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対談初日

名大の研究室に飛田先生をお訪ねしてお話をうかがいました。午前10時の約束のところ、地下鉄の様子に不案内のためとまどって、ちょっと遅刻しました。途中、昼食をはさんで夕刻7時近くまで、えんえんとお話が続きました。昼食は微分ガロア理論の梅村先生もごいっしょでした。お目当ての店が休業でしたので、「ノーベル賞にしよう」ということになり、ノーベル賞記念館のレストランに行きました。
 お話の内容はポール・レヴィのことが中心でしたが、確率論入門のようなおもむきもありました。これまであまり興味がなかったのですが、確率論というのは実はものすごくおもしろい学問なのかもしれないと思ったことでした。明日はインタビューの続きです。
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京都から名古屋へ

京都数学史会議が終了しましたので、名古屋に移動しました。明日31日には名古屋大学に行き、飛田先生にお目にかかります。飛田先生は確率論の大先生ですが、数学者になるまでの経緯もまた実に興味深いです。この春、東京で概略をうかがいましたが、今度は時間をたっぷりとって、ロングインタビューを試みる考えです。飛田先生はフランスの数学者ポール・レヴィを深く尊敬する方ですので、その方面のお話もはずむことと思います。確率論の生きた歴史をうかがえることと期待しています。

京都数学史会議 三日目

数理研の研究集会「数学史の研究」も三日目まで進み、ぼくも代数方程式論をテーマにして講演しました。二日目には懇親会もありました。8月30日のお昼までで終了します。
写真を少々。1枚は八坂神社。あとの3枚は橋本市の旧紀見村地区の風景です。

           八坂神社

             八坂神社です。

                       紀見峠駅

                      橋本市の紀見峠駅です。


     紀伊見荘

  紀見村の光景。右上に見えるのが紀伊見荘です。


   紀見村の光景

紀見峠駅の駅前のお寺でお祭りをやっていました。お祭りを眺めながら紀伊見荘に向いました。

橋本から京都へ

橋本市の「岡潔数学WAVE」が終了しましたので、京都に移動しました。橋本から大阪を経て京都まで、2時間ほどかかりました。橋本ではかつての岡先生を知る人に何人も会いました。岡先生というと、晩年をすごされた奈良のイメージが強いのですが、橋本はやはり岡先生の故郷です。12月には岡先生をテーマにして市民講演会のようなことが企画されていますので、また橋本に出向きます。
京都では数理研の研究集会「数学史の研究」に出席しました。初日は午後のみ。30日まで、四日間の日程です。

紀伊見荘と紀見峠

今日は「岡潔数学WAVE」で一場の講演を試みました。会場は橋本市の市民会館で、聴講しているのは地元の高校生たちでした。ほかに小学生のクラスと中学生のクラスがあり、運営を手伝うスタッフも何人もいて、なかなか大掛かりでした。宿泊先は紀伊見荘(きいみそう)というのですが、ここには10年以上も前に一度だけ泊まったことがあります。当時は国民宿舎だったのですが、今は民営のホテルです。何でも経営不振におちいってここ数年閉鎖されていたところ、東京の会社が買い取って再出発したのだとか。
「紀伊見」というのは「紀伊の国、すなわち和歌山が見える」というほどの意味ですが、大阪と和歌山の県境に紀見峠(きみとうげ)があり、その頂上付近は岡先生の父祖の地でもありました。「紀見」もまた「紀州が見える」という意味ですが、「紀伊見」とするのが本当で、それが簡略化されて「紀見」になったという話を、その昔、このあたりを散策したおりに聞いたことがあります。紀伊見荘という名前を付けた人は、この名に特別の愛着があったのでしょう。
 紀伊見荘の部屋にはランケーブルがありませんが、コンピュータルームに出向けばインターネットに接続できます。明日は講義が二つです。

