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リーマンを語る 132.  アーベル方程式をめぐって

 今日のガロア理論の目には、アーベル方程式は「そのガロア群がアーベル群であるような方程式」と映じます。アーベル群が可解群であることは殆ど自明ですから、アーベル方程式が代数的に可解であることは証明するまでもない事実です。すなわち、アーベルが発見したアーベル方程式の概念は、ガロア理論の世界ではひとつの小さなエピソードにすぎず、特に重要な意味をもっているわけではないことになります。
 数論の世界ではどうかというと、高木先生の手で類体論が完成するまでは、アーベル方程式の概念に由来するアーベル数体の概念は特別に重い位置を占めていました。なぜかというと、高木先生の類体論の目標は一般相互法則の発見と証明にあり、そのための鍵はアーベル数体の概念に握られていたからです。ということはつまりアーベル方程式の概念は数論の世界では中核中の中核に位置を占めているということにほかならず、アーベル方程式の数体の世界での姿であるアーベル数体というものの本性を類体として認識する道を開いたところに、類体論が成功した秘密があります。
 それに群論の立場から見ても、これは定義を見ればすぐに諒解されることなのですが、可解群の概念はアーベル群の概念を基礎にして記述されています。アーベル群があってはじめて可解群が出現するのですが、ではそのアーベル群はどこから来たのかといえば、出所はアーベル方程式です。そのまたアーベル方程式はどこから来たのかと重ねて問えば巡回方程式に行き着きますが、巡回方程式の根源はガウスが提示した円周等分方程式です。
 さらにもう一歩を進めて、ガウスはなぜ円周等分方程式を考察したのかと問えば、平方剰余相互法則の証明がそこにひそんでいるからでした。ガウスはその事実に当初から気づき、長期に及ぶ思索の末に、円周等分方程式の理論から平方剰余相互法則の証明を取り出すことに成功しました。
 高木先生が類体論の第一論文を出版したのは1920年。第二論文も同時期に書き上げられていました。ガウスが『アリトメチカ研究』を出版したのは1801年。この間、120年ですが、上記のような経緯を振り返りますと、類体論というのは、円周等分方程式の中に平方剰余相互法則の証明がひそんでいるというガウスの認識に端を発し、その全容を明るみに出そうとして生まれた理論であることがわかります。相互法則こそ、類体論の泉です。
 類体論の話題まで持ち出して、こんなことをくどくどと述べたのはなぜかといいますと、アーベルが発見したアーベル方程式の意義を強調したいためでした。代数方程式論の世界において、アーベルはガロアとはまったく別の道を開きました。考え方が根本的に異なるのですが、この点も通説とは違います。
 アーベルのアイデアはホルンボエ宛のパリ便りにもはっきりと書き留められています。次に一節に着目したいと思います。

〈特に五次方程式に関しては、若しもそれが代数的に解かれるならば、根の形は次のようでなければならないことが分った。
 x=A+R^(1/5)+R’^(1/5)+R’’^(1/5)+R’’’^(1/5)
ここでR,R’,R’’,R’’’は一つの四次方程式の四つの根で、それらは平方根ばかりで表されるのだ。ここで困難であったのは式と符号であった。〉

5次方程式の根の公式は存在しないことを承知したうえで、アーベルは5次の代数的可解方程式の根の形に関心を寄せています。ガウスにもガロアにも見られないことで、なんだか神秘的な印象があります。
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リーマンを語る131. ラグランジュの「省察」とガウスの円周等分方程式論

