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ガウスの数学日記42 円周等分方程式の既約性

数学日記の第40項に移ると再び円周等分方程式が登場します。

40.[素次数円周等分方程式の既約性](1796年10月9日)
方程式
   x^p-1=0
の根に整数を乗じて和を作っても0を生成することはできない。
[1796年]10月9日 ブラウンシュヴァイク

冪指数pとしては奇素数が考えられていると見てさしつかえありません。方程式x^p-1=0の1以外の根のひとつαを取ると、方程式X=(x^p-1)/(x-1)=0の根はαの冪の形で表されます。それらの根の整数倍の和を作って0を作ることができるというのは、αがある整係数方程式Q(x)=0の根になるということにほかなりません。もとの方程式X=0はそのような方程式ではありますが、ガウスが言いたいのは、そのほかにはそのような方程式は存在しないということでしょうから、ここには「方程式X=0は既約である」という事実が含意されていることになります。
 方程式X=0の既約性でしたら『アリトメチカ研究』の第7章に証明が出ています。第7章の理論の大前提となる事実ですが、ガウスはこれを1796年10月9日の時点ですでに把握していたことがわかります。

41.[代数方程式](1796年10月16日)
方程式の乗法子に関して、ある種の事柄が出現し、いくつかの項が消去されることになったが、これはすばらしい出来事を約束している。
[1796年]10月16日 ブラウンシュヴァイク

これも意味の取りにくい記事ですが、公の消去などが語られているところなどを見ると、代数方程式の解法に関係があるような感じがしないでもありません。「乗法子」の原語はmultiplicatoresですが、ガウス全集版テキストの註記を見ると、これはチルンハウス変換のような変換のことかもしれないという推測が表明されています。あるいはそうかもしれません。もしそうであれば、約束されている素晴らしい出来事というのは一般代数方程式の代数的可解性の証明以外には考えられないところです。
 第37項が書かれたてから一ヶ月。ガウスは依然として代数的可解性の探究を続け、しかも成功したという確信を保持していたのでしょう。
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ガウスの数学日記41 3乗剰余

 数学日記の第39項目には「3乗剰余」という言葉が現れます。

39.[3乗剰余](1796年10月1日)
3次方程式
  x^3+x^2-nx+(n^2-3n-1-mp)/3=0
ここで3n+1=p。mは互いに類似な3乗剰余の個数。ここから、n=3kならm+1=3lとなること、n=3k+-1ならm=3lとなることが明らかになる。
 あるいは、
  z^3-3pz+pp-8p-9pm=0.
このようにしてmは完全に決定される。m+1はつねに□+3□である。
ブラウンシュヴァイク、[1796年]10月1日

意味のとりにくい記事ですが、ガウス全集版のテキストやオストヴァルトクラシカーのテキストに出ている註記によると、まずp=3n+1は素数とのこと。この素数を法として、これに関する原始根をgとするとき、合同式1+g^(3s)≡g^(3t)の解(g^(3s),g^(3t))の個数がmです。また、「類似する3乗剰余」というのはg^(3s)とg^(3t)のことを指してそう言っているのだというのですが、もうひとつ理解が行き届きません。
 ガウス全集版のテキストの註記には詳しい論証が記されています。それは『アリトメチカ研究』の叙述に基づいている模様ですので、ていねいに読めばそれはそれでわかります。近々紹介したいと思います。とりあえず諒解されるのは、ガウスはこの時点ですでに3乗剰余について考察していたという一事です。平方剰余も3乗剰余も同時に思索の対象になっていたわけで、このあたりが恐るべきところです。

ガウスの数学日記40 一般次数の円周等分方程式

 ガウスは遺稿「剰余の解析」にメモを書き留めて、一般方程式を代数的に解くのは「不可能である」という確信を表明しましたが、そのメモが書かれた時期はいつころなのでしょうか。「解ける」から「解けない」へと確信が反転したことを思うといっそう気に掛かるのですが、ガウス全集版のテキストの註記を参照すると、ガウスは1797年にはすでに「解けない」という確信に到達していたということです。
数学日記の第38項目では円周等分方程式が取り上げられています。方程式の代数的可解性に関する思索といい、円周等分方程式への言及といい、『アリトメチカ研究』の第7章の骨格が日々刻々と作られつつあるかのような光景です。

