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父を思う(10) 養蚕の話の続き

 養蚕の話をもう少し。養蚕は農村で現金収入を得るための殆ど唯一の手段でした。ほかにもまったくないというわけでもなく、たとえば父は近所の精米所で手伝いを頼まれたことがあります。小学校を卒業してからというのですから、昭和3年から4年あたりにかけてのことと思います。農作業と養蚕の合間に精米所で朝の7時から夕方の5時まで機会の番をして、賃金は80銭ほどでした。小遣い程度にはなりましたが、不定期のアルバイトですから当てにすることはできず、現金収入の本道はやはり養蚕のみでした。
 糸の価格がおそろしく不安定なことは前述の通りですので、父が子供心に思ったことには、養蚕一本でやっていくのはまったく容易ならざるものであるから、むしろ桑を売るほうがよいのではないかというのでした。そこでそんな意見を母親に具申したところ、返事はいつも決まっていて、「とんでもない。先祖伝来のものが止められるか。先祖に申し訳がたつか」というのが母親の言い分でした。というわけで、みすみす借金がかさむのを目の当たりにしつつ、春になるとまたしても掃き立てが始まるのでした。
 養蚕の仕事は苛酷でした。春になると籠洗い、竹洗いの準備が始まります。「この目」と称する十二、三段の棚を作り、竹で編んだ平たい籠を差し込みます。ここで蚕を飼い、手を加えます。低いところは二人で出し入れし、高いところは台にのぼってひとりで操作します。
 父の回想記に沿って「この目」と書きましたが、これはつまり「おかいこ棚」のことで、「目棚(めだな)」ともいうのではないかと思います。
 第一回目の給桑は朝の5時。男は桑取りに畑に出て、女と子供はこの籠に網をかけて蚕を上に移し、ひとつひとつ下の残滓を籠にあけ、一杯になると籠を背負って畑に埋めました。残滓というのは蚕の死骸のことで、消毒もろくろくやらないものですから、上簇(じょうぞく)の間際になると蚕のミイラとか、頭が透き通る「空頭蚕」が必ず出ました。せっかくの粒々辛苦も水の泡となるわけですから、情けない仕事でした。
 上簇(じょうぞく)というのは、成熟した蚕を蔟(まぶし)、すなわち蚕が繭を作るための枠に移し入れることです。
 第二回目、第三回目と給桑は続きます。1齢から3齢にかけての蚕の幼虫のことを稚蚕といいますが、この時期と上簇後には保温のため炭火を使いますから、夜中に一度は見回らなければなりません。子供は早く寝るとしても、大人はおちおち寝ているひまもないほどの重労働でした。蚕籠を二階からおろし、縄網を洗うなど、単に重労働というだけでは足らず、重重労働ですが、そんな言葉はありませんから、目方が何匁へった(体重が何キロ減少した)という言い方をしました。
 蚕は孵化してから四回にわたって脱皮を繰り返します。そのつど眠るのですが、最後の第四回目の眠りのことを四眠といい、このときの二日間ほど眠ります。眠っている間は桑を食べませんが、これがすぎると糸をはいて繭を作る段階に進み、とたんに大量の桑が必要になります。畑に桑があるうちは間に合いますが、たちまち足りなくなると桑を求めてさまようことになります。始めからわかっていることですから計画を立ててたいしょすればよさそうなものですが、そうはならないところが農村の生活で、惰性というか、毎年決まったことを決まった通りに繰り返し、同じ場面で同じように苦しみました。桑がないといってはあわてて探し、さんざん苦労した末にようやく見つかると大喜びするというありさまでした。こんなふうでは養蚕などとてもやる気がせず、先祖に申し訳がたつかと言われても、心が離れていくのは仕方のないことでした。
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父を思う(9) 貧困と養蚕

