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岡潔先生の情緒の世界 6 「一番はじめの人」の著作

 岡先生の論文集には岡先生の思索の跡がそのまま描かれていますが、後年、数学の古典を読むようになって、ガウスもオイラーも岡先生と同様であることがわかりました。ガウスの論文や著作にも他の数学者の名前は出てくることは出てくるのですが、他人の仕事に寄りかかっているふうはなく、自分はこうやったがだれそれはこんなことをしたというふうに文字通り参考にしているだけです。その意味において、ガウスは引用しないと言い切っても決して言い過ぎではありません。強いて言えば、「ガウスはガウスのみを引用する」というところでしょうか。ガウスは数学に理想があり、生涯を覆うほどの長い思索の中でどこまでも自分の理想を追い求め、何かしら大きな世界の構築をめざしていたような印象を受けるのですが、そんなところは岡先生と非常によく似ています。
 事のついでに他の数学者のことをもう少し顧みると、オイラーにも引用はありません。ラグランジュはオイラーを引用しています。オイラーとガウスはいわば「一番はじめの人」となのですが、ラグランジュはオイラーを継承した人で、オイラーが志して途中まで進んだ歩みのその先を開きました。ヤコビはどうかというと、楕円関数論の第一歩こそ、ルジャンドルの影響のもとで踏み出しましたが、ルジャンドルを継承したという感じはなく、ヤコビはヤコビで独自です。アーベルもまたルジャンドルの著作を通じて楕円関数論を学んだのですが、ルジャンドルの継承者という感じがしないのはヤコビの場合と同様です。思想的にはガウスの強い影響を受けていますが、ガウスとアーベルの関係はオイラーとラグランジュの関係とは異なっているように思います。アーベルはアーベルできわめて独自で、アーベルの論文には引用がありません。
 最近、コーシーの1825年の複素関数論の論文を垣間見たのですが、そこにはやはら引用がなく、コーシーは独自の世界を開こうと腐心している様子が感知されます。1851年にはリーマンの複素関数論の論文が出ていますが、そこにも引用は見られません。
 こうして具体的に観察してみると、数学の論文の中には、引用のある論文、言い換えると他の数学者の研究成果を踏まえて何事かをしようと論文のほかに、ごく少数ではありますが、引用のない論文、言い換えると、真に独自の世界を開こうとする「一番はじめの論文」があるように思います。「一番はじめの論文」は、なにしろそこにはそれまで見たことも聞いたこともない世界が描かれているのですから、著者の創意が充満しています。それを読もうとする企ての実相は、充満する著者の意志に沿って追随していこうとすることになります。数学的論理の言葉で書かれてはいますが、把握しようとする対象は論理を超越した場所に存在し、その場所というのはつまり著者ひとりの心の世界です。なにしろ世界でただひとり、その人のみが知る世界なのですから、そのようになるのは事の必然でもあります。岡先生はそのあたりの消息を指して、数学は情緒の表現であるというふうに言い表したのではないかと思います。
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岡潔先生の情緒の世界 5 アナログ式に読むということ

 数学の本をアナログ式に読むというのはどのようなことなのでしょうか。これについて語る前に岡先生の論文集の印象を伝えておきたいと思いますが、何よりも先ず岡先生の論文集では参考文献というものの位置づけがきわめて特異です。数学の論文の参考文献というのは、著者がその論文を執筆するのにあたって参考にしたり引用したりした論文や著作のことで、たいていの場合、末尾に羅列されています。脚註、すなわち頁の最下部にスペースを確保して、必要のあるたびにそこに書き留めていく形をとることもあります。岡先生は後者の様式を採っています。
 岡先生の論文にも参考文献は出ていますが、それはたいていの場合、取り上げられた研究テーマの歴史的回想の場面においてです。だれがどのような数学的意図をもってこれこれの研究をしたと回想し、これを受けて自分はこうするのだという所見を表明するのが、岡先生のスタイルです。本文に移ると、定義もあり、命題もあり、証明もありますし、そんなところはたいていの数学の論文と同じですが、決定的に異なるところもあります。それは、書かれているのはどこまでも岡先生の思索の足跡ばかりという一事です。
 論文に著者の思索の足跡が書き留められるのは当然のことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではなく、一般的に言うと著者の個人的な所感などを書くのは避けられる傾向が強いと見受けられます。数学の客観性に主眼を置く立場を取ると、著者の所感などは夾雑物であり、著者の主観を極力排除するのがよいとされているのではないかと思います。これに対し、岡先生の論文はまったく様子が違い、岡先生に独自の思想が広々と繰り広げられていく様子が顕著です。

