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野尻湖畔散策

9月27日から信州松本に滞在中ですが、仕事があったりなかったりすかすかで、時間に余裕がありますので、信州の北部に向かい、野尻湖を見学してきました。松本から中央線の特急で長野市まで1時間。長野で信越線に乗り換えて黒姫駅まで約40分。駅前から野尻湖まで定期バスが出ていますが、本数が少なすぎて待ち時間が長すぎますので、タクシーに乗りました。10分ほどで野尻湖畔に到着。2000円でした。
 野尻湖畔に信濃町公民館があり、その前庭の一角に中勘助先生の詩碑が建ち、詩「ほほじろの聲」が刻まれています。

   ほほじろの聲
         中勘助

 ほほじろの聲きけば
 山里ぞなつかしき
 遠き昔になりぬ
 ひとり湖のほとりにさすらひて
 この鳥の歌をききしとき
 ああひとりなりき
 ひとりなり
 ひとりにてあらまし
 とこしへにひとりなるこそよけれ
 風ふきて松の花けぶるわが庵に
 頬白の歌をききつつ
 いざやわれはまどろまん
 ひとりにて

 中先生は若い日に二度にわたって野尻湖畔に逗留したことがあります。一度目は明治44年、二度目は翌明治45年です。野尻湖の中に弁天島という島がありますが、中先生は最初の逗留のとき、弁天島に籠って暮らしたりしました。二度目の逗留のとき、『銀の匙』の前篇を執筆し、中先生はその原稿をもって歩いて柏原という地区の郵便局に行き、夏目漱石先生のもとに送付しました。柏原はこのあたり一帯の中心で、黒姫駅の所在地も柏原ですが、ここは小林一茶の生地でもあります。
 信濃町公民館の庭には中先生の詩碑のほかにもうひとつ、清水基吉(しみずもとよし)という人の句碑があります。未知の人ですが、小説を書いたり句作をしたりした人のようで、昭和19年には『雁立(かりたち)』という作品で芥川賞を受けています。戦時中の最後の芥川賞受賞作品なのだそうです。戦後、鎌倉文学館の館長でもあったとは、句碑の隣に立つ看板に記されていた説明を読んで知りました。その清水さんは中先生の愛読者だったようで、句碑に刻まれた一句は、

