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リーマンを語る 117.  ルジューヌ・ディリクレとの出会い

 ディリクレのことは、だいぶ前のことですが、リーマンの経歴を語っていたときに多少言及したことがあります。ディリクレはドイツ人ですが、ドイツでは数学の勉強はできないというので青年期にパリに移ったのですが、フンボルトの目に留まってドイツの大学に招聘されました。ガウスの没後、後継者としてゲッチンゲン大学に移りました。リーマンの師匠とも見るべき人でもあり、19世紀を代表する数学者ですが、そのディリクレが若い日にアーベルに会っていることは見逃すことのできない事実です。数学ばかりではなく、歴史の根幹を作るのは人と人の出会いですから、1826年秋のアーベルとディリクレの出会いはヨーロッパ近代の数学史において重い意味をもっています。
 アーベルは、ディリクレが会いに来たと書いていますが、ディリクレは滞在先のコットの家に訪ねてきたのでしょうか。アーベルを訪ねたということはその前から面識があったということになりますが、それなら初対面の日時と場所はどこだったのかというと、たぶんフェリュサック家のサロンにおいてであったろうという推定が可能です。
 ディリクレは1822年5月からパリに滞在していました。アーベルを同じドイツ人と思って訪ねてきたということですから、この時期のディリクレには故国への郷愁めいた心情があったのでしょうか。1805年2月13日に生まれたディリクレは、アーベルに会ったとき、満21歳という若さでした。
 ディリクレに続き、アーベルの手紙はルジャンドルに簡単に触れて、

〈ルジャンドルは非常に愛相がよいが不幸にして、石の如く(steinalt)老いている。〉

と書いています。コットと連れ立ってルジャンドル家を訪問したときは、ちょうどルジャンドルが出かけようとしていたこともあり、ほんの少し立ち話をしただけでしたが、愛想がよいとか、石のように老いているとかのコメントはそのおりの印象に基づいているのでしょうか。あるいは、その後もどこかでルジャンドルに会う機会があったのかもしれません。
 高木先生は「石の如く」のところに「steinalt(シュタインアルト)」という原語を書き添えていますが、これはドイツ語です。アーベルの手紙はノルウェー語で書かれているのですが、この一語はなぜかわざわざドイツ語で表記されています。Steinは「石」、altは「年をとっている」という意味ですので、合成すると「石のように老いている」という意味になり、高木先生の訳語の通りです。きわめて高齢であることを形容するのに「石のように」とする語法は日本語にはなさそうで、ドイツ語に特有のものなのかもしれません。「生誕100年記念論集」にはアーベルの手紙のフランス語訳が掲載されていますが、この一語は「vieux comme les pierres」と訳されています。「vieux」は「年老いた」という意味で、「pierres」は石(の複数形)ですから、「石のように年老いている」という意味になり、「steinalt」の原意の通りです。

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リーマンを語る116.パリの数学者たち

 故国のホルンボエに宛てたアーベルの手紙を続けます。

〈今までに会ったのはルジャンドルとコーシーとアシエット(Hachette)、その外数人の若い数学者、というても大へん出来る人、中でもBulletinの主筆Seigey君、それからプロシヤ人のルジュン・ヂリクレ、彼は僕を同国人と思うて先日尋ねて来たのであった。彼は頗る賢い数学者だ。ルジャンドルと同時に方程式x^5+y^5=z^5を整数で解くことの不可能を証明したが、その外にもいろいろ面白い物を持っている。〉

