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ガウスの数学日記17 黄金定理

 二次形式に関する思索のはじまりを告げる第15番目のメモに続いて、ガウスはたちまち頂点に達しました。二次形式の理論には平方剰余相互法則の証明の原理がひそんでいるのですが、ガウスはそれを明るみ出すことに成功したというのです。

16.[平方剰余相互法則の第二証明](1796年6月27日)
黄金定理の新しい証明は以前のものとはまったく異なっているが、決して美しさが足りないということはない。
1796年6月27日

「黄金定理」というのはガウスのいう「基本定理」、すなわち今日のいわゆる平方剰余相互法則のことで、「黄金定理」というのはガウスに独自の用語法なのですが、ガウスがこの命題にどれほど深い愛着を抱いていたのか、そのあたりの消息をよく表している呼称です。二次形式の研究をはじめたと宣言したのが1796年6月22日(第15項目)でしたから、ほんの五日後には根幹が把握されたことになります。根幹というのは二次形式の「種の理論」と呼ばれる理論のことで、それを基礎にして平方剰余相互法則の証明がなされます。『アリトメチカ研究』の第5章の核心の部分です。
 前回も紹介しましたが、ガウスは『アリトメチカ研究』第262条の言葉「この原理から、基本定理のみならず、剰余‐1、+2、‐2に関する前章の他の諸定理の証明をも与える新しい方法が取り出される」のところに、「この方法の原理は1796年7月27日にはじめてその姿を現したが、洗練されて現在の形になったのは1800年の春のことである」という手書きのメモを書き留めました。メモをそのまま訳出したのですが、これを数学日記の第16項目と比べると日付が異なっています。この手書きのメモに記入されている「1796年7月27日」という日付のうち、「7月」は「6月」の誤記とみてよいと思います。
 「種の理論」の根幹は把握したとはいうものの、核心に肉付けしてまとまりのある理論を叙述するにはそれなりの日時を要します。「洗練されて現在の形になったのは1800年の春のことである」というのですから、丸4年ほどかけて理論全体の姿を整えたのでしょう。『アリトメチカ研究』の第5章がこれでできたのですが、この作品の刊行は1801年9月のことですから、1800年の春からたどっておよそ一年半の歳月が流れています。この時期のガウスは『アリトメチカ研究』の内実を整えるのに専念していたのでしょう。
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ガウスの数学日記16 第15項目再考

昨日、第15項目に関連して、「結合乗法」という言葉が出ていましたが、「結合」は形容詞ですので、ここは「結合的乗法」とでもするほうがよさそうに思います。もっとも、これでもまだ変な感じがあります。
 第15項目をもって二次形式の理論がはじまったとも書きましたが、これはこれで正しいと思います。『アリトメチカ研究』の第5章の標題は「二次形式と二次不定方程式」というのですが、ここにガウスの手書きのメモがついていて、「1796年6月22日より」と記されています。この日をもって二次形式論の思索が開始されたのでしょう。
 「約数の形式」というのもあまりよい訳語ではなく、「約数の形状」とするほうがよさそうです。二次形式で表される数の約数はそれ自身がまた二次形式で表されますが、それを「約数の形状」と呼んでいます。この「約数の形状」について考察を始めたという意味であろうと思います。二次形式論のはじまりを示す言葉と見てさしつかえないと思いますが、当初からいきなり二次形式の合成の理論にいたったというわけではなさそうです。というのは、『アリトメチカ研究』第234条の言葉「これまでにだれにも言及されたことのないもうひとつのきわめて重要なテーマ、すなわち形式の合成へと・・・」に対して、

「この研究は1798年の秋に開始された」

という、ガウスの手書きのメモが残されているからです。
 ただし、なお迷いがあります。『アリトメチカ研究』の第262条に「この原理から、基本定理のみならず、剰余‐1、+2、‐2に関する前章の他の諸定理の証明をも与える新しい方法が取り出される」と記されているのですが、ここに、

