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近代数学史の成立 3.『近世数学史談』の印象

 『近世数学史談』に影響を受けて数学史研究に向かって言った事情は前記の通りですが、それならなぜ『近世数学史談』を読んだのだろうという疑問が重ねて生じます。それに、読むことは読んでも影響を受けると決まったわけでもないのですし、現に一生懸命読んだのに、あるいは読もうとしたのに、ついに何の感興もおぼえることのなかった本もたくさんあります。というよりもむしろ書店にも図書館にもそんな本ばかりが並んでいましたし、それらの本を読むことがつまり数学を学ぶということなのですから、こんなことでは数学などとてもできないと思い悩んだものでした。そのようなおりにたまたま手にしたのが『近世数学史談』でした。
 高木先生のお名前は『解析概論』の著者としてすでに承知していましたので、『近世数学史談』の著者名にはなじみがありました。この本は昭和8年に刊行された初版からこのかた、いろいろな形で出版されてきましたが、ぼくが入手したのは共立全書の一冊で、第3版第2刷。発行年月日は昭和46年2月15日です。購入したときの納品書が今もはさまれていますが、それは群馬県桐生市のミスズヤ書店が発行したもので、昭和46年7月24日という日付が記入されています。ぼくは入学して2年目の大学生でした。
 『近世数学史談』はそれまでに読んだどの数学書とも異なっていて(ただし同じ高木先生の『解析概論』だけは例外で、この本については別に語らなければなりません)、わけてもガウスの数論とアーベルの楕円関数論の印象は深く心に刻まれました。理解が行き届いたとは言えませんが、おもしろさは無類でした。ところがそれでまた困ったのは、この小さな書物に描かれている世界と現に日々学校や書店や図書館で目にする世界とは、等しく数学といいながらはなはだしく乖離しているように思われました。今日の数学にも数論はありますが、ガウスの『アリトメチカ研究』とはつながりが悪そうです。楕円関数論もあることはありますが、『近世数学史談』が教えてくれるアーベルの楕円関数論とは別物のような気がします。これを要するに乖離の相に歴史性が認められるということで、長い歳月の中で数学における何事かが変容を重ねてきたのであろうと思われました。
 それでも同じ数学であるのはまちがいないのですから、変わらないものもありそうです。不易と流行という言葉が思い出される場面ですが、心を惹かれるかどうかという点から見ると『近世数学史談』のほうがはっきりと優勢で、これなら数学はやはりおもしろいかもしれないと思ったものでした。
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近代数学史の成立 2.歴史研究の出発点

近代数学史の成立ということを考えていきたいと思うのですが、こんなことを書きたいというイメージそのものははっきりとしているものの、概論風に述べようとするとついつい拡散しがちになってしまいます。数学とは何か、数学史とは何かと観念的に考察するのはやはりだめで、数学をクリエイト(創造)した偉大な数学者たちの言葉にすなおに耳を傾けていくのが、最善で、しかも唯一の可能な道筋です。
ところがそういうことになりますと、勢いのおもむくところ、自分が直接読んだ原典に沿って語るほかはありません。数学とはいかなる学問と思いますかと、ガウスやオイラーに聞いてみたいのですが、直接の対話は不可能ですから、彼らの作品に深く親しむことを通じて時空を越えた対話を重ねていくことになります。
それで数学史の研究を志してまずはじめに取り組んだのは、ガウスの著作『アリトメチカ研究』とアーベルの論文「楕円関数研究」でした。どちらもあまりにも含蓄の深い作品で、解明を試みながらも一筋縄にはいきませんでした。それに、ガウスの著作はラテン語で書かれていますので、語学の作る高い壁を越える必要もありました。それならどうして真っ先にガウスとアーベルを選んだのだろうという疑問が起りますが、虚心に顧みると、そこにはやはり高木貞治先生の著作『近世数学史談』の影響が大きく働いていたように思います。『近世数学史談』には非常に多くの数学者が登場しますが、高木先生が特別に力を込めて熱く語っているのは、まずガウス、それからアーベルです。しかも語られている内容は楕円関数論なのでした。
 『近世数学史談』に親しんだ以上、ガウスとアーベルの楕円関数論に心を惹かれるのは当然の成り行きですが、この本を開くとすぐに目に入るのはガウスの数学日記の一節です。それは正17角形の作図可能性の発見を告げる記事で、ガウスの数学日記の冒頭に配置されています。この発見はガウスの円周等分方程式論につながる大きな発見だったのですが、その円周等分方程式論はどこに叙述されているのかというと、それが『アリトメチカ研究』という著作でした。『アリトメチカ研究』の第7章が円周等分方程式論にあてられているのですが、しかも不思議なことに、その第7章の書き出しのあたりに、レムニスケート積分がぼつりと書き留められているのでした。レムニスケート積分は、ルジャンドルの分類によると、第一種と呼ばれる楕円関数の仲間です。
 『アリトメチカ研究』はその名の通り数論の書物ですが、そこにはなぜか楕円関数が出てきます。どうしてなのだろうとあまりにも不思議に思い、この謎めいた状況を解き明かしたいというほどの気持ちにうながされて、この書物を読もうと思うにいたりました。