  島守ハ露の旗振り味噌乞へり

というのです。「島守ハ」の「ハ」はなぜか片仮名で表記されています。
 「島守」というのは中先生のことで、初回の野尻湖逗留の際にひとり弁天島に籠って暮らしていたとき、みずから「島守」と称した故事を踏まえています。「露」は「露命をつなぐ」などというときの「露命」の「露」のことで、まるで露のようなはかない命というほどの意味になるのでしょうか。弁天島の島守には露の命をつなぐ食料がありませんので、島籠りに先立って池田精治さんという人と約束を交わし、食料が底をついたら旗を振って合図をすることになっていました。合図があったら池田さんが米や味噌を届けたのですが、池田さんにしてもいつ旗が振られるのかわからなかったでしょうし、四六時中。見張っているわけにもいきませんし、定めし旗振りの時間が決められていたのでしょう。
 野尻湖訪問は実ははじめてではなく、確かな記憶がないのですが、30年ほど前に訪れたことがあります。湖畔に安養寺というお寺があり、中先生は島籠りに先立ってひとまず安養寺に滞在したのですが、30年前には住職の藤木さんもお元気で、中先生のお手紙や著作などを見せていただきました。そのときはどうやって野尻湖畔にたどりついたものか、どうもはっきりと思い出せないのですが、やはりタクシーに乗ったのでしょう。湖畔から安養寺に向って歩いている30年前のぼくの姿のみ、なぜか脳裏に浮かびます。現在の安養寺は住職もいなくなり、お寺としての機能も失われ、親戚にあたるおばあさんがひとりで住んでいるということでした。
 現在の野尻湖畔は有力な観光地になっていて、旅館やレストランやお土産を売る店が軒を連ね、夏場などは大学生の合宿場にもなり、湖畔一周の道はマラソンの練習にも活用されているのだそうです。湖畔には国際村というのもあり、欧米系の人たちが夏をすごすための別荘が立ち並んでいます。貸自転車で湖畔周遊を試みましたが、平らな道はよしとして、すぐに急坂になりますので、一周は無理でした。弁天島に行くには遊覧船に乗ればいいのですが、到着したのが遅かったため、最後の便に間に合いませんでした。一度になんでもみなこなすのは不可能ですし、これから機会を見て何度も通いたいと思ったことでした。
 公民館の人としばらく話をしましたが、地元でももう中先生が話題になることはなく、ただ詩碑だけが往時をしのばせるというふうなことでした。この世は生きている者だけの世界のようでもありますが、亡くなった人は今を生きる人の回想の中に生きています。生きる場所は異なっていますが、それなら生きているのと同じことで、しかもいつまでも生きています。回想の力は学問や芸術の根源でもあります。
 中先生の評伝を書きたいと40年も前から思い続けてきましたが、中先生の足跡をたどろうとする調査研究はあまりにも大がかりになりすぎますし、何よりも中先生の人生の根底には深遠が広がっていて、どんなふうに描写したらよいのか、視点が定まりません。ですが、考えてみると人生の全体像を描くのはもともと無理難題なのかもしれませんし、いきなり大評伝を書くという考えをあらためて、ノートを書くのがよいのかもしれません。「中勘助ノート」を何冊も書き重ねていく中で、人生というものを物語る何事かがおのずと立ち上がってくるのを期待するというアイデアです。野尻湖畔を少時さまよいながら、そんなことを思いました。
 野尻湖到着はお昼すぎの4時ころでした。9月も末のことで日暮れが早く、5時半ころにはうす暗くなりました。タクシー乗り場と定期バスの停留所がいっしょになっている場所がありましたので、タクシーを頼みました。気さくなおばさんがいて、お茶とお茶菓子をお盆にのせてもってきてくれました。お茶を飲んでタクシーを待つという構えになったのですが、そこにバスの運転手がいて、たちまち定期バスに乗り込みました。どこに行くの、とおばさんが問うと、黒姫駅、と運転手さん。それならこのバスに乗ればよく、タクシーを待つことはなかったのにと思ったところ、おばさんも気づいたようで、うっかりしてた、すみませんねえ、と何度もわびました。いいですよ、別にかまいませんよと応じ、タクシーで黒姫駅に。行きは2000円だったのに、帰りはなぜか1500円でした。
 駅前の書店で「一茶記念館」が出しているパンフレットを購入し、年譜と句を眺めながら松本にもどりました。
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リーマンを語る 267. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その69

 ルジャンドルはヤコビの賞賛をもう少し継続し、さてその後にアーベルの研究を語ります。

〈ここで言及するのは、ヤコビ氏が開いた領域においてヤコビ氏が歩んだ最初の数歩のことのみにすぎない。その最初の数歩によって抱かせられた希望は、ヤコビ氏がシューマッハーの雑誌とベルリンのクレルレの雑誌に掲載した新しい作品の数々によって裏付けられたが、その裏付けは、彼が『楕円関数の理論の新しい基礎』という書名でまもなく出版しようとしている著作により、さらにいっそう完全に遂行されるであろう。〉

〈ヤコビ氏のすばらしい好敵手であるクリスチャニアのアーベル氏が、クレルレの雑誌とシューマッハーの雑誌にほとんど同時に発表したみごとな研究の数々について語らなければならない。クレルレの雑誌の巻2に第12番目に掲載されたアーベル氏の最初の論文は、きわめて一般的な視点のもとで考察された楕円関数についての、ほとんど完全な理論をすでに形作っている。そこに見いだされるのは、(1)楕円関数への虚量の導入に関する完全に新しいみごとなアイデアの土台のうえに確立された、楕円関数とその逆関数の基本的な諸性質、(2)楕円関数の乗法と等分に使われる諸公式をきわめて単純な仕方で作り出す方法、(3)提示された任意の楕円関数、あるいは完全関数を等分するのに使われる代数方程式を、可能な限り一番低い次数に帰着させることに関する非常に広範囲にわたる叙述とその解法、(4)楕円関数を級数および無限積に展開するための数々の式、などである。

