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父を思う(34) 野戦行を命ず

 父にしてみれば理不尽もきわまりないことで過酷な私的制裁を受けたのですが、軍隊での出来事ですから殴られただけではすまず、これからが本当の試練です。数日後、人事係准尉の呼び出しを受けました。
 准尉というのは、文字通りに理解すると「仕官に准ずるもの」というほどの意味の階級です。仕官というのは、「陸軍士官学校」という学校名にこの一語が見られるところからわかるように、階級が少尉以上の本職の軍人をさす言葉です。軍人の中で、陸軍士官学校や海軍兵学校の出身者ははじめから軍人になることをめざして軍人になり、国から給与を得ているのですから、いわば本職の軍人です。これに対して、父のように召集令状を受けて応召された国民は、兵隊になって、わずかながらも給与が出ていたのですから軍人には違いありませんが、兵役が解除されればまたもとの職業にもどるのですから、本職とは言えません。それなら准尉とは何かというと、兵隊の中で最上級の階級に達した兵隊のことで、待遇は仕官に准じます。
 兵隊の中の最上級というのであれば兵隊は兵隊ですから本職ではないのかというと、そうともいえません。国民の義務としての兵役を二年なら二年つとめた後に免除になったとしても、そのまま軍隊に留まってもさしつかえなく、そんな人たちはつまり軍隊に就職したのですから本職です。今でも跡継ぎの男の子のいないお寺などで婿養子をもらい、お婿さんにお坊さんの資格をとってもらって住職を継いでもらうということがあります。この場合、お婿さんはもともとサラリーマンか何かだったところ、途中から転職して住職になったのですが、軍隊における准尉もそれに似ています。
 准尉の中に人事を担当する人がいて、これをそのまま人事係准尉と呼んでいるのですが、兵隊の生殺与奪の権限をにぎっていたのは連隊長でも中隊長でも小隊長でもなく、人事係准尉でした。戦争中のことですから、生殺与奪は人事で決まります。なぜなら野戦、すなわち実際に敵と対峙して戦闘が行われる最前線への派遣要員を決めるのは人事係准尉であり、人事係准尉が決めた人名表のままの人事が行われるからです。
 前線では戦死者が出ますから内地の部隊から補充要員を出さなければなりませんが、それを決めるのは人事係准尉の仕事で、中隊の名簿表に鉛筆で丸をつければそれで決まります。だれかが決めなければならないのですから「決める人」がいる道理で、その決定事項が組織の名をもって布告されることになります。このあたりの消息はどんな組織でも同様で、現在の会社や大学の人事でも、担当する地位にある特定の個人の思惑が強く作用しているのではないかと思います。人の世のことですからそんなふうになるのは仕方のないことで、善悪を越えていて、悲劇や喜劇が引き起こされるのではないでしょうか。
 そんなわけで、中隊長の訓示があってから数日後に人事係准尉に呼び出された父は、
 「◯◯二等兵、野戦行を命ず」
と宣告されました。覚悟はしていたとはいうものの、その瞬間に背筋から冷や汗が出たそうですが、どうしてかというと、野戦行とは死刑と同じだからです。入営が昭和18年6月20日で、三ヶ月して一期の検閲が終って三日間の外泊が許されたのですから、中隊長の訓示が行われたのは昭和18年の9月末のある日野ことと思われます。その時期には大東亜戦争も状況が思わしくなく、前線に出るというと船で南方のどこかの戦線に運ばれるのですが、内地を出た輸送船は一週間後には撃沈されるのが相場でした。米軍の潜水艦の襲撃を受けるのですが、これを原隊の兵隊たちは「ぼか沈」と称していました。「ぼか沈」自体は軍事機密ですが、どこからともなくうわさが流れてきて、たちまち知れ渡りました。
 「ぼか沈」に対処する有効な方法はなかったのですから、むだなことはやめればよかったのにと思わないこともありませんが、作戦を立てる立場からすると、苦戦を続ける前線に兵力を送らないわけにはいきませんし、やみくもに輸送したのでしょう。これを怠れば仕事を放棄したことになりますから、「ぼか沈」を承知したうえで輸送を継続したのですが、兵力を分散して同じ行き先に複数の航路をとったという話を戦記で読んだことがあります。全滅を避けられれば上出来で、どれかひとつでも成功すればよいというほどの考えだったのですが、まったく過酷な戦況というほかはありません。
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第2回九州数学史シンポジウムのお知らせ