 父が上の学校に進めなかったのは、長男は家を出てはならないという母親の考えに基づいていたのですが、現実にはもうひとつ、貧困のためでした。家の経済に余裕があれば長男が家を出ても立ち行く道理ですし、中学から高校、大学へと進む道もありますし、師範学校を出て小学校の教員になる道もありました。師範学校を出ていれば高等師範学校に進む道も開かれてきますし、そうすれば中学校や高等女学校などの教員になることもできました。岡潔先生が粉河中学に入ったとき、英語の先生は内田與八先生という人でしたが、内田先生は徳島県師範学校から東京高等師範学校に進み、卒業後、各地の中学校の教員になり、粉河中学で岡先生に出会いました。
 どうして貧困に苦しめられたのかというと、具体的には父親、すなわちぼくの祖父が早世したためでした。父が数えて三歳のときというと大正5年のことで、この年、父親が亡くなったのですが、数えて39歳でした。父と母親と祖母(ぼくの曾祖母)が残されました。
 父には父親の記憶は何もありませんが、後々伝え聞いたという話では、何でも32歳くらいのときに区長になり、衛生組合やお寺の新築委員などをつとめたとか。お寺の新築のおりには連日家に寄りつかずに走り回っていて、後日、母親が繰り返し口を言っていたそうです。この当時、旧家と称する家が村に何軒かあり、そんな家の当主たちは仕事をせずにぶらぶらと遊び回り、将棋を指したり小料理屋を飲み歩いたりしていて、これを「羽織男」と称したのだそうですから、借金がかさむばかりでした。我が家の当主も羽織男のひとりでしたので、父の没後、近所の人の立ち合いのもとで山林、畑、家財道具を売り払いました。借金の返済にあてたのですが、それでも足らず、父が小学校を卒業して身辺を見回してみると、膨大な借金に取り囲まれて身動きのならない状態でした。祖母と母と少年の父。なるほどこれでは上の学校に出すことなどまったく考える余地がなかったにちがいありません。
 教員になろうと思ったのも貧困と関係があります。それはつまり借金を返済しようと決意したためなのですが、家業の農業と養蚕ではこれは不可能です。というか、不可能であることを身をもって痛感しました。農業は現金収入になりませんが、養蚕はなります。なることはなりますが、ばくちのようなもので、当たり外れが大きすぎて頼りにならず、借金は増えるばかりで減ることはありません。
 群馬県では赤城山の麓の周辺の火山灰土はみな養蚕地帯でした。養蚕は春から秋にかけての仕事ですが、桑園には桑しか作れません。蚕は桑の葉を食べて育ちますから、桑の葉を取るのが仕事の基本になりますが、霜の被害を恐れて桑はみな立ち木ですから、桑の葉を取るのはそれはそれで専門的な手間仕事になります。若い男衆を雇って桑の葉を集め、桑取り代として手間賃を払います。蚕を育てて繭を収穫するところにこぎつければ現金収入になりますが、育てる間の生活費は借金で、買い取り先の商店が通帳で(すなわち「つけ」で買ったことにして)品物をわたしました。
 大正の末期のことですが、ある年、突如として一貫匁(3.75キログラム)12円になりました。価格の感覚がよくわからないのですが、たいへんな高額だったようで、養蚕好況の声で湧きました。そこで翌年は掃き立て(孵化した蚕を蚕座(さんざ)に移して、飼育(しいく)を始める作業です。羽羽ぼうきなどを使って集めましたので「掃き立て」と呼ばれました)も増やし、資金も用意し、事故保有の桑園以上に桑を買い入れてとりかかりました。桑の取り賃は高騰しましたが、勢いの赴くところ、目先の費用などは問題になりませんでした。
 ところがいよいよ繭を売る段になってみると、価格は一貫匁7円、6円と大暴落。12円の夢があって励んできたのですから、これではとても売れないとどの家も様子を見る構えになり、炭火の乾燥室を作り、乾繭にしてもちこたえようとしました。ところが価格はぐんぐんと下がり、2円50銭、2円となり、ついには1円50銭の声がかかりました。これでは借金は返済どころか増えるばかりで、積もり積もった借金は1300円にもなるというありさまでした。これが当時の養蚕の実態です。
 

父を思う(8) 花輪小学校に就職する

 学歴が小学校までで終り、テキストを購入することもできず、卒業した小学校の先生が学生時代に使っていた教科書を拝借して勉強するしかない状態でしたし、農作業と養蚕の合間を見て独学に徹して小学校の教員免許を取得するのは実にたいへんなことでした。父の母、すなわちぼくの祖母は父が勉強するのが気に入らず、昼間から本など読むのは怠け者だと言って立腹していたそうですが、これはつまり百姓に学問はいらないというほどの考えです。後年、父はそんなことを子供たちに語り、今の親は子供に勉強、勉強と言うと笑っていました。子供の側から見ると、親がすぐ勉強、勉強と言うのがうるさいというので反発しがちになるものですが、これまた父の体験とは正反対で、仕事をせずに勉強だけしていればいいのはまったくありがたいことで、夢のような話ではないかというのでした。
 検定試験に合格するのはあまりにも敷居が高く、難事中の難事ですが、これは傍系として、小学校の教師になるためのもっとも通常の道筋は師範学校を卒業することでした。師範学校の制度もまた複雑な変遷をたどりましたが、昭和初期でしたら二部制になっていて、高等小学校を卒業して進学するのが師範学校第一部、中等学校卒業者を対象とするのが師範学校第二部でした。卒業後は教職につくことになっていましたので、授業料がかかりませんでしたから、比較的貧しい家の秀才が集まる傾向が見られたと言われています。父も該当したと思いますが、教師になって県内のどの地方に赴任することになるやもしれず、長男は家を出てはならないという母親のきついお達しがある以上、望めなかったのでしょう。群馬県師範学校は前橋にあり、入学すれば即座に家を出なければなりませんでした。
 教師になると家を出てしまうというのなら、独学といえども教師をめざして勉強するのは許せない道理ですが、このあたりは祖母も明確な認識を欠いていたのでしょう。とにかく家にいて朝から晩まで仕事をしているのですから、暗くなってからかってに本を読むのをやめろとは言えなかったのでしょうし、それに、試験に合格して教師になるという道筋に現実味が感じられなかったのかもしれません。高等小学校を終えてすぐの夏8月には、尋准の試験を受けるために校長先生に連れられて前橋に出かけましたが、そのときはさすがに母親も気を遣い、汽車賃や小遣いを工面してもたせてくれて、途中ですられるな、落すなと案じていたのだそうです。
 師範学校に入るには入学試験がありましたが、ここを乗り越えて入学してしまえばあとは卒業するばかりです。総じて戦前の学校は戦後に比べてはるかにレベルが高かったとのではないかと思いますが、学校で行われる学期末試験などは、授業を聴いて、その範囲から出題されるのですから対策も立ちますし、やさしい試験です。現在の大学でも、むずかしいのは入学試験だけで、入ってしまえばあとは簡単で、授業に欠席を続けるとか、定期試験を受けないとか、よほどのことをしない限り、単位を取れないなどということはまずありません。それどころか学校側も留年が出ないように気を遣いますし、留年して4年生に留まっている学生については特別に留意して、卒業してもらおうと配慮するほどです。
 さて、尋准に続いて尋本正の試験にも合格しましたが、教員資格を手にしていても実際に教職につけるかどうかはまた別の問題で、このあたりは現在も同様です。師範学校を出ていれば、もともと教師を養成するための学校なのですから、就職がないということはありえませんでした。資格のみあって学歴のない場合はどうなるかというと、偶然の成り行きにまかせるほかはありません。
 尋本正の教員免許状を受けたのが昭和7年3月2日。この年の春になって、耳寄りの話が届きました。花輪小学校の高等科が一年、二年と分れ、学級増になることになったというのですが、ということはつまりそれまでは高等科は複式学級で、二学年が合わせてひとつのクラスを作っていたのでしょう。首席訓導の恩師の星野先生が教えてくれました。学務委員は真向かいの家の村田さん。学務委員というのは、町村内の学校事務を管理するという役目の人で、戦後は廃止されましたが、強いて対比すれば教育長のような感じでしょうか。岡潔先生の父は紀見村の学務委員でした。
 昭和7年4月の時点では花輪小学校の校長は面識のない先生に代っていましたが、とにかく履歴書を出すようにの話があり、学級増も決まり、4月20日付で任用されました。月給は30円。当時の中学校の卒業生の初任給は28円でしたから、優遇と思います。ただし、尋本正の免許はもっていましたが、辞令は代用教員で、無資格者の称号でした。
 師範学校第一部の修業年限は5年ですから、卒業の年の3月末の時点で満19歳です。父の生誕日は大正2年4月18日ですから、昭和7年4月20日の時点で満19歳を二日だけ越えていて、もし師範学校第一部に進んでいたなら第四学年に在籍中の年齢でした。

