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オイラーの無限解析 関数概念の発生と無限解析の変容 (2)  創始者と源泉

 無限解析という言葉はこのごろはさっぱりみかけなくなりましたが、今日の数学的状況でいうと微分積分学と呼ばれる数学の一部門とほぼ合致します。どうして名前が変ったのか、それはそれで興味の深い問題ですが、これについては後述することにして、今日の微積分が誕生した当時の呼称はまちがいなく無限解析でした。担い手としてはライプニッツとベルヌーイ兄弟(兄のヤコブと弟のヨハン)の三人が挙げられます。たった三人しかいないというのはそれはそれで変な感じがしないでもないのですが、事実はその通りですし、無限解析ばかりではなく、一般に数学という学問はある特定の個人の創造物であるという状況観察はここでもまたあてはまります。
 三人の名を挙げるのでは「特定の個人」の創造物とは言えないのではないかという批判が起りそうですが、「特定のひとり」ということでしたらライプニッツの名を挙げることになります。ライプニッツが微分計算の基本思想を表明したのは1684年の論文においてのことでしたが、その論文のタイトルは、

「分数量にも無理量にも妨げられない,極大と極小および接線を求めるための新しい方法.ならびにそれらのための特殊な計算」

というものでした。この論文が微分法の嚆矢であることはまちがいないのですが、今日の微分法の対象はあくまでも関数であり、微分するといっても何を微分するのですかと素朴に問われたなら、「関数を微分する」と端的に答えることになります。
 ところがライプニッツの論文のタイトルを見ると「接線を求めるための方法と計算」という言葉が読み取れるばかりです。接線というのですから「曲線の接線」ですし、ライプニッツの論文名から推察されるのは、ライプニッツにとって微分法とは「曲線に接線を引く方法」のことなのであろうということです。しかもその方法は「分数量にも無理量にも妨げられない新しい方法」というのですから、どことなく「万能の接線法」という印象が漂っています。この印象は実際にその通りで、ライプニッツが発見した「新しい方法と特殊な計算」というのは、「どのような曲線にも自在に接線を引く方法」のことにほかなりません。ライプニッツの無限解析には関数の姿はなく、存在するのはただ曲線のみということになります。
 曲線と関数の関係については後述することにして、微分と対をなす積分についてライプニッツが何をしたのかというと、ライプニッツは上記の微分計算の論文から二年後の1686年になって、