 前回、ラグランジュの話などをくどくどしく述べたのはなぜかといいますと、代数方程式論におけるアーベルのアイデアに見られる独創を、特に力を込めて強調したいと思ったからでした。代数方程式論の歴史というと、ラグランジュの占める位置は非常に重く、アーベルもガロアもラグランジュの思索の系譜の継承者であるかのように語られるのが普通です。ラグランジュ以前には代数方程式の根の公式を見つけようとしてさまざまな努力が重ねられ、実際に3次と4次の方程式に対しては早くから成功しましたが、5次方程式の根の公式は見つかりませんでした。そこでラグランジュはこの状勢に対して斬新な「省察」(ラグランジュの論文のタイトルに見られる言葉です)を加えたのですが、根の公式を見つけようとやみくもに努力するのではなく、3次と4次の方程式についてはどうして見つかったのだろうというあたりを思索したところに、ラグランジュの創意があります。
 それは確かにそうなのですが、ラグランジュは5次方程式についても根の公式はやはり存在すると考えていたと思います。なかなか見つかりませんので、どうしてだろうと問いを提出したのですが、まさか存在しないとは思ってもいかったという印象があります。現に、ラグランジュと同じイタリア生まれの数学者ルフィニが「不可能の証明」に成功したと信じてラグランジュに著作を送ったとき、ラグランジュはこれを無視して返事を書きませんでしたが、そんなことも傍証になるのではないかと思います。
 考えてみますと「不可能の証明」というのはきわめて異様な代物(しろもの)で、(5次方程式の)根の公式は存在するに決まっていると思って探索するほうが、はるかに自然な姿勢です。存在しないことを当初から確信していたのはガウスです。アーベルはガウスに学んで(と思います)存在しないのではないかと考えるようになりました。もうひとり、ルフィニもアーベルのように考えましたが、ルフィニは独自にそのように思うようになったのか、あるいはアーベルと同じくガウスの影響を受けたのか、その辺りの消息は今のところ不明です。それはともあれ「存在しない」という考えをもっていたのは、この18世紀と19世紀の変わり目の時点ではこの三人だけでした。少し遅れてガロアがこの仲間に加わりましたが、ガロアにはガウスの影響が大きく認められ、その点はアーベルと同じです。
 ところが代数方程式論の通常の歴史叙述では、なぜかガウスの影は非常に薄く、せいぜいのところ円周等分方程式を代数的に解いたことが紹介される程度に留まります。基幹線はあくまでもラグランジュからガロアにいたる道筋であり、その途中に、ガウスの円周等分方程式とアーベルの「不可能の証明」とアーベル方程式の話題がはさまります。ガロア理論から出発すれば円周等分方程式の代数的可解性などはたちどころに明らかになってしまいますし、アーベル方程式についても同様です。ラグランジュの「省察」の確信が「置換」の考察にあるというので、置換の一般論を展開したコーシーにも言及されたりするのですが、ガウスとアーベルは、何と言うか、おもしろいエピソードというくらいの位置を占めるという程度でしょうか。
 そこでこの通説に対して異論を提出したいと思います。ラグランジュのように根の置換を考察しても、それだけでは「不可能の証明」はできませんし、ルフィニが試みてついに失敗に終ったのもそのためでした。それに、そもそもラグランジュには「不可能の証明」が成立するという考えはありませんでした。ここはやはり、代数的可解性の成立を左右する根本の要因は何か、という問いを問わなければならないところですし、それは「根の相互関係」であることをはっきりと認識したのはガウスです。
 ガウスはこの認識に基づいて円周等分方程式を代数的に解いて見せましたが、その解き方はガロア理論による解法とそっくり同じです。これをガロア理論のやさし適用例と見るのは間違いで、ガウスの解き方を見たガロアがガウスからガロア理論を抽出したと見るのが正解です。ガロア理論の源泉はラグランジュではなくガウスであることを、ここでもう一度強調しておきたいと思います。

リーマンを語る 130.  「不可能の証明」を越えて

 「代数的に解きうるすべての方程式の形を決定すること」という一般問題の手掛りを得たと、アーベルはホルンボエに伝えました。この時点ではすでに「不可能の証明」に成功していたのですから、代数方程式論におけるアーベルの探究は「不可能の証明」に限定されていたのではないことがわかります。おそらく「代数的に解ける方程式」と「代数的に解けない方程式」の区分けを左右する根本の要因を探索していたのではないかと思いますが、独特なのはその際の探索の様式で、代数的に解けるあらゆる方程式の形を決定しようというのですから、気宇は広大です。もし本当にそんなことができたなら、「不可能の証明」などはそこから簡単に導かれてしまいます。なぜなら、ある方程式が提示されたとき、それが代数的に解けるか否かは、その方程式の形を見れば一目瞭然になってしまうからです。ただし、これはもちろん話が逆で、「不可能の証明」が成立するからこそ、「代数的に解ける方程式」と「代数的に解けない方程式」の識別ということが問題になります。
 アーベルの手紙の続きを見ると、こんなことが書かれています。