父を思う(7) 検定試験(その3)

 実技を伴う科目のひとつに「手工」がありました。音楽の場合と同じく理論の筆記試験は問題ないとして、実際に課題を与えられた何かを作り、出来映えを評価されるのが、すなわち手工の実技試験です。父が受験したときは、「栓(せん)」という素材を与えられて、「相欠き(あいかき)」もしくは三枚組のお盆を作ることになりました。「相欠き」というのは聞いたことのない言葉ですので、調べてみたところ、何でも木と木をつなぎ合わせる方法のひとつで、つなぎ合わせる二つの木のそれぞれに同じ形の「欠き込み」を入れて合体させるのだそうですが、これだけではよくわかりません。三枚組のお盆のほうは、これはつまり大きさの異なるお盆を三つ作り、三枚を重ねて一組とするというだけのことと思いますが、たぶん三枚にするというところにこの世界の伝統があるのでしょう。いずれにしても試験の課題ですから、まず製図して目標を定め、それから作成に取り掛かることになります。
 父はどちらの課題を選んだのか、実ははっきりとわからないのですが、たぶんお盆を作ることにしたのではないかと思います。制限時間は二時間。きっちり製図して、慎重に板どりをして組み合わせようとしたところ、寸法に合いませんでした。どこかで間違った模様ですが、時間は刻々と迫ります。切羽詰まってふと浮んだ一案は、実物に合わせて製図を変更すればよいのではないかというのでした。できあがったお盆の寸法をはかり、図面を書き直したところ、正面図、平面図、側面図とも製図と寸分違わない作品ができあがりました。
 農業にも実習がありました。実習の中味も細かく決められていて、中耕(固くなった畝の間の土を細かく浅く砕き、通気性、透水性を高めること)、間引き、縄ない、剪定をこなさなければなりませんが、このうちとても手に負えないのが縄ないでした。縄をなうのはいわば名人芸の領域で、合格するまで練習を重ねるという構えに出ると、これだけで数年はかかるという代物(しろもの)でした。用意された縄の材料(麦か稲の藁でしょう)もよいものではなく、ひげがたくさん出て、きれいな仕上がりになりません。この仕上がり具合が合否の分かれ目でした。それかあらぬか農業の実習の試験には一度失敗し、二度目の挑戦で合格したのですが、二度目は一計を講じてはさみを持参して、ひげを切り取り、藁くずできゅっきゅっとこすったところ、実にみごとな縄ができあがりました。
 もっともこのような工夫ができるのもこの程度までで、あとはみなひとつひとつ攻略していかなければなりませんでした。図画の試験の実技では水彩画を描くことになりましたが、出題の先生がガラスのコップをひとつもってきて、これを写生せよとのこと。これには往生して、交渉というか、嘆願に及び、背景を色つきにしてほしい、できれば花の一輪も挿していただきたいと申し出ました。これは受け入れられたようで、まあまあ絵になりました。
 体操の実技には小隊訓練というのがありました。鉄砲の代りに棒をかついで練習しましたが、方向変換や隊形変換など、なかなかたいへんでした。
 こんな苦心を三年ほど続けた後にようやく全科目に合格しましたが、そのうえでなおもうひとつ、実施授業の試験が残っていました。学科試験の合格者を対象にして課されるのですが、◯月○日男子附属小学校において実施授業の試験をするというお達しがありました。男子附属小学校というのはよくわかりませんが、師範学校は男の教師を養成する学校で、女性教員の養成のためには女子師範学校というのがありました。群馬県でも、群馬県師範学校と群馬県女子師範学校は別の学校で、どちらにも小学校が附属していました。そこで、男子師範学校の附属小学校を指して、男子附属小学校と称したのであろうと思います。生徒は男子のみでした。
 実施授業の試験対策は難問で、参考書を読んでも仕方がありませんし、大いに困惑した模様です。くじ引きで小学校四年の国語の授業を引き当てました。苦心の授業の後、四人の試験官による口頭試問がありました。この間にもおもしろいエピソードがいくつも残されていますが、経緯を省略して成り行きのみお伝えすると、ともあれ合格し、昭和7年3月2日付で「尋常小学校本科正教員」の免許状を受けました。