本年、というのはつまりまだ平成23年のうちのことですが、年初の2月に「九州数学史シンポジウム」が開催されました。次を期待することができず、一回だけで終ってしまいそうでしたので、「第一回」と名乗らなかったのですが、ここにきて急に第二回目の開催が可能な状況になりました。

第2回九州数学史シンポジウム
期間:平成24年2月20-23日(月曜から木曜まで)

今度は日程が一日増えて四日間になりました。三日目までは講演を続け、四日目は午前中の3時間ほどを使って「大討論会」を行う予定です。ひとりあたりの講演時間をなるべく長くとり、その代り講演中に好き勝手に口を挟んでもかまわないというのが基本ルールです。討論会のテーマは未定ですが、いくつかの候補が提案されています。
 参加者は現在22名。全員が講演するわけではなく、今のところ19個の講演が企画されています。「特別講演」もあります。今後もおりに触れて状況をお伝えします。

年末の帰郷

平成23年も年の暮となりましたので、今年もまた帰郷しました。山村の生家は空き家ですが、つい最近まで、というのは11月18日までということですが、隣村に父がいましたので、ちょっと留守をしているというくらいのことで、空き家という感じはありませんでした。ところがこの年末から正真正銘、本当の空き家になりました。
 二階建ての家で、大工をしていた先祖がいて、明治初期に山から材木を切り出してきてひまを見ては少しずつ作ったと言われていますが、途中で飽きてしまったとかで、二階などはかろうじて間取りの痕跡を残すのみで未完成です。畳が敷かれていないのはもとより、あろうことか天井に板が張られてなくて、見上げるといきなり屋根が見えます。古文書が散乱していますので、これまでもときおり整理整頓を続けてきたのですが、あまりにも大量すぎてとても完了しませんので、今回の帰省中も継続します。ただし、冷え込みがきびしすぎて、作業時間がなかなか確保できません。
 帰省のための移動に時間をとられてしまい、この二、三日、ブログの更新ができませんでした。「父を思う」が途中まで進みましたが、その前に「中勘助ノート」がやはり途中までで中断したままになっています。さらにその前には「『楕円関数論の新しい基礎』翻訳覚書」も書きかけのままで放置状態。意あまって言葉の足りない状態が続いていますが、まとめて大量に書くわけにもいきませんので仕方がありません。
 平成23年は岡潔先生の生誕110年の節目でしたので、評伝の続篇を出す考えで原稿を揃えたのですが、校正と写真の選定に思いのほか時間がかりました。それに出版社の側にも都合がありますので、年明けにずれ込むことになりました。書名は

