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ガウスの数論論文集に寄せて8. 引用文献のないガウスの数論

 『アリトメチカ研究』の序文を一読して驚嘆した事柄を二つまで挙げましたが、この二つを知っただけでも、ガウスの原著作を読む値打ちは十分にあると思ったものでした。それと、ガウスはすべてを独力で発見したと言っているのですが、これは本当で、その証拠にガウスの著作や論文には引用がありません。オイラーとラグランジュの論文や著作はしばしば紹介されていますが、それは自分の発見をオイラーやラグランジュも知っていたようだということを指摘するためにそうしているだけで、彼らに何事かを学んだというのではありません。何も言及しなくてもいっこうにさしつかえないことでもあります。通常の意味での引用とはまったく異なるのですが、それすらも目につくのは第4章までで、第5章以下になると引用は激減します。せいぜいのところ、第5章の二次形式論にラグランジュがちょっと顔を出す程度で、第6章と第7章あたりになるとガウスの独壇場です。
 それで、「ガウスの数論には引用がない」ということを、ガウスに特有のめざましい特徴として、ここに明記しておきたいと思います。この特徴は『アリトメチカ研究』以降の5篇の論文についても変りません。というよりもむしろ、それらの5論文にはいかなる意味においても引用は皆無で、ガウス以外の人物の名前はまったく見られません。ガウスが引用するのはガウスのみで、自分の論文のことはよく語っています。これもおもしろいことと思います。
 5篇の論文のうち、一番はじめに公表されたのは1808年の論文「アリトメチカの一定理の新しい証明」です。ガウスの数論のテーマはいつも相互法則なのですが、この1808年の論文もそうで、平方剰余相互法則の初等的な証明が記述されています。平方剰余相互法則の証明は『アリトメチカ研究』に二つ紹介されていますが、ひとつは数学的帰納法によるもので、むずかしいわけではありませんが、実に煩雑で、追随するのに困難を覚えます。もうひとつの証明は二次形式の種の理論に依拠するもので、これはこれでむずかしいのですが、単にむずかしいというだけに留まらず、実に不思議な証明で、神秘的でさえあります。これに対し、「アリトメチカの一定理の新しい証明」に出ている証明は非常に簡単で、よくわかります。いわゆる「ガウスの記号」が出てくるあたりに特徴が見られます。
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ガウスの数論論文集に寄せて7. 古典の値打ちのもうひとつの例

 ガウスの『アリトメチカ研究』の序文を一読してまずはじめに驚かされたのは、ガウスの数論のはじまりの情景を物語るガウス自身の言葉でした。それについては前回、お伝えした通りですし、これまでにもあちこちで同じことを書いたり話したりしたものでした。昔、というのは25、6年ほど前のことですが、京都で宗教学の西谷啓治先生にお目にかかったおり、数学を勉強するというのであれば、数学を創造した当の本人が数学とは何かということについて何事かを語っているかどうかに注意するとよい、と教えていただいたことがあります。数学とはどのような学問なのかということを考える際、参考になるのは数学を創った人々の発言であり、しかもそれらを措いて参考になるものはないというほどのことを教えていただいたのだと思いますが、この話をうかがったときも非常に驚きました。そのときとっさに念頭に浮かんだのはガウスのことでした。
 数学を創った人が創造の現場を直接語る言葉というのは実際には非常に少ないのですが、ガウスの事例は非常に貴重です。ガウスに匹敵する言葉を残した人を回想すると、アーベルとポアンカレ、それに岡先生と高木先生くらいでしょうか。丹念に拾えばもっと事例が増えるかもしれません。たとえばデデキント、クンマー、クロネッカーなどにも、わずかですが創造の瞬間を語る言葉が見られます。
 『アリトメチカ研究』の序文に見られる驚愕の発言はもうひとつ、これもあちこちで語り続けてきたことではありますが、円周等分方程式を語る言葉があります。円周等分方程式論は第7章のテーマですが、この理論は非常に特殊な形の代数方程式の解法理論であり、幾何学的に見ると正多角形の作図問題の解決の報告のようにも見えます。ほかの見方はありえないように思うのですが、そんな理論がなぜ数論の著作に記されているのでしょうか。
 これは素朴な疑問ですが、ガウス自身も真意が伝わらないかもしれないことを危惧していたようで、序文の中でわざわざ、この理論の根幹は数論なのであるとしつこいくらいに強調しています。ぼくが深遠な感銘を受けたのはまさしくそこのところです。ガウスの円周等分方程式論は『アリトメチカ研究』の段階ではまだ未完成で、数論との連繋が確立して完成の域に達するまでにはなお数年を要しました。ガウスはもう一篇の論文を書かなければ成らなかったのですが、ということはつまり、ガウスは証明ができていない時点からすでに何事かを確信していたことになります。あれこれとやっているうちにたまたま何かを発見したというのではなく、何も起らない時点においてすでに確信があり、海のものとも山のものともわからない確信が具体化して数学が生まれたということになります。ガウスは数学をそのような学問と見ていたことがはっきりとわかりますが、その情景が赤裸々に現われていますので、驚きもひとしおだったという次第です。