〈同時に僕は最初の四つの次数の方程式の最も直接なる解法を得た。それに由れば、何故にこれらだけが解けて、他のものは解けないかが甚だ明白に理会されるのである。〉

 最初の四つの次数の方程式というのは、一次、二次、三次、それに四次の代数方程式のことですが、これらについては代数的解けることが知られています。五次方程式になると一般に代数的に解くのは不可能になるというのがアーベルの「不可能の証明」ですが、ではなぜ最初の四つの方程式だけが代数的とけるのだろうかという疑問は確かに生じます。普通、この問題を最初に思索したのはラグランジュと言われています。
 一次方程式の解法は自明ですので問題になりません。二次方程式の根の公式はいつともなく世界のあちこちで知られていました。それで三次と四次の方程式はどうかということですが、16世紀のイタリアのカルダノの時代以来、いろいろな人の手が加わってさまざまな解法がみいだされてきました。寄与した人の中にはオイラーの名もあります。このような状勢を受けて、ラグランジュは根の置換ということに着目し、さまざまな解法の根拠を統一的に説明しようと試みたのでした。ラグランジュの試みは成功したと見られていると思いますが、根の置換への着目というラグランジュのアイデアはガロアに継承されたという見方もまた、今日の定説です。ガロア理論の立場から見れば、なぜはじめの四つの次数の方程式だけが云々というアーベルの疑問には、方程式のガロア群の構造をもって答えることになるのですが、アーベルはそんなふうには考えませんでした。
 アーベルのアイデアに言及する前に、ここではもうひとつ、アーベルは、ラグランジュによってアーベルの疑問はすでに答えられているとは思っていなかったことに、注意を喚起しておきたいと思います。はじめの四つの方程式だけが代数的に解ける理由にしても、ラグランジュはその消息を解明したと、今日でも信じられているのではないかと思いますが、アーベルはそんなふうにはまったく考えていませんでした。ラグランジュの影響はアーベルには及んでいなかったのでしょう。

リーマンを語る 129.  アーベルの代数方程式論

 話があまり一般的になってしまってもつまりませんので、ひとまずこのくらいにして、『近世数学史談』からアーベルのパリ便りの引用を続けたいと思います。「パリの論文」については後にあらためて語る機会があります。

〈僕はその外にもいろいろ論文を書いて、特にクレルレ誌の初めの3冊に載せた。ジェルゴン(Gergonne)のAnnalesにも出したが、あれは日に日に低下する。あまり古くなってしもうたのだ・・・〉

〈僕の方程式解法不可能の論文の概要がFerussacのBulletinに載った。あれは僕が自分で書いたのだ。この雑誌へはこの後も書くつもりだ。人の書いた論文を解題するなどは恐ろしくいやなことだが、僕はクレルレの為にはそれを忍ぶのだ。彼は想像し得る最も善い人だ。僕は断えず彼と書信を交換している。僕の所に彼の手紙が随分溜った。僕の約婚からの分と凡そ同じほどであろう。〉

「ジェルゴン(Gergonne)のAnnales」と「Ferussac(フェリュサック)のBulletin」については既出です。「僕の約婚」というのはつまりアーベルの婚約者のことで、クリスティーネ・ケンプという人です。アーベルより二歳年下で、デンマークに滞在中に出会いました。

このあたりの記述は数学とは関係がありませんが、個々から先は少しの間代数方程式論の話題が続きます。

〈僕は今方程式論について仕事をしている。僕の得意の題目だが、到頭次の一般的の問題を解く手掛りが見付かったようだ。それは「代数的に解き得る凡ての方程式の形を決定すること」というのだ。僕は五次、六次、七次等々のそれらを無数に見出した。今までそれを嗅ぎつけたものはあるまいと思う。〉

「代数的に解き得る凡ての方程式の形を決定すること」という問題が提示されていますが、アーベルの独創がありありと現われているのはこのような問題においてです。ガロアとは全然違いますし、ガウスもこんなふうには考えなかったろうと思います。