父を思う(6) 検定試験(その2)

 音楽の試験では楽典の筆記試験のほかに、器楽と唱歌が伴いました。楽典は教科書を読めばよく、唱歌はあまり自信がなかっうたようですが、何はともあれ歌えばよいとして、問題は器楽でした。器楽というと身近に考えられるのはオルガンの演奏ですが、はたしてオルガンをもっている家庭が村にあったのかどうか、大いに疑問ですし、そんな家があったとしても借りて練習するわけにもいきません。
 小学校にはオルガンが二台ありました。ひとつは儀式用のもの、もうひとつは各教室持ち回り用のものでした。そこで小学校の諸先生にお願いしてと儀式用のオルガンを使わせてもらうことにして、昼間は仕事がありますから、夜、暗くなってから学校に出かけて練習しました。当時の小学校には小使いのおばあさんという人がいて、学校に住み込んでいたのですが、便宜をはかってもらいました。
 小学校に小使いのおばあさんもしくはおじいさんを配置するという制度は戦後も存続し、ぼくの体験では昭和30年代まではたしかに小使いさんがいて、学校の管理運営上の雑事や生徒の身の回りのことなどに対応していました。一例を挙げると、昭和30年代の前半は山村の小学校に給食の制度が行き渡る前でしたので、生徒たちはみなお弁当を持参したのですが、冬などはそのままでは冷えてしまいます。それで小使い室の一角に大きな蚕棚のような暖房設備があり、生徒たちは毎朝、授業が始まる前にまずはじめに小使い室に行って、そこにお弁当を置いてから教室に向かったものでした。午前中の授業が終り、お昼の休み時間になると、クラスの担当者が小使い室にお弁当を取りに行くのですが、それまでの間、管理するのは小使いさんの仕事のひとつでした。
 暖房は石炭ストーブ(石油にあらず)が使われて、教室にも小使い室にも職員室にも石炭ストーブがありました。石炭を管理するのも小使いさんですが、
 今、「生徒」と表記しましたが、正確には「児童」というのでしょう。初等教育を受ける者は児童、中等教育を受ける者は生徒、高等教育を受ける者は学生。戦前も戦後も小学生は児童、戦前の中学生は生徒、戦後の中学生も生徒。戦前の高校生は学生。戦後の高校生は生徒。大学生は戦前も戦後も学生といったところでしょうか。戦前の高等小学校の在籍者も児童ですが、戦後は中学校に該当し、生徒になりました。高等学校の位置づけも戦前は高等教育の場所だったのが、戦後は中等教育の場所になり、何だか各付けが低下したような印象があります。
 戦前の高等学校は戦後の新制国立総合大学の教養部に位置を占め、高等教育の場であることは変らなかったものの、専門学部の下受けというか、高等教育は高等教育でも、何だか格下のような感じになりました。戦前の高等学校はそうではなく、帝国大学と同等で、しかも帝大とは異質の独自の教養教育の場でした。深い教養の土台の上に専門の学問を構築していくという構えになっていたのですが、戦後の国立総合大学ではこの構えが形骸化し、少し前のことですが、とうとう教養部の廃止という大変動に遭遇することになりました。戦後の教養教育は結実せず、大失敗に終ったのですが、戦前と戦後ではどこがどのように異なっていたのか、大いに再考を強いられる課題です。
 この件に関連してひとつだけ留意するべき事例を挙げると、戦前の高等学校が戦後の国立大学の教養部になって生き延びたのに対し、東京大学では例外と見られる現象が起りました。すなわち、戦前の第一高等学校は新制の東京大学の教養学部になりました。「教養部」ではなく、「教養学部」。新入生の全員を受け入れて一般教育を担当するとともに、あくまでも一個の独立した学部として存在し、専門学部も大学院も備えていました。入試も学部学科ごとに合格者を決めるのではなく、大きく文科と理科に分け、各々を2個または3個に類別し(現在は3個ですが、かつて2個だった時期もありました)、第二学年の前半期までの成績と希望に基づいて進学先の専門学部学科を決めるという方式(進学振り分け、略して進振(しんふり)と呼ばれる制度です)ですから、戦前の高等学校の役割がそのまま生きて働いているように思います。
 戦前のシステムはかろうじて東京大学に残されたことになりますが、しかも日本の教育界を襲った教養部廃止の大嵐の中で東大だけが孤塁を守り、教養学部は今も健在です。この点をどう見るべきか、これもまた大きな課題ですが、戦後も60年を越える歳月が流れましたし、実情を見ると東大の進振はうまく機能しているようには見えず、かえって東大の教育システムにおける癌細胞のような感じでもあります。戦前と戦後では何かしら根本のところが大きく変質し、教育の世界もまた例外ではありえなかったのでしょう。
 大きく話がそれてしまいましたが、父の音楽の実技試験の話をもどすと、そんなわけで夜ごとに小学校に出かけて、ローソク一本、およそ一時間を目安にしてオルガンの練習に打ち込みました。オルガン教本の中から曲をひとつ決めて、そればかりを練習したというのですが、独学というか、まったくの初歩からの出発で、見よう見まねの完全に自己流の練習でした。これができなければ試験に通らないのですから、何が何でもやらねばなりませんでした。

