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「虹の章」の執筆を終えて3 駒込千駄木町の一夜(1)

 岡先生は昭和40年と昭和44年の二度にわたって、国民文化研究会(国文研)の夏の合宿教室で講義を行いました。講義題目は一度目は「日本的情緒について」、二度目は「欧米は間違っている」というもので、二つの講演を合わせると、この時期の岡先生の思想がありありとうかがえるように思います。日本的情緒を語ることと欧米の間違いを指摘することとは、岡先生の心情の場では表裏一体をなしています。講義の舞台が国文研の夏季合宿であったこともまた興味の深いことですし、この二度の講義にはかねがね心を引かれていました。
 そんなわけで岡先生の国文研講義の模様を再現してみたいとかねがね考えていたのですが、事柄の性格上、解明の焦点は二つあります。ひとつは講義の舞台となった国文研というものを紹介することで、そのためにはこの団体の淵源を訪ねなければなりません。もうひとつの焦点は岡先生の講義の内容をなるべく具体的に紹介することですが、言うは易く行うは難し。どちらも実際に取り掛かると実にむずかしい作業を強いられました。
 国文研の発足は終戦後の昭和31年ですが、源流は戦前にさかのぼります。具体的に観察すると、沼波瓊音が始めた一高瑞穂会、三井甲之と蓑田胸喜が創立した原理日本社、それに黒上正一郎と梅木紹男の友情から生まれた一高昭信会と東京高師信和会が目に留まります。これらは別々の団体ではありますが、相互に親密に連繋し、全体としてひとつの源流を形成しています。日本の近代も大正期に入るとデモクラシーの潮流が流入し、西暦一九一七年(大正六年)にロシア帝国で起ったロシア革命の影響を受けて、社会主義の波もまた大きく及び始めました。この二つの新思潮は相互に相容れない面ももちろんありますが、日本から見ればどちらも「和魂洋才」の「洋」であることは変わりませんし、「洋と洋は相通じる」ということもまた一面の真理です。これに対し、上記の国文研の源流は「和の系譜」に連なっていると言えるのではないかと思います。
「洋」の作る強大な新思潮の波浪の前では和の系譜はひ弱に見えることもありますが、黒上が探究した聖徳太子をはじめ、道元、芭蕉、宣長等々、日本ではこの系譜からときどき天才が生まれます。岡先生も明らかにこの系譜に位置を占めていますし、岡先生と国文研を結ぶ糸もこのあたりに内在していたのであろうと思います。
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「虹の章」の執筆を終えて2 石井式漢字教育

 漢字教育の石井勲先生には福岡市で二度、お目にかかり、そのつど興味の深いお話をうかがいました。ひとつだけ例を挙げると、「漢字には正字体はない」という発言が実に印象的で、今も心に残っています。一個の漢字を構成する各種の線の中には、末端をはねるものもあればはねずに止めるものもあり、小学校などではそのあたりを非常に厳格に教えるようですが、そんなことはどうでもよいのだと石井先生は言われました。活字の世界にはいろいろな字体がありますが、日常の生活で手書きで手紙を書く場合などでは、漢字はだいたいの形が判別できればよいのであり、はねてもはねなくてもかまわない。そんなことを子供に細かく指導して、○や×をつけたりするから漢字を嫌いになるのだというのです。これにはまったく驚きました。
 昔、というのはつまり戦後の国語政策により漢字の使用制限が実施された時期よりも前の時代のことですが、そのころの人の手紙を見るといろいろな略字が使われていました。画数の多い複雑な字形を手書きでいちいち再現するのはめんどうですし、それに、おおよその形がわかれば用は足りるのですから、略字でさしつかえません。たとえば「學」を「学」、「區」を「区」と書いたりしていました。こんなところは昔のほうが自由闊達だったような感慨があります。戦後の国語政策では昔の略字をそのまま正字体と定めた事例がいくつもあります。
 石井先生は戦後の国語改革に一貫して反対の立場に立っていましたが、漢字の字体に正字体が存在しないというのであれば、今の字体でもかまわないではないかという考えもありえそうな気もします。ですが、石井先生は昔日の略字を今日の正字に変換するような瑣末な事柄だけをとらえて反対したのではなく、そのような事象の根底にあるもの、すなわち日本語の世界から漢字を追放しようとする意志を嫌悪し、忌避したのでした。今日では忘れられがちですが、漢字を追放し、仮名遣も簡略化して表音式に改めようとする強固な意図は確かに存在し、しかもそれは明治初期以来の日本の国策でもありました。
 岡潔先生は戦後の国語改革に反対するという一点において石井先生の同志であり、事あるごとに反駁する論陣を張り、両先生を結ぶ糸がここに発生しました。ぼくも共鳴し、両先生の交友の模様を再現したいと志したのですが、そうしますと勢いの赴くところ、どうしても歴史的仮名遣と正字体の漢字で表記するほかはありません。日本語も奥が深く、なかなかむずかしい作業になりました。
 石井先生にお会いしたことがきっかけとなり、日本漢字教育振興協会の機関誌「育み」の第二十一号(一九九九年九月二〇日発行)に「岡潔先生と石井式漢字教育」というエッセイを書きました。石井先生の印象をつづった短編ですが、それを土台にして大きく拡大し、「石井式漢字教育」ができました。
 今日の出版事情では、歴史的仮名遣と正字体の漢字で表記した本を出すのは困難が多く、やや複雑な交渉を強いられました。印刷費用が余分にかかりますし、それに、今日ではほとんど忘れられた表記法で書かれた本が読者に受け入れられるだろうかという懸念もありました。どちらの所見にも相応の理があります。途中経過は省略して結果だけお伝えすると、『虹の章』は前の二冊(『星の章』と『花の章』)を出した海鳴社とは別の出版社から出ることになりました。
 ぼくとしてはまた別の心情もありました。それは、契沖法師と本居宣長に代表される江戸期の国学の成果が失われることを惜しむ心です。平成二十年代の時点で七十代、八十代の人でしたら戦前の教育が生きていますが、六十代になると教育内容が変容し、このあたりに歴史的意識の断絶が発生しています。ここに橋を架け、かつて存在した日本語表記の伝統を若い世代に繋ぎたいというほどのことが、ぼくの希望するところです。岡先生も石井先生も、ぼくのこの心情には共鳴してくれるのではないかと思います。