ガウスの数論論文集に寄せて6. 古典の値打ち

 繰り返しを恐れずに『アリトメチカ研究』の序文を再現してもさしつかえないのですが、ここでは取り急ぎもっとも感銘を受けたガウスの言葉を紹介するだけに留めたいと思います。あえて訳文を見ないことにしたいのですが、まずはじめに強い感銘を受けたのはガウスが「あるひとつのアリトメチカの真理」を発見したことを告げる場面でした。それは今日のいわゆる「平方剰余相互法則の第一補充法則」なのですが、ガウスは特別の名前を与えているわけではありません。その発見を経験したのは1795年の年初と明記されていますので、印象はいっそう生き生きとしています。ガウスの生誕日は1777年4月30日ですから、この時点で満17歳です。
 ガウスの言葉によると、何か別のことを考えていたときにたまたまこの真理を発見したというのですが、発見に追随して証明にも成功しました。しかもガウスの目にはこの発見の背景が見えたようで、次から次へと糸をたぐるようにするすると数論の諸命題が導かれ、ついに「平方剰余の理論の基本定理」が見つかりました。今日の数論で平方剰余相互法則と呼ばれている命題です。この法則には第二補充法則と呼ばれるもうひとつの補充法則が伴っているのですが、それも見つかりましたし、そのうえ相互法則の本体にも第二補充法則にもみな証明を与えることができました。
 ガウスは数論研究のはじまりのころの情景をこんなふうに率直に語っているのですが、これを要するにすべてを独力で成し遂げたということにほかなりません。ていねいに観察するとガウス以前にオイラーやラグランジュが知っていた命題もありますし、そのことはガウスも本文の中で言及しているくらいですから承知していました。それにもかかわらずなぜすべてを再現したのかというと、発見した当初は先人の業績を知らなかったからというのです。それと、既知の事柄だからといってあれこれを省略すると、何というか、一冊の書物の体系が崩れるのがいやだったというふうなことが書かれています。このあたりの消息についてはいろいろな批評が可能と思いますが、ガウスの言い分にももっともなところがあります。
 ガウスはすべてを自分ひとりでしたことを強調したかったのだろうと思いますが、どうしてそんなふうに思ったのかといえば、やはり体系そのものを重く見たのでしょう。数学は文脈が大事です。たとえ論理的に見て同等の命題であっても、配置される世界が異なれば別の命題と見なければならないことがあります。数学の個々の命題を砂漠の砂粒のように個別に見るのではなく、大きな世界を構成する個、すなわちいくつもの個が有機的に連なって世界を形成する。個の本性は個そのものにおいてではなく、世界形成の様式を通じて顕現するという思想。17歳のガウスはそのような思想を先天的にもっていたように思います。今日では失われた(あるいは、否定された)思想ですが、ガウスはそのような姿勢をはっきりと打ち出しています。ガウスがそのような思想の持主だったとはガウスが自分で書いたものを読まなければわからないことで、古典ならではの値打ちがそこにあります。

