンの花のようだと信じていたそうですが、ジャスミンの花は5弁ですから、ロベルヴァルもまたまちがえたのでした。「リボンの結び目」と呼ばれることもありますが、命名したのはロベルヴァルという説があります。ホイヘンスとヨハン・ベルヌーイにより、ようやく1692年になって全体像が明らかになりました。

数学を語る14 デカルトの『方法序説』を見れば

イギリスの微積分、すなわちニュートンの流率法はもともと力学的な関心に応えるための基礎として提案されたのであろうと思いますが、ヨーロッパ大陸の微積分、すなわちライプニッツの無限解析は曲線というものに寄せる深い関心から生まれました。それならその関心はどうして生まれたのだろうという疑問が発生しますが、これはわかりません。わかりませんが、ともあれ際立った歴史的事実であり、微積分は多くの人が曲線に関心を寄せてやまないという状況の中から生まれました。曲線への関心と云うことをもう少し具体的にいうと、「接線を引きたい」という心情に集約されます。デカルトもフェルマもいろいろな曲線に接線を引きたいと思い、工夫を凝らしました。おもしろい接線法が幾通りも考案されましたが、最後にライプニッツの無限解析が登場して「万能の接線法」が明示されたという順序になります。
ライプニッツの無限解析は「曲線の時代」の終着点です。そらなら出発点は何かというと、ここはやはり通説にしたがってデカルトの名を挙げなければならないところです。白水社から全4巻の『デカルト著作集』が出ていますので、それを参照したいと思います。全4巻のうち、巻1は『方法序説』にあてられています。この書名はよく知られていますが、それはたぶん、だいぶ前に岩波文庫に入った落合太郎先生の訳書の書名が流布したためであろうと思います。白水社版の著作集の巻1もこの書名を採用していますが、実際の書名は非常に長く、そのまま訳出すると、

「自分の理性を正しく導き、いろいろな学問において真理を求めるための方法について述べる話。加えてその方法の試みである〈屈折光学〉〈気象学〉ならびに〈幾何学〉」

となります。これでは長すぎますが、白水社版でそうしているように『方法序説と三つの試論』とすると簡潔な感じになります。1637年6月8日、オランダのレイデンで刊行。出版社はヤン・マイレ書店です。フランス語で表記されました。
 三つの試論のうちの「幾何学」で語られたのが、いわゆる「デカルトの解析幾何学」です。
 

数学を語る13 接線を引きたいと思う心

ライプニッツからヤコブに宛てて最初の返信があったのは1690年6月。翌1691年、ヨハンはジュネーブに移動し、さらに足をのばしてパリに向かいました。パリには学問を愛する人たちのサロンがありました。デカルトの思想を継承したと言われるマールブランシュが主宰するサロンですが、ヨハンはここでライプニッツの無限解析を講義しました。聴講したサロンのメンバーの中にロピタルがいて、ヨハンの講義によほど感銘を受けたようで、特別講義を依頼しました。ヨハンはこの申し出を受けました。こうして1691年の末からよく年の7月にかけて、パリとロピタルの別荘でヨハンはロピタルのために講義を行ないました。ロピタルの別荘の所在地はロワール=エ=シェール県のウークにありました。
 ヨハンは微分計算と積分計算の双方を講義したのですが、ロピタルはそのうちの微分計算のほうを本の形にして、1696年に出版したという順序になります。積分計算の講義も出版する考えだったのですが、これは実現にいたらなかったのは既述の通りです。
 ロピタルひとりのためのヨハンの講義が行われたのはまだライプニッツとの文通が始まってまもないころのことですから、手紙を通じて多くを学んだとも言い難いところです。ヨハンは兄のヤコブと二人きりで研究してひと通りのことを理解したのでしょう。それでロピタルの著作には、無限解析というもののもっとも原初的な姿が写されていると言えそうです。その後、ライプニッツとの文通は非常に活況を呈し、盛んに無限解析が語り合われました。往復書簡の解明を通じて、ロピタルの著作を越えた真に深い無限解析が立ち現れてくるであろうと期待されるのですが、巨大な困難が伴う課題です。
微積分の話ということになるとたいていいつも関数が持ち出され、「こちらが変化するとあちらも変化する」という「変化するもの同士の相互依存関係」の事例が取り上げられます。そのような事例はいくつもありますが、「変化するもの」というのですから、どこかしら力学的なイメージが伴っているように思います。ところが実際に微積分の古典を読んでみると、そのようなイメージはどこにも見あたりません。数学史上に一番はじめに現れた微積分のテキストというロピタルの著作も例にもれず、そもそも書名からして、無限小解析という名の微積分は「曲線の理解のため」であると明記されています。はじめて見たときは何だか変だなあと思い、これはやはり何かのまちがいで、今日の「関数の微積分」の未熟な姿なのであろうと考えがちでした。それが実際にはそうではなく、ロピタルの著作のねらいは正真正銘「曲線を理解すること」で、力学は関係ないという確信が得られてみると、事の意外さに目の覚めるような思いがしたものでした。
 ベルヌーイの講義録やライプニッツの諸論文を見るにつけても、この確信は強まるばかりでした。彼らはいかなることに心をとらえられていたのかというと、「曲線に接線を引く方法」、すなわち接線法です。この関心はライプニッツよりもずっと早い時代に見られます。接線を引きたいと、人々はどうしてそれほどまでに熱心に取り組んだのでしょうか。考えてもわかりようのないことで、このあたりが数学という学問の不思議なところです。