「虹の章」の執筆を終えて1 目次と字数

 岡潔先生の評伝はこれまでに3冊書きました。刊行順に挙げると次のようになります。

『評伝岡潔 星の章』(平成15年7月30日、海鳴社)
『評伝岡潔 花の章』(平成16年4月30日、海鳴社)
『岡潔 数学の詩人』(平成20年10月21日、岩波新書)

 岡先生の評伝を書こうと決意したのは平成7年の秋11月のことでした。これを実現するには広範囲にわたるフィールドワークが不可欠で、それを考えると果てしがなくて気が遠くなるような思いがしたものですが、ともあれおおよその見当をつけた後、平成8年の2月になってから実際に取り掛かりました。まずはじめに岡先生の父祖の地の紀州和歌山の紀見峠に向かい、それから岡先生の生地の大阪市東区島町(出生当時の表記。現在は中央区)の界隈を散策しました。それから『星の章』が刊行されるまで7年半ほどの歳月が流れ、さらに九カ月がすぎてからようやく『花の章』が刊行されました。ひとくちに「フィールドワーク8年」。岡先生の評伝はこれでひとまず完結という恰好になりましたが、当初から「三部作にする」という構想を立てていましたので、引き続き『虹の章』の執筆に取り組みました。
 『虹の章』の内容は岡先生の晩年の交友録で、具体的には小林秀雄、保田與重郎、胡蘭成、石井勲、坂本繁二郎の五人との交流の模様を再現したいと考えていて、フィールドワークの計画もはじめからそうするつもりで組み立てました。ところが実際に執筆を試み始めるとさまざまな困難が次々と現れて、なかなか進展しませんでした。人と人との交友を描くには「人」を知らなければなりませんし、岡先生の二冊の評伝もそのための準備のつもりで書いたのですが、岡先生の交友の相手方にも人生があり、しかもどのひとりの人生も尋常ではありません。このあたりの消息がつまり困難の由来です。
 それと、交友録とは別に岡先生の晩年の思索の姿を回想することも『虹の章』のテーマでした。具体的には、まず岡先生が愛読した『正法眼蔵』のことがあり、それと岡先生がしきりに口にした「日本を思う心」のことがあります。どちらも簡単には書けません。それからもうひとつ、日本語の表記の問題があります。というのは、今度は歴史的仮名遣と正字体の漢字で表記したいと思ったからで、このためにやや複雑な歴史的経緯に立ち入ることを余儀なくされました。しかも、単に調べるだけではなく、実際に歴史的仮名遣と正字体の漢字を使って原稿を書くことになるのですから、日本語の勉強をやり直すことにもなりました。日本語はなかなかむずかしく、一筋縄ではいきませんでした。
それやこれやで一年がすぎ、二年がすぎるというふうで、とうとう平成23年になってしまいました。『花の章』が刊行されてから7年になります。この間、平成20年に岩波新書の形で『岡潔 数学の詩人』を出しましたが、これは主に岡先生の数学者としての姿に焦点を当てた作品で、『虹の章』とは関係がありません。
『虹の章』の構成も何度も変遷しましたが、最後は5篇の文章で編成するという構えに落ち着きました。各々の文章の題目と字数は下記の通りです。