ガウスの数論論文集に寄せて5.  古典研究の計画

 昨日はインターネットの回線に不具合が発生し、ほぼ24時間にわたってつながらなくて大弱りでした。
 古典研究のはじまりのころの模様はここまでに述べてきた通りで、ガウスの『アリトメチカ研究』とアーベルの「楕円関数研究」を二本の柱として発足したのですが、どちらもたいへんな時間を要しました。研究計画そのものは実は非常に広大で、まるで大きな風呂敷を広げたような感じでした。ガウスにしても『アリトメチカ研究』だけではなく、数論の諸論文や数学日記などの解読も企画されていました。数論と楕円関数論を中心にして、(1変数の)代数関数論も念頭にあり、ガウス、アーベル、ヤコビのほか、ディリクレ、クンマー、クロネッカー、アイゼンシュタイン、ヴァイエルシュトラス、リーマン、エルミート、ヒルベルト等々、19世紀の数学史を網羅したいというほどの考えでした。ここにはフーリエやコーシーなどの名前は見られませんが、ここを追究するといわゆる実解析の形成史になります。ルジャンドルの名前もありませんが、ルジャンドルについては『アリトメチカ研究』の中に詳しい言及が見られますので、当初から心にかかっていました。特に、ルジャンドルの著作『数の理論のエッセイ』は早くから座右にありました。
 このあたりの消息をもう少し詳しく述べますと、ガウス、クンマー、クロネッカー、アイゼンシュタイン、ヒルベルトと続く路線はドイツの数論史の基幹線です。ヤコビとディリクレにも数論への寄与があります。この路線の終着点には高木先生の類体論が見えてくるだろうと想定されました。
 アーベル、ヤコビ、クロネッカーと続くと楕円関数論の形成史になります。楕円関数論ということでしたらヴァイエルシュトラスも不可欠ですが、ヴァイエルシュトラスとリーマンを並べると、そこに想定されるのは楕円関数論を大きく包摂するアーベル積分論の世界です。
 今年はガロアの生誕200年にあたる年ですが、ガロアの小さな作品集には魅力があり、わけても友人のオーギュスト・シュヴァリエに宛てた遺書には心を惹かれていました。ただしそのまま読んでも理解できそうもないようにも思われて、どうしたらわかるだろうと思案したものでした。当初の目論見では、たぶんガウスとアーベルを踏まえればわかるだろうと思ったのですが、これはその通りになりました。
 『アリトメチカ研究』の解読の話にもどりたいと思いますが、おもしろいことは無類でした。長い序文がついているのですが、書き出しのあたりからすでに異様な緊張感がただよっていました。その緊張感の内実はどうかといいますと、勢いのおもむくところ全文を書き写したくなってしまうほどですので、ここでは実行することができません。近作の『ガウスの数論』で序文の紹介を始めたところ、所見と感想を添えながら少しづつ紹介していったのですが、どこを省略するということもできないまま、とうとう全文に及んでしまいました。

ガウスの数論論文集に寄せて4.ラテン語修業(続)