「この方法の原理は1796年7月27日にはじめてその姿を現したが、洗練されて現在の形になったのは1800年の春のことである」

という手書きのメモが附されているからです。「基本定理」というのは平方剰余相互法則のことで、その証明を二次形式の理論から取り出したところにガウスの創意があります。さて、ガウスの二次形式論の核心は「合成の理論」にあります。
 二次形式の合成の理論の思索が始まったのは1798年の秋ですが、二次形式論に基づく基本定理の証明原理が姿を現したのは1796年7月27日と明記されています。こんなことがありますので、「結合的乗法」の一語を見て「合成の理論」のような印象をもったのでした。この点はもう少し考察を要します。
 とりあえず第15項目の訳文は次のようにしておきます。

15.[二元二次形式](1796年6月22日)
(二次形式の「約数の形状」における)結合的乗法の考察を始めた。
ゲッチンゲン、[1796年]6月22日

ガウスの数学日記15 1から100までの総和の計算法

ガウスがブラウンシュヴァイク公国のブラウンシュヴァイク公の庇護を受けたことはよく知られていますが、それは1792年からのことです。学校教育は普通に受けたようで、ダニングトンの評伝によりますと、1784年にブラウンシュヴァイクの聖カタリ―なナ国民学校という学校に入学しています。何月のことなのかわからないのですが、満年齢でいうと6歳もしくは7歳のときのことになります。この学校で二年間をすごしたのですが、在学中に特筆に値する出来事がありました。それは1から100までの和を即座に求めて先生を驚かせたという、有名なエピソードです。先生の名はビュットナー。1から100まで、というのはダニングトンの伝記に紹介されている通りに写したのですが、ガウスの幼いころの出来事がどうして伝わっているのかいうと、ガウス本人が話したからで、ザルトリウスが記録してくれたおかげです。ザルトリウスの「ガウスの思い出」に書かれているのが、このエピソードの初出です。ただしザルトリウスの本には「いくつからいくつまで」と明記されているわけではありませんから、「1から100まで」というのは話を具体的にするための方便です。
 数学日記の第15項目の話題は二元二次形式です。

15.[二元二次形式](1796年6月22日)
(二次形式の「約数の形式」における)結合乗法の考察を始めた。
ゲッチンゲン、[1796年]6月22日

文意を汲みにくいのですが、『アリトメチカ研究』の第5章「二次形式と二次不定方程式」の二次形式論のはじまりのころの模様を物語る貴重な記録と見てさしつかえないと思います。二次形式の合成について考察を始めたということで、前に第1項目の時点で第7章の根底が定まったのに続いて、これで第5章の目鼻がつきました。
 こんなふうで、第1項からこのかた、数論を語る言葉が続いています。

ガウスの数学日記14 漸近展開

 数学日記の第14項目にも不思議なことが記されています。

14.[数論に見られる漸近的法則](1796年6月20日)
諸因子の和は無限大においてππ/6・(諸数の和)に等しい。
ゲッチンゲン、[1796年]6月20日

不思議というよりもむしろ意味をとりにくいというのが本当のところです。「諸因子の和」というときの「諸因子」というのはいかなる数の諸因子なのでしょうか。「無限大において」という一語にも首をひねってしまいます。「ππ/6・(諸数の和)」のところはππ/6と「諸数の和」の積のことと思いますが、ππ/6はいいとして、「諸数の和」の「諸数」というのはどのような数を指しているのでしょうか。
 こんなわけでどうも困るのですが、オストヴァルトクラシカー版のテキストでは、数に関する漸近的性質が語られているという主旨の註記が添えられています。今、nは自然数として、「諸因子」を「nの約数」と理解してそれらの総和を考えます。この総和をσ(n)で表し、すべてのi=1,2,3,…,nに対応するσ(i)の和を考えると、その和はnが増大していくのに連れて大きくなっていきます。その大きくなるなり方が問題になっていると理解するのですが、「諸数の和」の「諸数」というのはi=1,2,3,…,nの総和と解し、「すべてのσ(i)の和」と、「すべてのi=1,2,3,…,nの和」とππ/6との積を比較すると、両者は漸近的に等しい。言い換えると、nが大きくなればなるほど、二つの和はどこまでも接近していくというほどのことが、第14項目の中味であろうというのが、オストヴァルトクラシカーのテキストの解釈です。「無限大において等しい」というところを「漸近的に等しい」という意味と受け止めたわけですが、一理あります。
 そのように理解された命題を、ディリクレが1849年の論文「数の理論における平均値の決定」で証明したということです。ディリクレはガウスの数学日記を知らなかったと思いますが、ディリクレが証明した命題は数学日記の第14項目と合致しています。
 ディリクレの論文を見れば理解が深まりそうですが、今後の課題です。