38.[円周等分方程式](1796年9月29日)
方程式x^n-1[=0]の根は共通根をもついくつかの方程式から得られるという考えが浮かんだ。したがって、一般に有理係数をもつ方程式だけを解かなければならない。
ブラウンシュヴァイク、[1796年]9月29日

所在地はブラウンシュヴァイクと明記されています。学期末で帰省したのでしょう。語られている内容の意味は必ずしも判然としませんし、「共通根」という言葉の意味するところもよくわかりませんし、「有理係数をもつ方程式」と、わざわざ「有理係数」を強調する理由も飲み込むのがむずかしいところです。
 ガウス全集版テキストの註記によると、ガウスはnが一般の合成数の場合を念頭に置いているのではないかとのことです。まずnを素因数に分解し、a,a’,a”...は相異なる素数として、

   n=a^(α)a’^(α’)a“(α”)・・・

という形に表示すると、方程式x^n-1=0の解法は一系の方程式

   x^(a^(α))=1, x^(a’^(α’))=1 x^(a”^(α”))=1...

の解法に帰着されます。それでnが素数の冪である場合を考えればよいことになりますが、それでしたら『アリトメチカ研究』の第7章にも詳しく書かれています。
 そこでnは素数aの次数αの冪、すなわちn=a^(α)という形の数として、方程式x^n-1=0を解くことを考えてみると、これはつまり単位円周をn等分するということにほかなりません。そのためには円周をa等分するのに必要な方程式、すなわちx^a-1=0のほかに、α-1個の次数aの方程式を解くことを要請されます。前者の方程式は素次数の円周等分方程式ですから、これはガウスが提案した手法により代数的に解くことができます。
 一応、こんなふうに諒解したとして、ガウスのいう「共通根」というのは何だろうと考えてみると、1だけしかありえません。「有理係数」の一語の意味はまだわかりません。

ガウスの数学日記39 「不可能の証明」

ラグランジュの分解式のことを書き留めたくらいですから、ガウスはラグランジュの論文「省察」を読んだとみてまちがいありません。ガウス全集版のテキストには詳しい註記が添えられているのですが、それによると、なんでも1791年にMichelsenという人がオイラーの著作『無限解析序説』のドイツ語訳を出して、その際、「代数方程式の理論 オイラーとラグランジュの著作から」というタイトルの附録を添えたのだとか。その附録にはラグランジュの「省察」のドイツ語訳も収録されていて、ガウスはそれを読んだのだというのですが、いかにもおもしろい情報です。
 それから、これもガウス全集版のテキストに書かれていることですが、ガウスの遺稿「剰余の解析」のある箇所にガウスの手書きのメモが記されているのだそうで、その内容はおおよそ次の通りです。

<幾人ものすぐれた幾何学者の努力が繰り返されたにもかかわらず、方程式の一般的解法(言い換えると、純粋方程式への還元)が可能であるという希望はまったく残されていないように思われる。だが、方程式x^n-1=0の解法により導かれていくあらゆる方程式は、解くことができるか、あるいは同次数の純粋方程式に還元することができることはきわめて注目に値する・・・>

このメモの中の「言い換えると、純粋方程式への還元」のところにさらにメモが附されています。それを見ると、ガウスはこのことに多大な努力を重ねてきたのですが、そのあげくに「不可能であることはほとんど確実である」という考えに到達したということです。しかもこの「不可能であること」の厳密な証明ももっていたようで、他の機会に公表するつもりであるとも言っています。
 ガウスははじめラグランジュの論文「省察」を読んで代数的解法の探索に向かい、成功したと思ったようですが、たちまち考えをあらためて、今度は逆に「不可能であること」を確信するようになり、しかもその証明をも獲得したということです。少し後にアーベルが歩んだ道筋とまったく同じです。