「岡潔とその時代――評伝岡潔 虹の章」

と決まりました。内容は岡先生の晩年の交友録です。読者の出現を期待しています。

父を思う(33) 密告状

 中隊長は本職の軍人で、陸軍士官学校を卒業した陸軍大尉でした。中隊全員集合の命令を受けて兵舎の前に整列し、型の通り中隊長に向けて「頭(かしら)、中っ」の敬礼をして、訓示なのか、あるいは命令なのかわからないまま、発言を待ちました。
 中隊長は、「わが中隊の中にきわめて遺憾な兵がいる」と単刀直入に宣言し、それから「軍人精神をわきまえず、軍隊を誹謗した。高崎十五連隊始まって以来のことである」と敷衍しました。軍隊を誹謗とは恐ろしい兵隊がいたものですが、本当のこととはとても思えません。中隊長の言葉は続き、「地方にあっては、国民子弟を教育した身でありながら・・・」というのですが、それなら父はぴったり該当します。というよりも、これに当てはまる兵隊は父のほかにはいませんでした。中隊長は「いまだ検閲がすんだばかりで未熟の者であるから、官職氏名は明かさない」と言い、それから「終り」と宣言しました。ここまで言えば、中隊長が言及した兵隊が父のことであることはだれの目にも明らかでした。
 どうしてこうなったのか、皆目身に覚えのないこととはいいながら、軍隊を誹謗して中隊長に名指し同然に批判されたのですから、私的制裁が待ち構えているのは明白でした。一個中隊は六個の班で構成されていて、父は第五班に所属していました。班にもどると当番兵は迎えに来て、「第一班下士官室へ来い」とのこと。いよいよ始まるなと覚悟を決めて第一班におもむいて、ドアをノックして「第五班○○参りました」と大声でどなりました。このあたりは軍隊の流儀です。
 「おうっ」という返事を受けて入室すると、四、五人の下士官が居座ってきわめて険悪な雰囲気が感じられました。中でも一番若そうな下士官が進み出て、
 「軍人精神とはこういうものだ。」
と言うや否や、身構えるひまもないほどの素早さで矢継早に右から左から頬を張り飛ばされました。これはつまり往復ビンタというもので、首がひと回りするほどの強烈さですが、その瞬間には反対方向からやって来ました。
 往復ビンタが終ると、「よし、第二班に行け」と指示されましたので、「はい」と応じました。
 父は小学生のころから涙もろく、先生にしんみりと話をされるとしきりに涙が出たというのですが、軍隊の私的制裁でいくらなぐられてもぽろりともしませんでした。それどころかかえって勃々たる反抗心がみなぎり上がって、何を、と歯を食いしばるばかりばかりでした。これこそがまさしく本当の軍人精神なのだと、父は後々まで思いました。
 第一班に続いて第二班へ。それから第三班にと向うと、到着が早すぎたのか、みなががやがやとしていました。見ると一通の手紙を読み合っていますので、「ははあ、これだな」とひそかに合点しました。この手紙に何事か父に不利益なことが書かれていて、第一班から順に各班に回覧されていたのですが、相も変わらぬ殴打を受けて次の班に行くと、その手紙がすでに届いていて机上にありました。いったい何が書かれているのかと、広げられた便箋を早読みすると、たちまち事情が飲み込めました。父が近江屋の婿さんに話したことがそっくりそのまま書かれていたのでした。
 軍国主義の時代で、国運を賭した大戦争のさなかでもありますし、国民は軍人を信じて尊敬していました。そんなおりに、軍隊は土方の飯場みたいなところだとか、軍人精神とはなぐられても涙の出ないことだなどと発言したのでは、殴られても無理からぬことでした。
 手紙の末尾には、第十五連隊始まって以来の不祥事であると、中隊長の訓告と同じ言葉が書かれていました。さらに、現在の十五連隊の軍紀のたるみを見るとき、皇国のため憂いに堪えぬ、軍隊教育の方針を疑うと批判が加えられ、「勢多郡在郷軍人連合分会長○○中尉」と署名されていました。近江屋の婿さんの密告状ですが、後日判明したところによるとこれは連隊長に宛てたものであり、ほかに中隊長宛のものと、連隊の教育係本部宛のものもあったとのことでした。
 さんざん殴られて班にもどりましたが、廊下の鏡で顔を見ると、得体の知れないじゃがいものように腫れ上がっていました。