 コーシーとはどこではじめて会ったのか、これだけではわかりませんが、ストゥーブハウグは、9月か10月ころ、どこかの夜会か学士院においてであろうか、と書いています。アシェットに最初に会った時期も不明です。天文台長のブーヴァールが紹介してくれたのでしょうか。アシェットは「理工科学校通信」の発行者で、刊行に貢献していましたが、アーベルはクリスチャニアの大学の図書館でこの「通信」を借りて読んでいたくらいですから、アシェットの名前はよく知っていました。
 セジェイはアーベルより五歳年長で、フェリュサック男爵の学術誌の数学・物理学部門の編集者です。セジェイとはフェリュサックのサロンで会ったのであろうと思いますが、親しいおつきあいが生まれました。セジェイはアーベルに「フェリュサック誌」への寄稿を依頼したのですが、一番はじめの依頼は他の科学誌に掲載された論文の概要と参考文献を書くことでした。アーベルはこれを引き受けて、まず「クレルレの数学誌」に掲載された自分の「不可能の証明」の論文を解説する一文を書きました。創刊されたばかりの「クレルレの数学誌」をパリの数学者たちに知らせたいという気持ちもあったのです。このエッセイの中で、アーベルはルフィニの仕事にも言及しています。
 それから、ノルウェーの「自然科学雑誌」に掲載した「振り子に及ぼす月の重力の影響」という論文を語るエッセイも書きました。この論文は「不可能の証明」の最初の小冊子と同じころの作品ですが、シューマッハーに見てもらったところ、まちがいを指摘されたといういわくがありました。アーベルはセジェイの依頼に応じる機会を借りて訂正を行ったのですが、同時に「自然科学雑誌」を紹介するというねらいもありました。

リーマンを語る 115. パリからの便り

 1826年8月20日、ケイルハウがパリに到着しました。滞在先はアーベルと同じで、コットの家です。ケイルハウはクリスチャニア大学の鉱業科学の講師に任命されることが決まっていましたので、パリ滞在はそれほど長くなく、10月16日にはパリを発ち、故国に向かいました。帰国費用が送られてくることになっていたのですが、間に合わなかったため、アーベルが自分の帰国のために取っておいたお金を貸しました。ケイルハウは帰国したらすぐにホルンボエに送金し、ホルンボエがそれをアーベルに送るという手はずになっていました。アーベルはともあれこの年の年末に帰国の途についたのですから、この約束はたぶん実行されたのでしょう。
 帰国にあたり、ケイルハウは大型の赤いスーツケースを携えていましたが、その中にはアーベルが買い集めた書物とアーベルの論文がぎっしりと詰め込まれていました。本のひとつはラプラスの新刊書『天体力学』の第5巻です。この大著作は全5巻で、第5巻が最終巻なのですが、アーベルはハンステンが第4巻までをもっていることを知っていました。ハンステンにとって恰好の贈り物だったことでしょう。
 ケイルハウが去ってから8日後の10月24日、アーベルはホルンボエに宛てて長い手紙を書きました。アーベルのパリの日々の消息を伝えるとともに、パリの数学事情やアーベル自身の数学研究の状況も詳しく語られていて、実に興味の深い手紙です。高木先生もそう思ったとみえて、わざわざ『近世数学史談』の一節をさいています。それは第18章「パリ便り」のことなのですが、この章の全体がアーベルの手紙の紹介にあてられています。そこでしばらく高木先生の訳文に追随し、アーベルの手紙を読んでみたいと思います。

 「気味は沈黙を守ることを決心したと相見えるね。僕が如何に君のたよりを待ち侘びているかは君には想像が出来まい。君の不沙汰の原因は僕がBozenから出した手紙を未だ受け取らないからであろうが、あれから最早四ヶ月以上になる。どうか此上僕を失望させないで、一言でも宜いから孤独の僕を慰めてくれないか、僕は世界一騒々しい都会に居ながら、砂漠の真中のような感じだ。知人は殆んど一人もない。一つには夏期中皆が田舎へ行っている為でもある。」

 アーベルの手紙はこんなふうに書き始められています。アーベルがBozenでホルンボエに宛てて書いた手紙の日付は6月15日です。「生誕100年記念論集」に掲載されていますので参照すると、BozenのところはBotzen(Bolzano)と記されています。BozenではなくてBotzen。スペルがちょっと違いますのでどうしてだろうと思ったのですが、調べたらすぐにわかりました。Bozenはイタリアのチロル地方の都市Bolzano(ボルツァーノ)のドイツ名で、BotzenはBozenの古いドイツ語による表記です。高木先生は高木先生の時代の表記を採用してBozenと書いたのでしょう。