ガウスの数学日記38 ラグランジュの分解式

数学日記の第37項目には、
  αρ’+βρ’’+γρ’’’+・・・
という形の式が出てきます。提示された根と1のn乗根を用いて組み立てられた式で、今日ではしばしば「ラグランジュの分解式」と呼ばれています。「分解式」というのは「レゾルベント」の訳語ですが、「(方程式を)解く」という意味の言葉に由来するのですから、この場合には「分解する」よりも「解く」という語感が表に出るような訳語が相応しいと思います。もっとも、そうはいっても具体的に考えると対案はなかなか思い当たりません。
 ともあれラグランジュの分解式というくらいですから、このような形の式はラグランジュのアイデアに由来します。3次と4次の方程式の解法はいろいろ知られているのに次数が4を越えるととたんに解けなくなってしまうのですが、ラグランジュはそんな状況に省察を加えました。省察の結果は実にめざましく、3次と4次の方程式が解けるのはなぜかという問いを立て、既知のさまざまな解法の根源はひとつで、それはラグランジュの分解式であると主張しました。そうしてラグランジュの分解式から出発すれば、見かけのうえでは異なるあれこれの解法の本性がたちまち明らかになることを示したのですから、代数方程式論の歴史においてたしかに画期的な出来事でした。
 ラグランジュの真意はこのアイデアに基づいて5次以上の次数の方程式を代数的に解くことにあったのですが、それは成功しませんでした。ではありますが、ともあれ「解ける」と思っていたのは間違いありません。ガウスはこれを受けて、ラグランジュのアイデアを生かし、ラグランジュ自身がいたらなかったところまで進もうとしたのであろうと思います。第37項目の記事の中に「新しい方法」というのはラグランジュの分解式を基礎とする方法のことで、何かしら高次方程式の解法に迫る突破口を見つけたと言いたかったのでしょう。

ガウスの数学日記37 代数的可解性の探究

 数学日記の第35項目の記事は意味をつかみにくいのですが、ガウス全集版のテキストやオストヴァルトクラシカーのテキストに出ている註記には、おおよそこんなことではないかという推測が記されています。それによると、ある代数方程式が与えられたとして、その根のひとつを用いて組み立てられる有理分数式があるとします。そうすると、その根がすなわちガウスのいう非有理量であることになりますが、それが分数式の分母に出ているとき、式を変形して、その根が分母に現れない分数式にしたいのだと、ガウスは言いたいのではないかというのです。そのくらいのことならわりと簡単にできそうでもあります。
 実はこれに該当することが『アリトメチカ研究』の第7章の円周等分方程式論の一節に記されています。そのあたりを参照すれば、もう少し詳しい説明が可能になりそうです。
 数学日記は第34項目のチルンハウス変換のあたりから代数方程式論に関する記述が続きます。第36項目は消去理論に関係があります。

36.[消去法](1796年9月16日)
消去のために用いられる予備方程式の係数は、与えられた方程式の諸根により定められる。

チルンハウス変換を用いて代数方程式を解こうとするときにも、消去という操作が要請されますが、ガウスがどんなことを考えていたのか、具体的なことはよくわかりません。
 次の第37項目の話題も代数方程式です。

37.[ラグランジュの分解式](1796年9月17日)
方程式の一般的解法を探究して、おそらくはそれを見つけることを可能にしてくれる新しい方法。すなわち、方程式は、
αρ’+βρ’’+γρ’’’+・・・
を根とする他の方程式に変換される。ここで、
   (1)^(1/n)=α,β,γ・・・
である。nは方程式の次数を表す。
[1796年]9月17日

 このような記事を見ると、ガウスは方程式の代数的解法の可能性を確信したいたかのようでもあります。ガウスといえどもそもそものはじめから「解けない」と思ったわけではなく、少なくとも思索を始めた当初は「解ける」と思っていたのかもしれません。1796年9月のガウスは満19歳です。

