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中勘助ノート17 穂高と野尻湖

 前便から五ヶ月がすぎて、昭和51年10月15日付のお手紙が届きました。前便をいただいたときは初夏でしたが、今度のお手紙のときはとっくに夏がすぎ、秋になっていました。

〈すっかりあなたにまけましたね。穂高、野尻そして筥崎宮とどれもどれもそれぞれ美しくうれしく拝見いたしました。放生会ようございませうね。いい土地でお好きな御勉強ほんとうに結構でございますね。〉

 穂高は信州の穂高ですが、お手紙の文面によるとこの夏は信州に出かけた模様です。はっきりした記憶がないのですが、この9月の野尻湖行は二回目で、昔、たしかに野尻湖に出向いたことがあります。そうしてみるとはじめての野尻湖行は昭和51年の夏のことだったのでしょう。筥崎宮は博多の神社で、例年秋9月に放生会という秋祭りが行われます。放生会と書いて「ほうじょうや」と読み慣わしています。丸々一週間も続く大きなお祭りで、これが終ると夏も終わり、博多は秋になることになっています。長い賛同の両側にたいへんな数のお店が並びますが、ちょうどこの時期に台風に襲われることもしばしばです。
 信州で絵はがきを書き、放生会の様子をお伝えしたのでしょう。
 穂高では荻原碌山の美術館を見ました。野尻湖では中先生が逗留した湖畔の安養寺を訪ねたおぼえがあります。ご住職が健在で、中先生の作品を何冊ももっていて、見せていただきました。かれこれ35年の昔の出来事です。
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中勘助ノート16 鶴の卵

 九州に移った当初は「福岡市」「福岡」と呼んでいたものですが、いつのまにか「博多」という呼び名に親しむようになりました。その博多の街に移ってからも中野のお宅にはなんどかおたよりをさしあげましたし、そのつどお返事をいただいたように思うのですが、「中勘助ノート」を書こうと思い立って古い手紙を時系列に沿って並べてみましたら、昭和50年5月25日付のお手紙の次は丸一年後の昭和51年5月18日付でした。そうしますと、ひんぱんに消息をお伝えしていたように思い出されるのは実は錯覚で、実際にはずいぶん長い間、ごぶさたしてしまったのかもしれません。その昭和51年5月18日付のお手紙も、長らくの御無沙汰を告げる言葉とともに始まっています。
 
〈随分御無沙汰で申訳ございません。
春におこしくだされ御元気でまだまだ御勉強の御様子うれしく存じました。その節は中の大好物の御菓子お供えいただきましてまことに有難う存じました。
その後鹿児島からほんとうにきれいな画はがきでのお便りうれしく拝見。御紹介申上てほんとうによかったと思ひました。渡辺様からもおよろこびの御便りいただきました。〉

 この文面によりますと、たぶん3月の末か4月のはじめあたりに帰省したおりに中野に出向いたのでしょう。また、鹿児島から絵はがきをさしあげた模様ですし、そうしますとはじめての鹿児島行を遂行したのは5月の連休のころだったと見てまちがいないと思います。

〈又この度は御心にかけられ鶴の卵お供へ頂きいつもかわらぬ御心づくしを勘助はどんなにかうれしく頂きましたことと存じます。東京にお出でのころ命日に美しいお花をお供え頂いたことを思出しました。ことしも三日前後には皆様に御目にかかることが出来ました。中はほんとうに幸福でございます。〉

5月3日は中先生の御命日です。昭和40年のこの日、中先生は日本医科大学附属第一病院で亡くなりました。数えて八十一歳。満年齢では八十歳と十一月でした。ぼくが『銀の匙』を知ったのが昭和41年。実際にはじめて読んだのが昭和43年。今にして顧みて懐かしく思います。
 「鶴の卵」というのは博多のお菓子の名前です。博多に移ってから見つけたのですが、東京でも売っていたようで、和子奥様は御存知でした。

〈尚「鶴の卵」に就てひとこと。家では皆の好きなお菓子で東京で時々求めますが、直接御送り頂きましたのは御□□の翌日届き、実にふっくらとおいしくいただき長く楽しませて頂きました。〉