 楕円関数論の領域では、アーベルの論文「楕円関数研究」とともになおもうひとつ、ヤコビの著作『楕円関数論の新しい基礎』という古典中の古典が存在します。それでそのコピーも手もとに置きました。ヤコビの著作はラテン語で書かれていて、しかも英独仏のどの翻訳もありませんので、ラテン語の勉強も兼ねるつもりで参照し、ともあれ全文を単語ごとに区切ってノートに書き写し、一つの単語にひとつずつ通し番号をつけました。もっともこの作品は実は大量の数式で埋め尽くされていて、地の文というか、何事かを語ろうとする文言はごくわずかです。それで、翻訳するということの意義もまた問われそうですし、そんなこともあって翻訳が行われなかったのではないかとも想像されます。ただし、この作品の重要性を否定することはできず、19世紀の全体にわたって継承者たちすべての共通の源泉になりました。楕円関数論に出現するいろいろな記号なども、ヤコビの提案が受け継がれる時代が長く続きました。ヤコビの楕円関数論には数式それ自体に数学がありますから、片々たる言葉などは不要なのでしょう。
 そうはいっても言葉が皆無というわけではありませんので、それらを拾ってノートに書いたのですが、先日、第一冊目のノートを久しぶりに見返したところ、表紙に「昭和58年1月14日~2月22日」という日付が記入されていました。ちょうど28年前のノートです。
 単語のひとつひとつに品詞と語義が記入され、動詞でしたら活用形(規則動詞の場合、四種類の活用形があります。規則動詞のほかにいくつかの不規則動詞があります)、直接法と接続法の区別、時制、人称などが書き込まれています。名詞、代名詞、関係代名詞、形容詞、形容詞と副詞の比較級、数詞などについても同様です。前置詞は変化しませんからこの点は楽ですが、その代り格支配というのがあり、この前置詞に追随する名詞の格はこれに決まっているという規則があります。書き添えられていることは簡単なメモにすぎないのですが、勉強に取り掛かった当初はそもそも予備知識が何もないのですから、単語の原型の探索も手探りの状態でした。語学の勉強で一番苦しいのはこの段階です。この時期がしばらく続きました。

ガウスの数論論文集に寄せて3. ラテン語修業

 ガウスの『アリトメチカ研究』と同時にアーベルの論文「楕円関数研究」も読んでいたのですが、平行してラテン語の勉強にも取り組みました。テキストは大学書林の『ラテン語四週間』ですが、四週間でラテン語が読めるようになるはずはなく、辞書が引けるようになるまでにまずまず4年間はかかりました。ギリシア語はcomplicated(複雑)でラテン語はdifficult(難解)と言われることがあるのだそうですが、ギリシア語はともあれラテン語が非常にむずかしいのはまちがいありません。
 ついでにギリシア語の話を少々。大学書林はいろいろな言葉を対象にして「四週間シリーズ」というのを出しているのですが、その中に『ギリシヤ語四週間』もありますので、これも購入しました。ヨーロッパの学問を学ぶという立場からするとギリシア語とラテン語の知識は必須ですし、これに加えてアラビア語が読めるようになるのが理想ですなのですが、言うは易く行うは難し。どの言葉も難解で、この理想の実現は一朝一夕には望めません。『ギリシヤ語四週間』はつねに手もとにあって、しばしば参照し、ときには熱心に読みふけることもあるのですが、なかなか身につきません。その理由を考えてみるに、「ギリシア語で書かれた数学書で、何が何でも読まなければならないと思う作品」が見あたらなかったためであろうと思います。ヨーロッパの数学史を古代と近代に分ける境目がこのあたりにあります。
 ヨーロッパ古代の数学史というと古いギリシアの数学が思い出されますが、ユークリッド(エウクレイデス)の幾何と数論、アルキメデスの解析学、アポロニウスの円錐曲線論、それにディオファントスの数論など、数学史に記録されるべき傑作が目白押しに並んでいます。ヨーロッパ近代の数学はこれらの文化的遺産を継承して成立したのですから、数学を学ぶという以上、このあたりの解明から出発するのが本当ですし、その場合の鍵となるのがギリシア語の知識です。ところがそこに高い壁があります。外国語が自由に読めるというのは基本中の基本でありながら、同時に永遠に果しえない理想中の理想でもあります。そんなわけで、『ギリシヤ語四週間』は垣間見るという域を出ないままなのですが、ギリシア語は複雑だということだけは納得がいきました。なにしろ単語の変化が複雑で、ラテン語をはるかに凌駕しているのですからたまりません。
 ヨーロッパ近代の数学の出発点をガウスの『アリトメチカ研究』に定めた理由についてはもう少し詳しいことを語らなければなりませんが、それはともあれこの作品を読まなければヨーロッパ近代の数学の本当の姿はわからないと思ったのはまちがいなく、そのためには何が何でもラテン語を読めるようにしなければなりませんし、この思い込みに支えられてラテン語の勉強に打ち込みました。もっとも数学の中味だけについてでしたら英訳書でもおおかた十分であろうと思っていたのは既述の通りです。それと同時に、原典には原典ならではの何かがあるとも思っていました。それは数学の論理を越えた何物かであり、ガウスならガウスが一番はじめに書いた作品の中にしか見られないものであろうと想定されました。そのようなものが存在しなければわざわざ古典を読む必要はないのですし、このあたりの判断が、歴史への関心の有無の分かれ目になりそうです。
 ラテン語の話にもどりますと、ひとつひとつの単語の形の変化が非常に激しいため、文章の中に出ている単語がそのままの形で辞書に掲載されていることはなく、原型というか、一系の単語の連なりを代表するひとつの形だけが集められて一冊の羅和辞典を構成しています。そのため、ひとつの単語を見て原型を言い当てることができなければ、意味を調べようにも調べられないことになってしまいます。名詞、代名詞、関係代名詞、形容詞、動詞、助動詞等々、どの変化も多種多彩で、変化表を眺めると目がくらみます。もっとも中には、前置詞や副詞の仲間のように、全然変化しない単語もあります。
 『ラテン語四週間』をひととおり読んで変化形の全容が見渡されるようになってからようやく辞書を引けるようになったのですが、それまでにざっと4年間はかかっています。もっとも、正確にはかったわけではありません。