「深い場所に秘められた幾何学,および不可分量と無限の解析について」

という論文を公表しました。この論文のタイトルを見ても積分という感じはしませんが、ここで表明されているのはまぎれもなく積分計算に寄せる基本思想です。それならライプニッツのいう積分計算とは何かという疑問が発生しますが、これもまた後回しにして歴史的回想をもう少し続けると、ライプニッツが公表した二篇の論文をめぐってライプニッツとベルヌーイ兄弟の間で往復書簡が取り交わされるという出来事が起りました。
 ライプニッツの所在地はドイツのハノーファー、ベルヌーイ兄弟の所在地はスイスのバーゼルです。ベルヌーイ兄弟はライプニッツの二論文によほど心を惹かれたようで、兄弟で解明に取り組んだのですが、次々と疑問がわいたようで、ライプニッツに宛てて手紙を書きました。ライプニッツもまたこれに応じ、長い年月にわたって文通が続きました。それらはベルヌーイの著作集に収録されていますので参照することができますが、どれもみな数学書簡ともいうべき手紙ばかりです。この往復書簡で議論を重ねるなかでベルヌーイ兄弟はライプニッツの無限解析の思想と手法をつかみました。その証拠というわけではありませんが、ベルヌーイ兄弟の弟のヨハンはバーゼル大学で無限解析の講義を行っていますので、その記録を参照すればどのように理解したのか、はっきりとわかります。
 無限解析の創始者はだれかという問いに対してまずライプニッツと答え、それからベルヌーイ兄弟の名を挙げたのですが、問われたのは創始者のことなのですからライプニッツひとりを挙げれば十分で、ベルヌーイ兄弟をここで持ち出さなくてもよいのではないかとも思われます。この疑問はもっともではありますが、ライプニッツだけではやはり不十分で、ここはどうしてもベルヌーイ兄弟の名を併記する必要があります。なぜかといえば、無限解析の基本思想を表明したのはたしかにライプニッツですが、ライプニッツの二論文だけではスケッチにすぎず、ベルヌーイ兄弟との往復書簡を通じてはじめて肉付けがなされたからです。ライプニッツの基本思想はベルヌーイ兄弟が現われてはじめて数学に昇華したと言ってもよさそうです。
 別の事例を挙げると、ヨーロッパ近代の数学の流れにおいて数論の端緒を開いたのはフェルマですが、フェルマはいくつもの命題を提示しただけで、証明もついていませんし、それだけではまだ数学と呼ぶには足らないのではないかと思います。ある人がある命題を口にしたからと言って、それだけではまだ何事でもありません。フェルマの場合でしたら、フェルマの没後、フェルマが遺した命題はいわば放置され、数学を愛好する人々の間で真剣に討議された様子は見られません。そこにオイラーが現われて、フェルマが遺した諸命題に次々と証明を与えていきました。これではじめてフェルマの言葉は数学になりました。
 フェルマだけではまだ数学ではありえなかったところ、オイラーの登場を待ってはじめて数学になったと言いたいのですが、ライプニッツとベルヌーイ兄弟の関係はフェルマとオイラーの関係に非常によく似ています。無限解析の創始者はライプニッツでいいとしても、ライプニッツが創始者でありえたのはベルヌーイ兄弟のおかげです。それで創始者とは別に源泉を問われた場合、ライプニッツとベルヌーイ兄弟の往復書簡集そのものをもって答えたいと思います。その底にはライプニッツの二論文が横たわっています。

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オイラーの無限解析 関数概念の発生と無限解析の変容 (1) 若干の回想

 連休に入り、現在、郷里の群馬県の山村にもどりつつあるところです。手もちの資料がとぼしいので少々不安なのですが、オイラーの無限解析についてはこれまでに何度も繰り返して語ってきたことでもありますので、それらの回想から始めてみたいと思います。そのうえで、今回は新たにもうひとつ、この際、語っておきたいと思うテーマがあります。それは「オイラーの関数概念はなぜ生まれたのか」という、発生の起源にまつわる仮説です。
 関数概念には歴史に関心を寄せ始めた当初からこだわり続けてきましたが、どうしてなのかと考えてみますと、もともと数学への入り口が多変数関数論だったことと連繋しているように思います。多変数関数論では多複素変数の解析関数が研究されるのですが、解析関数の出自は何なのかと問うとリーマンとコーシーにさかのぼります。リーマンとコーシーの解析函数は複素変数の関数ですが、複素変数の関数でしたらリーマンとコーシー以前にもすでに現われていました。ガウス、アーベル、ヤコビの楕円関数研究などが即座に念頭に浮かびます。ただし、そこには解析性の認識が欠けていましたので、まだ複素関数論とは言えず、複素関数論の前夜という感じがします。
 ガウスとアーベルとヤコビの前に立ち返ると18世紀の数学の世界に入っていくことになりますが、そこにはオイラーの無限解析という巨大な山脈がそびえています。あまりにも大きな壁になっているためにオイラー以前の世界が見えなくなってしまうほどですが、オイラーの無限解析にははっきりと関数の概念が登場しています。というよりもむしろ関数の研究こそがオイラーの無限解析の根幹を作るテーマなのでした。オイラーの関数は実関数が主役を占めているように見えますが、複素関数が排除されていたわけではなく、オイラーの目は複素関数にも熱く注がれています。
 ところが、解析学の歴史を語るうえでここが肝心のところなのですが、オイラー以前の無限解析には関数は存在しませんでした。オイラー以前というと、ライプニッツとベルヌーイ兄弟の三人の名が即座に念頭に浮かびますが、彼らの究明の対象は関数ではなく曲線でした。無限解析は曲線の研究に主眼を置いて発足し、オイラーにいたって関数概念が発生し、無限解析は関数の研究をめざす学問になりました。ではどうしてなのか、という論点に焦点をあてて論じたいというのが今回の短期連載のテーマです。