『評伝岡潔 虹の章』
一 石井式漢字教育 7万字
二 駒込千駄木町の一夜 6万3千字
三 正法眼藏―玉城先生の肖像― 10万字
四 人間の建設(小林秀雄との対話) 2万字
五 龍神温泉の旅 10万字

 字数は概数ですが、合計でおよそ36万字。400字詰の原稿用紙に換算すると約900枚。これに目次と「あとがき」を加えると次第に1000枚に近づいていきます。こんな作品の出版がはたして可能なのかどうか、不安は絶えずつきまとっていました。

「恥ずかしい誤変換」と「笑える誤変換」の訂正

 最近の「リーマンを語る」は「ルジャンドルとヤコビの往復書簡より」というサブタイトルをつけて35回まで進みましたが、ひと休みすることになりましたので、この際と思い、読み返してみました。読み返すと必ず「恥ずかしい誤変換」が見つかりますので、つらい作業です。今回もあちこちで遭遇しました。
 「恥ずかしい誤変換」「笑える誤変換」というのはワープロの出現に伴って発生した不可解な現象で、手書きで原稿を書いていた時代には考えられないことでした。根絶する方法が見つかれば大発見です。

リーマンを語る 229. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その35

〈ではありますが、結局のところ、私は易々と自分を慰めるのです。学問が失うものは何もありません。あなたがあなたの証明の土台を私の著作から取ろうと、アーベル氏のきわめて高く評価されてしかるべき最近の研究から取ろうと、あなたの証明は依然としてあなたのものなのです。〉

〈余白がありませんので、仮のものでしかない返信の中で、これ以上のことは申し上げられません。あなたがあのあまりにも美しい諸結果に到達するために用いた手法を私が求めたことに対し、あなたは本当に親切な率直さでもって応えてくれました。あらためて感謝いたします。〉

 1828年5月11日付のルジャンドルの手紙はこれで終わりです。ルジャンドルとヤコビの往復書簡は全部で23通ありますが、ここまでのところで6通まで読みました。まだ17通も残っていますし、アーベルの名が登場する場面も次第に増えてきて、これからますますおもしろくなりそうな予感がありますが、先は長いです。
 連載「リーマンを語る」はすでに229回。ここまで書いてきて依然として完成のめどがたたないのですが、テーマがテーマですので、どれほどの日時がかかろうともこればかりは仕方がありません。読むべきものを読み尽くすまで続けたいと思います。
 ところで、ここにきて緊急を要することが生じました。それは岡潔先生の評伝のことなのですが、「星の章」「花の章」に続く三冊目の評伝「虹の章」の原稿がいよいよ完成しつつあり、それに合わせて「あとがき」を書かなければなりません。それで「リーマンを語る」をしばらく休載し、「虹の章」の「あとがき」を試みることにしたいと思います。

リーマンを語る 228. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その34

 ルジャンドルの病気は快方に向かっている模様です。

〈ですが、この状態は改善に向かい始めています。私としては近いうちに通常の研究に再び取り掛かれるようになりたいと望んでいます。あなたの新しい証明は私が一番はじめに研究したいと思っていることなのですが、それが理解できるようになるのは、私にとって大きな喜びなのです。〉

〈深く調査してその値打ちを認識できるようになるのを待ちつつ、一、二のたいして重要でもない注意事項をお伝えしておきたいと思います。ω=mK/n+2m’iK’/nと定めるのに際して、mとm’として任意の整数、ただし与えられた奇数nと共通因子をもたないものを取ることができると、あなたは言っています。この制限が課されるのであれば、楕円関数のn等分方程式は次数n^2を越えないことになりますが、これはnが素数ではないときにも起こるのではないかと私には思われます。〉

〈第二の注意。あなたの証明の原理を確立するためには、アーベル氏によってはじめて与えられた、乗法に関する解析的公式に依拠しなければならないとあなたは言っています。この告白はあなたの率直さを示していますし、真実の才能によく調和する資質ではありますが、私には少々つらく響きます。といいますのは、アーベル氏のすばらしい研究の長所を完全に認めることにしながらも、それをあなたの発見のはるか下に配置することにより、私はあなたの諸発見の栄誉、すなわちそれらの証明の栄誉をもっぱらあなたに所属させたいと思うのです。〉