ガウスの数学日記13 素数の分布法則

 ダニングトンが書いたガウスの評伝『ガウス 科学の巨人』が刊行されたのは1955年ですが、2004年になって版があらたまりました。本文の変更はないようですが、新たに添えられた附録があります。興味深い附録は数学日記の英訳版で、翻訳者はイギリスの数学史家ジェレミ・グレイという人です。グレイは数学日記の解説も書いています。
 ダニングトンの本に基づいてもう少しガウス家の人々の話を続けます。ガウスの母の名はドロテア・ベンツェといい、ブラウンシュバイクの近隣のフェルブケという村の人です。父は石工でした。ドロテアは特別の学校教育を受けたことがなく、書くことはできず、読むのもほとんどだめでした。どうしたわけかガウスの生誕日を正確に覚えていなくて、ただ昇天祭の8日前の水曜日だったということだけをガウスに話してくれたのだそうです。そんなことがどうしてわかるのかというと、ガウス本人が語っていたからです。ダニングトンの本にはそう記されているのですが、それならガウスはだれに話したのかというと、たぶん話し相手はザルトリウスだったろうと思います。ザルトリウスはガウスの親しい友人ですが、ガウスの没後、おりに触れてはガウスに聞いたエピソードを基礎にして「ガウスの思い出」(1856年)というエッセイを書きました。このエッセイはガウスの生涯を語るうえでもっとも基本的な文献で、ダニングトンも参照しています。
 ガウスの母の話にもどりますと、何しろ母も忘れてしまったくらいですからガウスも自分の生誕日を知らなかったのですが、「昇天祭の8日前の水曜日」という母のひとことに手掛かりを求め、公式を作成して生誕日を導き出しました。計算の結果は1777年4月30日になりました。今日のあらゆる文献がこの日をガウスの生誕日としていますが、別段公文書のようなものに基づいているわけではなく、ガウスが自分で宣言した日付なのがおもしろいところです。
 前回、数学日記の第12項目を紹介した際、「エレメントとして採られた法以下のあらゆる数の周期の和」と訳出しましたが、これは少々意味が伝わりにくいかもしれません。「法」としては素数を採ることが考えられているのはいいとして、ここは「法よりも小さい、エレメントとして採られたあらゆる数の周期の和」とするほうがいいかもしれません。「エレメントとして採られた」というあたりにわかりにくい感じがありますが、エレメントというのはつまり「和」を構成する諸項のことであろうと思います。
 次の第13項目は簡潔すぎて意味不明です。

13.[素数の分布](1796年6月19日)
分布の法則。
ゲッチンゲン、[1796年]6月19日

意味不明ではありますが、「分布」というのはたぶん「素数の分布」のことで、「分布の法則」というのは「素数の分布の法則」の意。ガウスは素数の分布状況に法則が認められることに気づいたのでしょう。今日のいわゆる「素数定理」の端緒と言えるかもしれません。