短期新連載のお知らせ

連載「リーマンを語る」は第165回目にさしかかり、アーベルとヤコビの学問上の交流を語りつつあるところですが、オイラーの無限解析について短いエッセイを書かなければならないことになりましたので、アーベルとヤコビの話は少しの間、お休みします。
今後の展望を少々。

(1) アーベルとルジャンドルの往復書簡
ヤコビのことが話題になっています。
(2) ヤコビとルジャンドルの往復書簡
ヤコビはアーベルの数学研究のすばらしさをルジャンドルに説いています。
(3) ガウスとシューマッハーの往復書簡
シューマッハーを通じて、ガウスがアーベルに対してどのようなことを語っていたのかがわかります。

これらのことに言及ができればアーベルの物語はほぼ語り尽くしたことになるのではないかと思います。さてその次はヤコビを語る番になりますが、はたしてどのようになるのか、全然わかりません。ヤコビについてまとまったことを書いたことはありませんので、ぼくとしても未踏の領域に踏み込んでいくことになります。ヤコビはリーマンを語るうえで避けて通ることのできない関門です。
 オイラーの話が一段落したら再びアーベルとヤコビに立ち返り、上記のような計画に沿って話を続けたいと思います。

リーマンを語る164.ヤコビの虚数乗法論

 「楕円関数研究」の第二論文にまつわる話はこのくらいにして、アーベルの他の論文についてもう少し報告を続けたいと思います。1727年の年末のことですが、「クレルレの数学誌」の第二巻の第3分冊(1727年12月12日刊行)に「問題と定理。問題は解決し、定理は証明すること」というコーナーが設定されたことがあります。アーベルも寄稿して、問題と定理をそれぞれ二つずつ提出しました。興味深いのはヤコビが反応したことで、ヤコビはクレルレに宛てた手紙の中でアーベルが提出した二つの定理のうちのひとつに言及しました。その手紙の日付は1828年4月2日で、アーベルの定理に関する部分が抜粋されて「クレルレの数学誌」の第三巻、第2分冊(1828年5月26日刊行)に掲載されました。その記事には、
「楕円関数ノート(1828年4月2日付の、著者からこの雑誌の編纂者への書簡からの抜粋)」
というタイトルがついています。
 ヤコビは、「アーベル氏は次の定理を提出した」と言って、アーベルが提示した定理を再現しました。P(x)はxの4次多項式で、係数はすべて実数として、変数分離型の微分方程式
  adx/√P(x) = dy√P(y)
を考えます。aも定数で、これも実数とします。このとき、もしこの微分方程式が代数的に積分可能であるとするなら、aは必ず有理数でなければならないということを主張するのが、アーベルが提出した定理の内容です。これに対してヤコビはどのようなことを語ったのかというと、この定理が効力をもちうる範囲は定数aが実数の場合に限定されることはなく、複素数の場合にも成立するのではないかというのです。定数aには「乗法子」という呼称が相応しいと思いますが、その乗法子が虚数の場合を考察するというのですから、ヤコビの目は虚数乗法の理論の世界を見ようとしていたと言えそうです。
 虚数乗法論でしたらアーベルの創意が光る領域ですが、アーベルがこの理論を公表したのは「楕円関数研究」の後半においてでした。それはヤコビの「楕円関数ノート」と同じ「クレルレの数学誌」の第三巻、第2分冊に掲載されたのですが、そうしますとヤコビはそのアーベルの論文を知らずに独自に虚数乗法論の可能性に気づいたことになります。アーベルを刺激せずにはおかない場面ですが、ここにもまたアーベルとヤコビの数学上の交流の一面が現われています。
 ここまでのところを回想すると、アーベルとヤコビの間の競争というか、数悪上の交流は三つのテーマをめぐって行われたことがわかります。まずはじめに変換理論。次に等分理論。それから虚数乗法の理論です。アーベルの代数方程式論に関してはヤコビの発言はありません。