橋本市にて

8月24日、「橋本市岡潔数学WAVE」に出席するため、和歌山県橋本市にやって来ました。宿泊先の紀伊見荘で橋本市の教育委員会のみなさまに会い、夕食をいただきながらしばらく歓談しました。この日はこれだけですが、明日は2回、あさっては1回、講演というか、講話を行います。「岡潔数学WAVE」というくらいですから岡潔先生の話になるのは当然ですが、おおよそ三段階に分けて、
1 数学への憧憬を育んだころ
2 中谷治宇二郎との友情から生まれたもの
3 紀見村時代の岡先生
というふうに話を進めたいというほどの考えです。写真のコピーをたくさん作成して持参しましたので、書画カメラかなにかで紹介しながら話をしたいです。

旅の続き 夏の二度目の旅のお知らせ

お盆がすぎて、8月も下旬になりましたが、明日24日からまたしばらく旅の日々が続きます。行き先は三か所で、和歌山県橋本市、京都、それに名古屋です。橋本市は岡潔先生の郷里ですが、近年、岡先生の顕彰に力を入れて「岡潔数学WAVE」という事業を始めました。この夏も小中高の学生や市民を対象にして算数教室や講演会などが企画されました。ぼくも声をかけられましたので、岡先生の生涯と学問について、特に紀見村時代の岡先生の消息などを語りたいと考えています。ぼくの出番は25日と26日の二日間です。
橋本市から京都に移動して、京都では京大の数理研で行われる研究集会「数学史の研究」に通います。27日から30日まで、四日間の日程です。
京都から名古屋へ。名古屋大学で確率論の飛田先生にロングインタビューを試みる予定です。飛田先生はフランスの数学者ポール・レヴィを深く尊敬されていますが、そのあたりの思いをうかがってきます。一日では終わりそうにありません。そんなわけでやや長めの旅になりそうです。
 旅先でもブログを書き続けたいのですが、橋本市の宿泊先ではコンピュータ環境が悪そうですので、三日ほど空白になるかもしれません。

ガウスの数学日記107 打ち続く天文学への関心

ピアッツィの観測が2月11日までで終わったのは、ケレスが太陽の背後に回って見えなくなったためでした。1月1日に発見されてから、この間、わずかに40日ほどにすぎませんが、これだけの観測結果を元にして軌道を確定するのはなかなかむずかしいことですが、ガウスは「最小自乗法」を用いてこれに成功し、次にケレスが出現する日時を正確に言い当てました。それは12月7日のことで、この日、ツァッハとオルバースがケレスを再発見しました。
 数学日記の第124項目は1805年の記事ですが、テーマは補間法です。

124.[補間法](1805年11月)
補間法の理論をさらに磨きをかけた。
1805年11月

ガウスの遺稿の中には補間法を取り上げたものもありますが、どうして補間法に関心が寄せられたのかというと、これはやはり天文学と関係があったのだろうと思います。軌道計算などのために必要になったのでしょう。
 引き続き天文学に関する記事が続きます。

125.[天体の軌道決定](1806年1月)
太陽の回りを動く天体を太陽を中心として二つの場所から測定することにより、その天体の情報を確定するための新しい、きわめて完全な方法を発見した。
1806年1月

126.[天体の軌道決定](1806年5月)
地球を中心として三つの場所から測定することにより、その惑星の軌道を決定するための方法の完成度を大いに高めた。
1806年5月

127.[天体の軌道決定](1806年4月)
楕円と双曲線を放物線に帰着させる新しい方法。
1806年4月

第127項目は円錐曲線に関する言葉ですが、彗星の軌道決定に寄せる関心が、このような文言に反映しています。第126項目の日付は5月、第127項目の日付は4月で、逆転しています。