ガウスの数学日記36 ガウスの代数方程式論

 チルンハウス変換は代数方程式を解くためにチルンハウスが提案した手法ですが、ラグランジュが詳しく紹介していますので、おおよそのことはわかります。おりを見て詳述したいと思いますが、ここで興味が深いのは、ガウスが代数方程式論に関心を示していたという事実です。アーベルもヤコビも早い時期に代数方程式論に向かっていましたし、多くの人の関心の的だったのでしょう。
 代数方程式論というと次数が4を越える方程式を代数的に解くことが大きな問題だったのですが、ガウスは早々と「解けない」という認識を示していました。1799年の学位論文にもそのように明記さていますし、1801年の『アリトメチカ研究』にも同主旨の言葉が見られます。ガウス以前の数学者たちはみな、「解ける」ことを疑わず、解法の探究を続けてきたのですが、そんな状況の中にあって、若いガウスはどうして「解けない」と思うことができたのでしょうか。天賦の洞察の力というほかはありません。

数学日記の第35項目は意味をつかみにくいのですが、代数方程式論に関係がある模様です。

35.[方程式の根の変形](1796年9月16日)
分母に非有理量(どのようなものであっても?)を含む分数を、そのような不都合のない他の分数に変えること。
[1796年]9月16日

ガウスの数学日記35 チルンハウス変換

 1797年のガウスはゲッチンゲン大学の学生ですが、この年の終りころ、ガウスはブラウンシュヴァイクのツィンマーマンに宛てて二通の手紙を書きました。それによると、ガウスは『アリトメチカ研究』の仕上げに取り掛かっていたことがわかると、ダニングトンのガウス伝は伝えています。これを念頭に置いて数学日記をあらためて概観すると、全部で146個の項目のうち、1796年のうちに49項目まで進み、1797年までに82項目に達しました。ここまでで56パーセントです。しかも日付を詳しく見ると1797年の最終項目は81番目と82番目なのですが、そこには10月16日という日付が記入されています。その次の第83項目が書かれたのは翌1798年の4月ですから、この間に半年ほどの空白期がはさまれています。ということは、『アリトメチカ研究』は1796年と1797年の二年間の数学的思索の成果の報告書ということになるのでしょうか。
 印刷はブラウンシュヴァイクで始まりました。業者はキルヒャーという人です。キルヒャーはブラウンシュヴァイクで印刷を始めましたが、1799年になってゴスラルというところに移り、そこで印刷を完成しました。1799年のいつごろできあがったのか、そこまではわかりませんが、一年から二年ほどの歳月を要したことになります。

 数学日記の第34項目のテーマは代数方程式です。

34.[チルンハウス変換](1796年9月16日)
  x^n+ax^(n-1)+bx^(n-2)・・・=y
と置くとき、xに関する方程式からyに関する方程式を見つけるための簡単な方法。
[1796年9月16日]

xに関する代数方程式が与えられたとき、x^n+ax^(n-1)+bx^(n-2)・・・=yという形の変換を行ってyに関する方程式を作ることにより、提示された方程式を代数的に解くことができる場合があります。これはチルンハウスが提案した解法ですので、その名にちなんでx^n+ax^(n-1)+bx^(n-2)・・・=yという形の変換を「チルンハウスの変換」と呼ぶ習慣が定着しています。
 チルンハウスはこの方法で3次と4次の代数方程式を解くことができました。ガウスはチルンハウスの書いたものを直接読んだのかどうか、そのあたりは不明ですが、ラグランジュは「方程式の代数的解法の省察」という論文の中でチルンハウスのアイデアを詳細に紹介しています。たぶんガウスはラグランジュを読んだのでしょう。
 第34項目は代数方程式論に寄せるガウスの関心の姿を示しています。