〈東京はこのところ五月晴れなんてどこへやら雨の日がわりに多く、大嫌ひな雷も鳴り閉口しておりますが、私の部屋の前の楓や柿若葉はいつもながら緑を楽しませてくれております。
頂いた美しい美しい博多人形、勘助の前で踊り続けております。
妹達からくれぐれもよろしく申しております。
カンナ楽しみにおまちしております。〉

「カンナ」は渡辺先生が出している同人誌。鹿児島に出かけて「我孫子訪問記」を書くことになり、そのことを和子奥様にお伝えしたのでしょう。

中勘助ノート15 博多人形

 5月25日付の御手紙にもどります。

〈五月三日には毎年中好みのお花をお供へ下さいましたね。妹と三人でお噂いたしたことでした。今年は又思ひもかけない素晴しいお人形をお供へいただき何と御礼申上てよいかわかりません。□色もよく姿も顔も美しくべっ甲の櫛やかんざしをさした高島田とても上品。博多人形はやっぱりクラシックなものの方がいいのじゃないかしら。昔のとちがって着物の地質まで出ていること、帯が□□□□結んであるのにもおどろきました。御存じの四畳の佛壇の前に置き私共毎日「きれいね」と眺め入って居ります。二十二日の誕生日に来て下さった方もみとれていらっしゃいました。中が生きて居りましたら詩にしたことと存じます。悦に入って朝夕眺めて居りませう。厚く御礼申上げます。
少しもいたまず届きましたことを申し添えます。〉

 福岡市が成立したのは明治初期にのことですが、大きく福岡地区と博多地区に二分されます。福岡地区は福岡藩の城下町、博多地区は博多商人の町だったのが合併して福岡市ができたのですが、その際、市の名前を福岡にするか博多にするかで大騒ぎになったのだそうです。県議会(別の会議だったかもしれません)激論の末、一票か二票の差で福岡市に決まったのですが、同時期に国鉄の駅ができて、その名前は博多駅になりました。駅の所在地も博多地区です。それで福岡市には福岡駅は存在しないということになったと、福岡に移って間もなく教えてもらい、なんだかとてもおかしかったことが思い出されます。
 そんなわけで福岡市の人は町の名を博多と呼ぶことがあります。その博多に移ってすぐに目についたのが博多人形で、あまりきれいなので中野のお宅にお送りしたのですが、あとになって思い返しますと、そんなによいものではなかったような気がしますし、こうしていただいたお手紙を読み返しますとなんだか恥ずかしく思います。

便箋の欄外に書き添えられていた言葉。

〈部屋がはなやかに急に明るくなりました。毎年誕生日には芍薬を生けますが、それがとても似合ます。〉

手紙の末尾。

〈では梅雨も間近になりました。お身体お大切に。妹たちからくれぐれもよろしくと申して居ります。〉

それから追伸がひとつ。

〈米國でこの秋ごろ「銀の匙」の英訳が出版されることになり昨日中のフィルムを送りました。〉

「フィルム」というのは何のことかよくわかりませんが、写真のネガのことかもしれません。『銀の匙』の英訳書の実物は見たことがありませんが、アメリカのアマゾンドットコムで検索すると中古品が出品されています。翻訳者は「てらさき・えつこ」さん。刊行は1979年すなわち昭和54年の6月。和子奥様が「フィルム」を送付してから4年後のことになります。