リーマンを語る 163.  数学の成熟と人生の破綻

 アーベル全集の第二巻にはアーベルの遺稿が収録されていますが、その中に「楕円関数研究 第二論文」の内容と関連のありそうなものが二つあります。ひとつは
  「二、三の楕円公式の証明」
というもので、194頁から196頁まで、ほんの3頁を占めるだけのメモのような書き物です。「楕円公式」というのはなんだか変な感じのする言葉ですが、これは「楕円関数に関係のある等式」というほどの意味で、内容もそうなっています。アーベルのメモを収録したもので、アーベルが自分で「二、三の楕円公式の証明」というタイトルをつけて論文を書いていたというのではありません。
 もうひとつは、
  「楕円関数に関する諸断片」
というもので、244頁から253頁まで9頁を占めています。これも全集に収録する際に編纂者のシローとリーが仮につけたタイトルです。三つの断片が集められていますが、一番はじめの断片には、実に「楕円関数研究 第二論文」というタイトルがつけられています。この断片は250頁のはじめまで続きますから全部で7頁ほどになります。前に、アーベルの全集には第二論文の存在をうかがわせる文書は全然ないと書きましたが、実はそれは少々まちがっていて、実際には、わずかに7頁とはいえ、第二論文というタイトルをもつ断片が存在しているのですから、これをもって幻の第二論文の片鱗と見てもさしつかえないのではないかと思えるところです。
 この断片のことは承知していましたし、アーベルが第二論文を試みていたらしいことも認識していたのですが、両者はなかなか結びつきませんでした。「数学輯報」に掲載された「第二論文」を見るに及んでようやく思い当たるものがあり、比較参照したところ、全集に収録された断片は、同じタイトルのいっそう大きな遺稿の一部分であると確認することができました。言い忘れましたが、「数学輯報」に掲載された「第二論文」は39頁もあります。アーベルも相当に力を入れて書き進めていた様子がうかがわれますが、中断されました。代って書き始めた「概説」もまた中断されました。大きな構想を抱いて執筆に打ち込みながら完成にいたらない状況が現われています。
 アーベルは大旅行を終えて帰国してから定職が見つからず、経済状態が思わしくありませんでしたし、健康にも問題がありました。1827年の後半期と1828年の一年間はアーベルの最盛期で、多くの作品がこの一年半ほどの間に生まれましたが、この時期は同時にアーベルの晩年でもありました。数学者としての成熟と実人生の崩壊の徴候が同時に進行していたのですが、このあたりの消息の印象は悲惨の極みで、アーベルの人生を回想してこの時期にさしかかるといつも胸を打たれます。

リーマンを語る 162.  長篇の遺稿「楕円関数論概説」

 アーベルの「楕円関数研究 第二論文」が全集に収録されなかった理由は不明ですが、全集をよくよく観察すると、第二論文の痕跡と見られる記事がないことはありません。もっともそんなふうに思えるのは1902年の「数学輯報」に掲載された遺稿と比較することができるからで、そうでなければ気づくのは無理ではないかと思います。第二論文を校正する五つの章のうち、第一章については前回言及した通りです。残る四つの章の内容を点検し、全集に収録されている論文(公表されたものと未公表のもの)と比較すると、似通っているものが三つほど見つかります。
 ひとつは
 「楕円関数論概説」
という論文です。これは長大な作品で、アーベルの没後、「クレルレの数学誌」第4巻に二回に分けて掲載されたのですが、通し番号では518頁から617頁まで、全部で99頁にもなります。掲載の状況をもう少し詳しく観察すると、はじめの三つの章は1829年6月10日発行の第三分冊に掲載され、続く二つの章のうち、第4章の全部と第5章の第1節までが、7月31日発行の第四分冊に掲載されました。論文の笹以後に「発行者による脚註」が附されていて、「この論文はここまでのところが発行者のもとに届けられた。アーベル氏はこの論文を完成することなく亡くなった」と記されています。「発行者」というのはクレルレを指すのは言うまでもありません。
 「概説」は未完成の状態でクレルレのもとに送付されましたから、クレルレとしては続きが送付されてくるのを待つという恰好になり、完成した時点で全文を掲載する考えだったのであろうと思います。結局、続きは送られてこないままアーベルが亡くなってしまいましたので、未完成のまま「クレルレの数学誌」に掲載されました。ところが、他方、アーベルはアーベルで続きの執筆を続けていて、1874年になって第5章の第2節と第3節の原稿が発見されました。第3節の途中まで下記すすめられたところで中断されたのですが、シローとリーはこの断片を採用して、1881年に刊行された全集に収録しました。1874年というと、アーベルの没後、実に45年目の出来事です。
 高木先生の『近世数学史談』では「概説」は「要論」と呼ばれて言及されていますが、