リーマンを語る 114. パリの日々の始まり 

 「生誕100年記念論集」にはアーベルが8月12日に故国のハンステンに宛てた手紙が収録されていますが、それは「数学に関する私の願望のすべての中心地、パリに、とうとう到着しました。すでに7月10日からここにいます」と書き出されています。この手紙のおかげでアーベルのパリ到着の日付が判明するのですが、同時にアーベルの住所もわかります。手紙の末尾に記されているのですが、アーベルの所在地はフォーブル・サン・ジェルマン、サント・マルグリット通り41番地です。ストゥーブハウグの本によると、サン・ジェルマン・デ・プレ・修道院の向かい側にあったということです。もっとも、これもストゥーブハウグが伝えていることですが、パリに到着した当初は別の場所に住んでいたようで、一ヶ月ほどすぎてから上記の場所に引っ越したのだそうです。どうして引っ越したのかというと、パリで人に知られ、受け入れられるためにはフランス語に熟達することが根本的に重要であることに気づいたためで、それでフランス語のもっと上手な話し方を習得するためにコット夫妻の部屋に間借りして住み込んだということです。一ヶ月120フランで、清潔な衣服と一日二回の食事がついていました。
 どうしてこの部屋を見つけたのかというと、ヨーハン・ヨルビッツがパリにいることを突然思い出したためで、ヨルビッツの手助けしてもらったということです。ヨルビッツはノルウェーの人で、画家なのですが、パリでアーベルの肖像画を描きました。アーベルの唯一の肖像画です。
 アーベルは数学の論文の執筆に打ち込みながら、ときおり人を訪ねました。7月のことですが、ウィーンで知り合った天文学者フォン・リトロウの紹介状をもって天文台長のアレクシ・ブーヴァールのところに行きました。ブーヴァールは天王星の外側にもうひとつの惑星、海王星が存在することの可能性を提唱したことで知られています。
 ルジャンドルを訪ねたのも7月のことで、このときはコットといっしょでした。1852年9月18日にパリに生まれたルジャンドルは、アーベルの訪問を受けたとき満74歳になっていました。ルジャンドルの自宅に行ったのですが、玄関に着いたとき、ルジャンドルはちょうど出かけようとしていたところでしたので、戸口でわずかな言葉を交わすことしかできませんでした。それでもアーベルはルジャンドルの家で週に一度、夕べの集いがあること、アーベルも自由に参加してもよいことを知りました。
 アーベルはフェリュサック男爵も訪ねました。フェリュサックは「科学・工業綜合報告」という学術誌を出している人です。フェリュサックも不在だったのですが、「フェリュサック誌」を囲むサークルの人たちに会ったようで(とストゥーブハウグは推測しています)、フェリュサックの家でも夕べの集いが毎週行われていることを知りました。アーベルはフェリュサックの雑誌のうち、数学部分の購入を申し込みました。
 街路でポアソンを見かけたこともあります。ポアソンは自分の考えに没頭しているような様子でしたが、そうではなかったのかもしれません。こんなこともハンステン宛の手紙に書かれています。