父を思う(5) 検定試験(その1)

 小本生すなわち小学校本科正教員は師範学校の卒業生に授与される資格ですから、本科正教員の検定試験の準備をするためには師範学校の教科書が必要です。そこで父は小学校時代の恩師で群馬県師範学校の出身の星野先生に本を借りて読み始めました。
 このあたりの情報はいくぶん不正確なのですが、父の回想記によると、本科正教員のうち尋本正の試験は中学校三年程度、小本正に試験は中学校五年程度だったとのこと。受験科目も異なっていたと思われますが、たとえば尋常科には農業という科目はありませんから、尋本正の試験には農業という科目はなかったのでしょう。数学などは尋常科にも高等科にもありますから、尋本正と小本正では難易の異なる試験問題が課されたのであろうと思います。もっと正確に話を詰めるには、当時の尋常科、高等科の履修科目を調べる必要があります。父の小学校時代の成績表が遺されていますので、参照すれば諸事情が具体的に判明しそうですが、ここでは深入りは避けて後々の課題にしたいと思います。
 昭和3年の尋准の試験に合格し、翌昭和4年の年初に免許を取得したものの、昭和初期のことでたいへんな不景気ですから採用がなく、せっかくの免許状も空手形にすぎませんでした。それで相変わらず農作業と養蚕を続け、合間を見て本を読み、試験に備えたのですが、なにしろ仕事に生活がかかっているのですから手抜きをするわけにもいかず、わずか2時間ほどの勉強時間をとるのがせいぜいでした。春になると養蚕が始まり、6月の末には終ったようですが、試験は8月ですので、それからの二ヶ月は朝8時から午後まで、途中で休みを一時間とって、日に8時間の勉強時間を確保しました。
 完全な独学ですが、参考書は師範学校の教科書のみですので、科目によってはたいへんな苦労もありました。数学では代数はすぐにできましたが、幾何の証明には苦しめられました。たしかに補助線の弾き方など、簡単でいいですから、教師のアドバイスなどほしいところです。理科の試験では物理と化学で2時間。これに物理実験と化学実験がついて、それぞれ1時間。 博物は動物、植物、鉱物、生理、衛生、博物通論で2時間で、これに加えてそれぞれの分科科目について原本鑑定や解剖などがつきまといます。国語は漢文を含めて作文1時間、習字は楷書、行書、草書、調和体。音楽は楽曲1時間の筆記試験があり、器楽と唱歌が加わります。唱歌は明治の小学唱歌です。手工は理論と木工作です。
 一番の難関は教育学でした。教育学、各科教授法、学校管理法、和洋の教育史、心理学、論理学と分科して、それぞれに教科書が伴い、中には300頁もの本もありました。父は教育学のすべての教科書を日に20頁ずつ、丹念に読み解いたそうですが、すべての試験科目にわたってこんなふうに勉強を重ねていくのはまったく恐るべきことですし、よく3年間ほどで合格したものだとつくづく思います。