リーマンを語る 128.  「逆関数」のアイデアをめぐって

 「パリの論文」がパリの科学アカデミーのメンバーのだれの目にも留まらなかったのは残念なことですが、仕方のないことでもありました。ではありますが、パリは当時のヨーロッパの数学研究の中心地だったのですし、故国を離れてはるばるやってきたアーベルの身になってみれば、パリの数学者たちに認められたいと思うのもまたもっともなことでした。そのためにアーベルは自分が持っているあれこれの中で一番よいと信じる作品を提出したのですが、その行為の根底には、よいものはよいのであるから必ず評価されるはずだというほどの素朴な思いもあったことと思われます。実際には、よいものであればあるほど著者の個性が充満する作品になりますから、わかる人にはわかり、わからない人にはわからないという状況になります。「わかる」というか、共鳴する人がひとり現われるか否かという点に焦点が絞られてくるわけですから、どれほどの大論文といえどもいきなり称賛されることは望めません。
 それなら科学アカデミーに提出したことにはむだだったのかというとそうとも言えず、ともあれ公にしたというところに意味があります。
 価値評価の問題についてはこれくらいにして、ここで考えたいのは、1826年の秋の時点でアーベルはどうして「パリの論文」のような作品を書くことができたのだろうという問題です。アーベルが書いた一番はじめの数学論文は5次方程式の根の公式の発見を報告しようとするもので、その時期は1821年の前半と推定されます。この論文の正否の判定を託されたコペンハーゲン大学のデーエンはハンステンに宛てて一通の手紙を書き、楕円関数の研究に取り組むようにとすすめましたが、その手紙の日付は1821年5月21日です。それから二年後の1823年になって、春から夏にかけてアーベルはコペンハーゲンに出かけたのですが、コペンハーゲンでホルンボエに宛てて書いた手紙によると、アーベルは「楕円超越関数の逆関数」を取り扱った小さな論文を書いたことを話題にしています。アーベルはその論文をホルンボエにも見せたというのですから、存在したのはまちがいないと思いますが、アーベルの全集には収録されていません。きっとノルウェーのどこかに保管されているのでしょう。
 アーベルのいう「楕円超越関数」というのは楕円積分のことをそのように呼んでいるのですが、1823年の時点ですでに、その逆関数を考えていたというのはまったく驚くべきことで、どうしてそんなアイデアを手にすることができたのか、実に不思議です。オイラーが開示した微分方程式論の世界で思索する限り、この逆関数のアイデアが出る幕はありませんから、等分理論の世界を開いたガウスははじめから逆関数を考えていました。それで、アーベルはガウスに学んだのだろうと考えるなら納得がいくのですが、それならアーベルはいつガウスの著作を読んだのでしょうか。
 ここは重要な論点ですのでもう少し強調しておきたいのですが、アーベルは楕円積分の逆関数を考えるというアイデアをガウスとは独立に得たと考えるのは、観念的に考えるとありえないとは言えないものの、ここはやはりガウスの作品を通じて示唆を得たと見るほうがよいと思います。ストゥーブハウグの本によると、ルジャンドルの著作を借り出したのは1823年9月12日、ガウスの『アリトメチカ研究』を借りたのも同時期ということですが、残された記録ではそのようになっているとしても、もっと早い時期からルジャンドルとガウスに親しんでいたと考えても不思議ではありません。1821年5月のデーエンの手紙を契機に楕円関数研究に向かい始め、そのころからルジャンドルとガウスを読み始めたと考えるのが自然です。