 今日の数学史の本ではアーベルとヤコビは好敵手として語られるのが普通ですが、この流儀の淵源はルジャンドルなのではないかと思います。ルジャンドルの目にアーベルとヤコビが好敵手と映じたのはまちがいなく、その光景がそのまま継承されたのでしょう。もっともルジャンドルが最初に評価したのはヤコビのほうで、ルジャンドルはヤコビに教えられてはじめてアーベルの真価を認識したのでした。

リーマンを語る 266. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その68

 「はしご」の話の続き。ルジャンドルがヤコビの発見をどれほど喜んだことか、喜びに満ちた声が生き生きと伝わってきます。

〈モジュールの作る新しい「はしご」は、与えられたモジュールから、単に平方根と三乗根を開くだけで導き出すことができた。この新しい「はしご」は古い「はしご」を使って得られるものよりもはるかに迅速な近似をもたらした。最後に、これらの二つの「はしご」を組み合わせることにより、第一種関数の変換を驚くべき仕方で乗じることができた.それを見て、著者はある種の格子模様が作られているような感じがした。それは2次元の方向に無限に広がり、そのすべての格子は、ある同一の関数が受け入れるさまざまな変換で満たされていた。それゆえ、楕円関数の理論のこの領域において、さらに遠方に歩をのばすことができるとは、とうてい思えなかったのである。〉

〈ところが、ある若い幾何学者、ケーニヒスベルクのヤコビ氏は、1827年1月にようやく出版されたばかりの『概論』を知らなかったのだが、独自の研究により、先ほど言及した数3に関連する第二の「はしご」ばかりか、数5に関連する第三の「はしご」をも発見することに成功した。しかも彼は、提示されたあらゆる奇数に対して類似の「はしご」が存在するにちがいないという確信を、すでに手にしていたのである。〉

〈この美しい解析学の発見の告知はシューマッハーの天文学誌の第123号において行われた。そこには数3と5に関わる「はしご」の作成についての二つの個別の定理と、さらに、任意の奇数に適用される「はしご」を作るためのひとつの一般定理が見いだされる。〉

〈この一般定理の証明は少し後に同じ雑誌の第127号において発表された。その証明は著者の鋭敏さの大きさと、彼がこのテーマの困難を乗り越えるために使用した方法の多産さをすっかり明るみに出した。この定理はあらゆる奇数に対して確立されたのであるから、そこから、各々の整数もしくは有理数に対し、モジュールの個別の「はしご」を作ることができるという結論を下すのは容易である。その「はしご」は同一の第一種関数の無限に多くの変換を引き起こし、それらの変換はすべて代数的に定められる。〉

 ルジャンドルはヤコビの発見を予想することはできませんでしたが、意味するところを理解することはできました。このあたりの消息がアーベルの場合と異なるところで、ルジャンドルはアーベルの「パリの論文」にまったく関心を示しませんでした。「超越的なもの」の世界において円関数と対数関数の次に楕円関数を切り取って考察を加えようというのがルジャンドルの関心事なのですから、完全に一般的な代数関数の積分を考えて、しかもそこに加法定理が存在することを示そうとするアーベルの論文は、あまりにも隔絶していたのではないかと思います。

信州松本へ

数学の秋の学会がありますので、京都から東京を経て信州松本に移動しました。28日は丸一日、仕事らしい仕事が続きます。29日は何もありません。30日は出版社のみなさまとのプラーベートな懇親会。10月1日は会議があります。
東京の新宿から中央線の特急「あづさ」で終点の松本まで。40年ほど前に一度だけ乗ったことがあります。あのころの特急の名前も「あづさ」だったのかどうか、実は覚えていません。そのときは穂高まで足をのばして荻原碌山の美術館を見たりしました。

