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ディリクレの「ヤコビの思い出」8  偉大な数学者たちに学ぶ

 ヤコビの手紙の続き。

〈「オイラー、ラグランジュ、ラプラスの業績が呼び起こした途方もなく巨大なものは、単にその周辺を探索するだけではなく、内部の本性に踏み込んでいこうとすると、極度に大きな思索の力と努力を要します。彼らにおしつぶされることを恐れる必要はありませんが、これらの巨匠を凌駕しようと思いますと、上位に立って、仕事の全体を展望することができるようになるまで決して休まないのだという衝動に追い立てられるのです。もしその精神を理解したなら、それからやっと、落ち着いて彼らの仕事の完成をめざして個々の部分を適切に究明することも、完全な、偉大な作品を力のかぎりさらに前身させることもまた可能になるのです。」〉

 このあたりは訳出がむずかしく、あまり自信がないのですが、ヤコビはオイラーやラグランジュやラプラスのような偉大な数学者たちを憧憬し、しかも押しつぶされまいとして彼らの全体像を把握しようと固く決意した様子が読み取れます。偉大な数学者に学ぶことのできる人はその人自身もまた偉大ですし、一般的に言って、そんな傾向は若年のころからすでに現われているのではないかと思います。ガウスはオイラーに学びましたし、アーベルはオイラーとガウスに学びました。オイラー、ラグランジュ、ラプラスに学ぼうとしたヤコビもまた偉大でした。
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ディリクレの「ヤコビの思い出」7 文献学との別れ

 ヤコビは科学アカデミーが所蔵するオイラーなど偉大な数学者たちの文献の調査に熱心に取り組みましたが、そんな仕事はヤコビの性に合っていたようでした。ヤコビには文献学の資質が備わっていたのでしょう。ですが、単に文献学的に探究するだけではあきたらず、文献に書かれている事柄にも強く心を惹かれました。オイラーが遺した文献の形に関心を寄せると文献学になりますが、中味に心を惹かれると数学になります。文献学との別れと数学への参入の軽機がここにあります。何の縁もない二つの道の選択に迷ったというのではなかったのです。

〈ヤコビの天性の素質は単に知識の収集だけを請け合ったのではなく、取り組んでいた事柄を完全に制御したいという欲求を感知したのですが、およそ2年間におよぶ大学での研究の後に、決心をして、文献学と数学のどちらかを断念する必要があることを悟りました。彼が下した決断は、彼にとってばかりではなく、彼がそのとき以来ひたむきに打ち込んできた学問にとってもまた、重大な帰結をもたらすことになりました。そこで彼の選択を決定した理由を彼自身に聞いてみたいと思います。〉

〈このことについて、彼は、前に名前を出したおじに宛ててこんなふうに書いています。「少しばかりの時間ではありますが、私は文献学にまじめに取り組んで、少なくとも古いヘレニズムの生活の精神的なすばらしさを一瞥することができました。そのために、少なくとも葛藤を経ることなしには、この探究をさらに続けていくことを断念するのは不可能でした。こんなことをいうのはなぜかといいますと、今では完全に文献学に別れを告げなければならないからなのです。」〉

 ヨーロッパの古典文献学の対象は数学の書物に限定されていたわけではありませんが、ヤコビはその方面に魅力を感じながらも断念する決意を固めました。数学の魅力には抗し難かったのです。
 たとえば日本の江戸期の数学、すなわち和算に関心を抱いたとした場合、どんなふうに研究したらよいのでしょうか。和算の書物は実に膨大です、同一の書物の写本がたくさんあったりもします。関流の和算の祖は関孝和ということになっていますが、関孝和とはどのような人物だったのかを研究することも和算研究の一環です。関孝和が執筆したと言われる書物もありますが、自筆のものはないという話を聞いたこともありますから、みな写本なのでしょう。それらを精査して真偽を探索するのは、いわば和算における文献学的研究です。この種の研究では数学的内容への洞察は必ずしも必要はないかもしれません。
 これに対し、遺されている和算の書物をどこまでも数学のテキストと見ることにして、どのような数学理論が記述されているのかを理解しようとすれば、数学的研究になります。文献学的研究と数学的研究の双方に通じるのは至難ではありますが、学問の理想でもあります。ヤコビがめざしたのはいわばそのような道だったように思います。