ガウスの数学日記12 合同の概念の芽生え

 ガウスの生涯と学問を叙述した書物はいろいろ出ていますが、中でもダニングトンの著作『カール・フリードリッヒ・ガウス 科学の巨人』(初版、1955年。邦訳書名『ガウスの生涯』、東京図書)は古典的な作品と言えるのではないかと思います。それでひとまずこの本を典拠として生涯のあれこれなどを紹介していきたいと思いますが、まずガウスの父の名はゲプハルト・ディートリヒというのだそうです。煉瓦職人だったという話を聞いたことがありますが、ダニングトンの本によると、水道工事の親方の称号をもっていたのだとか。さまざまな職についたとも記されていますが、ブラウンシュヴァイクとライプツィヒの市(いち)で商人の手助けをしたとか、ある大きな埋葬保険会社(これはどのような会社なのでしょうか)の会計をまかせられたこともあったそうです。こんなふうなことですから、ガウスの父の職業はと問われても、簡潔にひとことをもって答えるというわけにもいかないように思います。
夏の間には、「今日なら煉瓦職と呼ばれるような仕事」をしたという記述も見られますが、このあたりがつまり「ガウスの父は煉瓦職人」という通説の根拠になっているのかもしれません。ただし「今日なら煉瓦職と呼ばれるような仕事」というのはなんだか奇妙な印象がありますし、具体的にはどのような仕事だったのか、よくわかりません。それと、自分の下で働く人たちもいて、賃金を支払っていたということですから、一介の職人だったというのではなさそうです。賃金を計算して支払おうとしたとき、3歳のガウスが計算のまちがいを指摘したというエピソードが伝わっています。
これもダニングトンの本に書かれていることですが、ガウスの父は生涯の最後の15年間は造園業だけに従事していたのだそうです。

12.[数の約数と周期](1796年6月5日)
エレメントとして採られた法以下のあらゆる数の周期の和
一般の積((n+1)a-na)a^(n-1)
ゲッチンゲン、[1796年]6月5日

この第12項目は前項目と同じ日に書き留められました。いかにも関連がありそうに見えることは見えるのですが、意味を汲むのがむずかしそうです。「法」というのはモジュールの訳語ですが、ガウス全集のテキストに添えられているバハマンの註記を見ると、バハマンはこれを「合同式の法」というときの「法」という意味に取っています。合同式の概念はガウスがはじめて数学にもちこんだのですが、もしバハマンの理解する通りとすれば、その兆しがここにはじめて現れているという意味においてきわめて注目に値します。
合同の概念は1801年の著作『アリトメチカ研究』において詳述されました。「周期」という言葉もそこに見られますが、数学日記の第12項目に出ている「周期」の一語も『アリトメチカ研究』におけるのと同じ意味に理解してよさそうです。Nはpと素として、Nの冪を作っていくとき、d次の冪に到達した時点ではじめてpを法として1と合同になるとします。このとき、冪
  1, N, N^2, …  N^(d-1)
もしくはこれらの冪の法pに関する剰余の系列を指して、ガウスは「周期」と呼びました。
 「エレメントとして採られた法以下のあらゆる数」というのも謎めいた言葉ですが、バハマンはこれを「素数の法を考える」という意味に取っています。以下、詳しい論証と計算が続きますが、バハマンの理解と計算によると、ガウスが記した((n+1)a-na)a^(n-1)というのは少々違っていて、正しくは((n+1)a-a)a^(n-1)ではないかということです。
 いずれ稿をあらためてバハマンの計算を再現してみたいと思います。

ガウスの数学日記11 循環級数、数の約数の総和

 意味の取りにくい記事が続きます。第10項目は循環級数に関するもので、第8項目の続きです。

10.[循環級数](1796年6月3日)
 級数の諸項が積であるか、あるいはまた任意に多くの級数の諸項の作る任意の関数であるようなスカーラ。
ゲッチンゲン、[1796年]6月3日

「級数」というのは「循環級数」のことと思いますが、この記事は何を言わんとしているのでしょうか。ガウス全集とオストヴァルトクラシカーのテキストのどちらも、この項目については沈黙を守っています。

11.[数の約数の和](1796年6月5日)
任意の合成数の諸因子の和に対する式
一般の積Π(a^(n+1)-1)/(a-1)
ゲッチンゲン、[1796年]6月5日