〈アーベルの楕円函数論研究(Recherches)第2編は中止された。彼は一層大規模の楕円函数論を著わす計画を有したが、それを果すことを得なかった。「要論」は未刊のまま1829年アーベルの死後クレルレ誌第4巻に載せられた。〉

と述べています。「概説」もしくは「要論」の原論文名はPrécis d’une théorie des fonctions elliptiquesです。Précisの訳語としては「概説」も可、「要論」も可と思いますが、あるいはまた「概要」としてもよさそうです。

リーマンを語る161.「楕円関数研究」第二論文の成り行き

 アーベルの論文「楕円関数研究 第二論文」は、なにしろ1902年になって公表されたくらいですから、長い間、忘れられていた遺稿ですが、冒頭の言葉を見ると執筆の意図は明瞭に伝わってきます。次のように書き始められています。

〈本誌(「クレルレの数学誌」を指しています)の第二巻に掲載された「楕円関数研究」において、私は、楕円関数の2n+1個の等しい部分への分割が依拠する次数(2n+1)^2の方程式はつねに解けるが、それにはどうしたらよいかという方法を示した。しかし私はただ、そのような解法の可能性を明らかにするだけに甘んじて、諸根の表示式をめぐって細部に立ち入ることはしなかった。(「クレルレの数学誌」の)第三巻、p.86に掲載されたヤコビ氏のノートは、私をこのテーマに立ち返らせてくれた。そうしてこれを機に、楕円関数のいくつかの新しい性質に到達した。そこで私はここで、私の初期の研究を継続したいと思う。〉

 「クレルレの数学誌」を指して「本誌」と呼んでいるところを見ると、アーベルはこの第二論文を「クレルレの数学誌」に掲載しようとする意図のもとに執筆したことがわかります。それと、ヤコビのノート、すなわち「本誌の第2巻、第二分冊、p.101に掲載された、楕円関数に関するアーベル氏の論文への附記」というタイトルを附されて「クレルレの数学誌」の第3巻、第1分冊に掲載された一頁のノートを強く意識して様子も伝わってきます。ヤコビが等分理論に関心を寄せたことに対し、アーベルとしても大きな刺激を受けて、何事かを発信しようとする心情に駆り立てられたのでしょう。この状況を指して「アーベルとヤコビの競争」と見るのはもちろん可能ですが、変換理論に端を発した競争のテーマが等分理論に移行したことは注目に値します。
 前回、アーベルの全集には「楕円関数研究」の第二論文は見あたらないと書きましたが、正確に言うと実はそうではなく、全集には痕跡がとどめられています。それは
「楕円関数に関する諸定理」
というタイトルの論文で、「クレルレの数学誌」の第4巻、第2分冊に掲載されました。この分冊が刊行されたのは1828年3月28日ですから、亡くなる直前のことになります。たった6頁の短篇で、未完成のノートですし、タイトルもアーベルが自分でつけたものとは思えませんし、掲載にあたってクレルレが便宜上、書き加えたのでしょう。「楕円関数研究」の第二論文は五つの章で構成されていますが、数学の中味を見ると、第一章は「楕円関数に関する諸定理」そのものです。ということは、「楕円関数研究」第二論文がクレルレに送付されたのはまちがいなく、しかもクレルレは完全な形で公表するのを避けて、第一章のみ、便宜的なタイトルを掲載したことになります。どうしてそんなことをしたのか、消息は不明です。
 「楕円関数に関する諸定理」の書き出しの言葉を見ると、