ディリクレの「ヤコビの思い出」6 古典に学ぶ

 ヤコビがベルリン大学に入学したのは1821年ですが、その時点でのヤコビの年齢
は満年齢で数えると16歳でした。この年の末12月に満17歳になりました。

〈当地の大学で、ヤコビは哲学、文献学、それに数学の研究に時間を分けました。文献学セミナーの訓練の参加メンバーとして、ヤコビはわれわれの同僚でこの研究所の理事でもあるベックの注意を引きつけました。ベックはこの若者を、その鋭敏で独等の精神のゆえに大好きになり、特別に親切にしました。〉

 「研究所」の原語はInstitut(インスティトゥート)です。意味は「研究所」でよいと思いますが、文脈からいうとベルリンの科学アカデミーを指しているのではないかという感じです。ベック(Böckh)という人のことはわかりませんが、ヤコビは数学ではなく文献学で頭角をあらわしたことがわかります。
 数学の講義にはあまり興味をもてなかった模様です。

〈数学の講義には、ヤコビはあまり出席しなかったようです。というのも、当地の大学でのそのころの数学の講義はあまりにも初歩的すぎて、すでにオイラーやラグランジュの主要な著作のいくつかに親しんでいたヤコビの進歩に寄与することはできなかったのです。彼は数学の文献をますます熱心に見るようになり、わけてもアカデミーのコレクションがもっている偉大な学問の宝物の数々を広く展望しようとつとめました。〉

 ヤコビは数学という学問を全体として俯瞰したいと願ったのでしょう。ベルリンの科学アカデミーにはオイラーの足跡が色濃く刻まれていますが、ヤコビはオイラーの諸著作を丹念に調べ、実際に執筆された時期、科学アカデミーに提出された時期、それにアカデミーの紀要に印刷されて公表された時期を特定しようと試みました。そのためにはオイラーの手稿などを直接参照する必要もありますし、たいへんな努力を要します。オイラーのような偉大な先輩に学ぼうとする心情、数学の全体像を見たいという強い願いがあったのであろうと推定されますが、アーベルを深く理解することができたのも、そんな心情の持ち主だったからであろうと思います。

ディリクレの「ヤコビの思い出」5 経歴の回顧 ベルリン大学に入学するまで

 5次方程式の解法をめぐる話が続きます。

〈後に偉大な名前を獲得した人たちのうちの幾人もが、まずはじめにこの課題で力を鍛えたものでした。そうして、実際のところ、この問題の魅力はひとりの目覚めつつある才能に影響を及ぼさずにはおかないことが、容易に理解されるのです。実に長い間、この問題が「不可能であること」は証明されなかったのです。〉

 「この課題」というのは「5次方程式を解くこと」を指しています。「幾人もが」と訳出したところは、原語は「mehr als einer」となっていて、「ひとりよりも多くの」という意味になります。5次方程式の解法はヤコビの時代の大きな課題だったことは確かなようで、具体的にはガウス、アーベル、ルフィニなどの名前が即座に念頭に浮かびます。ヤコビもまたそのひとりだったとディリクレはいうのですが、どのように思索を進めたのか、これ以上の消息はわかりません。

〈名声を求めて、実りのないおびただしい努力がこの研究に注がれたのですが、ここには、この問題は初歩的な事柄とただちに境を接している領域に所属していて、膨大な量の予備知識もなしに近づけるように見えたという特別の事情がありました。〉

 5次方程式を解くという課題はわかりやすく、問題を理解するのに予備知識が必要になることもありませんから、多くの人々が名声を求めて試みたということでしょうか。 
 先に進む前にヤコビの経歴をもう少し具体的に補っておきたいと思います。ポツダムのギムナジウムに入学したのは12歳の誕生日の直前でした。ヤコビの生誕日は1804年12月10日ですから、1816年の秋ということになります。それから半年後にはギムナジウムの最終学年に進んだのですが、ということはつまりヤコビは12歳にして大学入学の資格を得たことになるのですが、ベルリン大学は16歳以下の学生を受け入れませんでしたから、ヤコビはギムナジウムに在籍したままなお4年間をすごさなければなりませんでした。このあたりの事情は既述の通りです。
 1821年になって、ヤコビはベルリン大学に入学しました。