中勘助ノート14 渡辺先生の話

 鹿児島の渡辺先生とは初対面にもかかわらず大いに話がはずみました。渡辺先生は学生時代に、というのは(旧制の)中学時代なのか、高校時代のことなのか、そのあたりははっきりしないのですが、ともかく大学に進む前に『銀の匙』を読んで、中先生の愛読者になったということでした。それならぼくの場合と同じです。
 大分のどこそこの中学を出て(名前を覚えていません)、鹿児島の第七高等学校造士館(造士館まで込めてフルネームです。七高と略称します)に進みました。七高から東京帝大の文学部の国文学科でした。中先生にお手紙をさしあげたいと思ったけれども所在地がわかりませんので、倫理学科の和辻哲郎先生にお尋ねしたところ、静岡にいると教えていただきました。どうして和辻先生にお尋ねしたのかというと、和辻先生は岩波文庫の『銀の匙』の巻末の解説を書いていたからです。
 中先生は戦時中、静岡の郊外に出かけたことがあり、そのまま疎開したような恰好になって終戦直後までその地で暮しました。渡辺先生の大学入学はいつだったのか、これもまたはっきりとうかがったことはないのですが、中先生が静岡に移られた時期などを思い合わせると、開戦前後の時期であろうと思われます。中先生にお手紙をさしあげて、それからどうなったのか、詳しい消息はまたも不明朗ですが、お返事をいただいたのはまちがいありません。それから召集を受け、終戦を迎え、東京にもどり、横浜あたりの女学校の教員になったというようなお話でした。中先生も戦後まもない時期に東京にもどり、渡辺先生はしばしばお訪ねするようになりました。やがて鹿児島大学に赴任することになり、東京を離れました。
 鹿児島大学の二人の卒業生が中野を訪問し、山田さんの遺稿集を拝借したことも話題になりました。その二人は上京する機会があったときにいきなり中野のお宅を訪問し、遺稿集の拝借を申し出たのだそうで、この話を聞いたときは渡辺先生も、よくそんな大胆なことができたとびっくりしたそうです。しかも、さらに驚いたのは拝借が許されたことでした。そんな話もおもしろくうかがいました。
 鹿児島には島尾敏雄さんという作家がいますが、島尾さんも「カンナ」の同人です。後年のことになりますが、「カンナ」の同人の集まりがあって鹿児島に出かけたとき、お目にかかりました。奥様のミホさんにも会いました。

中勘助ノート13 初の鹿児島行

 5月25日付の御手紙の続き。

〈お便り拝見して東京、名古屋、大阪、京都のどこよりも御地は御勉強に最上のところと思ひました。五年の間、いい御勉強がお出来のことと存じます。御両親様も御安心でしたでせう。第二の岡潔先生になって下さい(数学は申すまでもなく随筆でも、中の伝記も書いて下さいまし)。〉

 中野のお宅でも岡潔先生のことをしばしば話題に持ち出したりしたものですが、福岡に移ってからも、手紙でまた岡先生の話を繰り返したのでしょう。「中の伝記」についてははっきりとした記憶がありませんが、いつか中先生の伝記もしくは評伝のようなものを書いてみたいというほどの心情を、思うままに申上げたことがあったように思います。当時から伝記や評伝に関心があったのは間違いのないことで、「全体を見たい」「全体を知りたい」という気持ちは今も昔も確かに持ち合わせています。それから歳月が流れ、岡先生の評伝3冊まで書きましたが、中先生の伝記については見当もつかないことで、なんというか、日暮れて道遠しという感慨があります。

〈御風邪をお引きでした由、東京もとても不順で風邪の方が相当にあったやうですが、私は幸ひ無事でした。夜の天気予報で福岡は雨といふと、それが翌日はこちらにうつることが多いやうです。天気圖にとても興味があります。
渡辺先生へはそのうち手紙であなたのこと申上ておきますから、お気のむいた時いらっしゃい。とてもいいお方です。〉

 和子奥様の紹介を得て鹿児島の渡辺先生と手紙を取り交わすようになり、あるとき、というのは福岡に移って一年ほどすぎてからのことと思うのですが、思い切って鹿児島に出かけました。渡辺先生は鹿児島市の中心から少しはずれたところに、奥様とお二人で暮らしていました。中先生との出会いのことなど、話がはずみ、楽しいひとときでした。我孫子の手賀沼に出かけて高島さんに出会った話をしたところ、その話をぜひ「カンナ」に書いてほしいと要請されました。これを受けて短いエッセイを書いたのですが、郷里の群馬県の山村で原稿用紙もつかわずに書き流して郵送した記憶があります。そうしてみると鹿児島行は夏休みの前のことで、夏休みに入って帰省したおりに書いたのではないかと思います。
 この原稿は受理されましたが、タイトルが「思い出すこと」となっていたところ、これではぼんやりしているから「我孫子訪問期」としてはどうかと提案されました。そのほうがいいと思いましたので同意して、このタイトルで「カンナ」に掲載されました。同人に加わるかづかと正式な話し合いが行われたわけではありませんが、「カンナ」に一度書いたら同人とみなすという約束というか不文律というか、そういうことに決めているとの渡辺先生のお言葉により、同人になりました。これを皮切りにときどき寄稿するようになりました。
 初の鹿児島行のおり、山形屋デパートの前からバスに乗って知覧に足をのばしました。