岡潔先生の情緒の世界 4 デジタル式からアナログ式へ

 大学院に進んだ年の春4月から、いよいよ本気になって岡先生の論文集を読み始めました。それまでにほかの数学書をさんざん読みあさったものの、感動するということがまったくなく、ほとほと弱り果てた末の決断で、もうこれを読むしかないというくらいの決意でした。
 岡先生の論文集は、当時のぼくの数学的心情の世界ではいわば最後の砦のような位置を占めていたのですが、それでもそれまでの勉強がかえってわざわいしたのかどうか、読み始めた当初は、なんというか、姿勢が傲岸でした。傲岸というのはいくぶんおおげさな言い方ですが、多変数関数論のテキストなどもすでにいろいろ読んでいましたので、その知識を土台にして取り組めば、難解な(と言われていました)岡先生の論文集といえども相当に読めるだろうと思っていたように思います。整理されたきれいな理論の原型を眺めてみるというほどの気構えでした。同じ多変数関数論なのだから根本的に異なっているはずはなく、ただ用語や証明の仕方が少々古めかしい感じを与える程度のことと思っていて、名所旧跡を見物するくらいのつもりでした。
 それで、岡先生が作り出した独自の用語体系で書かれている(と言われていました)論文集を、普通に流布している理論体系に基づいて全面的に書き直したらいいのではないかと思い、その作業をもって「読んだ」ということとみなそうと考えていたように思い出されます。この姿勢は傲岸だったと今は思いますが、同じ数学なのだから今のテキストと岡先生の論文集の間に本質的な差異があるはずはないと思い込んでいたところには、「近代」のにおいがただよっています。この思い込みの根底には数学の普遍性を信じる心情が横たわっています。普遍性はつまらないと思っていたからこそ、岡先生の論文集が最後の砦になっていたにもかかわらず、普遍性の受容を拒否することもまたむずかしいことですし、はっきりと自己矛盾に陥っていました。
 こんな傲岸な姿勢は、実際に読み始めるとたちまち行き詰まってしまいました。岡先生の論文集は、なんというか、デジタル式に読むのは不可能で、それまでに読んできた数学書を読むのと同じように読みに掛かると、すぐにわけのわからない状況に直面し、先にすすむことができなくなってしまいます。それが、岡先生の論文集は難解と言われた理由だったのはないかと思います。
 岡先生の論文集はデジタル式に読むと読めませんが、こうすれば読めるという、もうひとつの読み方があります。それはアナログ式の読み方です。