父を思う(32) 軍人精神

 高崎十五連隊の兵舎の入口には「私的制裁の撲滅」と墨痕淋漓たる文字が掲げられていたそうですが、これはつまり軍隊には私的制裁が横行していたということにほかなりません。野間宏の小説『真空地帯』にもそんな情景が描かれていて、野間は私的制裁がまかり通る軍隊を指して真空地帯と言い表したのですが、その意味では高崎十五連隊もまたたしかに真空地帯でした。新兵さんが先輩の兵隊さん、すなわち「古兵殿」の理不尽ないじめにあい、何かというとなぐられるのですが、父もよくなぐられました。ですが、別に自分が悪かったと反省しているわけではありませんから、痛くて泣くということもなく、悔し涙を流すというのでもなく、強く反発する心が起るばかりで、決して泣きませんでした。父はこの状況を指して「なぐられても涙が出ない」と言い表したのですが、軍人精神とは何かという近江屋の婿さんのお尋ねに対して「なぐられても涙が出ない精神」と応じたのは、三ヶ月の軍隊生活で受けた私的制裁の印象があまりも強かったためだったのでしょう。
 軍人精神とは何かという問いに対する模範解答としては、「軍人勅諭の精神を奉じ、一死国に報ず」とでも言えばよく、軍隊内で上官に問われたなら、父も必ずそう応じたにちがいないのですが、郷里の山村で仲良く付き合っていた近江屋の婿さんに尋ねられたのですから気持ちもゆるみ、ついつい正直に答えたのでした。それに、近江屋の婿さんは瀧川事件に連座して京都帝大を追われたという経歴の持ち主でした。社会主義者というわけでもなかったのかもしれませんが、大学の自治とか、自由主義とか、進歩的とか、何かしら主義主張に信念があって国家権力に反発し、筋を通して大学をやめたという印象がありました。
 ところが、父の返事を聞いた近江屋の婿さんは、明らかに顔色が変りました。
 三日間の外泊が終って帰隊して、「外泊異状なく帰りました」と報告したところ、ひとりの下士官が父をじろりと見て、「貴様、本当に異状なかったか」と問いただしてきました。「はいっ」と父。ところが帰営三日目、中隊全員に集合がかかりました。何かしらたいへんな事態が起ったようでした。

父を思う(31) なぐられても涙の出ない精神

 瀧川事件というのは京都帝大法学部の瀧川幸辰(たきがわ・ゆきとき)教授の学説が問題視されて引き起こされた事件で、「京大事件」と呼ばれることもあります。瀧川教授の専門は刑法ですが、昭和7年10月、中央大学法学部において「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という講演を行いました。『復活』はトルストイの作品ですが、瀧川教授はこの講演で犯罪が起る原因を語り、国家の組織が悪いから、と説明しました。瀧川教授の学説に基づく発言ですが、これが問題になって、翌昭和8年、京都帝大から休職処分を受けることになりました。左翼思想の持ち主と見られたのですが、昭和初期の思想状況を反映する事件でした。
 京大法学部の教官と学生たちはこの処分に反発し、さまざまな動きが起りました。一時は学生たち全員が退学届を出すというほどのこともあったのですが、それから実際にはどうなったのか、実はよくわかりません。教官たちも辞表を出しましたが、しばらくして復職したり、そのまま他大学に移ったり、詳しい消息が判明しています。学生たちの行方はわかりませんが、思うに退学届はたいてい受理されず、事態は終結したのではないでしょうか。もっとも中には過激な学生もいたでしょうし、復学をいさぎよしとせず、骨のあるところを見せて断然退学したか、あるいはまた大学側から処分を受けて大学を離れざるをえなかった学生もいたかもしれません。昭和40年代のはじめに学生運動が大いに盛り上がったときも、そんな傾向がみられました。
 調査をしたことはないのですが、近江屋のお婿さんはたぶん法学部の学生で、瀧川事件の渦中にあって退学を余儀なくされました。群馬県の郷里にもどり、「近江屋の婿」になったことは既述の通りです。近江屋は村でも屈指の資産家ですし、これで生活はおさまったことになったのですが、お婿さんは毎日が退屈でした。山間の村のことで、上の学校に進む人もごくわずかでしたが、お婿さんはといえば中退とはいえ帝大まで進んだ学歴の持ち主ですし、そんな人は村にはいませんでした。近江屋の仕事などする気になりませんし、かといってほかに何もすることがありません。それで話し相手がなく、毎日のように花輪小学校に現われて、父をつかまえて遊び相手にしたのだそうです。囲碁をやったり、テニスをやったり、忙しい中にも時間を見つけては付き合って、ずいぶん親しくなりました。ところがこのお付き合いから意外な波紋が生じ、父の軍隊での立場を苦しめることになりました。
 父は昭和18年6月20日に召集を受けて高崎の歩兵第十五連隊に入りましたが、三ヶ月の教育期間がすぎて、一期の検閲となりました。これが無事に終了してやっと一人前の兵隊になったというので、外泊三日が許されました。帰宅するのです。
 高崎から両毛線で桐生に向い、桐生から足尾線で花輪に向うと、車中に近江屋の婿さんがいました。昭和8年の瀧川事件から10年の歳月が経過して、婿さんは予備役の陸軍中尉で、在郷軍人会の会長になっていました。軍隊にあっては将校と兵隊では格差が大きすぎてうっかり口をきくこともできませんが、かねてから気安く付き合っていたものですから、兵隊の位のことはすっかり忘れ、話をしながら花輪駅から連れ立って歩きました。
 婿さんがふと、
 「軍隊生活はどうかね。」
と尋ねました。
 「はあ、昔聞いた土方の飯場みたいなものですね。」
と父。すると、
 「軍人精神とはどんなものと思うかね。」
とお婿さん。これを受けて、
 「はあ、なぐられても涙の出ない精神と思いました。」
と父が応じました。これが「なぐられても涙が出ない」という言葉の初出です。