数Nを素因子の冪に分解してN=a^nという形に表すと、Nの約数の総和は積

   Π(a^(n+1)-1)/(a-1)

で表されます。これは簡明な事実ですし、第11項目で示されている式とも合致しますから、このように理解してよいのではないかと思います。ガウス全集とオストヴァルトクラシカーの註記もそうなっています。

ガウスの数学日記10 素数の分布

 ガウスが数学日記を書いた場所のことでちょっと注意しておきたいことがひとつ。第3項目まではブラウンシュヴァイクで書きましたが、第3項目の時点の日付は1796年4月12日でした。ところが第4項目を書いた場所はゲッチンゲンになっていて、日付は1796年4月29日です。ダニングトンが書いたガウスの伝記(邦訳『ガウスの生涯』東京図書)に附されたガウスの年譜を参照すると、ガウスは1795年の秋にゲッチンゲン大学に入学しています。故郷のブラウンシュヴァイクを離れたのは同年10月11日、ゲッチンゲン大学の学生として登録したのは10月15日です。数学日記の最初の三項目を書き留めたとき、ガウスは帰省中だったのでしょう。
 数学日記の第9項目は素数分布に関連するかのような印象があります。

9.[数論の漸近的法則](1796年5月31日)
素数や約数に含まれている無限大の比較。
ゲッチンゲン[1796]、年5月31日

 簡単な数語にすぎませんし、もうひとつ、真意をつかみにくいメモです。「素数」と「約数」の原語は複数形になっているのですが、「素数に含まれる無限大」というのは何のことなのでしょうか。しかも「無限大を比較する」というのですから、字義通りに理解しようとすると困惑を覚えます。「約数に含まれる無限大」というのも謎ですし、そんな無限大の比較というのは何のことなのでしょうか。
 「無限大」の言語も複数形ですから、素数や約数に関連していろいろな無限大が想定されているように思われます。素数の個数が無限であることはよく知られている事実でした。後年の素数定理などを合わせて考えると、ガウスの念頭には素数の分布状況に関する何らかの状勢があったのかもしれません。「約数に含まれている無限大」のほうは、何のことか、見当がつきませんが、オストヴァルトクラシカーのテキストの註釈では、2個の素数の積の分布、3個の素数の積の分布・・・が考えられているのではないかとのことです。ありうるかもしれません。

ガウスの数学日記9 循環級数

数学日記の第8項目は循環級数に関するものです。

8.[循環級数](1796年5月26日)
さまざまな循環級数の単純スカーラは、合成スカーラの二次の類似関数である。
[1796]年5月26日

「循環級数」や「スカーラ」など、耳慣れない言葉がいくつも見られます。スカーラには「単純スカーラ」と「合成スカーラ」があるとのことですが、これもよくわかりません。「類似関数」という言葉はオイラーの『無限解析序説』の巻1でみたことがありますが、同じものかどうか、検討を要します。スカーラというのは温度計の目盛りなどという場合の「目盛り」の意ですが、音楽用語の「音階」もまたスカーラです。
ガウス全集を見るとクラインとLoewyによる註記が出ていますが、それによると有理関数の冪級数展開が考えられている模様です。G(x)は次数が高々n-1のxの多項式とし、
G(x)/(1-a_1 x-・・・-a_n x^n)
という形の有理式を考えて、これをs_0+s_1 x+s_2 x^2+・・・という形の冪級数に展開します。この級数は無限級数ですが、係数の間に、
 s_(n+t)=a_1 s_(n+t-1)+a_2 s_(n+t-2)+…+a_n x^n
という関係が成立します。このこと自体は簡明な事実ですが、ド・モアブルは係数の間にこのような関係が見られる級数のことを「循環級数」と呼び、数a_1,a_2,…,a_nを「指数」もしくは「関係のスカーラ」と呼びました。参照するようにと指示されているのは、ド・モアブルの1730年の論文「級数のいろいろな分析と求積法」です。また、1922年の論文も示唆されていますが、こちらは論文名が記されていません。
 循環級数のことはオイラーの『無限解析序説』の巻1でみたことがありますが、ド・モアブルの名前はそこにも出ていました。
数学日記の第10項目と第20項目のテーマも循環級数です。
 上記の分数式G(x)/(1-a_1 x-・・・-a_n x^n)の分母の因子分解も考えられますが、そうすれば分数式の部分分数展開も可能です。そこで、ガウスは分母に所属するスカーラを「単純スカーラ」と呼び、分母の因子に所属するスカーラを「合成スカーラ」と呼んだのではないかというのが、注釈者、すなわちクラインとLoewyの推定です。第8項目では分母の次数が2で、2個の一次因子に分解される場合が考えられていて、第20項目では分母が3個もしくはもっと多くの因子に分解される場合に言及されたのではないかというのですが、そうかもしれません。
 そんなわけで、第8項目を見ると、ガウスはここでもまたオイラーを読んだのではないかという思いがわき起こります。ド・モアブルの論文を真っ先に読んだという想定も可能ですが、オイラーを通じてド・モアブルを知ったのではないかという想定もまた可能です。