リーマンを語る 265. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その67

 『概論』の巻2は二部構成で、第一部は楕円表のいろいろ、第二部は「オイラー積分」です。この巻もていねいに呼んでいけばおもしろいことがいろいろありそうなのですが、何だか果てしがないような感じですので省略することにして、巻3に移りたいと思います。巻3についてはだいぶ前に多少言及したことがありますが、3篇の「補記」だけで編成されているという、実に不思議な形の書物です。
 巻3そのものに緒言がついていますので、ともあれ目を通してみたいと思います。

〈この『概論』の第一巻の冒頭に配置された論説において、著者が前に『演習』において公表した楕円関数の理論に与えた主だった改良のあれこれが報告された。もっとも著しい事柄のひとつは、その時点でただひとつだけ知られていた「はしご」と異なる、モジュールの第二の「はしご」の発見である。著者はこれを巻1の第31章で叙述した。この発見は1825年のはじめに起ったことに注目しなければならない。なぜなら、その叙述を含む巻1は同年9月12日の会議の場で科学アカデミーに提出されたのであるから。〉

〈話題に持ち出されている第二の「はしご」は、多くの点で、この理論における著者の研究を補って完成の域に高めてくれた。この「はしご」により、解析学のいくつもの美しい結果に到達するための容易な道筋が開かれた。それらは、その時点までは、きわめて骨の折れる積分によるほかに証明することができなかったのである。〉

 モジュールの「はしご」の話から始まっていますが、この話はもう少し続きます。この発見の先にヤコビの発見が出現するのですが、ルジャンドルの話はヤコビの発見を語るための助走です。さらにその先にはアーベルも登場しますし、「補記」というのはつまりヤコビとアーベルの研究成果の報告にほかなりません。

リーマンを語る 264. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その66

 『概論』巻1の長い序文ももう少しで終ります。取り立てて言うことはもうないのですが、一番最後にオイラーの名前が登場します。

〈引き続く研究により楕円関数の理論はますます完成の度合いを高めることになったため、この解析学の新しい領域をいっそう詳細な叙述をもって提示し、幾何学と力学から選ばれたさまざまな問題への楕円関数論の応用を示すことが要請されるようになった。だが、この理論を完全に役立つものにするには、提示された各々の場合において、第一種と第二種の関数の数値を見つけることのできる一系の表を作らなければならなかった。それらの表は、計算の長さと困難を縮めるのにもっとも適切な方法と諸式を見つけることをねらって企図された大量の研究の後に、ようやく作成された。〉

〈このようなわけで、われわれがこれから説明しようとしている理論は、引き続いて行われる大量の研究により増大し、ほぼ完成の域に達して、円関数や対数関数と同程度の容易さで使えるようになることであろう。それこそがまさしくオイラーの願いと望みであった。〉

 円関数すなわち三角関数と対数関数については精密な数値表が作成されていて、それを参照することにより、これらの関数は自在に使いこなすことができます。そこにもう一例、楕円関数を自由に使える関数の仲間に加えることがオイラーの願いと望みだったというのが、ルジャンドルの所見です。一理ありそうに思える指摘ですし、そうなのかもしれませんが、それと同時に何かが抜け落ちているような感じもあります。それは「等分理論」です。
 もっともオイラーにも等分理論はありませんでした。等分理論はファニャノにはあったのですが、オイラーは関心を示しませんでした。ですから、オイラーの継承ということに関心の的をしぼる限り、ルジャンドルの指摘は正確なのかもしれず、ただ等分理論は手つかずのままに残されました、これを復興させたのはガウスですし、アーベルもまたガウスを継承しました。
 こうしてみると楕円関数論にはオイラーとガウスに端を発する二つの流れがあり、二つとも、ファニャノにおいて萌芽が芽生えていたと言えそうです。ただし、ここがまためんどうなところなのですが、ガウスはファニャノを語りません。その理由はたぶん等分理論の本性に寄せる視線が異なるからで、ガウスは等分理論を数論の範疇において観察したのですが、そのような視点はファニャノにはありませんでした。こんなことも考えなければなりませんし、歴史的考察というのはまったくめんどうでむずかしいものです。
 ルジャンドルはオイラーのめざしたことを汲み取って、オイラーに代って実現しようと試みました。ルジャンドルの楕円関数研究はオイラーの忠実な継承だったことがはっきりと見て取れる言葉です。