近代数学史の成立 1.数学と数学史をめぐって

「ガウスの数学日記」の連載が一段落しましたので、数学と数学史をめぐる年来の懸案に立ち返り、あれこれと検討してみたいと思います。もっとも「ガウスの数学日記」は完全に終結したわけではなく、もう少し観察しなければならない事柄がありますので、これからも折に触れて取り上げていくつもりです。中途半端になっていることというと、前の連載「リーマンを語る」も未完成ですし、「関口開の石川県加賀の数学」についてもいっそう深い調査を重ねていく必要があります。
 追求したい課題は多いのですが、それらとはまた別に、下記のようないくつかの素朴な論点が念頭に浮かびます。

○「問題を解く数学」と「問題を創る数学」をめぐって
○ 数学は発見されるのか、あるいは創造されるのか
○ 数学における抽象化とは何か。
○ 数学における特殊と普遍の関係について
○ 日本の数学とヨーロッパの数学

 こんなことを考えながら、しばらく数学の歴史を回想してみたいと思います。

ガウスの数学日記112 概観の終り

第145項目で語られるのは彗星の軌道に関する事柄です。

145.[彗星の軌道](1813年10月23日)
これは我々がこれまでに成し遂げたあらゆる事柄の中でも、もっとも繊細な洞察に満ちたものだ。だから、放物軌道の計算に関する何らかの簡易化について、ここで何らかの言葉をさしはさむようなことは、骨折りがいのないことである。

具体的なことは不明ですが、ガウスは何かしら大きな発見をしたのでしょう。この項目には日付が記入されていませんが、ガウス全集版のテキストではひとつ前の第144項目と同日の扱いになっています。もしそうなら1813年10月23日の記事ということになります。

 ガウスの数学日記は全部で146個の項目で編成されていますので、あとひとつ残っていますが、その最後の第146項目については前に言及しました。4次剰余の理論とレムニスケート関数に関するもので、数論と関数論との間に存在する可能性のある深遠な関係が示唆されていました。
 連載「ガウスの数学日記」は今回で112回目になりますが、ともあれ日記の本文の概観が終わりましたので、これで一段落です。特に印象に残ったことを思い返すと、著作『アリトメチカ研究』の中味が次第に形成されていく様子、算術幾何平均の考察を通じて楕円関数論の構想が生い立っていく情景、代数方程式論を語る言葉、天文学への関心などでしょうか。意味のわからない項目も多く、日記の全体を完全に解明するにはガウスの全集の全体に精通しなければならないと思います。小さな日記ではありますが、これを拡大していくと全12巻、14冊の全集になるのだろうという予感があります。まったくたいへんな日記です。
 日記を取り巻くあれこれのことも重要ですので、これからもときどき落ち穂拾いを試みたいと思います。

ガウスの数学日記111 ゼーベルク天文台

前回の第141項目について補足を少々。ガウスは1799年にヘルムシュテット大学から哲学博士の学位を受けましたが、そのとき提出した論文のテーマは「代数学の基本定理の証明」でした。これを第一証明として、ガウスはその後も別証明を探索し、全部で四通りの証明を提出したのですが、数学日記の第141項目で語られたのは第二証明が発見されたときの情景です。ゲッチンゲン王立協会に報告されたのは1815年12月7日。翌1816年の「ゲッチンゲン王立協会新報告集」の巻3に掲載されました。
 1826年2月19日の日付で友人の天文学者オルバースに宛てた手紙の中で、ガウスは第141項目に見られるのと同じ心情を語っています。ガウス全集半テキストの註釈欄に該当箇所が引用されていますので、紹介したいと思います。