ガウスの数論論文集に寄せて2. 『アリトメチカ研究』の英訳書

 ガウスの著作『アリトメチカ研究』が刊行されたのは1801年のことですが、ダニングトンのガウス伝によると刊行時期はもう少し精密になり、この年の9月ということです。このときガウスは満24歳でした。ラテン語で書かれていますからラテン語のまま読まなければ読んだことになりませんので、この作品を読むことを目的としてラテン語の勉強を始めました。テキストは『ラテン語四週間』(大学書林)で、ほかに研究社から出ている『羅和辞典』を用意しました。ラテン語の勉強にとりかかったのと『アリトメチカ研究』を読み始めたのはほぼ同時期でしたから、語学の力が及ばず、当初は『アリトメチカ研究』の英訳書を読み始めました。英訳書のほかにドイツ語訳とフランス語訳も揃えたのですが、どの翻訳でも数学の中味は同じだろうという考えでしたので、英訳書を読むことが中心になりました。これを言い換えると、「ラテン語の本はラテン語のまま読まなければならない」という考えだったのはまちがいないとしても、何がなんでもそうしなければならないというほどの堅固な決意だったわけでもなさそうで、英訳でもガウスはガウス、おおかたはこれで間に合うだろうと考えていたように思います。
 『アリトメチカ研究』を読み始めた当初の状況を、こんなふうに本の少々回想しただけでもさまざまな想念に誘われます。外国語の数学書を読むという場合、英独仏と並べると一番楽に読めそうなのは英語ですが、英語といえども外国語ですから日本語の本を読むようなわけにはいきません。独仏となればなおさらです。文章の構造の解析にあたってしばしば困難を感じることがあるのですが、そのような場合には数学に頼ります。数学の論証の運びがおぼつかなくなって、論理的な理解に支障をきたすようなときには、たいていの場合、文章そのものにまちがいがあります。翻訳の場合なら、これはつまり誤訳が発生しているということにほかなりません。英訳書にはそのような誤訳に随所で遭遇しました。翻訳者の数学の中味の理解が浅いため、正しく翻訳することができなくなってしまうのです。
 そんなわけで、英訳書は英語であるからという理由により独仏よりは読みやすそうな感じがするとはいうものの、あまりにも誤訳が目立ちますのでストレスがたまります。英訳書のみで『アリトメチカ研究』の数学的内容を完全に理解するのは不可能と思います。こんなことも実際に読みに掛かることによってはじめてわかりました。英訳書の誤訳に出会ったときは独訳と仏訳を参照して切り抜けました。これらの訳書には英訳書のように意味が通らなくなるという種類の誤訳は見あたりませんでした。特にドイツ語訳は、これは後になってわかったのですが、ラテン語の原文に忠実に、言い換えると、むやみに言葉を増やして意味を説明しようというのではなく、原文に極力沿うようにして訳していくということですが、実に堅牢な翻訳という印象を強く受けました。