ディリクレの「ヤコビの思い出」4 5次方程式の解法を試みる

 ヤコビはポツダムのギムナジウムの第二学年に入り、半年後にはもう第一学年に進みました。第一学年というのはギムナジウムの最高学年です。ギムナジウムは9年制でした。
 最高学年に進んだものの、ヤコビはそのまま4年もの間、ギムナジウムにいました。大学に進むには若すぎたからです。

〈ここで丸々4年間をすごしたのですが、なぜかといいますと、16歳になるまでは正式に大学に通うことができなかったのです。数学の授業は完全意記憶ものとして取り扱われたのですが、この若いギムナジウム一年生のお気に入りになることはできませんでした。それで教師との関係はしばらくの間、非常に不愉快だったのですが、最後には改善されました。なぜなら、その教師は十分に見識があり、この非凡な生徒に好きなようにさせて、他の生徒たちが苦労して覚えたいろいろな初歩的命題を暗唱している間にオイラーの『無限解析序説』に取り組むのを許したからです。ヤコビの精神的な発展がそのころすでにどれほど遠くに及んでいたのかということは、このころ彼が5次方程式の解法をめざして打ち込んでいた試みが示している通りです。彼は後に諸論文のひとつの中でその試みに言及しました。〉

 若いヤコビは大学に通うことはできませんでしたが、ギムナジウムの生徒のときすでにオイラーの著作を読み始めました。それと、5次方程式の解法をめざして研究していたというのですが、このあたりはアーベルとよく似ています。ただしヤコビの試みはどのようなものだったのか、よくわかりません。ディリクレによるとヤコビはある論文の中でそれを語ったということですが、どの論文を指してそう言っているのか、不明です。それでもギムナジウムの生徒のヤコビが5次方程式の解法を試みていたというのはたぶん本当で、それだけでも十分に非凡さのあかしでした。

ディリクレの「ヤコビの思い出」3 生地と生誕日

 本論に入る前に、前置きがもう少し続きます。

〈私では力不足なのではないかという意識が私の心に呼び起こされることもあるのですが、そんな疑念を沈黙させることができるのは、この学問とその保護者たちのためになされたこのような尽力に対して、感謝の意を表明する責務を果さなければならないという信念のみなのです。〉

 もうひとつ、文章が続きますが、それは省略して先に進むと、いよいよヤコビの生い立ちが語られ始めます。

〈カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビは1804年12月10日、ポツダムに生まれました。父は裕福な商人でした。母方のおじのレーマン氏から、古典語と数学の初歩の一番はじめの指導を受けました。レーマン氏は、この俊敏な少年を教えるというよりもむしろ指導しなければならなかったのですが、筋道の通った指導を受けて急速な進歩を示し、まだ12歳にならないうちにポツダムのギムナジウムの第二学年に入り、半年後にはもう第一学年に進むことを許可されました。〉

 これで生誕日と生地とギムナジウムが判明しました。

ディリクレの「ヤコビの思い出」2 数学史の中のヤコビ

 最初の一文を訳出すると次のようになります。

〈ラグランジュからこのかた、われわれのアカデミーに出席するメンバーとして所属した偉大な数学者たちの学問上の業績を詳細に描写しようと企ててみますと、ひとりの人物が創造したものの数々の意味するところを完全に叙述するという課題の困難さが、私の眼前にありありとそびえてきます。その人は、2000年にわたる探究を通じて途方もない規模にふくれあがった学問のほとんどすべての領域において、力強い手で決定的な影響を及ぼしたのです。その人が、その創造性に富む精神を傾けていく先々のいたるところで、重要な、しばしば奥深いところに隠されている真理の数々を地表に掘り出しました。そうして新たな根本理念をこの学問に導入して、数学的思索を多くの方向に向けていっそう高い段階へと押し上げました。〉

 日本語にするとなかなかの長文ですが、原文ではこれでひとつの文で、10行にわたって続いています。ドイツ文と日本文では文章の構造の違いが大きすぎて、どうも訳しにくいのですが、細切れにして訳文を重ねていくほかはありません。
 最初の一文はヤコビを語るための準備ですから、まだヤコビの名前も出てこないのですが、どのような数学者だったのか、ディリクレは2000年の数学史の流れの中に位置づけて大づかみにつかもうとしています。ベルリンのアカデミーの数学部門の最初の部長はオイラーですが、オイラーがペテルブルクに去った後、後任の数学部長に就任したのはラグランジュでした。そのラグランジュ以来、ベルリンのアカデミーに所属した幾人もの数学者の中でも、ヤコビは格段に際立っているとディリクレは言いたいのでしょう。