リーマンを語る 113. 旅の同行者たちのことなど

 「リーマンを語る」という看板を出しながら、このところ連日アーベルばかりを語っていますが、アーベルはリーマンにもっとも深い影響を及ぼした数学者ですので、できる限り詳細に人生と学問をたどりたいと思いました。何しろリーマンの主論文「アーベル関数の理論」にはアーベルの名前が出ているくらいですから、影響の大きさのいかばかりかが察せられます。もう少し細かく言うと、アーベルとヤコビ、それにヴァイエルシュトラスとリーマンをそれぞれペアにして語り、前者のペアから後者のペアへと、何がどのように継承されたのかを明らかにしたいと願っています。言うは易く行うは難し。一筋縄ではいかない大作業ですが、今度ばかりはたとえ千回、一万回と回を重ねてもかまわないというほどの構えです。それと、この際、個人的な好みを申上げますと、ヨーロッパ近代の数学史に登場した数々の数学者たちの中で、アーベルはぼくの一番好きな数学者でもあります。
 さて、クリスチャニアを出発して十ヶ月もすぎてからアーベルはやっとパリに到着しました。パリには1826年の年末まで半年ほど滞在し、この間、ルジャンドルなどパリの数学者たちに会ったり、パリに逗留中のディリクレの訪問を受けたり、「パリの論文」を科学アカデミーに提出したりと、さまざまな出来事がありました。どのひとつを取っても近代数学史の根底を形作るエピソードですので、詳細にお伝えするとともにぼく自身の所見を添えたいと考えているのですが、その前に基本的な諸事実を振り返っておきたいと思います。
 アーベルの旅の目的は数学研究で、行き先はゲッチンゲンとパリでした。これはアーベル自身がノルウェー国王に宛てて書いた旅行願い書に明記されていることですからまちがいありません。パリとともにゲッチンゲンも挙げられているのですから、アーベルは当初からガウスを訪ねるつもりだったのですが、この訪問が実現しなかったのは既述の通りです。
 アーベルの旅はつまり国費による国外留学で、ノルウェーの政府から必要経費が支給されました。金額は年額600銀スペーシエダーレルですが、どの程度の額なのか、よくわかりません。留学期間は二年間です。
 アーベルはひとりで留学の途についたわけではなく、クリスチャニアを出発した時点で四人の同行者がいました。みなアーベルと同じ国費留学生です。四二のうち三人は鉱物学を学ぶ学徒でした。ひとりはこれまでにしばしば名前が出てきたケイルハウという人で、後年、クリスチャニア大学の教授になりました。メッレルという人はコングスベルグの採鉱管理者になりました。タンクは人生の道筋を変更したようで、ヒュッテル派兄弟団の宣教師になり、最初は南米のスリナムで、後にウィスコンシンで活躍しました。少々不思議な印象のある人生です。もうひとり、ベックという同行者がいましたが、ベックは帰国後、クリスチャニア大学の獣医学の教授になりました。獣医学部を創設した人物です。

リーマンを語る 112.  イタリアの旅を経てパリに向かう

 ウィーンに一ヶ月以上も滞在した後、5月18日、アーベルは民営の乗り合い馬車でバーデンに行きました。バーデンはウィーン郊外の温泉地です。ウィーンに引き返し、それから一週間後、ということは5月25日ころことと推定されますが、夜の10時に速達郵便馬車でウィーンを発ちました。同行者がいるのですが、そのつど明記していくのも煩雑になりますので、ひとまず省略します。アルプスを越えて、晩の8時ころグラーツに着きました。
 5月29日、貸し馬車でグラーツ発。五日目にイタリアに入り、まもなくトリエステに着きました。トリエステ滞在は五日間。6月7日の深夜12時に汽船でトリエステを出発し、ベネチアに向かいました。
 6月10日、ベネチア発。ゴンドラでフシーナへ行き、岸に上がり、ここでヴェトゥリンという大型のゆったりとした馬車を雇い、パドヴァに向かいました。パドヴァで一泊し、翌日食事どきにヴィチェンツァ着。ここで昼食をとり、夕刻、ヴェローナに着きました。
 6月12日、ヴェローナ発。アディジェ川に沿って進んでチロルに入り、6月14日、ボルツァーノ着。イタリアの旅が長々と続き、なかなかパリに着きません。
 「生誕100年記念論集」を参照すると、アーベルは4月16日と4月20日にハンステンに宛てて手紙を書いています。このときの所在地はウィーンです。5月28日にもハンステンに手紙を書きましたが、所在地はグラーツに移っています。6月15日にはホルンボエに宛てて手紙を書きました。所在地はボルツァーノ。7月15日のケイルハウ宛の手紙はチューリッヒで書かれています。その次の手紙は8月9日付ですが、所在地はようやくパリに移っています。8月12日付のハンステンへの手紙を見ると、7月10日からパリにいると報告されています。前年の9月7日にクリスチャニアを発ってから10ヶ月がすぎて、アーベルはようやくパリに到着しました。