岡潔先生の情緒の世界 3 「真理の世界」と「情緒の世界」

 コーシーがいなかったらはたして「コーシーの定理」は存在しなかったのかどうか、小平先生と岡先生ではくっきりと見解が分かれます。どちらが正しいのは、論理的な判断を可能にしてくれる基準はありませんが、他の数学者たちはどのように思っているのかというと、おおむね小平先生の所見が支持されているように思います。もっともこれはただそんな感じがするというだけのことで、広くアンケートがとられたというようなことはないのですが、岡先生のように数学を人の心の創造物と明言する数学者に出会ったことはありませんし、そんなことを語るエッセイを読んだこともありません。目に触れる限り、岡先生は唯一の例外でした。
 高校で学ぶ数学は別段、情緒の表現のようには思えませんでした。大学に進むと数学者たちがたくさんいましたが、講義を聞いても数学書を渉猟しても、目に触れる数学の姿はつまり論理の体系であり、情緒の陰影はどこにも見当たりませんでした。というよりもむしろ、個々人の情緒とは無縁の場所に、言い換えると「真理の世界」に、つとめて向かおうとしているような感じがありました。
 勉強を重ねていくにつれて数学の世界の状況がだんだんと判明してきたのですが、そのころの印象を率直に回想すると、大学で学ぶ数学はさっぱりおもしろくありませんでした。数学の書物は定義から出発して命題とその証明が続いていくのですが、読み進めるのはなかなかむずかしく、それなりに修業が必要です。ではありますが、定義も命題の言明も証明もみな明晰判明に記述されているのですし、証明の実体は簡単な論理を積み重ねて組み立てられているのですから、慣れてくるとすらすら読めるようになります。それでずいぶんたくさんの数学書を渉猟し、中には岡先生の理論が記されているという触れ込みの多変数関数論の本も何冊かありました。
 ところが困ったことに、どれほど読んでも心を打たれるということがありませんでした。多変数関数論の本には岡先生のお名前が頻出し、岡先生の名を冠せられた「岡の定理」や「岡の原理」などというものにも出会ったのですが、それらを理解しても別段、感激はありませんでした。これにはほとほと困惑し、いったい数学とはいかなる学問なのだろうかという、高校入学前に襲われたあの素朴な疑問に襲われ続けたものでした。
 今にして思うのですが、これはつまり「真理の世界」はひとりひとりの心の動きとは無関係なのではないでしょうか。地球は太陽の回っているというのはたぶん真理なのでしょうが、それは地球上に生きる人の心とは無関係ですし、そのような「普遍的真理」をどれほど説かれても感激するということはありません。普遍的真理の世界は存在するのかもしれませんが、それとは別に「情緒の世界」というべき世界が存在し、人生は情緒の世界に密着して推移しているのではないかと思います。数学書は普遍的真理の開示を装って叙述されていますから、明晰判明ではあっても感激は伴いません。普遍的真理というのは退屈なものです。
 岡先生は数学もまた情緒の世界から生まれるのだと語っているような感じがするのですが、はじめからそんなふうに思ったわけではなく、ある出来事が決定的な契機として作用しました。その契機とは、ほかならぬ岡先生の数学論文集を読んだことでした。
 岡先生の小さな論文集は早くから刊行されていましたので、購入して手もとに置いてありました。発行元は岩波書店で、一番はじめの版にはフランス語で書かれた9篇の論文が収録されていました。後に増補改訂版が出て、収録論文はひとつ増えて10篇になったのですが、大学院に進んでいよいよ意を決して読みにかかった時期に手もとにあったのは、9篇の論文をおさめた初版でした。意を決しないと読めないというのはいくぶん不可解な感じがありますし、もっていたのならもっと早いうちに読めばよかったではないかとも思われるところですが、岡理論を解説した本は読んでもオリジナルの岡先生の論文集は読まなかったのはなぜかというと、それなりのわけがありました。率直に言うと、読んでもわからないような気がしたのです。
 読みもしないうちから読んでもわからないような気がしたというのはなんだか変ですが、岡先生の論文集はいかにも異様な雰囲気に包まれていて、しばしばぱらぱらとめくっていたのですが、それだけでもすでに、大学で普通に接する講義や他の数学書とはまったく異質のにおいがただよってきたものでした。
 それで、それまでの勉強が全然役立たないような印象を受けたのですが、そうしますと完全に一からやりなおさなければならないことになる道理ですから、読むという決意が相当に強固になるまでは取り掛かることができなかったのです。