数学を語る12 ライプニッツとベルヌーイ兄弟の往復書簡

ライプニッツの二論文のタイトルをめぐってここまで語ってきて、ようやく「曲線の世界」が視野にはいってきたように思います。それでこのあたりを糸口にして内部に入っていきたいのですが、その前にライプニッツとベルヌーイ兄弟の関係についてもう少し話しておきたいことがあります。
 ベルヌーイ兄弟はバーゼルでライプニッツの二論文を知り、よほど心を惹かれたようで、早々に解明に取り組みました。ヤコブが「ライプニッツ1684」を見てエニグマと呼んだというエピソードは前に紹介しましたが、この言葉には、わからないけれどもなぜか気に掛かるというほどの意味合いが感じられます。ライプニッツの二論文に対して一番はじめに強い反応を示したのはベルヌーイ兄弟です。
 兄弟二人で研究したのですが、「ライプニッツ1684」が出たとき弟のヤコブはまだ満17歳の少年でしたし、中心は兄のヤコブでした。ところが心を惹かれて読みにかかってもわからないものはわからなかったようでした。それでどうしたのかというと、ライプチヒのライプニッツに手紙を書きました。エニグマを書いた当の本人に尋ねてみようという心情に傾いたのであろうと思いますが、よいアイデアです。一番はじめの手紙の日付は1687年12月15日ですから、「ライプニッツ1686」が出たのは1686年の7月ですから、1年5か月後のことになります。宛先は、この時期のライプニッツの所在地だったハノーファーです。これを皮切りに、ずいぶん長い期間にわたってベルヌーイ兄弟とライプニッツの間で往復書簡が交わされました。それらはライプニッツの数学著作集に収録されていますので、今も見ることができますが、ことごとくラテン語で書かれていて、微分積分の記号が充満しています。数学書簡ともいうべき手紙の数々で、全部で優に200通を越えています。この往復書簡こそ、微積分の真の揺籃と見るべきで、ライプニッツの二論文だけではまだ微積分が創造されたとは言い切れないように思います。
 ヤコブがライプニッツに宛てて書いた一番初めの手紙は1687年12月15日ですが、ライプニッツからの返信はなかなか届きませんでした。ライプニッツは1687年の秋11月に長期に及ぶ旅行に出ましたので、ヤコブの手紙を受け取るのが遅れたのですが、3年後の1690年6月になってようやくハノーファーにもどり、それからまたしばらくして、同年9月24日付で返書を書きました。こののちはわりとスムースに手紙のやりとりが行われました。
 ヨハンからライプニッツへの最初の手紙は1693年12月20日付ですが、これに対しライプニッツは翌1694年3月21日付で返信しました。ヨハンは26歳でした。

数学を語る11 接線法の探究

「Enigma」という言葉は英語で、英和辞典に出ていますが、ラテン語のAenigmaが転訛してできた言葉です。さらにその前は古いギリシア語だったようでΑίνιγμαと表記します。ローマ字に転写すればAinigmaとなります。英和辞典を見ると「謎」という語義が見つかりますが、謎は謎でも簡単な謎ではなく、得体のしれないものというか、神秘的な印象が伴っているような感じがあります。昔のドイツの暗号機にもエニグマという名前がついていました。
 それで「ライプニッツ1684」の内容についてですが、表題を見ると「極大と極小を求める方法」「接線を求める方法」という二つの方法が読み取れます。しかもその方法は「新しい方法」であるとも言われています。わざわざ新しい方法というところを見ると、古い方法が存在したかのような印象があります。何のためと方法かというと、極大と極小のほうはひとまず措いて、接線を引く方法という以上、その対象は「曲線」です。今日の微積分では微分したり積分したりする対象は関数で、関数の動向を探求するのが微積分であるという諒解様式が確立していますが、「ライプニッツ1684」はそうではなく、無限解析のテーマは「曲線の探究」です。ロピタルの著作の書名に「曲線の理解のために」と明記されていた通りです。そもそも「ライプニッツ1684」にもロピタルの著作にも関数の概念は見あたりません。
 微積分というと力学的なイメージが伴いがちですが、「ライプニッツ1684」には力学の影はまったく射していません。どこを見ても語られるのは曲線ばかりであり、接線を引く計算法が中心に位置を占めています。しかもその方法は「新しい方法」というのですから、ライプニッツ以前にも接線を引く方法を追い求めていた時代があったことが示唆されています。