父を思う(4) 教員免許のいろいろ

 現在でも小学校の教員免許にはいろいろな種類があるようですが、戦前の小学校の教員免許はまた一段と複雑でした。種類がさまざまだったということのほかに、免許と免許の間に明確な格差があり、それに伴って取得の困難さの度合いも変りました。師範学校をはじめ、相応の学校を卒業すれば免許状を取得できましたが、学歴がない場合には検定試験を受けて合格しなければなりませんでした。
 父は昭和4年2月7日に群馬県で「尋常小学校准教員免許状」を受けました。これが一番格下の免許で、県が出す免許ですから、これをもっていれば群馬県内の小学校で尋常科を担当することができます。ただし、資格があるからといって自動的に採用されるわけではなく、このあたりの事情は今日も同様です。「尋常小学校准教員」は略して「尋准」と呼ばれました。
 昭和3年3月に高等小学校を卒業し、教員になろうという考えをもち、検定試験の情報を集め、農作業や養蚕や近所の精米所の手伝いの合間に独学を続けて8月に試験を受けて合格し、年が明けて免許状が届きました。独学には先生は不要ですが、テキストがなければ独学もできない道理ですから、歩行の花輪小学校の校長先生にお願いして拝借しました。レベルとしては高等小学校の教員用の本の程度というのですが、村には売っていませんし、校長先生に頼むほかはなかったのでしょう。算術、国語、地理、歴史等々、試験科目は十科目ほどで、唱歌、体操の実技と教育学の理論もありました。試験は前橋で行われ、日程は五日間。校長先生が連れていってくれました。
 尋准のすぐ上の教員は「小学校本科准教員」、略して「本准」です。「本准」と「尋准」を合わせて准訓導と呼びました。尋准の担当区域は尋常科に限定されていて、高等科で教えることはできなかったのですが、本准は尋常科と高等科の双方の教育を担当することができます。これが「尋常科」と「本科」の差ですが、どちらも「准教員」であるところは同じです。
 准教員の上に正教員の階層があります。正教員の世界も二分されていて、尋常科のみを担当できるのが尋常小学校本科正教員、高等科も担当できるのが小学校本科正教員です。前者を略して「尋本正」または「尋正」。後者の略称は「小本正」または「本正」です。「尋本正」と「小本正」を合わせて訓導と総称しました。
 父は本准は飛ばして正教員の試験をめざしました。尋准の試験に合格してからも独学を続け、昭和6年8月に行われた本科の検定試験に合格し、翌昭和7年3月2日付で群馬県から「尋常小学校本科正教員」の免許状を受けました。この時点で満18歳です。尋准から尋正まで三年間の歳月が流れていますが、これは試験の中味が尋准と比べて質量ともに格段にむずかしかったためで、一回の試験では間に合わなかったのです。尋正の教員免許状は見たことがなく、試験科目について正確な情報がないのですが、父は尋正に続いて本正にも合格し、昭和9年12月24日付で「小学校本科正教員免許状」を受けました(はじめ栃木県から受けました。事情は後述します)。この時点で満21歳。学歴との対応でいうと、師範学校卒業と同等です。
 その小本正の免許状の右上に小さい字で教える資格のある科目が列記されていますが、全部で15科目もあります。すべての科目についてそれぞれ試験が行われますが、各々の科目がさらに細かく分科し、しかも実験実技が伴います。15個の科目名は下記の通り。括弧内に記したのは分科、すなわち小分けされた科目名です。

 修身(一般理論と倫理学)
 教育(教育学、各科教授法、学校管理法、教育史、心理学、論理学)
 国語及漢文(現代文、古典を含む)
 数学(算術、代数、幾何、三角法、珠算、簿記)
 歴史(日本史と東洋史世界史の二科目)
 地理(日本、世界、地理通論)
 博物(動、植、鉱、生理、衛生、博物通論)
 物理及化学
 公民(法制及経済)
 習字(楷行草、調和体と理論)
 図画(理論と水彩画、用器画)
 音楽(楽典、理論と唱歌、ピアノ)
 体操(理論と実技、兵式、教練、小隊教練まで、歩兵操典、陣中用務令)
 手工(理論と実技)
 農業(理論と実技)