リーマンを語る 127.  数学を創る人たち

 ヤコビのことはだいぶ前にベルリン大学の創設の話をしたおりに多少の話題になりましたが、少し後に、今度はアーベルとの関連のもとで詳しく語る場面に出会います。あらかじめ概要のみお伝えしておくと、ヤコビはアーベルの「パリの論文」の真価を洞察した一番はじめの人で、「パリの論文」に現われているアーベルのアイデアに共鳴して、ここから「ヤコビの逆問題」を取り出しました。この問題がリーマンに(それにヴァイエルシュトラスにも)継承されて、「アーベル関数の理論」という作品が生まれたのですから、リーマンを語るうえでヤコビの存在は実に重い位置を占めています。
 話を前回のテーマにもどしますと、数学の研究というのはひとりひとりに固有の思索が実を結んで現れるのですから、そんなにやすやすと他人の共鳴を得られるというものではありません。むしろ本質的に孤立していると見るべきでで、共鳴者が現われたなら、まれな幸運というべきではないかとさえ思います。
 フーリエのフーリエ解析はディリクレが継承しました。
 アーベルの「パリの論文」はヤコビが継承しました。
 フェルマの数論は100年の後にオイラーが継承しました。
 ヤコビが提案したヤコビの逆問題は直後にローゼンハイン、グーペル、少し後にヴァイエルシュトラスとリーマンが継承しました。ローゼンハインの名前はだいぶ前にちょっとだけ出てきたことがあります。グーペルについてはヤコビの逆問題を語るときにいくぶん詳しく紹介したいと考えています。
 ガウスの場合は少し複雑で、二次形式の類数の計算の部分はディリクレ、円周等分方程式論の代数的部分はアーベル、相互法則と関連する部分はアイゼンシュタイン、一般相互法則はクンマー(ヤコビとディリクレもこの方面の継承者に数えられます)により継承されました。
 ライプニッツとベルヌーイ兄弟の無限解析はオイラーが継承しましたが、そのオイラーを全面的に継承したのはラグランジュでした。
 ざっと回想してもこのような事例が念頭に浮かびますが、継承者が現われたとしても当初はひとりかふたり、せいぜい数人程度にすぎません。歴史が流れ始めるときの様子はたいていこんなふうで、必ず孤独な思索者が土台になっています。数学を創った人と呼ぶのに真に相応しい人たちです。

リーマンを語る 126.  理解される研究と理解されない研究

 フーリエのアイデアは多くの人々に継承されたかのように書きましたが、その重要性がただちに理解されて継承者が続々と現われたかのように受け取られても困りますので、少々注意を喚起しておきたいのですが、決してそんなことはありませんでした。ラグランジュはフーリエの研究が現われた当初から懐疑的でしたし、解析学の厳密化ということに寄与したと言われるコーシーにしても、フーリエに関心を寄せた形跡はありません。パリの科学アカデミーの数学者たちはだれもみなフーリエを無視したのですが、ディリクレとリーマンの二人だけがフーリエのアイデアに共鳴しました。もう少し正確にいうと、リーマンはディリクレの影響のもとでフーリエ解析に手を染めたのですから、フーリエに共鳴した一番はじめの人はディリクレひとりだったと見るべきです。ディリクレはパリに逗留中で、フーリエの周囲にいた人ですから、早くからフーリエの研究を承知していたことと思われますが、フーリエの周辺にいたからといってだれでもフーリエを理解したかといえばそうではないことを、ここで繰り返し強調しておきたいと思います。
 どうしてこんなことをくどくどと繰り返したくなるのかといいますと、アーベルの「パリの論文」がパリの科学アカデミーの数学者たちに理解されなかったという出来事があり、そのわけを諒解したいと思うからです。アカデミーの数学者たちがみな凡庸で、アーベルの天才に追いつけなかったからだというような説明もありえますが、これでは何事化を解明したことにはならないのではないでしょうか。
 「パリの論文」のような事例は数学史にはわりとひんぱんにあります。アーベルに近いところではガロアの代数方程式論がそうで、ガロアはアーベルに少し遅れて科学アカデミーに二回にわたって論文を提出したのですが、一度目は紛失し、二度目には、あいまいでわかりにくいというような批評がありました。その批評を寄せたのはポアソンです。
 ガウスはだれかに研究を見てもらうようなことはしませんでした。「代数学の基本定理」を証明した学位論文はパフという数学者に提出したのですが、せいぜいのところこれくらいで、数論の研究などは自分ひとりでどこまでも孤独に押し進めていきました。はじめ『アリトメチカ研究』という大著を出しましたが、これはスポンサーのフェルディナント公の支援を受けて実現したものでした。それからもときおり論文を書いて公表しましたが、ガウスはだれかの評価を期待していたようには見えません。考えてみればそれもそのはずで、だれがガウスを批評することができるでしょうか。ガウスもそのことを十分に承知していたに違いありません。ただし、ガウスはいつか自分の研究に共鳴する人物が現れることを期待していたであろうとは思います。評価されることを望んだのではなく、共鳴者の出現を期待したであろうというのがぼくの仮説です。はなはだしく傲慢な感じでもありますし、反対に極端なほどに謙虚な印象もあります。また、恐ろしいほどに孤高でもあります。
 このような事例に対し、即座に理解者が現われて高い評価を受ける場合もあります。ヤコビの初期の楕円関数論研究がその好例で、ヤコビはパリのルジャンドルのもとに書簡を送り、研究成果を伝えました。ルジャンドルはただちにこれを理解して評価したのですが、どうしてそのようになったのかといえば、ヤコビの研究はルジャンドルが手がけた研究の直接の延長線上に位置していたからです。ルジャンドルから見れば、ヤコビは自分がやろうとしてできなかったことをやってきたのですから、ヤコビが何をしたのか、見ればすぐにわかります。このような事情はヤコビのほうでも先刻承知で、ドイツには理解者がいないことを踏まえて、わざわざルジャンドルのもとに送付したのでした。この種の研究は孤高ではありません。