<私の学問上の生活の中でしばしば、諸事情により、うまくいかない仕事を脇に置かなければならないことがありました。もっとも後になってうまくいったのですが。たとえば、私たちの報告集[ゲッチンゲン王立協会新報告集]の巻3に掲載された方程式の理論の主定理に対する私の証明がそのような事例です。すでに以前、一度といわず到達していた地点にようやく立ち返るだけで、後になって10倍もの努力を重ねたのです。>

142.[楕円体の引力](1812年9月26日)
楕円体の引力を、その楕円体の外部に位置する点から測定するまったく新しい理論を発見した。
ゼーベルク、1812年9月26日

ゼーベルクというのは地名のようでもありますが、手元の小さな地名辞典にも出ていませんし、どうも弱りました。それでもう少し調べてみたところ、ドイツのチューリンゲン州の西部にゴータという町があり、そこに天文台があって、その名前が「ゼーベルク天文台」というらしいことがわかりました。ゴータにある天文台ですから、「ゴータ天文台」ともいうそうです。ガウスはこの天文台を訪問したのでしょう。

143.[楕円体の引力](1812年10月15日)
同じ理論の残りの部分をも、驚くべき簡明な新しい方法で解決した。
ゲッチンゲン、1812年10月15日

ガウスの数学日記110 代数学の基本定理の第二証明

前回の第138項目は3次剰余の理論と関係があります。記事の本文にも、「3次剰余3に関する定理を、値(x+1)/xの考察を通じて、エレガントな特別の方法で証明した」と明記されているのですが、ガウスが証明したのはどのような定理なのか、具体的なことはよくわかりません。ガウスは4次剰余の理論についてはまとまった論文を2篇書いていますが、3次剰余の理論に関しては断片が遺されたのみに留まります。数学日記の第138項目もそんな断片のひとつですが、ともあれ3次剰余をめぐってガウスが何事かを考えていたことだけはわかります。
 続く2項目では算術幾何平均が語られます。

139.[算術幾何平均](1809年6月20日)
算術幾何平均に関係のある級数をさらに深く考察した。
1809年6月20日

140.[算術幾何平均の5等分](1809年6月29日)
算術幾何平均に対して5等分を遂行した。
1809年6月29日

1809年は第138、139、140項目で終ります。次の第141項目が書かれたのは1812年になってからです。

141.[代数学の基本定理の第二証明](1812年2月29日)
これまでに書き続けてきた一連の記事は、運命のめぐりあわせが悪いためにまたしても中断されてしまったが、1812年のはじめ、再び取り上げたいと思う。1811年11月に、方程式の理論における基本定理の純粋に解析的な、不備のない証明を与えることに成功した。だが、紙の上に何も書き留めておかなかったので、本質的な部分は完全に記憶から消え失せてしまった。それを、十分に長い時間をかけて実りのない探索を続けた後に、幸いにもついに再び発見した。
1812年2月29日

「純粋に解析的な証明」というのは、今日の用語法では「純粋に代数的な証明」という意味合いになります。ガウスは代数学の基本定理の第二の証明を発見したのですが、論文の形で公表されたのは、3年後の1815年になってからでした。

ガウスの数学日記109 円周等分方程式の既約性など

連載「ガウスの数学日記」は第108回まで進んだところでひと休みになっていました。数学日記の項目は全部で146個。第136項から再開します。

136.[円周等分方程式の既約性](1808年6月12日)
方程式
    x^n-1=0
のすべての原始根を含む方程式
   X-1=0
は、有理係数をもつ諸因子に分解されえないことを、合成数nの値に対して証明した。
1808年6月12日

 次数が合成数という一般の場合に対して、円周等分方程式の既約性が語られています。X-1=0とあるのはX=0の誤植です。

137.[三次形式](1808年12月23日)
三次形式の理論と、方程式
   x^3+ny^3+nnz^3-3nxyz=1
の解法に着手した。
[1808年]12月23日

いろいろなことが連想される記事ですが、ガウスが何をめざしていたのか、これだけではよくわかりません。
 1808年の記事は第135、136、137項目の三つで終りで、次の第138項目から1809年の記事になります。

138.[三次剰余の理論](1809年1月6日)
3次剰余3に関する定理を、値(x+1)/xの考察を通じて、エレガントな特別の方法で証明した。ここで、(x+1)/xはつねに3個の値a、aε、aεεをもつ。ただし、二つの値しかもたない場合もある。それはε、εεを与える場合であるこれらの二つの値を与えるxは
   1/(ε-1)=(εε-1)/3, 1/(εε-1)=( ε-1)/3
である。したがって、それらの積は≡1である。