数学を語る10 ベルヌーイ兄弟の話

無限解析の周辺を歩き回るばかりでなかなか中味に入っていけませんが、ロピタルの著作は実はロピタルの作品とは言えないことに、ここで特に注意を喚起しておきたいと思います。この間の経緯は前にだいぶ詳しく紹介したことがありますので、ここでは簡単に振り返るだけに留めたいと思いますが、ロピタルはヨハン・ベルヌーイの講義を受けて、その記録を出版したのでした。
ヨハンの12歳年長の兄がヤコブですが、ベルヌーイ兄弟はライプニッツの二論文「ライプニッツ1684」「ライプニッツ1686」に早くから注目し、理解したいという情熱を抱いた模様です。
時系列が混乱しがちになりますので、関係する人たちの生年と没年を書いておきます。

ライプニッツ 1646年7月1日―1716年11月14日
ヨハン・ベルヌーイ 1667年7月27日―1748年1月1日
ヤコブ・ベルヌーイ 1654年12月27日―1705年8月16日
マルキ・ド・ロピタル 1661年―1704年2月2日

「ライプニッツ1684」が出たとき、ヤコブは30歳。満年齢で数えるとまだ29歳でした。スイスのバーゼル大学で力学の講義などをしていましたが、教授に就任したのは1687年と記録されています。それならそれまではどのような資格だったのかというと、そのあたりはよくわかりません。
 弟のヨハンは「ライプニッツ1684」が出る前年の1683年にバーゼル大学に入学したばかりでした。医学を学ぶようにと父に言われていたのですが、数学の魅力には勝てず、兄のヤコブに数学を教えてほしいと依頼しました。大学という教育機関で学んだというよりも、兄の個人授業を受けたのですが、後年、オイラーがバーゼル大学に入学したときも同じようなことが起こりました。オイラーの父はバーゼル大学で神学を学んだ人で、卒業後はプロテスタントの牧師になったのですが、数学が好きだったようで、在学中にヤコブ・ベルヌーイを訪ねて数学を教わっていました。息子のオイラーには牧師を継いでほしいと望み、神学を学ぶようにと指示したのですが、オイラーもまた数学の魅力には勝てず、ヤコブの弟のヨハンを訪ねました。ヨハンはオイラーの数学の力を即座に見抜いたようで、オイラーは毎週末にヨハンを訪ね、数学を教わることになりました。
 ヨハンの数学の師匠は兄のヤコブ、オイラーの師匠はヨハン。ではヤコブはどのように数学を学んだのかというと、ヤコブの数学の師匠はヨーロッパ各地の数学者たちでした。ヤコブはバーゼル大学を出た人ですが、オイラーの場合のように、父の言いつけにより大学では神学を学びました。在学中も数学と天文学の勉強を続けたようですが、師匠がいたわけではなく、独学でした。卒業後、ジュネーブで教師になり(詳細は不明です)、それからフランスに行って、ここでデカルトの学問を継承する人たちと交際しました。フランスからオランダに行き、フッデに会い、さらにイギリスに移り、ボイルとフックに会いました。それから1683年になってバーゼルにもどったのですが、バーゼル大学を卒業したのが1676年ですから、この間、7年ほどの歳月が流れています。
 こうしてみると学問というのは独学というか、学ぶ側から見ると「学ぼうとする心」が一番たいせつで、教える側からみると、学ぼうとする心の持ち主に個人的に教えるのが理想なのではないかと思います。
バーゼルにもどったヤコブの前に、「ライプニッツ1684」が出現しました。ヤコブはこれを「エニグマ(Enigma)」と呼んだというエピソードが残されています。エニグマというのは「巨大な謎々」というほどの意味の言葉です。