ガウスの数学日記106 小惑星ケレス

1801年は年明け早々に惑星ケレスが発見されるという、天文学上の事件が起った年でした。発見したのはジュゼッペ・ピアッツィという人で、イタリアのシチリア島のパレルモの天文台の台長でした。このニュースはドイツではしばらくの間、報告されなかったようですが、ツァッハの「月例通信」の6月号に、この発見を伝える記事が掲載されました。
ダニングトンのガウス伝にはこの間の消息が詳しく記されていますので、簡単に回想したいと思います。
 1月1日にケレスを発見したピアッツィは1月24日になってヨーロッパの各地に手紙を書いて、非常に小さい彗星(彗星か惑星かという点も当初は未確定でした)を発見したと伝えました。ケレスという名前が付けられたのですが、この呼称はローマ神話の女神ケレースに由来するとのこと。宛先として、ベルリン天文台の台長のボーデ、ミラノのオリアニ(どのような人か不明ですが、著名な天文学者だったのでしょう)、パリのラランデの名が挙げられています。2月、ラランデからツァッハに伝えられましたが、その際、ケレスの正確な位置は知らされませんでした。オリアニとボーデ宛の手紙は4月まで届かず、ボーデ宛の手紙などは実に71日を要しましたが、この二人もまた新発見の報をツァッハに伝えました。ということはつまり、「月例通信」の編集者のツァッハのもとにあちこちから情報が寄せられたということになりますが、これを受けて「月例通信」の6月号に「新惑星発見」の記事が掲載されました。
この間、当の発見者のピアッツィによる観測状況はどうかというと、ケレスを追跡できたのは2月11日まででした。その観測記録が早く公表されるとよかったのですが、ピアッツィにも事情があったようで、なかなか公表にいたりませんでした。その間、天文学者たちは盛んに手紙のやりとりを続けました。目標は新惑星の軌道を決定することでした。
 ピアッツィの完全な観測記録はようやく「月例通信」9月号に掲載されましたので、ガウスの知るところとなりました。それで他の天文学者たちと同様、ガウスもまたケレスの軌道決定に関心を示しました。数学日記の第119項目と第121項目は、この問題に向かうガウスの究明の模様を伝える記録です。

ガウスの数学日記105 天文学の新発見

お盆の帰省も終わりましたので、数学日記の解読作業も本来の順番にもどることにして、第118項目の続きの第119項目に立ち返りたいと思います。天文学に関する記述が続きます。

119.[天体の軌道決定](1801年9月半ば)
天体の軌道の原則を究明するためのもっとも簡単でもっとも簡便な新しい方法。
[1801年]9月半ば、ブラウンシュヴァイク


120.[月の運行](1801年8月)
月の運行の理論に着手した。
[1801年]8月

121.[天文学](1801年10月)
天文学の理論においてきわめて役に立つ非常に多くの新しい式を発見した。
1801年10月

ダニングトンの「ガウス伝」の巻末の年譜を参照すると、第120項目と第121項目の間の1801年9月29日に『アリトメチカ研究』が刊行されたとのことです。刊行年が1801年であることはこの著作の実物に明記されていますので明らかですが、「9月29日」という月日はどうしてわかるのでしょうか。ダニングトンは何らかの基本資料を参照したのだろうと思いますが、どのような資料なのか、見聞したことがありません。
 第119項目に附された日付は1801年の9月半ば、第120項目の日付は同年8月です。順序が逆になっていますが、第120項目が実際に書かれたのが8月のある日だったというわけではなく、あとになって書き加えられたのでしょう。

1801年は天文学上の新発見で議論が起った年でした。前に数学日記の第93項目を紹介したおりに、ガウスが「復活祭公式」を作って自分の生誕日を確定したというエピソードを伝えましたが、その公式は「Zachの雑誌」に掲載されました。そのときは諸事情がよくわからなかったのですが、少し調べてみると、Zachというのはフランツ・G・ザビエル・フォン・ツァッハという人で、ゼーベルク天文台の台長です。1754年の生れですから、ガウスより23歳ほど年長になります。ダニングトンのガウス伝には、陸軍中佐であるとか、男爵であるとかの情報が出ています。ガウスとは、1801年の時点から2、3年ほど前に知り合いました。
 そのツァッハが編集していたのが「Monatliche Correspondenz zur Beförderung der Erd- und Himmelskunde」という学術誌です。前に紹介したときは「zur Beförderung」という語句が欠如していたのですが、誌名を完全に書くとこんなふうになる模様です。この語句も含めて訳出すると、「天地の学問の進歩のための月例通信」という感じになります。「天地の学問」というのは「地球と天体を研究対象とする学問」というほどのことで、地理学と天文学を合わせれば宇宙全体みたいな感じになりそうです。

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オイラー研究所の所長です

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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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