ここでεは1の3乗根ではなく、pは3n+1という形の素数として、合同式
   εε+ε+1≡0(mod.p)
の根を表しています。これを言い換えると、εは「pを法とする1の原始3乗根」です。

数学会終了

数学の秋の学会が終了しました。昨日は市民講演会で、講演が二つありました。講演の準備のつもりで、このところずっと関口開のことを書いてきましたが、一段落しましたのでまた「ガウスの数学日記」にもどりたいと思います。残されているのはあと9項目です。

関口開と石川県加賀の数学18 落ち穂拾い(その4)衍象舎のことなど

 関口開の私塾「衍象舎」のことは、たとえば『関口開先生小伝』を見ると、「先生又数学研究所を自宅に設け衍象舎と名付け門人数輩を宿泊せしめ自ら舎長となりて数学を奨励せらる」と記されています。衍象舎が成立したのはいつころかということが気に掛かりますが、履歴書を見ると明治2年2月に北越戦争の後に加賀にもどってからという印象を受けます。他方、金沢の図書館で「算術稽古出席記」という文書のコピーを入手したのですが、その表紙には「練算堂」と「関口私塾」という二つの言葉が併記されていて、明治4年4月から明治12年までの出席者たちの名前が書き留められています。この「練算堂」というのがつまり関口開の私塾なのであろうと思われるのですが、それなら衍象舎はいつできたのでしょうか。
 最近、関口開の門人の田中鉄吉が編纂した『郷土数学』(改訂増補)という本を見ることができました。加賀の数学者達を次々と紹介する書物で、関口開のことも詳述されていますが、そこには「明治十年六月数学講究のため邸内に衍象舎を起し、傍ら生徒を集めて教授を施せり」と記されています。そうしますと衍象舎というのは練算堂が変容した姿を指してそう呼んだのでしょうか。

 数学の洋書ははじめ岡田秀之助が留学を終えて帰朝した際に、「ホッテン」と「チャンバー」の数学書をもってきましたので、それを研究しました。当初は欧米の数学書の入手は非常に困難だったのですが、巽中学(啓明学校ができる前に金沢に存在した学校のひとつです)のイギリス人教師のランベルトという人に依頼して、トドハンターの代数の教科書を購入したりしました。原書は定価7シリングのところ、関口開は「5両3分」を支払ったということです。どのくらいの金額なのか、判定できませんが、なんだかものすごく高価そうな印象があります。

 関口開は没後、野田山に埋葬されましたが、大正14年、蛤坂の妙慶寺墓域に移葬されました。戒名は「開校院勤学指道居士」です。

関口開と石川県加賀の数学17 落ち穂拾い(その3)関口開の教授法

落ち穂拾いをもう少々。西町の軍艦所で関口開に洋算の手ほどきをした戸倉伊八郎のことですが、

蔵原清人「金沢に洋算を伝えた戸倉伊八郎」
「市史かなざわ」第6号(2000年3月)33−42頁

という論文を見つけて参照したところ、少しわかりました。戸倉は長州藩から長崎海軍伝習所に派遣され、ここで航海術や数学を学びました。教師はオランダ人です。

『関口開先生小伝』に河合十太郎のエッセイ「関口開に対する感想」が収録されていて、関口開の教授法を考えるうえで参考になるエピソードが書き留められています。河合ははじめ和算の三好善蔵のもとで點竄術(てんざんじゅつ。筆算式の代数)を学び、啓明学校(正確には、河合が入学したころは石川県中学師範学校と改称されていました)では関口開に洋算を学びました。
 ある日、円錐形に関する難問に出会ったことがあり、河合ははじめこれを和算の方法によって解こうとして、大いに煩悶しました。すると関口がその様子を見て、「西洋人は円錐形を直角三角形の「基股」を軸として回転するときに生じる曲面と考えている」とおもむろに言いました。「股(こ)」というのは和算の用語で、直角三角形の直角をはさむ長いほうの辺を指しています。関口のヒントはただこれだけことだったのですが、河合はこのひとことを深く思い、「潜思玩味」したところ、ついに一筋の光明をみいだして難問を解決することができました。
 だんだん学業が進んでトドハンターの代数学のテキストを読むことになりましたが、「変数論」のあたりがなかなかむずかしく、読んでも理解できませんでしたので関口開に質問しました。すると関口開はだまって本を閉じてしまいました。そうして本を手に取り、変数論の末尾に載せられている練習問題のうちの二、三を選び、それらを解くようにと要請しました。河合は失望しましたが、帰宅して思索を続けたところ、深更に及んでついに解法を得ることができました。よほどうれしかったようで、「快なる哉」と河合は書きつけています。しかもそれと同時に直面していた難関もおのずから釈然として消滅し、変数論の理論も自然に会得されました。
 河合が言及した「トドハンターの代数学」というのは、“Algebra for the Use of Colleges and Schools”(一八五八年)です。この本の第二十八章は”Variation”と題されていますが、河合はこれを「変数論」と訳出したのであろうと思います。”Variation”は「変化」「変動」という意味合いの言葉です。数学用語としてはよい訳語が見あたりませんが、いくつかの変数がある特定の相互依存関係により結ばれながら変化する様子がさまざまな角度から考察されています。