父を思う(30) 「近江屋の婿」の話

 法要と納骨の後の道楽園での食事会の席で、60年前の4人の桐工の卒業生のおひとりの島田さんにお願いして、献杯のあいさつをしていただきました。島田さんは献杯に先立って在学時代の思い出を語りましたが、それは「殴られても涙が出ない」というエピソードでした。これだけでは何のことかわかりませんが、父の軍隊時代の生活と関係があり、父の生前にはぼくもしばしば聞きました。
 父は「先生は辞めても先生」という考えの持ち主ですから、花輪小学校でも桐工でも教え子たちには大いに親しまれたのですが、どういうわけか、上の立場の人、すなわち上司とはたいていうまくいきませんでした。小学校時代のことは聞いたことがありませんが、桐工時代には校長を嫌い、村の教育長時代には村長を嫌っていました。軍隊では上官というか、新米の二等兵のときは古兵殿、すなわち一等兵や上等兵や下士官など先輩の兵隊たちと要領よく付き合うことができず、よく殴られました。父が書いた『あゆみ』や『雑兵物語』を見るとそのあたりの消息を伝えるエピソードがいろいろ書かれていますが、中でも父にとって際立った大事件を伝えているのは「近江屋の婿」の話です。
 近江屋というのは父の生家の近くにあった雑貨屋で、生活必需品がなんでも売っている村のデパートのようなお店でした。精米所もやっていて、小学校を出たばかりの時期の父がアルバイトをしたのもその精米所でした。近江屋に一人娘がいて、そこに群馬県内の少し遠くの地域からやってきて婿になったのが「近江屋の婿」です。名前もわかっているのですが、ここでは「近江屋の婿」とのみ呼ぶことにしておきます。
 近江屋の婿さんはもともと商売人ではなく、静岡高等学校から京都帝大に進んだ秀才で、京大ではたしか法学部だったように思いますが、在学中に「瀧川事件」に遭遇し、大いに活動したために退学処分を受けました。そのため卒業にはいたらず、帰郷してぶらぶらしていたところ、近江屋の婿に入らないかという話が起り、これを受けて村にやってきたという次第です。
 瀧川事件が起ったのは昭和8年でした。