ガウスの数学日記34 学位論文

 ゲッチンゲンでの大学生活を終えて帰郷したガウスは、故郷滞在を早めに切り上げてヘルムシュテットに向かいました。ヘルムシュテットには大学がありましたが、大学で学ぶために出かけたのではなく、『アリトメチカ研究』の刊行のために図書館を利用したかったのです。ヘルムシュテット大学では数学者のパフと知り合いました。また、図書館にはブルーノという親切な人がいて、顔見知りになりました。これが1798年の秋のことです。たぶん10月の末あたりまでヘルムシュテットに滞在したのではないかと思いますが、それからブラウンシュヴァイクにもどりました。
 学位論文を授与されたのもヘルムシュテット大学からで、学位取得の日付は1799年7月16日です。パフが審査したのでしょう。学位取得にあたっていろいろな手続きが習慣になっていたようですが、大部分が省略されました。費用もかかったのですが、これはブラウンシュヴァイク公が負担してくれました。学位論文のテーマは「代数学の基本定理」です。

 数学日記の第33項目では、前項に続いて積分の逆関数が語られています。

33.[オイラー積分の逆関数](1796年9月14日)
   Φ:∫dx/√(1-x^n)=x
とすると、
 Φ:z=z-(1・z^n)/(2・n+1)×A+(n-1・z^n)/(4・2n+1)×B-(nn-n-1・[z^n])/(2・n+1・3n+1)×C・・・
となる。
[1796年]9月14日

∫dx/√(1-x^n)という積分は、冪指数nが4を越えるともはや楕円積分ではありませんが、この形の積分でしたら、ガウス以前にもオイラーがすでに組織的に取り上げていました。ガウスがオイラーに学んだのはまちがいないとして、謎めいているのは逆関数に着目した理由です。数学日記に登場したときにはすでに逆関数が考えられているのですから、何かしらねらいがあってそうしたのであろうと思われるところです。ガウスの念頭には何があったのでしょうか。このあたりのことについて所見を述べることができるかどうかが、ガウスを理解するうえでの試金石です。

ガウスの数学日記33 楕円積分の逆関数の出現

 数学日記の項目を順に追ってきて第31項目まで進みましたが、数論に関する記事が非常に多いことに気づきます。しかもその数論というのは平方剰余相互法則に関するもので、ひとつひとつをつないでみると全体として『アリトメチカ研究』の素材が構成されているように思います。第1項目では円周の17等分の発見が告げられましたが、その記事の日付は1796年3月30日でした。その前年、すなわち1795年の秋10月にはブラウンシュヴァイクを離れてゲッチンゲンに移っていますが、そのころからずっと相互法則のことを考え続けていたのでしょう。ザルトリウスの「ガウスの思い出」はその間の消息を少しばかり伝えています。
ブラウンシュヴァイクにもどったガウスは『アリトメチカ研究』の出版に向けて尽力した模様ですが、この著作の発端は「1795年の秋」とザルトリウスは明記しています。ということはつまりゲッチンゲンの大学に移ったころで、その後の思索の果実が最初に摘まれたのが翌年の3月末日ということになって、なんだかつじつまが合いそうな感じです。ガウスがザルトリウスにそんなふうに語ったのでしょう。

 数学日記の第32項目に移ると、楕円積分の逆関数が登場します。相互法則とともに、ガウスの数論的世界を構成するもっとも基本的な素材です。

32.[楕円積分の逆関数](1796年9月9日)
∫dx/√(1-x^3)をΠ:x=zと置き、x=Φ:zと定めれば、
 Φ:z=z-(1/8)z+(1/112)z^7-(1/1792)z^10+(3/1792・52)z^13-(8・185/1792・52・14・15・16)z^16・・・
となる。
[1796年]9月9日

積分∫dx/√(1-x^3)は楕円積分ですが、ガウスはここでその逆関数Φ:zを冪級数に展開しています。今日の用語法では楕円積分の逆関数のことを楕円関数と呼ぶことになっていますが、1796年9月9日、楕円関数は冪級数の形をもって数学史上に一番はじめに現れました。
 ガウス全集版のテキストに附された註記によると、Z^16の分子に見られる185という数字はちょっと間違っていて、165が正しいのだそうです。

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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