岡潔先生の情緒の世界2 岡潔先生のエッセイとの出会い

 中学生のころを回想すると、数学はきらいではありませんでしたが、特別に好きだったということもありませんでした。数学に寄せる関心のはじまりは、何を研究しているのかさっぱりわからない、変な学問があるものだ、と強く思ったことでしたから、形而上的というか、観念的というか、さてこれからどうなるのか、興味津々であるのと同時にいくぶん不安でもありました。高校で数学の授業を受けたり、書店で数学史の書物を手にとったりしても、数学とはかくかくしかじかの学問であるというたぐいの文言はみあたりませんでした。ぼくの抱いた素朴な疑問に応えてくれる文言を求めて渉猟していたのですが、秋10月になって岡潔先生の自伝的エッセイ『春の草』(日本経済新聞社)を書店の新刊書コーナーで見つけました。これが岡先生のお名前を認識したはじめです。
 『春の草』を購入して目を通し、これがきっかけになって『春宵十話』『人間の建設』など、岡先生の他の著作を読み始めたのですが、岡先生は「人の中心は情緒である」「数学は情緒を表現する学問である」と明快に発言していました。数学とは何々であるという、まさしくぼくが探し求めていた言葉ですので、まったくびっくりしました。情緒は心と同じで、岡先生のいう心は日本の心、すなわち日本的情緒です。日本的情緒をヨーロッパの人たちが数学と呼んでいる言葉をもって表現するのが数学研究の姿であるというのが、数学に寄せる岡先生の思想の根幹を作る認識です。
 岡先生の言葉は「数学とは何か」という素朴な問いに応えていましたので、印象は非常に鮮明で、目をそばだたせるほかはなかったのですが、新たな問題もまた発生しました。なぜかというと、数学を情緒の表現と見るということの意味合いを理解することができなかったためで、心を惹かれてやまない魅力的な指摘でありながら、情緒を表現したらどのようにして数学が生まれるのか、具体的なイメージはまったく結ばれませんでした。漠然とした印象でいうと、当時も今も、数学のみならず一般に自然諸科学は普遍性や客観性を主張する学問と理解されているのではないかと思います。どこかしらひとりひとりの人の感情とは無縁の場所に「普遍的真理の世界」が存在し、そこに存在する真理を探索するのが科学者の仕事であるというほどの、ヨーロッパ近代の根幹を作る考え方ですが、日本もこれを受け入れましたので、何となく常識のようになっているのではないかと思います。たとえある瞬間に人類が一斉に消滅したとしても、地球は依然として太陽の回りを回っているような感じがするものですが、その感じはヨーロッパ近代の思想に由来しています。
 これに対し岡先生は「数学は情緒の表現」というのですから、ヨーロッパ近代の思想とは真っ向から対立しています。数学の小平邦彦先生は漱石のエッセイ「夢十夜」を引き合いに出して数学を語ったことがあります。「夢十夜」に鎌倉期の仏師の運慶だったか快慶だったかの話が出ていて、仏像は自分が木を掘って作るのではなく、木の中に埋もれている仏の姿をあらわにするだけだというふうなことが語られているのですが、小平先生の見るところ数学研究の姿も同様で、数学の定理は自分が作ったのではなく、ここかしこにすでに存在しているものをたまたま自分が見つけたのだという感じがするというのです。御自分の体験に基づく所感です。
 数学は芸術とは違うとも小平先生は言っています。もしベートーベンが結核かなにかで早世していたとするなら第9交響曲はこの世に存在しなかったのですから、第9交響曲はベートーベンその人の創造物です。これに対し数学の複素変数関数論の「コーシーの定理」はそうではなく、たとえコーシーがこの定理を見つけなかったとしても、いつかはだれかが同じ命題を発見したに違いありません。したがって「コーシーの定理」はコーシー個人の創造物ではないことになります。
 数学は創造されるのか、発見されるのか、どちらなのかと小平先生はみずからに問い、「発見されるのだ」と明快に応じたことになります。この諒解様式はヨーロッパ近代の思想に沿うものですし、数学者を名乗る人たちの間ではだいたいにおいて常識的に受け入れられているように思いますが、岡先生の数学観はこれに真っ向から対峙しています。岡先生の言葉に沿えば、数学はひとりひとりの人の心が生み出した創造物なのですから、芸術と同じです。コーシーがいなかったなら「コーシーの定理」もまた存在しなかったことになりそうです。