秋の京都行 第九回「火(かぎろひ)忌」に出席する

 9月24日(土)、火(かぎろひ)忌に出席するため、京都に出かけました。火忌というのは保田與重郎先生をしのぶ会のことで、今回が第九回目になります。保田先生が亡くなられたのは昭和56年10月4日ですので、「風日」歌会の月例会では例年10月の歌会を特に火忌と呼んでいますが、今回の火忌は歌会の火忌とは別の集まりです。第一回目の火忌は昭和58年に開催されましたが、この年は保田先生の三回忌でした。その後も会を重ね、十三回忌になる平成九年の火忌が第八回目。これでひと区切りとなったのですが、今年は没後30年にあたりますので、第九回目が企画されました。
 京都市内の同志社大学の近くのホテルが会場で、午後4時から6時まで。卓次表を見ると出席者はきっかり110人。作家の伊藤桂一先生、檀一雄の御子息の檀太郎さん、文芸評論家、文芸誌の編集者などのほか、なぜか大阪のイタリア領事館の領事もいて、名刺をもらいました。スピーチも多彩でした。いただいたお土産袋の中に「落柿舎」という名前のお菓子が入っていました。
 終了後、「風日」歌会の人たちが別のお店に集まって二次会がありました。酒井さん御兄弟をはじめ、しばらくぶりに懐かしい方々にお目にかかり、楽しいひとときでした。

リーマンを語る 263. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その65

 ルジャンドルはラグランジュとランデンの研究に言及していますが、論文のタイトルは挙げず、ただ掲載誌の刊行年のみ、脚註に記しています。それによると、ラグランジュの論文は1784/85年、ランデンの論文は1775年に出ています。これを受けてルジャンドルの楕円関数論研究が始まるのですが、「楕円の弧を用いる積分について」「楕円の弧を用いる積分について 第二論文」という論文(二つに分けられていますが、実質的に一篇の論文です)が王立科学アカデミー紀要に掲載されたのは 1786年(1788年刊行)、続いて「楕円的な超越物について」という論文が出たのが1793年のことでした。
 歴史的回想を踏まえて、ルジャンドル自身の研究の説明が行われます。

〈私が楕円の弧を用いる積分に関する研究を公表したとき、この種の積分の理論における幾何学者たちの主立った発見はこのようなものであった。私の研究では、この時点までに知られていた定理の大部分を証明した後に、あるひとつの同じ法則に沿って作られる楕円の無限系列において、それらの楕円のひとつの弧長測定はその系列から任意に取られた他の二つの楕円の弧長測定に帰着されることを示した。これは、困難な領域に踏み出された一歩であった。〉

〈だが、このテーマは、また一般に∫pdx/Rで表される「超越的なもの」の理論は、いっそう体系的で、しかもいっそう深いやり方で取り扱う必要があった。それが、私が1793年に公表された「楕円的な超越物について」において実行しようと試みたことである。この論文において、私は上記のように表記された式に含まれるすべての関数を相互に比較し、それらを何種類かに区分けし、もっとも迅速でもっとも容易な近似法で数値を算出し、最後にこの理論の全体からこの解析学の領域を拡大するのに役立ちうるある種のアルゴリズムを作ることをめざした。〉

 『積分演習』に書かれていたこととほぼ同じことが繰り返されています。ルジャンドルは『積分演習』以前に「楕円の弧を用いる積分について」と「楕円的な超越物について」という論文を書きましたが、前者から後者へと移行する中で「曲線との別れ」が遂行されました。ルジャンドルはこれをオイラーに学んだのですが、オイラーのねらいを正しく汲んで、非常に忠実にオイラーに追随しています。独創というのとは違いますが、これはこれで貴重な能力なのではないかと、このごろ特に強く思うようになりました。