 これだけの科目が並ぶとまったく壮観で、とても合格できそうな気がしません。テキストの入手もたいへんそうですし、実験や実技など、どうしたらよいのでしょうか。

父を思う(3) 戦前の小学校

 戦前の教育制度のことなどをあまり詳しく紹介するのは煩雑にすぎるのではないかと思い、簡略にすませようとしたのですが、かえってわかりにくいのではないかと反省しました。真実は細部に宿っているということもありますし、それに、教師と医師という職業の姿について考えていくうえでも具体的な諸事実を諒解しておくほうがよいのではないかと思います。現在の制度とはまったく異なっていますので、類推を頼りに理解するのは不可能だからでもあります。
 それで話が少々細かくなりますが、昭和初期の時代の小学校の状況を回想すると、尋常小学校と高等小学校という二種類の小学校がありました。大正2年4月に生まれた父は大正8年に満6歳になり、翌大正9年の4月に村の尋常小学校に入学しました。村立の学校です。修業年限は6年で、このあたりは現在の小学校の課程と同じです。大正14年4月に6年生になり、翌大正15年3月末に卒業したのですが、卒業式の前に中学校の入学試験がありました。受験して合格したのですが、母親の反対にあって入学できなかったのは既述の通りです。義務教育はここまでで終りです。
 大正15年4月、高等小学校に入学しました。高等小学校の修業年限は3年と定められていたようですが、県によっては2年で終了というところもあったそうで、群馬県は2年でした。一般的な印象では高等小学校の修業年限は2年と決まっていたような感じがあり、3年の課程の高等小学校の実例は知りませんが、少々レベルの高い三年生用の教科書というのは確かに存在し、准教員(詳しくは後ほど)の検定試験問題はここから出題されたのだそうです。高等小学校は義務教育ではありませんので、進学しない人もいました。進学すると授業料を払うことになりましたが、進学率はだんだん高くなり、ほとんど義務教育のようになっていたのではないかと思います。
 小学校の名前を正確に表記すると「花輪尋常高等小学校」というのですが、これはどういう意味かというと、ひとつの学校に尋常小学校と高等小学校が同居している状態を指しています。父は昭和7年4月から花輪尋常小学校の教師になりましたが、昭和13年度は高等小学校第2学年の担任になりました。そのクラスは尋常小学校卒業したとき51名だったのが、36名になっていたというのですから、15名ほど減少しています。中学校(男子のみ)や高等女学校に進んだ児童が数名いたでしょうから、これを仮に5名として勘定すると、46名中36名が高等小学校に進んだことになり、かなり高い割合です。戦後の学制改革で高等小学校は修業年限3年の中学校になり、しかも義務教育になりましたが、新制の中学が義務化した背景には高等小学校の進学率が高まっていたという事情が控えていたのではないかと思います。
 花輪尋常高等小学校には尋常小学校と高等小学校が同居していましたが、高等小学校が併置されていない単独の尋常小学校も存在しました。岡潔先生が卒業したのは和歌山県紀見村の柱本尋常小学校ですが、ここには高等小学校はありませんでした。柱本尋常小学校を卒業した岡先生は粉河中学の入試に失敗しましたので、隣の地区の紀見尋常高等小学校の高等小学校に入学しました。一年間だけ在籍し、その間、中学入試に備えて勉強をし、今度は合格しましたので中退しました。そうするとなんだか受験のための予備校のような感じもありますが、これを要するに高等小学校にはそのような機能も兼ね備えていたということです。
 このあたりから話がさらに細かくなって、やや隘路に迷うというおもむきになってしまいがちで、ぼくもよくわからなくなってしまうのですが、先ほど尋常高等小学校には尋常小学校と高等小学校が同居していたと書いたのは、実情としてはそのように見えるということです。別々の二つの学校がひとつの建物に同居していたというのではなく、尋常高等小学校というのはあくまでもそのような名前のひとつの学校だったと理解してよさそうです。それでそのように見ると、尋常高等小学校は修業年限が8年で、その8年が二分されて尋常科6年と高等科2年(高等科が3年の県もあり、その場合には修業年限は9年になります)で構成されていることになります。
 尋常科6年が修了しても卒業式はなく、高等科まで合わせて8年目に卒業式が行われました。父は昭和3年3月に花輪尋常高等小学校を卒業し、卒業式で答辞を読みました。このとき父は満15歳です。

   答辭

 我等星霜此處ニ八ヶ年 顧ミレバ
 父母ニ手ヲ引カレ嬉々トシテ校門
 ヲクゞツテカラ今日マデ覺束ナゲナ
 手ヲ取ラレ アイウエオ ト書カセ或ハ
 過ヲ直ス時静カニ頭ヲ撫デ父母ノ
 愛子ヲ戒ムル如キ場ウ訓ヲ賜ハラレ
 タ諸先生ノ御恩ハは決シテ忘ラレマ
 セン
 我等ハ何ヲ以テカ此の高き御恩ニ報イ
 マセウカ
 又本日ハ來賓諸賢ノ臨場ヲ辱フシ
 校長先生カラハ御懇篤ナ御言葉ヲ
 賜リソゞロニ過去ヲ回想シ前途ヲ想
 望シマシタ
 我等ハ本日ヲ以テ愈々活社會ニ出デン
 トシテヲリマス 此の時諸先生ノ御場ウヲ
 守リ益々業ヲ勵ミ以テ諸先生ノ御恩ノ
 萬分ノ一ニ報イ且母校ノ名ヲ恥メナイコト
 ヲ期シマス 御別レニ臨ミ諸先生ノ益々
 多幸ナランコトヲ祈リマス

 昭和三年三月三十日

 答辞の実物は小学校に提出されたのだろうと思いますが、数年前に生家の二階で下書きを見つけました。雑多な文書類に混じってほこりをかぶって放置されていたのですが、発見して一読し、現在の小学校とはまったく異なる卒業式の姿の一端を垣間見たという感慨に襲われて、心から感動したものでした。