 このあたりの文言を見ると、ルジャンドルはひたすらヤコビをひいきにしています。ヤコビをよほど高く評価していたのでしょう。それと、ヤコビから丁重な手紙をもらったことが、やはりとてもうれしかったのだろうと思います。

リーマンを語る 227. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その33

 ルジャンドルはヤコビの定理IIの証明を知りたいと望んでいました。独自に証明しようとしてもできなかったために、それだけにいっそう、ヤコビに教えられたことがうれしかったようでした。

〈4月12日付のあなたの最後の手紙を4月26日に受け取りました。そこにはあなたの補定理の証明の原理が含まれていました。それほど年をとっていないころでしたら、精神の大きな緊張にやすやすと堪えて、研究を実行することもたぶんできたのではないかと思うのですが、そんな自分の研究によってこの証明を見つける希望をもてなかったものですから、それだけにいっそうあなたから受け取るのを待ちかねていたのです。その月の14日にあなたにお便りをさしあげましたが、それは、あなたの御親切により、私にとって大きな興味のあるこの事柄を伝えていただきたかったのです。ですが、あなたのお手紙の日付により、あなたが私の願いをかなえてくれたのは、シューマッハー氏の緊急の懇願によってであること、それらをいわば予告したのであることがわかります。あなたのお手紙が私のもとに届いた4月26日からこのかた、私は依然としてあなたの定理IIすなわち定理Iの補定理――その証明には望むべきことはもう何も残されていません――の導出にあなたが成功するにいたったみごとな方法について、その正確な観念を得ていないことを、今、あなたはたぶんやっとのことで理解することでしょう。〉

 ここまで言葉を尽くされると、ヤコビの発見の意義について、もう少し立ち入って理解したいという誘惑にかられます。ヤコビはヤコビの発見をシューマッハーへの二通の手紙という形で公表したのですが、その手紙にも目を通し、ヤコビに思索の手掛りを与えたルジャンドルの著作もていねいに参照してみたいところです。歴史研究には必須文献が山をなし、一朝一夕にはかたづきません。

〈このようなことを申し上げたからといって、あなたの方法に対して何かしら申し立てるべき異論をもっているというのではありません。あなたの方法は疑いもなくあなたの聡明さを新たに証するものです。ですが、私はカタルを煩っていて、この冬の間ずっと苦しめられました。春になるとひときわ重くなりました。それでこの二十日間、真剣な勉強は禁止され、自分の著作を理解することもできなくなっていたのです。〉

ルジャンドルは病気だったのです。

リーマンを語る 226. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その32

 ルジャンドルは最後にベッセルへの伝言を依頼しました。

〈ベッセル氏とは面識がないのですが、ヨーロッパの第一流の天文学者のひとりと思っています。どうぞよろしくお伝えください。「天文報知」でベッセル氏のすばらしい論文を拝見しました。その論文で、ベッセル氏は、私が1820年8月に公表した私の方法の第二補足において用いたものと類似の手法により、オルバース氏の彗星の方法を完成しています。〉

 ルジャンドルには天文学への寄与もあるのですが、ここでは割愛します。署名の後に追伸があり、くれぐれも切手を貼らないようにと念を押しました。

〈迅速なお返事を期待しています。別のやり方で手紙を出すのが不可能というのでないのでしたら、くれぐれも切手を貼らないようにしてください。〉

 ルジャンドルはなかなか細やかな心遣いをする人でした。

 往復書簡の第7書簡もまたルジャンドルからヤコビへの手紙です。日付は1828年5月11日。ルジャンドルはヤコビからの返信を待たずに立て続けに手紙を書いたことになります。ヤコビはなぜ返信をしなかったのか、何かわけがあったのかもしれませんが、詳しい消息は不明です。

リーマンを語る 225. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その 31

 ヤコビを賞賛するルジャンドルの言葉はなお続きます。

〈私はわれわれのアカデミーの論文集にあなたの二定理についての一注意を掲載するつもりですが、それは、われわれの若い著者たちを怠惰から目を覚まさせて、あなたが思いもかけないほどの完成度に高めることのできたあの美しい理論を知らない状態に、かくも長期にわたって留まることのないように仕向けるためなのです。〉

 次の言葉ではヤコビが企画中の著作が話題になっています。

〈ベッセル氏がシューマッハー氏に知らせたことなのですが、あなたは楕円関数に関する大論文の執筆に専念しているとのこと。このお仕事にはおそらく、あなたの新しい理論の、心を引かれる非常に興味深い叙述が含まれることでしょう。必ずやあなたに多大な栄誉をもたらすことでしょう。〉