数学を語る9 「無限小解析」と「無限解析」

「ライプニッツ1686」の表題には「不可分量と無限の解析」という言葉が読み取れます。「不可分量の解析学」というとロピタルの「無限小解析」が連想されますし、「無限の解析」の「無限」は、「不可分量」と対になっているところを見ると、「無限大」の「無限」のような感じがあります。このあたりの語感はもうひとつよくわからないのですが、ライプニッツとベルヌーイ兄弟の手で創造された新しい計算法は「無限解析」と呼ぶのが適切と思います。ベルヌーイ兄弟の弟のほうのヨハンの弟子にオイラーがいて、次の世代の微積分を建設しましたが、その姿をもっともよく今日に伝えているのは、オイラーの解析学三部作、すなわち
『無限解析序説』(全2巻,1748年)
『微分計算教程』(全1巻,1755年)
『積分計算教程』(全3巻.巻1は1768年,巻2は1769年,巻3は1770年刊行)
です。1748年の『序説』は、オイラーが構築した微分積分全体への序論ですが、ここに「無限解析への序論」であることが明記されています。「無限小解析」ではなくて「無限解析」。それにもかかわらず、ごく近年までオイラーの『序説』を紹介する際にはほとんどいつでも『無限小解析序説』という言葉が使われてきました。それで「無限解析」という言葉はなじみにくい感じがあったのですが、この不可解な状況の理由を考えるとロピタルの著作の書名に思い当たります。数学史上で最初の微積分のテキストですし、しかも第二談、第三版と版を重ねました。オイラーの三部作が出るまでは唯一の微積分のテキストだったのですし、その影響を受けて、日本でも「無限小解析」の名が広く流布したのであろうと思います。
オイラーの次にラグランジュのテキスト
   『解析関数の理論』(1797年)
が出ていますが、この本には「微分計算の諸原理」という副題が添えられていて、「微分計算」の一語が生きていることがわかります。ラグランジュの次はコーシーですが、コーシーの微積分のテキストは二冊まで刊行されています。
   『王立理工科学校の解析教程.代数解析』(1821年)
   『無限小計算に関して王立理工科学校で行なわれた講義の要約』(1823年)
前者は序論で、オイラーの三部作のうちの第一部に相当します。後者が本論で、微分と積分が論じられていますが、諸事情のためか「要約」に留まっています。コーシーとしてはもっと詳細に叙述したかったのでしょう。ここでは書名に注目したいのですが、後者に見られる「無限小計算」の一語にはロピタルのテキストの書名が反映しているように思います。前者の書名の「解析教程」は新しい用語ですが、今も生きています。類似の用語に「解析教程」があります。フランスでは代々を代表する数学者が『教程』もしくは『概論』を書くという伝統が成立したようで、コーシー以降、いろいろな書物が出版されました。日本では高木貞治先生が『解析概論』(昭和13年)を書いています

数学を語る8 学術論叢

ライプニッツの論文について語ろうとすると、表題を一瞥しただけであれこれと謎めいた文言に出会いますし、掲載誌についてもまた何事かを語りたいところです。なかなか微積分の中味に入っていけませんが、取り急ぎ掲載誌について少々説明を加えておきたいと思います。
掲載誌の誌名はラテン語で表記されていて、Acta Eruditorum(アクタ・エルディトールム)というのですが、語義の通りに直訳すると「学者の活動」というほどの意味合いになります。学者の活動というのはつまり学問をする人の研究成果ということですから、「学者の研究報告」という訳語をあてるのも可能です。ドイツの一番はじめの学術誌で、創刊号は1682年2月に出版されました。月刊誌です。創刊したのはオットー・メンケという人で、編集長もメンケでした。ライプニッツは当初からメンケに協力し、自分でも論文を寄稿しました。創刊号にもすでにライプニッツの論文が掲載されています。ライプチヒで刊行されましたので、「ライプチヒ論集」とか「ライプチヒ報告」と呼ばれることもありますし、「学術紀要」という訳語を見たこともあります。それで、ここではどうしようと案じたのですが、「学術論叢(がくじゅつろんそう)」という古い訳語がよさそうに思いましたので、以下、この呼称を用いることにします。
これでライプニッツの二論文の掲載誌の由来が判明しましたので、微積分の呼び方に関する話にもどりたいと思います。微分や積分のことをライプニッツはどのように呼んでいたのかということですが、ライプニッツには何かしら新しい計算法を考案もしくは発見したという自覚があったのはまちがいありません。「ライプニッツ1684」の表題にも「特異な計算法」という言葉が見られます。「微分計算」という言葉も使われています。「積分」という言葉が使われた形跡は見あたりませんが、その代わり「ライプニッツ1686」には「和を求める計算」という言葉が出ています。これは「積分計算」と同じものですが、「和」に代わって実際に「積分」という言葉を提案したのはヤコブ・ベルヌーイです。
ヨハン・ベルヌーイがパリでロピタルのために行った微積分の講義録は二つあり、ひとつは「微分計算講義」、もうひとつは「積分計算講義」と題されています。ライプニッツの「微分計算」「和の計算」からヨハン・ベルヌーイの「微分計算」「積分計算」へと、用語法が少し変わりました。

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