ガウスの数学日記8 発散級数の連分数展開

 ガウスの数学日記は何分にもメモ帳なのですから、まとまった記述になっているわけではなく、内容を把握するのは困難です。それでガウス全集でもオストヴァルトクラシカーでも編纂者が註を付けているのですが、どれほど詳しい註記でも限界はあります。数学日記を読むという立場からすると、これまでに付けられた註記を参照して真偽を正し、不十分な場合には独自の所見を加えるという姿勢が望ましいと思います。ですが、言うは易く行うは難し。この道を志すと、究極のところ、ガウスの全集の全体に註記をつけるのと同じことになってしまいます。とうてい一朝一夕になしうるところではありません。
 それで、ともあれ日記の記事の各々について、こんなことが書いてあるのだろうと、数学の中味の理解をめざすのが第一歩であろうと思います。青年期のガウスがどのような勉強を重ねて数学の世界に分け入っていったのか、ガウスに影響を及ぼした数学者や数学書など、日記を精査すればいろいろなことが判明するに違いありませんが、今後の研究に俟つところも多大です。

6.[方程式の根の冪の和](1796年5月23日)
方程式の係数は根の冪和によりたやすく与えられる。
ゲッチンゲン、[1796年]5月23日

 ここに記されているのはわりとよく知られている事実です。方程式というのは代数方程式のことでしょうし、根と係数の関係なども想起されるところです。ガウスは独自に気づいてメモしたのでしょう。特別の註記は不要と思います。

7.[無限級数と連分数](1796年5月24日)
級数
1-2+8-64・・・
の、連分数
1/1+2/1+2/1+8/1+12/1+32/1+56/1+128・・・
への変換。
1-1+1・3-1・3・7+1・3・7・15+・・・
=1/1+1/1+2/1+6/1+12/1+28・・・
等々。
ゲッチンゲン、[1796年]5月24日

連分数の表記を再現するのがむずかしいので見にくいと思いますが、そのあたりは容赦していただくことにして、註記がむずかしいのはこのような記事です。数学的内容は記されている通りのことで、無限級数と連分数の相互変換が例示されているのですが、この背景にはどのような世界が広がっているのでしょうか。ガウス全集を参照すると、シュレジンガーが長文の註記を寄せていますが、それによるとオイラーの影響が見られることなどがわかります。オイラーの論文「発散級数について」(ペテルブルク学士院新紀要、巻5(1754/55)1760)などが引用されています。
 そうしますと気にかかるのは、オイラーが発散級数に関心を寄せた理由とか、発散級数を連分数に展開する理由などの論点です。どれも素朴な疑問ですが、よくわかりません。シュレジンガーの註記をそのまま紹介するのも一案かと思いますので、おりを見て実行したいと思います。

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オイラー研究所の所長です

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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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