〈本誌の第三巻、86頁でヤコビ氏によって与えられた公式は、われわれが如何の叙述の中で証明する一定理の助けを借りて簡単に確立される。〉

と宣言されています。「楕円関数研究」の第二論文と同主旨ではありますが、何だか変な文章です。つじつまを合わせるためにクレルレが作文したのでしょう。

リーマンを語る160.「楕円関数研究」の第二論文をめぐって

 アーベル方程式の定義はこれまでに何度も書いたことがありますので、ここで再現するのは省略することにしますが、アーベル方程式というものを考えるうえで肝心なことは何かというと、この概念は楕円関数研究から生まれたという一事です。高木先生も「アーベル方程式は楕円函数論の副産物である。アーベルに於ては方程式論と楕円函数論とは深く互いに影響している」(『近世数学史談』第19章「アーベル対ヤコービ」)と言っています。ガウスは円周等分方程式論が巡回方程式であることを洞察し、その認識を基礎にして円周等分方程式を代数的に解くことに成功しましたが、円周等分方程式というのはつまり円関数(三角関数の総称です)の等分方程式のことにほかなりません。
 それと同様に、アーベルはレムニスケート曲線の等分理論が円周等分論とまったく閉口に進行することを発見し、なお一歩を進めて楕円関数の等分方程式の代数的可解性を追究しました。一般的に言うと楕円関数の等分方程式は代数的に可解ではないのですが、この探索の途中で出会う各種の方程式の中には代数的に解けるものもあります。どうして解けるのかというと、それらはアーベル方程式だからなのですが、この点を認識したのがアーベルの創意です。ガウスの深遠な影響下にあるのはまちがいありませんが、ガウスに影響を受けたからといってだれにでも同じことができるわけではありませんし、現にただひとり、アーベルだけがガウスの秘密を探り当てたのでした。
 アーベルのアーベル方程式論は1828年の早い時期にクレルレのもとに送付されたのですが、「クレルレの数学誌」に掲載されるまでに丸一年を要しました。どうしてこんなに遅れたのは、原因は不明です。
 楕円関数論の方面はどのようになったのかというと、『近世数学史談』には「アーベルの楕円函数論研究(Recherches)第2編は中止された」、「彼は一層大規模の楕円函数論を著わす計画を有したが、それを果すことを得なかった」と書かれています。「楕円函数論研究第2編」というところを見ると、「楕円関数研究」の続篇のような印象がありますが、これに関連のありそうな文書はアーベルの全集には見あたりません。アーベルの全集は二度編纂されました。最初の全集はホルンボエが編み、二度目の全集はシローとリーが編みましたが、その二度目の全集が刊行されたのは1881年です。そこにはアーベルの遺稿なのdも丹念に収集されているのですが、「楕円関数研究」の続篇を感知させる文書はありません。ところが北欧スウェーデンの数学誌「数学輯報(Acta mathematica)」の第26巻には、
 「楕円関数研究 第二論文」
という標題の論文が掲載されています。この第26巻が刊行されたのは1902年のことで、ちょうどアーベルの生誕100年にあたる年でした。この節目に合わせてアーベルの遺稿の探索が行われていたのでしょう。