父を思う(29) 35日目の法要

 12月23日は天皇誕生日でしたが、父が亡くなってからちょうど35日目にあたるというので、村のお寺で法要が営まれました。郷里のお寺で法要の後、境内のお墓に納骨し、それから親戚と「組合」(近所の人たちの集まりで、冠婚葬祭などのときに助け合うという主旨の相互互助組織です)の人たちといっしょに隣町の「道楽園」というお店に向いました。渡良瀬川沿いの山間にある郷土料理の店で、すぐ近くに貴船神社があります。
 道楽園をはじめたのは桐工の卒業生で、父の教え子です。開店にあたってテーマソングがほしいと思い立ち、父に相談したところ、父が作詞して「道楽園音頭」という歌ができました。当初は独自のメロディーがなく、東京音頭の曲に合わせて歌われていましたが、少し後に関根さんという作曲家の手で曲がつけられました。関根さんも桐工の卒業生で、父の教え子です。
 道楽園の初代の店主はもう亡くなり、今は二代目の店主が経営しています。箸の袋に道楽園音頭の歌詞が印刷されていて、そこに作詞家として父の名が記されています。その道楽園で法要後の食事会が行われました。
 法要、納骨、食事会と続く一連の法要の場に、桐工の卒業生が4人参加してくれました。父は昭和17年4月に桐工の教員になり、昭和18年6月20日から終戦まで兵役にあり、復員後、桐工にもどって昭和49年度まで勤務しました。この間、担任したクラスの教え子は439名にのぼりました。
 召集が解除されて帰郷したのは昭和20年9月8日です。桐工に復職し、この年の春に入学してきたクラスの担任になりました。法要に出席してくれた4人の卒業生は、その戦後の最初のクラスの生徒たちでした。
 この学年の生徒が入学したのは昭和20年4月で、課程は航空機科だったのですが、終戦を受けて、秋10月、機械科と改称しました。昭和23年4月に学制が変り、桐生工業学校は新学制下での高等学校となり、桐生工業高校と改称しました。略称は桐工で、これは変りません。このとき在校生はどうなったのかというと、多くは新桐工にそのまま進学して高校生になりましたが、中には進学せずにこの段階で桐工を去った人もいたのだそうです。旧桐工には小学校の尋常科を出て入ってくる生徒もいれば、高等科の一年まで、あるいは二年まで終えてから入学する生徒もいました。青年学校ができてからは、青年学校を卒業した後に入ってきた生徒もいたというふうで、同級生の年齢はまちまちでした。それで、昭和23年4月の段階ですでに3年間在籍したのですし、それからさらに三年間も学校に通うのは、年齢が少し上の生徒たちにはつらいことだったのかもしれず、そのため桐工を離れる道を選択した人がいたということです。そんなことを食事会の席で教えていただきました。
 新制度の高校に進んだ生徒たちは三年後の昭和26年3月に卒業したのですが、昭和20年春の入学時から数えると在籍帰還は満6年に及びます。昭和20年の秋から父がクラス担任になりましたので、5年半という長期にわたっておつきあいが続いたことになります。戦後の混乱期ならではのやや特異な現象ですが、担任の遅々と生徒たちの交友はその分だけ濃厚になったようで、卒業後60年も経過したというのに、こうして法要に参加していただきました。同窓会を山禄会といい、父が命名したということでした。

父を思う(28) 召集令状

 昭和17年4月に桐工に赴任して、小学校時代とはまったく様子の異なる世界に飛び込んだ父でしたが、すでに戦時中のことでもありましたし、この生活は長く続きませんでした。父は二十歳のときの徴兵検査では第二乙種に格付けされたのですが、昭和17年の時点ですでに数えて30歳になっていたのですからまさか召集されることはあるまいと、一抹の安堵もありました。ところが昭和18年6月になって召集令状が届きました。召集令状に記された入営の日付は
昭和18年6月20日。この日までに高崎の歩兵第十五連隊に赴かなければなりません。次に引くのは前日の日付の日記です。

昭和十八年六月十九日(土)曇 雨
〈応召の前日何かと心ぜわし。来るべき日の遂に来たまでである。家あり、妻あり、子あり。然して月給あり。又憂なし。頭がぐりでつるりとする。徒らに大言すべくなし。淡々として行かんのみ。之をもって十何年(十五年)の日記は丸を打つ。◯〉