ディリクレの「ヤコビの思い出」1 ディリクレとヤコビ

 ディリクレはドイツの数学者で、生地はデュレンですが、若い日にパリで学んだ経験の持ち主です。パリ時代にアーベルにも会ったことがあります。ヤコビとの間に親しい交友があり、しかもゲッチンゲン大学でガウスの後任になりました。リーマンにも深い影響を与えましたし、このような数学の世界での人間模様から見ても19世紀の数学史のかなめ石のような人物です。
 ヤコビの全集は(補巻一巻を含めて)全8巻で編成されていますが、第一巻が刊行されたのは1881年。その冒頭に配置されたのはヤコビの著作ではなくディリクレのエッセイ「ヤコビの思い出」でした。第1頁から第28頁まで、全28頁を占めていますが、第1頁は表紙、第2頁は白紙ですから、本文は26頁です。初出は1852年のベルリン王立科学アカデミーの論文集ですが、もう少し詳しい記録を参照すると、1852年7月1日に科学アカデミーで読み上げられたことがわかります。ヤコビは1851年12月10日に亡くなっていますから、その翌年のことになります。1805年2月13日に生まれたディリクレは1852年の時点で47歳です。ちなみにヤコビの生誕日は1804年12月10日、ディリクレの生誕日は1805年2月13日ですから、生年が異なるとはいうもののほぼ同年です。

連載開始のお知らせ ディリクレの「ヤコビの思い出」

 長期連載「リーマンを語る」は第271回に達したところで中断し、それから今日にいたるまで、「中勘助ノート」「父を思う」「ヤコビ『楕円関数の新しい基礎』訳者覚書」を書き続けてきました。このうち後者の二つはそれなりに完結しましたが、「中勘助ノート」は未完です。それでこれからどの方向に進むのがよいのか、少時思案したのですが、「中勘助ノート」を再開するのは時期が早いように思いました。
 それで懸案の「リーマンを語る」に手をもどして書き継ぎたいのですが、最後の第271回を掲載したのは昨年の10月5日のことで、すでに三ヶ月を大きく越える歳月が流れています。往時に立ち返ってそのまま連載を続けるということにするとヤコビとルジャンドルの往復書簡の続きを読むことになりますが、つながりが悪いようでもあります。そこで少々方向を変えて、ディリクレのエッセイ「ヤコビの思い出」を読んでみたいと思います。「リーマンを語る」の流れの中でいずれ取り上げるつもりのエッセイで、ヤコビの生涯と学問を考えるうえでもっとも基礎的な文献です。

『楕円関数論の新しい基礎』翻訳覚書 15 複素関数論の誕生に向けて

 微積分のはじまりのころの主テーマは「曲線を理解すること」でしたが、そこから始まった物語は100年余の変遷を経て変容を重ねた末に、ヤコビにいたって楕円関数の概念に結実しました。その実態はルジャンドルのいう「第一種楕円関数」(すなわち、ヤコビのいう第一種楕円積分)の逆関数ですから、ヤコビに先立ってアーベルもまた同じ概念を手にしていたのですが、アーベルは何も特別の名前を付けませんでした。楕円的超越物、すなわちルジャンドルのいう楕円関数、すなわちヤコビのいう楕円積分の理論において、ヤコビの見るところ、中核に位置を占めると見られたのはヤコビのいう楕円関数でした。ヤコビの楕円関数こそがこの理論全体の基礎であると見るのがヤコビの思想であり、著作『楕円関数論の新しい基礎』の書名もまたこの思想に由来しています。
 ヤコビは新しい基礎の上に十分に諸理論を展開しましたが、『楕円関数論の新しい基礎』を最後まで読み進めて改めて強い印象を受けることがあります。それは複素変数関数論の発生の契機のことなのですが、ヤコビが繰り広げた展開の理論のなかに楕円関数の根底を求めようとすると、おのずと複素関数論が認識されるのではないでしょうか。最後に到達したこのそこはかとない、しかしきわめて鮮明な印象が得られたことが、『楕円関数論の新しい基礎』の訳読が完了して得られたもっとも大きな収穫でした。

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