津田塾大学 第22回数学史シンポジウム

 今週末29日と30日の土曜と日曜に、東京郊外の津田塾大学において二日間にわたって数学史シンポジウムが開催されます。今回で第22回目になりますが、毎年10月の津田の数学史シンポジウムは夏の京都での数理研の数学史研究会とともに、日本における数学史研究の二大拠点です。
 今回は18個の講演が企画されていますが、ぼくは「ヤコビの逆問題の発見」という題目で講演します。ライプニッツ、ベルヌーイ兄弟からオイラーを経てヤコビまで。ヤコビによる逆問題の発見を経て、ワイエルシュトラスとリーマンへ。この間には複素変数関数論の形成という大きな出来事もありました。ヴァイエルシュトラスもリーマンもヤコビも、どのひとりをとってもみな謎めいていて、素朴な疑問が山をなしています。このごろ特に気がかりなのはヤコビのことで、考えてみるとヤコビについてまとまりのある書き物を読んだことがありません。実に不思議な数学者です。

中勘助ノート12 九州福岡へ

 山田さんのことについては語りたいことも多いのですが、あまりとりとめのないことになっても困りますのでひとまずこのくらいにして、和子奥様の手紙にもどりたいと思います。次に引くのは昭和49年1月23日付けのはがきで、速達です。

〈先日は折角いらして下さいましたのに風邪で失禮いたしました。□□わるくもなりませんが一向に直りませんので廿五日の金曜日はお休みいただき二月八日からまたいらしてくださいませ。どうぞあなたも御大切にお過しになりますように。とり急ぎ。〉

 中野のお宅に通って山田さんの遺稿集を書き写していた時期にいただいたはがきですが、これを見ると、毎週金曜日に出かけていたことがわかります。
 東京時代は、なにしろ同じ都内に住んでいて、しばしばおじゃましていたのですから、お手紙をいただきこともまれだったのですが、九州福岡に移ってからはしばしば長文のおたよりをいただきました。
 福岡に移ってほどなくお手紙をさしあげたのですが、まもなくお返事をいただきました。日付は昭和50年5月25日。封書です。

〈御丁重な御手紙を頂てから十二日たってしまひました。こちらこそ御無沙汰おゆるしくださいませ。
山田さんの御本に就てはおわびしなければなりません。あんなに御遠方をお出かけ下すったのにいつもお構ひ申上ず、殊に三月には手料理で妹達と送別会をと思って居りましたところ、生憎あの頃一人の妹は展覧会制作と学校の採点、ひとりは税の申告等でごたごた致し、私は足がわるかったので何にも出来ず失礼いたしましたし、残念でもございました。
それからもうひとつのお話。あの本をお貸し出来ないからと御勉強中のあなたに往復の無駄な時間をおとらせてしまったこと、ほんとうに申訳なく思っております。それから鹿児島の方からの御依頼におかし志たこと。
(これはあの頃川崎直下型地震説が盛んでした為、渡辺さんはじめお三人の方にあの本を持って頂いた方がいいと思って、あなたに御苦労おかけしたのにお貸ししたこと深くお詫び申上げます。
いつどこで讀んでも飽きることがありませんと喜んで頂けてうれしうございます。)〉

 「あの本」というのは山田さんの遺稿集のことですが、和子奥様の御手紙の文面には少々説明が必要と思います。「渡辺さん」は鹿児島大学の渡辺先生ですが、「鹿児島の方」というのは鹿児島大学の学生だったか卒業生だったか、はっきりとした記憶がないのですが、いずれにしても渡辺先生の教え子です。ひとりではなく、二人だったような気がしますが、その二人の学生があるとき中野のお宅を訪ねてきて、遺稿集の写しを作りたいので貸してほしいと申し出たのだそうです。
 渡辺先生の専門は日本の近代文学ですが、大学ではもっぱら中先生のことを講義したのだそうです。それで教え子のたちはみな中先生のことを熟知し、山田さんの遺稿集のことも渡辺先生にうかがって承知していました。それで、門外不出などということは知らないまま、率直に拝借を申し出たところ、許されたという次第です。そのおりコピーが作成されて、ぼくもまたしばらくしてからコピーのひとつを入手することができました。
 和子奥様が詫びているのはそのことです。

中勘助ノート11 山田又吉遺稿(続)