 『関口開先生小伝』には森外三郎(もり・ほかさぶろう。「がいざぶろう」と読むという説もあります)のエッセイ「関口開の教授法」も収録されています。森は大正期の三高の名物校長として知られていますが、金沢の出身で、河合十太郎とともに関口に数学を学んだ経歴の持ち主です。
 森外三郎が関口開に師事したのは石川県専門学校予科の最後の半年と、同校理学科の最初の二年間余でしたが、それ以前にも関口開の著作をテキストにして、関口の門下の人に数学を学んでいました。関口開が遺した著作は大部分が問題集で、森が石川県専門学校に入る前に実際に使ったのは『数学問題集』『點竄(てんざん)問題集』(アメリカのデーヴィスなどの代数の書物から抜粋し、編纂した代数の問題集)『幾何初学』(デーヴィスの幾何の書物を翻訳したもの)ですが、翻訳書の『幾何初学』以外の二冊は単に問題を集めたものでした。この事実によく象徴されているように、関口開の教授法の眼目は問題の解釈にありました。
 石川県専門学校では代数、幾何、三角術を教わりました。テキストは上記の『點竄問題集』『幾何初学』のほか、『幾何初学例題』(初等幾何学の例題三百七十五問を集め、巻末に代数的解釈を示し、例題七十五問を集めたもの)、アメリカのロビンソンの代数学と三角法の原書、トドハンターの代数学、円錐曲線法などでした。難解の箇所を質問すると、関口開は多くを語らず、問題の所在地を指示し、「論より証拠、まずこれを解け」と注意したものでした。これはつまり「注入主義」を排して「一種の開発主義」を取られたのであろうというのが、森外三郎の所見です。一方的に教え込むのを避けて、自分で何事かを悟ってほしかったのでしょう。

 森の在学中の石川県専門学校には生徒数はごく少なく、予科時代には森と河合を含めて全部でわずかに六人で、理学科に進んだときは河合と二人きりになりました。しかも河合は一年たらずのうちに東京に出たため、それからはただひとりのクラスになり、毎時間関口開と差し向かいで教わる恰好になりました。このころ森は十七、八歳の少年でした。
 森がテキストを読み、問題を考えている間、関口開は何かほかの仕事をしていましたが、質問すると応じてくれました。ときには森の筆算を注視して、まちがっているところがあると、黙って机上を石筆で突いたり、一言半句というか、わずかに暗示を与えたりしました。教師が教え、生徒は受動的にこれを受けるという教授法とは全然違いますが、森が思うに、これは関口開自身の体験に基づいて編み出された方法のようでした。関口開は和算から洋算に入った人で、独学自修をもって高等数学をきわめるにいたるという体験の持ち主でしたから、後進の指導にあたってもなるべく注入を避け、自発をうながす方法を採用したのであろうというのが森の推測です。
 石筆というのは蝋石(ろうせき)を鉛筆の形にしたもので、石盤に字を書くのに用います。石盤と石筆は明治期の終りがけあたりまで小学校などで広く使われました、その後、次第にノートと鉛筆に代っていきました。

 関口開の教授法はいつもこんなふうで、この方法は和算家が学生を導く方法そのものでした。和算では、一理を諒解させようとする場合、その理に関する数個の実例を挙げてそれらを理解させ、その後に類推して理論全体の理解へと導いていこうとするのが通例です。洋算はそうではなく、どこまでも諄々として理論を展開し、その後に実例を提示して理論と応用の理解を定着させようとします。関口は和算の達人で、しかも洋算のすぐれていることを承知していましたが、和算には和算の長所があるのでそれを捨てず、洋算の指導に生かそうとしたのでした。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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