父を思う(2) 先生は辞めても先生

 戦前の学制を明治の初期あたりにさかのぼってその後の状況を観察すると、ひんぱんに変遷していますので、細かく紹介していくと果てしがありません。精密に描写する必要はないのですが、どうしてそんなことを書き始めたのかというと、学制そのものを説明するためというよりも、父のように上の学校(というのは小学校卒業後の進学先の学校という意味ですが)に進むことができなかった場合にはどうなるのかを語っておきたかったためでした。父が進学できなかったのは成果が貧しかったためで、どうして貧しかったのかというと、父の父、すなわちぼくの祖父が父ひとりを残して早世してしまったためでした。祖父は数えて39歳で亡くなったのですが、そのとき父は数えて3歳で、父の母と祖母が残されました。
 このあたりの消息は父が書き残した回想記によっているのですが、生家は農家でしたから、8年間の小学校(尋常科6年と高等科2年)が終ると農作業をするほかはなく、母親(ぼくの祖母のことです)もそれを望みました。6年の尋常科を卒業した時点で小学校の担任の先生が中学進学を推奨し、学資の支援も申し出て、母親の説得にもあたったそうですが、かたくなな反対にあって、この試みは失敗に実を結びませんでした。担任の先生の推薦も相当に強力だったようで、受験して合格してしまえば母の気持ちも動くだろうというので、ともかく入学試験を受けて合格したのですが、それでもだめでした。男の子が上の学校に行くと家にもどってこないから、というのが反対の理由です。家の断絶を懸念したのですが、もっともなところもたしかにあり、現にぼく自身にぴったりあてはまります。
 父は母親の意向にしたがって進学を断念したのですが、村の教育関係者の中に推薦してくれる人がいて、母校の小学校の代用教員になりました。代用教員になるには資格は必要ないことは前回、お伝えした通りですが、小学校の高等科を出てすぐに代用教員になったと書いたところは少々間違っていました。父の回想記を読み返して確認したところ、高等科を卒業したのが昭和3年3月末日、代用教員になったのが昭和7年。この間、父は二種類の試験を受けて合格し、小学校の正教員の資格を取得していました。ただし、昭和初期の不況の時代でしたので資格はあっても就職はなく、たまたま学級増という出来事があってようやく就職できたのが、正教員ではなくて代用教員だったということでした。
 詳しく書いていくときりがないのでもうやめますが、これを要するに戦前の学制では各種の学校の階層と平行して検定試験の制度が定められていて、試験に合格すれば学校を出たのと同等の資格を取得できたという状況を説明しておきたかったのです。小学校の正教員の資格は師範学校卒業と同等ですし、文検に合格すれば高等師範学校(広島と東京にありました)の卒業と同等です。
 高校教師を定年で辞めた後は郷里の山村の教育長になり、村役場に勤務しました。この期間が10年になりますし、それやこれやで教育一筋の生涯だったのですが、父の教師としての特徴は、教え子との交流が非常に親密だったところにありました。20日の告別式の場で小学校教員時代の最後の教え子だったというお爺さんが現われて、特に希望して弔辞を読みました。高校教師時代に担任した生徒たちもたくさん参集し、思い出を語ってくれました。父は昔からよく教員という仕事について語っていました。人が人を教えるのだ、鍋や釜を作るのとは違うぞと強調し、「先生は辞めても先生だ」というのでした。
 生徒が卒業しても教師と生徒との交流はいつまでも続くというほどの意味合いの言葉と思いますが、つねにそのようになると決まっているわけではなく、印象が薄くて卒業とともに忘れられる先生もいれば、嫌われたり憎まれたりする先生もいるものです。教育の仕事の中味は非常に多様ですが、父は生徒たちとの交流がいつまでも絶えないことをつねづね誇りにしていました。それで、告別式の場で挨拶を試みたおり、「先生は辞めても先生だ」という父の言葉を伝えしました。
 人が人を相手にするという点において教育という職業にはたしかに特別な性格があり、やりようによってはいかほどにも深遠な仕事になるのではないかと思います。同じ性格の職業がもうひとつ。医師という職業もまたどこまでも深遠でありえます。教員は人の心に接触し(接触しないこともあります)、医師は人のいのちに手をさしのべる力があります(力が伴わないこともあります)。人との関わりという面から見ると、教師と医師は酷似しています。

父を思う(1) 急逝の報を受ける

 前回、「父の病気」という一文を書いて父の容態が急変したことをお伝えしましたが、これを掲示したのは午前4時35分51秒と記録されています。それから30分もたたないうちに事態はまたも急変し、郷里の姉から父の訃報が伝えられました。これにはびっくり仰天し、驚きあきれるばかりでした。それで、帰省の構えは変らないものの、中味は一変し、お見舞いもしくは看取りのつもりだったのが葬儀参列になってしまいました。19日が通夜、20日が葬儀と告別式でした。故郷の山村の菩提寺の墓地に納骨するまで一ヶ月余りです。
 父は教員生活が長く、ざっと勘定して小学校で10年、高校で30年ですが、小学校の正教員の前に数年の代用教員時代があります。小学校の教員時代は戦前のことですが、戦前の小学校には尋常科と高等科があり、尋常科の教員と高等科の教員では免許が違います。代用教員になるには資格がなく、父は小学校の高等科を出てすぐに代用教員になりました。石川啄木も函館のころ、代用教員だった一時期があります。啄木は明治45年4月13日に東京で亡くなりましたが、群馬県の山村で父が生まれたのはそれからほぼ一年後で、大正2年4月18日が生誕日です。
 高校の教員時代はおよそ30年ほどになりますが、この高校というのは戦後の学制の呼称による高等学校のことで、戦前の高等学校とは違います。戦前の学制では高等学校の前に中等学校があり、父は昭和17年4月から中等学校に移ったのですが、戦後の学制改革により中等学校は高等学校と呼ばれるようになりました。
 父の父、すなわちぼくの祖父が早くなくなったため、父は上の学校に進むことができず、学歴は小学校の高等科が最後です。尋常科が6年、高等科が2年。計8年が父の学校歴のすべてです。代用教員は無資格ですが、正規の教員になるには、小学校の尋常科、高等科、それから中等学校と、そのつどむずかしい試験に合格しなければなりませんでした。特に中等学校の教員試験は難関でした。正式には「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」といい、略して「文部省教員検定試験」、さらに略して「文検(ぶんけん)」と呼ばれていました。専門科目ごとに試験があり、父は昭和16年度に国語科に合格し、これによって昭和17年4月から中等学校の教員になることができました。翌昭和17年度には漢文科にも合格しました。
 文検の正式な呼称を見れば明らかなことですが、戦前の中等学校というのは師範学校、中学校、高等女学校の総称です。

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