 中先生に山田さんという親友がいたことは中先生の作品を通して承知していました。安倍能成先生も友人で、安倍先生の自叙伝『我が生ひ立ち』や、岩波茂雄の伝記『岩波茂雄伝』などにも山田さんが登場しますので、早い時期から心をひかれていました。中野のお宅でも山田さんのことを話題に持ち出して、何かしらうわさ話などをうかがおうとしたようなことがあり、それで和子奥様が山田さんの遺稿集を見せてくれたのではないかと思います。
 コピーを作って読んでみたかったのですが、門外不出にしているとのことで断念せざるをえませんでした。それでもあんまり残念そうにしていたのを見るに見かねたのか、手書きで写すのならさしつかえないとお声をかけていただきました。中野のお宅に通って書き写してはどうかというお誘いでした。東京時代が終わりに近づいて東京を離れることになったとき、ぜひ写しをつくりたいと申し出て許されました。いつから通い始めたのか、はっきりとした記憶がないのですが、秋口から翌年2月ころまでだったように覚えています。
 週に一度、ノートに筆記具をもって中野に通いました。いつも通されている応接間のテーブルに遺稿集が置かれていて、挨拶を交わすとすぐにひとりきりになって書き写しの作業に取り掛かりました。お昼すぎのひとときのことで、1時か2時ころ到着して、5時あたりまで写し続けたように思います。もっとも全部は無理とはじめから思いましたので、卒業論文はあきらめて、もっぱら書簡集の書き写しに取り組みました。途中で秀子さんと豊子さんがお茶を運んできてくれました。
 いきなり清書するというわけにはいきませんので、中野ではやや乱雑に書き写し、持ち帰ってから原稿用紙に清書しました。乱雑に写したといっても、特に留意したのは仮名遣と漢字の字体でした。仮名遣は歴史的仮名遣い、漢字は正字体で、見慣れない形の字も多く、全般に画数が多いので、字体が明晰判明に再現できるように気をつけて写しました。其の意味では、このときはじめて日本語を真剣に勉強したとも言えそうです。
 中野に通って、山田さんの遺稿集の消息の部分のすべてを書き写したことが、東京時代の大きな思い出のひとつです。
 山田さんは大正2年3月29日に満30歳で亡くなりましたが、亡くなり方は尋常ではなく、自殺でした。それも大阪から上京して、安倍先生の留守中に東京の小石川の安倍家で亡くなったのでした。あるとき、中野で山田さんの死について、自殺されたということですが、ということを口にしたところ、和子奥様が「だれに聞いたの」と尋ねてきました。なんだか詰問調のような気配もあり、秘密というわけではないにしても、あまり話題にしてほしくないことのように感じました。それで、安倍先生の自叙伝を読んで知りましたと答えたところ、ああ、安倍さんの本で、と応じられ、会話の調子は旧に復しました。
 そんなわけで山田さんの遺稿集の写しをもって九州の博多に移りました。後年のことになりますが、山団のお墓の所在地も判明しました。山田さんのお墓は大阪の阿倍野霊園にあります。