リーマンを語る 111.  大旅行の続き

 ゲッチンゲンに行くか行かないか、アーベルはだいぶ逡巡したようでした。クレルレといっしょにゲッチンゲンに行くという計画もあったようですが、結局、ゲッチンゲン行は実現にいたりませんでした。ガウスに会えば得るところは多いのはまちがいないとしても、会いたくない人をわざわざ訪ねたりするのはやはり至難なのでしょう。それに、実際にガウスを訪ねたとしても数学の話題で盛り上がると決まったわけではなく、冷淡に扱われてしまうことになったかもしれません。
 2月の末、正確な日付はわかりませんが、アーベルは友人のケイルハウといっしょにベルリンを発ちました。「ある水曜日の早朝」とストゥーブハウグは書いています。混み合った郵便馬車に乗ったのですが、夜7時すぎにライプチヒに着き、「都市ベルリン」という名の旅館に泊まりました。
 木曜日いっぱいライプチヒに留まり、金曜日の昼食後、再び郵便馬車でフライベルクに向かいました。ケイルハウもいっしょです。フライベルク到着は土曜日の朝の9時半ころで、この日は2月26日です。それから丸々一ヶ月ほどアーベルはフライベルクに逗留しました。「生誕100年記念論集」にはアーベルがフライベルクでクレルレに宛てて書いた手紙の一節が収録されていますが、その日付は3月14日です。その次の手紙は3月29日付で、宛先はハンステンですが、所在地はドレスデンに移っています。フライベルクを発ったのは何日なのか、正確なことはわかりませんが、3月17日付のケイルハウの手紙によると3月22日の水曜日にドレスデンに向かって出発する計画が立てられていた模様です。
 3月31日、ドレスデン発。4月14日の夕方、ウィーン着。途中、プラハに8日間、滞在しました。ウィーンについて二日後の4月16日、アーベルはホルンボエに宛てて長い手紙を書きました。アーベルは本当によく手紙を書いた人で、そのおかげで大旅行の模様が詳しくわかります。ゲッチンゲン行を断念してベルリンを離れた以上、目的地はパリなのですが、あちこちに立ち寄るばかりでなかなかパリにたどりつきません。

リーマンを語る 110.  ゲッチンゲンを思う

 クレルレが創刊した「クレルレの数学誌」は現在も刊行されていて、数学の世界では知らない者のない地位を占めています。クレルレの企画は大成功をおさめたことになりますが、そこにはアーベルの力が大きく働いていました。アーベルは「クレルレの数学誌」を主な舞台として論文の掲載を続けたのですが、アーベルの評価が高まるのに連れて、アーベルに論文発表の場所を提供した「クレルレの数学誌」の評価もまた高まっていきました。ですが、創刊の当初のアーベルは無名でした。クレルレにしてもアーベルの真価を見抜いたというわけではなかったのですが、クレルレはアーベルに対して親切でした。
 アーベルのハンステン宛の手紙にはガウスのことも書かれています。ベルリンにも若い数学者がいたことはいたようですが、彼らはみなガウスを神のようにあがめている、とアーベルは報告しました。彼らにとって、ガウスはすべての数学的美点の化身なのですとまで言い添えていますが、アーベル自身の評はどうかというと、率直にほめたたえるというのとはだいぶ違っています。ガウスが偉大な天才であることは認めてもいいのです、とアーベルは言っています。ですが、ガウスの講義は陳腐でカビが生えていることもまた知れ渡っているのだとか。だれかがガウスの講義の悪口を言っていたのでしょう。クレルレはどうかというと、ガウスの書くものは全部嫌いだと言っていたとか。その理由は何かというと、ほとんど理解不可能なほどあいまいだからなのだそうです。こんな話を聞くと、ガウスは尊敬はされても好意をもたれる人ではなかったような印象があります。
 クレルレはアーベルを「クレルレの数学誌」に誘いましたが、アーベルのほうでも、この数学誌のためにできるだけ長くベルリンに留まりたいという気持ちでした。アーベルの旅の目的地はパリでしたが、ゲッチンゲンもまた訪問の予定地になっていました。ゲッチンゲンにはガウスがいたからで、アーベルは本当はガウスを訪ねたかったのです。ですが、ゲッチンゲン訪問はとうとう実現しませんでした。
 ゲッチンゲンにはりっぱな図書館がありますが、取り柄はそれだけですとアーベルはハンステン宛の手紙に書いています。ゲッチンゲンではガウスだけがすべてに通じた人物ですし、ガウスに会うためにゲッチンゲンに行かなければならないとはわかっていたのですが、それでもなおガウスは近寄りがたかったのです。どれほど学ぶべきものがあったとしても、アーベルにとってガウスは師匠ではなく、学問上の恐るべき好敵手だったのでしょう。
 