リーマンを語る 159.  アーベルのアーベル方程式論

 ヤコビとルジャンドルの往復書簡、それにアーベルとルジャンドルの往復書簡については少し後にあらためて紹介することにして、1828年のアーベルの数学研究の模様をもう少し詳しく紹介したいと思います。楕円関数の変換理論については既述の通りですが、アーベルの数学研究にはもうひとつ、代数方程式論という大きな柱があり、その代数方程式論研究にもまた二本の柱がありました。ひとつは「不可能の証明」ですが、もうひとつは「アーベル方程式の理論」です。
 アーベルのアーベル方程式論は、「ある特別の種類の代数的可解方程式族について」という論文において公表されました。ここで「族」という訳語を使いましたが、その言語はclasse(クラス)ですので、あまり適切な訳語とはいえません。ではありますが、それならどうするかというとどうも適当な訳語が見あたらず、悩まされます。クラスというのですから、「階級」とか「等級」などという意味合いの言葉ですが、「学級」というときの「級」でもあります。類体論の「類体」を英語でクラス・フィールドと言い、ドイツ語やフランス語でも同じですので、日本でも末綱恕一先生などは「級体」という訳語をあてていたものでした。これをあらためて「類体」と呼ぶことを提案したのは高木先生でした。「類数」や「級数」など、他の数学用語との整合性を考慮したのでしょう。
 それはさておき、アーベル方程式というのは古典力学のニュートンの運動方程式とか、量子力学のシュレジンガー方程式とか、あるいはまた電磁気学のマクスウェル方程式のような、ある特定の方程式を指すのではなく、ある定まった条件をみたす一群の代数方程式のカテゴリーにつけられた呼称です。その感じを言い表すためにクラスという言葉が用いられているのですから、「級」か「類」、あるいはまたカタカナで「クラス」という訳語をあてるのがよいと思いますが、「方程式の級」も「方程式の類」もどうも変な感じがします。「方程式のクラス」なら少しはよさそうですが、まだ違和感があります。それで意味を汲んであえて「族」という語を採って「方程式族」としたという次第です。翻訳もなかなかむずかしいものです。
 このアーベルの論文は「クレルレの数学誌」の第4巻、第2分冊に掲載されましたが、その分冊が刊行されたのは1829年3月28日です。ところがアーベルが実際に書き上げたのはずっと早く、論文の末尾には「1828年3月29日」という日付が記入されています。きっかり一年前にできていたことになります。そのころアーベルは帰国の途上にあり、ベルリンに滞在中でした。掲載が一年も遅れたのは、何かしらよほどのわけがあったのではないかと疑われるところです。

リーマンを語る 158. 『楕円関数の新しい基礎』の成立とアーベルの死

 『近世数学史談』によると、高木先生の見るところ、ヤコビは性格においても境遇においてもアーベルとは対蹠的でした。アーベルはノルウェーの貧しいプロテスタントの牧師の子でしたが、ヤコビはユダヤ系の銀行家の子でした。ヤコビの生地はポツダムです。アーベルは病弱で内気でしたが、ヤコビはエネルギーに満ちあふれた活動家でした。高木先生の言葉の通りと思いますが、ここでもまたヤコビはアーベルの数学研究に敬意を払い、アーベルに対して親切だったことを言い添えておきたいと思います。ガウスはアーベルの一番はじめの代数方程式の研究は無視しましたが、その後のアーベルの数学研究の値打ちについては正しく理解したと思いますが、公に語ることはありませんでした。それに対しヤコビはルジャンドルへの手紙の中でしきりにアーベルを話題にし、アーベルの研究がいかにすばらしいものなのか、繰り返し語りました。ルジャンドルはヤコビを通じてはじめてアーベルを理解したと見てまちがいありません。
 ルジャンドルへの手紙ばかりではなく、楕円関数論の領域において、ヤコビの数学研究もまたアーベルの影響下にあったと言っても過言ではありません。といっても別段、風下に立つというわけではなく、ヤコビはヤコビで真に独創に富む数学者でしたし、だからこそアーベルの真価を見きわめることができたのでした。アーベルに寄せるヤコビの敬意はアーベルの没後も続き、アーベルの創意が息づくヤコビの研究を通じて今日の楕円関数論の根底が作られました。
 話が少々先走りますが、ヤコビの著作『楕円関数の新しい基礎』についてもう少し消息を伝えておきたいと思います。アーベルが亡くなったのは1829年4月6日のことですが、それからしばらくして1829年5月23日付でヤコビはルジャンドルに手紙を書き、『楕円関数の新しい基礎』を送付したことを伝えました。送付したのは4冊で、1冊はルジャンドル、他の3冊はポアソン、フーリエ、コーシーに渡してほしいと依頼しました。この時点ではヤコビはまだアーベルの死を知りませんでした。この手紙を受けて、ルジャンドルは6月4日付でヤコビに返信しましたが、そこには著作の受理の報告とともに、アーベルの死を知ったと書かれていました。ヤコビは6月14日付で返信し、前便の後、アーベルの死を知ったことを伝えました。『楕円関数の新しい基礎』は19世紀の楕円関数論研究の礎石となった重要な作品ですが、その成立とアーベルの死の認識が交錯した様子が伝わってきます。

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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