岡潔先生の情緒の世界1 数学に心を惹かれたころ

 数学という学問に心を寄せ始めたのは、中学を卒業して高校に入学する直前の、昭和38年の春の二週間ほどの端境期のときのことでした。山村の中学から地方都市の高校に進むことになって胸もはずみ、購入した教科書を手にとって頁を繰るのも楽しかったものでした。そのころはまだ岡潔先生のお名前は知りませんでした。
 各教科の教科書にひと通り目を通したのですが、一段と強い印象を受けたのは数学の教科書でした。物理、化学、生物など、他の教科書のテーマはどれも明快でまぎれはありませんが、数学の教科書はどこまでも数式がだらだらと続くばかりでした。数学とはいったい何を研究する学問なのだろうかと思いましたが、他方では、こうして教科書があり、大学には数学者を名乗る諸先生もいるのでしょうから、何かしら研究対象が存在するのはまちがいないとも思いました。その研究対象がさっぱり見えないのはいかにも不審ですし、かえって神秘的な魅力を感じたものでした。これが数学との出会いです。

第2回九州数学史シンポジウム 終了しました

第2回目の九州数学史シンポジウムは2月20日(月)に始まりました。最初の三日間は講演が続きました。午前中に3件、午後4件で、一日に7件。三日間で21件。講演者は延べ18人。講演件数と講演者数が一致しないのはなぜかといいますと、2回の講演を担当した方が3名いるからです。
 昨日23日の午前中は「大討論会」でした。途中、小休止をはさんでえんえん2時間に及びました。20分程度の基調講演が2件。それから多くの人がそれぞれに発言を繰り返し、ときには過激なやりとりもあり、いかにもシンポジウムの名に相応しい状況が現われました。
 三日目の22日の夜は懇親会でした。研究者と研究者、編集者と編集者、研究者と編集者など、いろいろな組み合わせで会話が盛り上がりました。第3回目のシンポジウムを開催できるかどうか、今はまだわかりませんが、首尾よく諸条件が整うよう、期待したいと思います。

今日から第2回九州数学史シンポジウム

 現在、2月20日の午前零時を回ったところですが、今日から九州大学の伊都キャンパスで九州数学史シンポジウムが始まります。昨年2月に開催されたシンポジウムを第一回目と数えて、今回は第2回目になります。日本における数学史の研究会としては、従来、例年夏8月に京都大学の数理解析研究所で開催される研究集会「数学史の研究」と秋10月に津田塾大学の数学・計算機科学研究所が主催する「数学史シンポジウム」がありますが、これに九州大学の九州数学史シンポジウムが加わって第三番目の数学史研究会になりつつあります。
 数理研の「数学史の研究」は竹之内脩先生が提唱して始まりました。津田塾大学の数学史シンポジウムを提唱したのは杉浦光夫先生です。
 前回のシンポジウムは参加者が10名ほどのこじんまりとした研究会でしたが、今回は招聘参加者が30名に達しました。内訳がまた一風変わっていて、数学史の研究者が18名なのに対し、東京の出版社の理工系書籍担当の編集者と新聞社の人が12名もいます。
 たとえ講演中であっても聴講者が自由に口をはさんでさしつかえないというルールですので、盛り上がりを期待したいところです。講演時間はおおむねひとり60分ですが、必ずしも均等でなくてもよいのではないかという考えに傾いて、かなりばらばらになりました。それにひとりで2回の講演をする人もあります。
 最終日の大討論会の成り行きが気に掛かりますが、おもしろいことがありましたらそのつどお伝えします。