 ヤコビは論文の執筆よりも一挙に著作を出す考えで、執筆に取り組んでいました。その著作というのは『楕円関数論の新しい基礎』のことで、この時点からおよそ一年後に完成しました。

〈ではありますが、このお仕事の本質的な部分の公表をあまり遅らせることのないようにしてください。おりあらばあなたの研究の果実を奪い、ずっと前から自分のものだと装うガウスのような人もいるのです。まったくばかげたうぬぼれです。といいますのも、もしガウス氏が、私の見るところ、これまでに解析学でなされたことのすべてを凌駕するような発見に遭遇したなら、それらを急いで公表したにちがいないからです。〉

 ここにはガウスを嫌悪するルジャンドルの肉声が響いています。ルジャンドルは相互法則や最小自乗法の発見の経緯のことでガウスの批判を浴びたりしましたし、ガウスの仕打ちがよほど腹にすえかねたのでしょう。

リーマンを語る 224. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その 30

 ヤコビは二つの定理のうち定理Iの証明は公表しましたが、定理IIの証明は未公表でした。ルジャンドルはそれを待ち焦がれているようでした。

〈先ほど私はシューマッハー氏の手紙を受け取りましたが、その手紙により、あなたはシューマッハー氏の雑誌に掲載するものを何も送っていないことを知りました。私は、あなたの最初の公表論文にあなたの定理IIが含まれているのではないかと望んでいました。新しい非常に巧妙な工夫によってはじめて、あなたはその証明に成功したと私には思われますので、それだけにますますその証明は私の関心を誘ったのです。実際、あなたの記号に合致させることにして、
 λ^2+λ’^2=1, F(λ’^2,ψ^m)=(m/p)F^1(λ‘),
 tangθ’=tangψ/sinψ’, tangθ’’’=tangψ/sinψ’’,・・・
そして最後に、
 (1/2)θ=θ’-θ’’’+θ^v・・・-+θ^(p-2)±ψ
と置くと、定理IIの式
  F(χ,θ)=μF(λ,ψ)
が得られます。この式を定理Iの式と組み合わせると、
  F(χ,θ)=pF(λ,φ)
が与えられます。定理IIの諸与件により、γ’=cot^2ψ’, γ’’’=cot^2ψ’’’,・・・,x=sinψ,y=sinθと置くと、
 y=μx(1+λ^2x^2/γ’)(1+λ^2x^2/γ’’’)(1+λ^2x^2/γ^v)・・・
   ÷(1+γ’x^2)(1+γ’’’x^2)(1+γ^v x^2)・・・
となります。これより、
   χ=γ’^2γ’’’^2γ~v2・・・/μ’λ^(2μ-1)
となります。これらの完全に決定された値は、あなたに負うあの美しい変換原理、すなわちsinθを1/χsinθに、sinψを1/λsinψに同時に置き換えることができるという原理を満たしています。ではありますが、定理Iの証明と類似の完全な証明を遂行するためには、等式
 √(1-yy)=√(1-xx)・P/(1+γ’x^2)(1+γ’’’x^2)・・・
において、分子Pの一般表示式を承知したうえで、それを因子の積(1+δ’x^2)(1+δ’’’x^2)・・・の形に表示することができなければなりません。ところで、これは困難をもたらします。私はいろいろと調べてみたのですが、これを解決する手だては何も見つからなかったほどです。〉

〈私がこの究明のために大量の時間を費やしたのはまったくよけいなことだったのかもしれません。といいますのは、この発見の栄光はひとえにあなたに属するのですし、その栄誉をほんのわずかな部分といえども要求するような考えは私にはまったくないからです。私からの要請は、そんなに長い叙述を必要としないのではないかと思います。また、私の好奇心を最高に高めてくれるあなたの美しい発見の手掛りを私に与えることは、あなたにはたやすいことであろうと思います。〉

 ルジャンドルはこう言って若いヤコビに対して謙虚な態度を示し、それからIntelligenti paucaという語句を書き付けました。このあたりにはルジャンドルの矜持がほのかに現われているようでもあります。これはラテン語の慣用句で、「賢者にはわずかな言葉だけで通じるものだ」というほどの意味です。ちょっと調べてみたのですが、英語ではA word is enough to the wise.というのだそうで、そのまま訳出すると「賢者にはひとことで十分だ」というところでしょうか。翻案がすぎるようにも思いますし、単語二つだけのラテン語「インテリゲンチ パウカ」のほうが格調が高そうな感じがあります。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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