ガウスの数論論文集に寄せて1. 数論の5論文

 数学の古典を読もうときめていよいよ実行に移したのは、正確に勘定するときっかり29年前の昭和57年の春先のことになります。まずはじめに取り組んだのはガウスの著作『アリトメチカ研究』で、この作品を読まなければヨーロッパ近代の数学はわからないと固く思い定めたものでした。それまでの数学の勉強の経験を通じてそんなふうに思うようになったのですが、端的に言うと高木先生の『近世数学史談』の影響が大きく作用していたように思い出されます。それから29年後の今日の目から見ても、あのときの判断はまちがっていなかったと思います。ガウスこそ、ヨーロッパ近代の数学の源泉です。
 もっとも当時の考えが29年の間に何の変化も受けなかったのかといえば、必ずしもそうとも言えません。一番大きく変化したのはオイラーに対する評価です。古典の勉強が進めば進むほど、オイラーの姿はますます大きくなっていくばかりで、今ではオイラーもまたヨーロッパ近代の数学の源泉であるという考えになりました。源泉はひとつではなかったわけで、これはこれで発見の一種です。オイラーの大きさは理解していたつもりだったのですが、理解の仕方が観念的すぎて、どこがどのように偉大なのか、実際に論文や著作を読むまでは具体的に把握することができなかったのです。
 それはそうですが、だからといってガウスの値打ちが減少することはなく、ガウスはガウスで依然として偉大でした。ガウスの『アリトメチカ研究』はガウスが一番はじめに世に出した著作ですが、そのテーマが数論だったという事実はガウスの数学的学問の本性を考えるうえで重い意味をもっています。
 ガウスの数論研究はこの作品で完結したのではなく、ガウスはこの著作の刊行後も数論の領域で息の長い思索を続け、5篇の論文を公表しました。刊行順に配列すると次の通りです。

1. アリトメチカの一定理の新しい証明
ゲッチンゲン王立協会報告集16、1808年
1808年1月15日、王立協会で報告された。

2. 平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張
ゲッチンゲン王立協会新報告集4、1818年
1817年2月10日、王立協会で報告された。

3. ある種の特異級数の和
ゲッチンゲン王立協会報告集1、1811年
1808年8月24日、王立協会で報告された。

4. 四次剰余の理論 第一論文
ゲッチンゲン王立協会新報告集6、1828年
1825年4月5日、王立協会で報告された。

5. 四次剰余の理論 第二論文
ゲッチンゲン王立協会新報告集7(1832年)
1831年4月15日、王立協会で報告された。

 最初の著作の『アリトメチカ研究』も上記の5論文もみなラテン語で書かれています。『アリトメチカ研究』には英独仏の三種類の翻訳が出揃っていますが、その後の5論文についてはドイツ語訳があるのみで、英訳と仏訳はありません。これらのほかにガウスは多くの遺稿を遺しました。ガウスの全集に収録されていて、中には『アリトメチカ研究』の第8章の草稿と見られるものなど、貴重なものがありますが、完成された原稿ではありませんし、遺稿は遺稿として包括的に考察するほうがよいと思い、今回は取り上げませんでした。