リーマンを語る 125.  論理を越えるもの

 現在の時点で強調しておきたいことは何かというと、ひとつはアーベルの楕円関数研究はオイラーとガウスの基盤の上に構築されたということ、もうひとつはオイラーとガウスでは等しく楕円関数論といっても関心の持ちようが異なっていたということです。ちょっと考えると関心の持ちようなどたいして重要な問題ではなさそうですが、案外そうではなく、ひとりひとりの人の心の機微に触れていることですし、しばしば非常に本質的な論点になります。楕円積分の加法定理を発見したのはオイラーですが、オイラーにとってもこれはこれでひとつのおもしろいエピソードという認識だったのではないかと思います。オイラーは楕円積分を越えて超楕円積分なども考察しましたが、アーベルのように完全に一般的なアーベル積分を考えるところまではいきませんでしたし、まして一般のアーベル積分の世界にも加法定理が存在するなどということは思いも寄らなかったでしょう。微分方程式を解くという立場に立つ限り、一般の加法定理の探索という方向に進む契機はありません。
 この点はラグランジュもルジャンドルも同様ですから、ルジャンドルがアーベルの「パリの論文」に関心を寄せなかったのも当然といえば当然です。コーシーもフーリエも、パリの数学者たちの中には加法定理に関心をもつ人はいませんでした。数学の証明のことですから、論証を追っていけば正しいか正しくないかくらいはだれにもわかりそうなものですし、それはその通りではありますが、興味のない論証をわざわざ追う人はいないでしょうし、それに、たとえ正しいと判断したとしても価値判断を下すことはできません。ここにもまた重大な論点があります。
 数学で本当に大事なのは正しいか正しくないかという知的もしくは論理的判断ではなく、何かしら人の心を打たないではおかないものが存在するか否かという、ただ一点にかかっているのではないかと思います。こんなことを書いているうちに思いついたのですが、フーリエが提案したフーリエ級数などは恰好の事例になっているのではないでしょうか。フーリエは「どんな関数でもフーリエ級数に展開できる」と宣言し、証明さえ与えたのですが、まさかそんなことがと、聞いた瞬間にいぶかしく思われるような宣言です。それに、フーリエが証明と称している論述を見ても、はたしてこれが証明と言えるのだろうかと不審を感じます。実際のところ、フーリエの著作には大小さまざまな問題点が露出しているのですが、そんなことにはおかまいなしにフーリエのアイデアは人の心をとらえました。フーリエ以降、ディリクレとリーマンをはじめとして多くの人々が参画して今日のいわゆるフーリエ解析を建設したのですが、フーリエのアイデアには論理の破綻を超越するほどの深遠な魅力が備わっていたのでした。
 このような事例を回想すると、数学で真に継承されるのは論理ではないことがうなずかれます。論理が継承されるのではなく関心の姿が継承されるのですし、数学研究の値打ちもまた「人」が決めるのだということに、くれぐれも留意しておきたいと思います。アーベルの「パリの論文」はパリの科学アカデミーのメンバーの関心を引きませんでしたが、彼らは必ずしも凡庸だったのではなく、加法定理というものに関心がなかったのです。ですが、ただひとり、アーベルのアイデアに心をとらえられた人がいました。ベルリン大学のヤコビがその人です。