 最後に本当に「◯」が書かれています。「妻あり」というのはぼくの母のことで、父は昭和16年5月に結婚しました。母も村の小学校の教員で、仲を取り持ったは花輪小学校の佐藤校長先生でした。
 文検のほうは昭和16年度に国語科に合格したのに続き、翌昭和17年度には漢文科にも合格し、昭和18年3月10日の官報に掲載されました。この漢文科の受験については詳しいことは何も書き残されていないのですが、このころになるとだいぶ実力が身についていて、さしもの難関の文検も合格して当たり前みたいな感じになっていたのでしょう。考えてみる、なにしろ学歴は小学校のみなのですから、誰かに教わるということがまったくなく、完全に独学で、記紀万葉から四書五経、国文学史、国文法、漢文法等々、何から何まではじめて見るものばかりでした。膨大な古典の山のどこから出題されるかわからないのですし、それに加えて諸先生の気まぐれな口述試問を乗り越えていくのは並大抵の道のりではなかったと思います。
 昭和18年3月末、桐工の日々がちょうど丸一年経過したころ、ぼくの一番上の姉が生まれました。それから二年目が始まって三ヶ月目に召集を受けました。父の遺作に『雑兵物語』というのがあります。「雑兵」は「ざっぺい」と読み、父本人を指しています。学歴もなく、30歳にもなった兵隊で、兵隊の位でいうと最下級の二等兵に配属されました。この状況を指して「雑兵(ざっぺい)」と自称したのでしょう。

父を思う(27) 桐工の日々

 桐工の校長の西田博士は実際には桐工に来校することはなく、加賀山先生がいっさいを取り仕切っていました。それならその加賀山先生というのはどのような人かというと、西田先生の一番弟子とのことです。加賀山猪三郎という名前の人で、著作だったか、自叙伝だったか、見たことがあります。西田先生と同じ染色学者だったような印象がありますが、詳しいことはわかりません。
 昔は位階勲等の意味が重かったようで、西田先生はつねづね、おれは陸軍大将と同等以上だと言っていたのだそうです。当時の学校には配属将校といって現役の陸軍将校が配属され、生徒に軍事教練を行いました。たいてい尉官、すなわち少尉、中尉、大尉というところで、まれに少佐が配属されたりしたようですが、桐工では何しろ校長が大将だというのですからそうもいかなかったとみえて、配属将校の格付けも高く、大佐か少将になりました。具体的に名前を挙げると、広瀬武夫の甥の広瀬少将や、後に高崎の第15連隊の連隊長になった桜井大佐などがいたのだそうです。
 西田博士は天下無敵を地でいくような人物でした。大酒を飲んで大道に寝込んだりすることもありました。ヨーロッパ視察のおりには敦賀で費用の全額を飲み干してしまい、「洋行費送れ」との電報を受けて加賀山先生が大忙しで同窓会から集金して持参しました。そんな豪傑談がいくつも語り伝えられていました。
 桐工の校舎は道路に平行に建てるようにという西田校長の命令でできたとのことで、完全に北向きでした。冬は極楽、夏は極熱というふうで、妙な建物でした。これに加えて伝統だといって生徒はスリッパ禁止で素足だったのですが、みな我慢していました。
 家庭訪問もやってみましたが、生徒の出身地はきわめて広範囲にわたり、桐生市内のすみずみはもとより隣の足利市(足利は栃木県です)に及び、市外は市外で粕川村から大胡町にいたるというありさまでした。大胡はすでに前橋の近くですし、現にいまは前橋市に編入されています。
 あちこちから担任招聘の声がかかりました。三、四人の父兄がグループを作って招待するというので、入ったこともないような建物に請じ入れられて接待を受けるのですが、ある父兄は150円という額を支払っていました。そのとき招待されたのは一年生の担任になった三人の先生で、それに対して父兄ひとりが150円を支払ったというのですが、これは(たぶん桐工の)学校長の一ヶ月分の月給に相当する金額ですので、驚きあきれるしかありませんでした。農村と都会はこんなところが全然違っていました。
 学校の行事も小学校とはまるでちがいました。夜間行軍と称して一晩中歩き回ったり、対抗演習と称して小銃の打ち合いをしたりで、「ガス銃の大砲」(これはどのようなものなのでしょうか)まで出る始末でした。
 桐工後援会というものがあり、生徒から徴収して先生に月額15円ほどを給しました。このあたりも一般社会とだいぶ異なるところです。桐工後援会は、今でいえばPTAみたいなものだったのでしょうか。
 目を見張らされる出来事が相次ぎましたが、それでも籠球部(ろうきゅうぶ。バスケットボール部のことです)や競技部(陸上競技部のことでしょうか)の部長になったり、バレー部を創設したり、新米ではありますが、一廉の中等教員ぶりでした。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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