中勘助ノート10 山田又吉遺稿

 中先生にまつわる東京時代のもうひとつの思い出は、山田又吉さんのことです。山田さんは中先生の若い日の親友ですが、大学を出てしばらくして亡くなりました。没後、『山田又吉遺稿』という本が編まれ、創業まもない岩波書店から刊行されました。出版は大正5年のことで、編纂者は中先生と安倍能成先生のお二人です。二部構成で、前半は大学の卒業論文、後半は書簡集です。山田さんと中先生は第一高等学校に入学して知り合いました。大学はお二人とも文科大学ですが、中先生ははじめ英文科、後、国文科に転科、山田さんは哲学科でした。山田さんの卒業論文はエックハルト研究で、ケーベル先生に見てもらうために英文で執筆されたのですが、それを中先生と安倍先生が翻訳して遺稿集に収録したということです。
 後半の書簡集には「消息」という見出しがつけられています。山田さんは大量の書簡を遺した人で、前半の卒業論文よりも後半の「消息」のほうが分量もずっと多いのですが、そのまた書簡の大部分は中先生に宛てたものです。それで若い日の中先生の様子を伝えるかけがえのない書物になっています。
 ある日の中野訪問のおり、和子奥様が「いいものを見せてあげる」と言って、山田さんの遺稿集を差し出しました。一目見て心を奪われました。それでぜひお借りしてコピーを取りたいと思ったのですが、家から出さないようにしているとのこと。なぜかというと、だいぶ前に、というのは戦前か戦中のことなのですが、山根書店の店主の山根さんにお貸ししたところ、郷里が広島の近辺だったとのことで、帰省中に原爆のために亡くなりました。そのとき山田さんの遺稿集もいっしょに消失したということでした。
 山根書店は『鳥の物語』など、中先生の作品を何冊も出した出版社で、山根さんは遺稿集の復刻を考えていたのではないかと思います。
 奥様が言われるのに、仕方のないことではあるけれども、残念なことは残念で、そんな事情を小宮豊隆先生に伝えたところ、小宮先生が「おれのをやるよ」と言われて提供してくれたのだそうです。その一冊が中家にあり、それを見せていただいたという次第です。
 山田さんの遺稿集はどのくらい作られたのか、正確な発行部数はわかりませんが、所蔵している図書館は非常に少なく、国立情報学研究所が運営している総合目録データベースを参照しても日本近代文学館と法政大学、北海道大学の三件しか見つかりません。近代文学館所蔵の一冊の由来はわかりません。法政大学は中先生の友人の野上豊一郎先生とゆかりの深い大学ですので、野上先生が寄贈したのでしょう。北大の一冊はどのような経路をたどったのか、不明です。ほかに、国立情報学研究所の総合目録データベースには出ていないのですが、東北大学の附属図書館に「漱石文庫」と名乗る貴重図書の文庫があり、そこに所蔵されています。東北大学は小宮豊隆先生とゆかりのある大学ですし、それで「漱石文庫」も設立されたのではないかと思いますが、小宮先生所蔵の一本は上述のような経緯で中家に移りました。もうひとり、東北大学には阿部次郎先生がいましたので、おそらく阿部先生所蔵の一冊が「漱石文庫」に移ったのではないかと思われます。国会図書館は所蔵していません。
 所蔵している図書館があまりにも少ないので、一冊ずつの移り行きの経緯などにゆくりなく心がとらわれてしまいましたが、全体に発行部数はごくわずかで、山田さんの親しい友人たちだけに配布されたのであろうという印象があります。

中勘助ノート9 手賀沼のほとり

 中先生にまつわることでは、東京時代に二つほど特になつかしく思い出されることがあります。ひとつはたしか昭和47年の晩春、4月末か5月のはじめころのことで、千葉県我孫子の手賀沼のほとりに出かけたことがあります。上野から常磐線に乗り、我孫子駅で降りました。中先生は手賀沼のほとりで人生の一時期をすごしたことがあり、当時の日々を記録して『沼のほとり』いう作品を出しました。東京に出てこの作品を見ることができたのですが、触発されて機会をうかがっていたところ、学校がストライキに入って期末試験が大幅に遅れるという事態になり、かえって手賀沼行の気運がかもされました。遅れた期末試験の終了後のことでした。常磐線に乗ったのもはじめてでした。
 別に当てもなく、ただ単に沼のほとりに行ってみたいと思っただけだったのですが、沼辺で水面を眺めているとき、隣り合った人とそこはかとなく言葉を交わしました。昔、このあたりに中勘助先生という人が住んでいたということですが、というようなことを口にしたところ、その人は即座に「おれのうちだよ」と応じました。これにはびっくりしました。
 その人は高島さんという人でした。誘われるままにお宅に連れていっていただくと、おばあさんがいました。この人は『沼のほとり』に出てくる「お嫁さん」です。高齢で、横になったきりでしたが、話は明晰で、中先生のことをよく覚えていました。壁に、中先生の葉書が一枚、掲げられていました。手賀沼時代におせわになったことへの御礼状で、判読のできない箇所があちこちにありました。するとそこへ「お嫁さん」が助け舟を出して、読んでいただきました。
 壁にはもうひとつ、若い青年の写真が掲げられていました。それは、戦死した「お嫁さん」のお子さんの肖像でした。どこそこの学校をどのように卒業して、何年何月何日にどこの戦地で亡くなったということを、「お嫁さん」は詳しく話してくれました。こんなことを通じて何かが伝えられたように思ったのですが、今にして思えば、その「何か」こそ、歴史というものなのでした。歴史の魂は回想に宿っていることが、歳月の流れとともにだんだんと理解できるようになりました。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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