リーマンを語る 124.  オイラーの加法定理とアーベルの加法定理

 オイラーの加法定理とガウスの等分理論は楕円関数論の二つの源泉ですが、オイラーはオイラー、ガウスはガウス。なぜか交錯することはありませんでした。もっとも等分理論を支えているのは加法定理ですし、ガウスが加法定理を理解しなかったなどということはありえないのですが、これはつまりガウスは微分方程式の解法理論そのものにはそれほど関心をもたなかったということです。ガウスにとって等分理論は単に無限解析の一領域に留まるのではなく、「ガウスの数論」、すなわち相互法則の理論との関連のもとで認識されたのですし、深遠な意味合いを帯びていました。
 それなら楕円積分の加法定理を発見したオイラーにとってはどうかといえば、実に鮮やかな発見には違いないとしても、ひとつのエピソードの位置に留まっていたのでしょう。何度も同じ話ばかりになってしまいますが、大事なところですのでもう一度回想すると、1851年ころ、オイラーはある種の変数分離型の微分方程式の積分を求めようとしてうまくいかず、行き詰まっていました。その微分方程式というのは、P(x)は次数が3または4の多項式として、
 (1)  dx/√P(x)=dy/√P(y)
という形の方程式で、積分すると
 (2)  ∫dx/√P(x)=∫dy/√P(y)+C (Cは定数)
という形の等式が得られます。この等式の左右に現れる積分がつまり楕円積分で、これを何かしら既知の量を用いて表示できればいいのですが、それができないところにオイラーの悩みがありました。そこへファニャーノの論文集が届き、見ると、微分方程式(1)を満たす簡単な代数方程式F(x,y)=0が出ていたのですが、それはつまりオイラーが求めて得られなかった微分方程式(1)の解のひとつでした。
 ひとつの解というのは特殊解という名で呼ばれることがあります。微分方程式の解は一般に無数に存在しますから、すべての解を包摂する一般解を求めることが目標になります。上記の方程式(1)についてもそうなのですが、ファニャーノにひとつの特殊解を示されて示唆を受けたオイラーはたちまち一般解の発見に成功し、二篇の論文を書きました。見つかった一般解の様子を観察すると、そこから加法定理が取り出されますが、オイラーはこれを実行しました。オイラーが楕円積分の加法定理の発見者と呼ばれるのはそのためです。
 オイラーの加法定理から出発してさらに歩を進めていけばアーベルの加法定理になるのですが、オイラーはこの方向には進まず、上記の(1)よりもいっそう一般的な形の微分方程式の解を求めようとする方向に向かいました。加法定理あれば倍角の公式が手に入りますし、そうすると三角関数の場合のように等分方程式を書き下すことができます。それで等分理論の可能性はオイラーの眼前に開かれていたことになりますし、現にオイラーに示唆を与えたファニャーノがすでにレムニスケート曲線の等分理論を展開していたのですから、オイラーがこの方面に深い関心を抱かなかったのはいかにも不思議です。
 数学では人が違えば関心の持ちようも異なるのです。アーベルはルジャンドルの著作などを通じてオイラーの楕円関数論を学びましたが、だからといってオイラーの加法定理からアーベルの加法定理へと続く道筋が自然に開かれたのではありませんし、アーベル以外のだれかの手で切り開かれたのでもありません。ラグランジュでもルジャンドルでもなく、オイラー以降、ひとりアーベルのみが創り出すことができたのでした。

アクセス数の推移の観察

先週14日(月)、アクセス数が突然258人になり、びっくりしました。翌15日はさらに大幅に増加して627人。そのまた翌日の16日にも217人。何が起ったのかといぶかしく思いましたが、これはやはり九州数学史シンポジウムの影響と思います。プログラムとリンクしていますので、プログラムを見た訪問者がこちらものぞいたのだろうと思われますが、格別目新しい情報もなくて申し訳のないことでした。
 シンポジウムの終了後の17日(木)にもなお175人の訪問者がありましたが、18日(金)には110人となり、もとにもどりました。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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