短期新連載のお知らせ

 連載中の「リーマンを語る」もいよいよ佳境にはいり、アーベルからヤコビへとバトンが移ろうとする場面にさしかかりましたが、ここでひと休みして、ガウスの数論論文集をめぐって四方山話をしたいと思います。ガウスの数論については、だいぶ前のことになりますが、「ガウスの遺産」というタイトルをつけて連載記事を書いたことがあります。全部で121回まで続き、2008年9月8日に完結しました。この連載を土台にして、このほど

『ガウスの数論 わたしのガウス』(ちくま学芸文庫M&S、2011年3月10日発行)

という本が出版されました。書名の通り、数論の領域でガウスが何をしたのかを回想しようとする作品ですが、具体的に回想の対象になるのはガウスの著作『アリトメチカ研究』とその後の5篇の論文です。
 著作『アリトメチカ研究』についてはすでに邦訳書が出ています。これに続く5篇の論文の翻訳は未刊ですが、すでに完成していますので、書物の形で公表したいと望んでいます。その翻訳書に解説を添えるつもりで、翻訳の苦心談なども合わせて、何ほどかのことを報告したいと思います。

リーマンを語る 151. アーベル、ヤコビ、リーマンの作る三幅対

 アーベルの人生もヤコビとの出会いの場面にさしかかり、いよいよ山場を迎えつつあります。もっともアーベルは1829年には年初から病気になり、春4月には亡くなってしまうのですから、数学者として活躍した時期はごくわずかでした。1824年の秋から暮にかけて「不可能の証明」に成功し、1826年には「パリの論文」裡を書き上げました。それから1827年になって「楕円関数研究」の執筆に取り掛かり、前半を公表したところでヤコビの存在を知ったのでした。
 それからのアーベルはヤコビのことが絶えず念頭を離れなかったようで、変換理論の研究に打ち込みました。虚数乗法論がここから生まれたことを、ここであらためて強調しておきたいと思います。
 1827年とか1828年というと、アーベルの短い生涯ではすでに晩年のことになるのですが、パリ留学を終えて帰国してからのアーベルの生活の模様についてももう少し語っておきたいことがあります。それと、アーベルを語った後に大きなテーマになるのはヤコビです。アーベルの周辺にも数学者はいたのですが、ハンステンもラスムセンもホルンボエもデーエンも、みな親切な人たちではありましたが、アーベルの数学研究を理解するまでにはいたりませんでした。ベルリンのクレルレについても同じです。パリの数学者たちはひとりひとりが当代を代表する一流の数学者でしたが、関心の向きがアーベルとは大きく異なっていたため、アーベルの真価を認識することはありませんでした。ガウスはアーベルを正しく理解することができました。ガウスがもう少し親切で、アーベルに手紙でも書いて励ましてくれたりすればよかったのですが、これはないものねだりの部類ですから仕方がありません。
 こうしてみるとヤコビはアーベルにとって実に貴重な人物でした。アーベルにとってばかりではなく、近代の数学史にとっても、アーベルがヤコビにであったことは重大な意味を帯びていました。ヤコビはアーベルに対して親切で、紛失した「パリの論文」の重要さをルジャンドルに訴えたのもヤコビですし、「パリの論文」に見られる加法定理の意味するところを思索して、そこから「ヤコビの逆問題」を抽出したのもヤコビでした。「ヤコビの逆問題」まで来れば、これを解決したリーマンへと即座に話がつながっていきますし、これを要するにアーベルの数学の魂はヤコビを経由してリーマンに伝えられたということになります。それでアーベルとヤコビとリーマンを並べて三幅対を作ることが、19世紀の数学史を語るうえでの基幹線のひとつになります。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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