リーマンを語る262.ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その64

 オイラーに続いて登場するのはラグランジュです。

<ラグランジュはオイラーによって発見された積分を解析学の通常の手法に取り込もうと念願した。彼はあるきわめて巧妙な方法により目的地に到達した。その方法の適用は低位の「超越的なもの」から「オイラーの超越的なもの」へと少しずつ高まっていく。だが、彼はオイラーの結果よりも一般的な結果に到達しようと試みて果たせなかった。>

 オイラーの次にラグランジュが語られるのは数論の場合と同様です。ラグランジュは具体的に何をしたのか、まだわかりません。ラグランジュは数学史に名を遺す偉大な数学者ですし、その名を知らない者はいないと思いますが、実際のところ何をしたのかというと、案外不明瞭です。
 ルジャンドルの語る楕円関数論史では、ラグランジュの次はランデンの番になります。

<少し後に、イギリスの幾何学者ランデンは、双曲線の弧はどれも、楕円の二つの弧を用いて測定可能であることを示した。これらの「超越的なもの」の理論を単純化する、記念するべき発見である。この発見により、著者(註。ルジャンドルのことです)は他のいっそう重要な諸結果へと導かれたのである。>

<最後に、ラグランジュは∫pdx/Rという形の積分を近似法で見つけるための一般的方法を与えて、この領域で新たに注目された。>

このあたりの消息は『積分演習』でも語られていました。ラグランジュの次はルジャンドル自身の研究を語る番になります。

リーマンを語る261.ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その63

 ファニャノを語るルジャンドルの言葉が始まりますが、楕円関数論の形成史という観点から見るとこれまでは助走というか、前置きのような感じで、ここからがいよいよ本論に入ります。楕円関数論はファニャノから始まるというのがルジャンドルの認識だったと見てよいと思いますし、実際のところ、正確な認識と思います。

<きわめて洞察力に富むひとりのイタリアの幾何学者が、はるかに深い思索へと通じる道を開いた。彼は、どの楕円の上にも、あるいはどの双曲線の上にも、無限に多くの仕方で二本の弧を指定して、それらの差が代数的量になるようにすることを示した。彼は同時に、レムニスケートと呼ばれる曲線は、円弧と同様に、たとえその弧の各々が高位の「超越的なもの」であろうとも、それらの弧を代数的に倍加したり分割したりすることができるという特異な性質をもつことを証明した。これは、楕円関数のうちの一番簡単なものの使い道が示されたはじめての例である。この一番簡単な関数はいわば他のすべての楕円関数の調節装置のようなものであり、自分自身と類似の形をくずすことなく無限に多くの仕方で変換可能である。>

ここでルジャンドルは脚注をつけて、ファニャノの『数学作品集』巻2(1750年)を挙げています。ファニャノについてはこれまでにあちこちで言及しましたので、ここであらためて何事かを述べる必要はないと思います。

<オイラーは、きわめて幸運としか言えない組み合わせを用いて、もっともこれらの偶然は偶然をあらしめることのできる人たちのもとにしか訪れることはないのではあるが、分離しているが類似の形をもつ二項で、それらの各々は円錐曲線の弧を用いてしか積分できないものから成るある微分方程式の完全代数的積分を見いだした。>

 文章が長いため、原文に沿って訳出するとなんだか回りくどい感じになってしまいますが、意味は通ると思います。楕円関数論史のバトンはファニャノからオイラーに渡されました。

<この重要な発見はその発見者の心を誘い、発見者に先立ってなされたことよりもいっそう一般的な仕方で、単に同じ楕円や同じ双曲線や同じレムニスケートの弧と弧を比較するばかりではなく、一般に式∫pdx/Rに含まれるあらゆる「超越的なもの」を相互に比較することへと導いていった。ここでpはxの有理関数、Rはxに関する4次の多項式の平方根である。>

 「発見者」がオイラーを指すのは言うまでもありません。曲線から積分式へ。オイラーにおける「曲線との別れ」がはっきりと指摘されています。このあたりのルジャンドルの状勢認識は非常に精密です。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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