岡潔先生の情緒の世界 短期連載のお知らせ

 〈ディリクレの「ヤコビの思い出」〉というタイトルを附して、ヤコビの思い出を回想するディリクレのエッセイの訳読を続けてきました。第18回になったところでファニャノが登場し、これからいよいよヤコビの楕円関数論の世界が展開されようとしているところです。楽しみな場面になったのですが、数日前、ある教育関係の集まりで一場の講演を依頼されました。岡潔先生と情緒の世界について何事かを語ってほしいというのが以来の中味でした。それで普段から考えていることを思いつくままに話すことにして、一時間ほどの講演になりました。
 原稿もない状態でしたので、とりとめのない話になったのですが、思い出すままに回想してみたいと思います。

ディリクレの「ヤコビの思い出」18 レムニスケート曲線に関心を寄せる

レムニスケート曲線はファニャノの名と切っても切れない関係で結ばれています。ディリクレもまたこの曲線を真っ先に話題にしています。

〈並外れた鋭敏さの持ち主である、教皇領に生まれたイタリアの数学者ファニャノは、ある注目に値する発見をしました。その発見というのは、そのころレムニスケートという名のもとで数学者たちの心をしばしばとらえていた曲線の弧長を表す積分は、円弧の長さを表示するいっそう簡単な積分と類似の諸性質を備えているというものです。たとえば、この種の二つの積分の一方が他方の2倍の値に等しいという場合には、それらの積分の限界の間にはある簡単な代数的関係が成立します。それで、レムニスケートの弧は、もしそれが高度な超越量に等しいとしても、円弧と同様に幾何学的な作図により2倍にしたり半分にしたりすることができるのです。〉

 ファニャノはイタリアのシニガリアという町に生まれた人ですが、この町は17世紀からこのかた教皇領で、直轄地になったということです。そこでディリクレはこの事実を指して、「(ファニャノは)教皇領に生まれた」と述べたのでしょう。
 ディリクレはファニャノの発見の一端を語っていますが、レムニスケート曲線をめぐってファニャノが何をしたのか、これまでにも何度か紹介する機会がありました。弧の等分や倍加ということに着目するとき、レムニスケートには円によく似た性質が備わっているというのがファニャノの発見の骨子ですが、他の曲線にはそんな性質は見られません。多種多様な曲線の中で円とレムニスケートだけが例外的な位置を占めているのですが、それならそもそもどうして弧長の等分や倍加に関心が寄せられたのかといえば、ここはやはりユークリッドの『原論』以来の歴史的背景を回想される場面なのではないかと思います。歴史的意識が個人に作用して思索の道筋を指し示すというのは、ありえないことではありません。古いギリシアに発生した課題が長い時を隔てて継承されたと考えるのは十分に可能ですし、この伝統のない文化圏の数学に曲線の等分や倍加の問題が発生する可能性は少ないのではないでしょうか。
 もうひとつ、レムニスケート曲線に数学者たちの注目が集まったのはどうしてなのでしょうか。ファニャノはヨハン・ベルヌーイの研究に影響を受けたようですが、それならヨハン・ベルヌーイはどうしてレムニスケートに着目したのかというと、イソクロナ・パラケントリカ(測心等時曲線)という曲線の弧長測定を試みたからで、ヨハンはそれをレムニスケート曲線の弧長の測定に帰着させることに成功しました。これが、レムニスケート曲線が注目された理由です。
 そうしますとイソクロナ・パラケントリカに関心が寄せられた理由を知りたくなりますが、あれこれと考えていくのも、今のところこのあたりが限度です。
 17世紀は実にさまざまな曲線が次々と持ち出され、考察されたものですが、レムニスケートもその中にありました。機会を見て、このあたりの消息をもう少し解明してみたいと思います。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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