リーマンを語る 109.  クレルレとの会話

 アーベルがはじめてクレルレを訪ねたとき、どのような会話が交わされたのでしょうか。これについては、アーベルが1825年12月5日付でハンステンに宛てて書いた手紙が参考になります。アーベルはクレルレとの会話の模様を報告しているのですが、クレルレはこれまでにどのような数学書を読んだのかと尋ねてきたそうです。それで著名な数学者の著者を何冊か挙げたところ、クレルレの態度がやわらいで、心から喜んでいる様子が見えたということです。数学の話もいろいろしたようですが、高次代数方程式に話題が及んだときのこと、アーベルが「不可能の証明」の話をもちだしたところ、クレルレは信じられないという態度を示し、それには異論があるとまで言いました。そこで「不可能の証明」を記述した例の小冊子をわたしたのですが、クレルレはいくつかの推論の根拠が理解できないと言いました。
 このような話に加えて、アーベルは、ほかにもクレルレと同じことを言った人が数人いると言い添えています。アーベルの「不可能の証明」はなかなか理解されなかったということになりますが、不可能であることを証明するということ自体が破天荒な試みだったのですから、無理もありません。それでもアーベルは自信がありましたから、もう少していねいに証明を書こうという心情に傾いて、改訂作業に着手しました。
 おりしもクレルレが新しい数学誌の創刊を準備しつつあったころでした。フランスには数学誌があるがドイツにはないので驚いたとアーベルが言うと、数学誌を出したいという考えを長い間あたためてきたできるだけ早く実行に移したいとクレルレが応じました。その言葉の通り、数学誌創刊の企画は急速に進展し、翌1826年2月には第一巻、第一分冊が刊行されました。アーベルの出現はクレルレにとっても大きな刺激になったのでしょう。
 アーベルは「クレルレの数学誌」のために次々と論文を書きました。「不可能の証明」の改訂版も完成し、「クレルレの数学誌」の巻1の第一分冊に掲載されました。アーベルがフランス語で書いた論文をクレルレがドイツ語に翻訳したのですが、クレルレは論文の主旨を十分に理解することができなかったようで、誤訳が目立ちます。それでもクレルレはとにかく自分が編集する数学誌に「不可能の証明」を掲載したのですから、アーベルとの交友を通じて「不可能の証明」は正しいと信じるようになったのでしょう。

リーマンを語る 108. ミッタク=レフラーの著作『ニールス・ヘンリック・アーベル』のフランス語版

 ミッタク=レフラーという数学者はスウェーデンの人ですが、パリやベルリンで学んだ経験の持ち主です。パリではエルミートの講義を聴き、ベルリンではヴァイエルシュトラスの講義を聴いています。そのミッタク=レフラーの1907年の著作という『ニールス・ヘンリック・アーベル』という本はどこにあるのだろうと思いましたが、東大の史料編纂所の図書室に保管されていることがわかりました。国立情報学研究所の目録所在情報サービス(webcat)で調べたのですが、ミッタク=レフラーの本も所蔵している図書館は二つしかありませんでした。高木先生は「試験ない。数学ばかり(Nicht Examen,nur Mathematik)」というアーベルの言葉を引用し、そこにはアーベルが口にしたという言葉がドイツ語のまま引かれているのですから、ミッタク=レフラーの著作を参照したのはまちがいありません。現在、東大史料編纂所の図書室にある本を見たのでしょう。
 国内にあるミッタク=レフラーの本はフランス語で書かれているようで、48頁ということですから、小冊子の部類です。アーベルとクレルレはドイツ語で会話をしましたので、アーベルの発言の部分はそのまま再現されたのでしょう。ドイツ語はあまり上手ではなかったとみえて、たどたどしい会話になりました。
 このミッタク=レフラーの本のことはこれまで知らなかったのですが、高木先生が引用していることに触発されて調べたところ、以上のようなことがわかりました。アーベルとクレルレの会話のことはストゥーブハウグの本でも紹介されていますので、ストゥーブハウグも同じ文献を参照したのだろうと思いました。ところがストゥーブハウグの本の巻末に附されている文献目録を見ると、ミッタク=レフラーの本がそこに記載されていました。それによるとオリジナルはドイツ語で書かれていて、刊行は1903年。アーベルに関する記述は65頁にわたるとのこと。1907年にフランス語訳が出版されたということでした。

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西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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