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リーマンを語る 93.楕円積分の逆関数のアイデアをつかむ

 1823年の夏のデンマークへの旅に関連して、アーベルは4通の手紙を書いたとストゥーブハウグは伝えています。そのうちの二通はホルンボエ宛で、1823年6月15日付の手紙についてはすでに紹介した通りです。もう一通は1823年8月4日付の手紙です。二通ともコペンハーゲンからの手紙です。これらの二通は「生誕100年記念論集」に収録されていますので、読むことができます。
 ホルンボエに宛てた二通目の手紙の日付は「1823年8月4日」ということになっていますが、手紙の実物の日付の欄には実際には「6.064.321.219の3乗根」の記号が記入されていて、「この少数部分に注意」と冗談めいたひとことが添えられています。この3乗根を開くと1823.5908・・・となります。整数部分の1823が「1823年」を意味することには異論はありえませんが、アーベルがわざわざ注意を喚起した少数部分は何を意味するのか、必ずしも明確ではないようで、ストゥーブハウグは細かい考証を長々と続けています。「生誕100年記念論集」には「8月4日」と書き添えられていて、ひとまずこれでよさそうな感じなのですが、どうして8月4日なのかということを解明しようとするところにストゥーブハウグの考証の眼目があります。
 この考証も興味が深いのですが、ここではひとまず措き、手紙の中味に目を向けてみたいと思います。文面は非常に長く、話題も多岐にわたっているのですが、アーベルの数学研究の解明というところに焦点をあてるのであれば、見逃すことのできない言葉が書き留められています。それは楕円関数論に関する言葉です。ストゥーブハウグの本にも該当箇所が引かれていますが、邦訳書の訳文は次の通りです。

〈覚えておいででしょう、楕円超越関数の逆関数を扱ったあの小論のことを。あのとき私が到達した結果は間違いにちがいないのです。あれをデーエンに読んでもらいました。しかし、彼は推論の間違いを見つけることができなかったし、私の間違いがどこから来ているのか理解することもできなかったのです。どうやって私があの間違いから抜け出そうとしているのか、神様だけがご存知です。〉

 ストゥーブハウグの著作はノルウェー語で書かれているのですが、英訳書も出ていて、邦訳書はその英訳書からの重訳です。ここに引いたアーベルの手紙のオリジナルは「生誕100年記念論集」に収録されていて、それももちろんノルウェー語で書かれていますがフランス語訳も添えられています。もとのノルウェー語をそのまま読めればいいのですが、そうもいきませんので、英訳とフランス語訳を通してオリジナルを想定するということになり、いささか隔靴掻痒という感じがするのは否めません。しかもただいま現在は旅の途中で「生誕100年記念論集」を持参していませんので、とりあえずストゥーブハウグの本の邦訳書に出ている訳文をそのまま引くことで満足しておかなければなりません。
 それで細かいニュアンスの相違はありえるとしても、「楕円超越関数の逆関数」の一語が登場するところはまず間違いありませんし、しかもアーベルの数学研究の鍵はこの一語に握られています。この場合、「楕円超越関数」は楕円積分を意味していますが、アーベルはデンマークに出かける前に「楕円積分の逆関数」を考察するというアイデアをつかみ、結果的に何かしらまちがってしまったのかもしれませんが、ともあれ楕円関数の逆関数を主題として何らかの議論を展開したということになります。近代数学史の流れを回想すると、このひとことにはあまりにも重大な意味合いが込められています。
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旅の途中

年末になりましたので帰省先に向かって旅に出ました。昨年の今ころも同じ旅に出て、途中、思い切って高木先生の郷里の本巣市に立ち寄りました。それから一年がすぎて高木先生の評伝が完成しました。岩波の新書の一冊で、

『高木貞治 近代日本数学の父』

という本です。広く世に受け入れられることを祈ります。
11月あたりにはさんざん校正に打ち込んで、もう大丈夫、誤植は根絶したと思ったのですが、刊行されてぱらぱらと開くとたちまちいくつか見つかって恥ずかしく思いました。逐次、お伝えします。
近々、通常の態勢にもどり、「リーマンを語る」の続きを書きます。

リーマンを語る 92.コペンハーゲンからの手紙

 コペンハーゲンで、アーベルはいたるところで歓迎されたとストゥーブハウグは書いています。ハンステン先生の奥さんの姉妹(姉と妹のどちらなのかはわかりませんが)のフレゼリクセン夫人という人がいて、アーベルが訪ねていくと大いに歓待してくれました。主人は少し前に西インド諸島に発ったばかりでした。子どもが四人いますが、四人とも実子ではありません。一週間後に、ソーレーにいる母親のところに行くことになっているので、いっしょに行かないかと誘われました。アーベルはこの申し出を受けるつもりになりました。
 クリスチャンセンハウンのドッケン(どのあたりなのでしょうか)に立派な家があり、おじのトゥクセンとおばのエリーサベトが住んでいました。子どもは8人。みなアーベルのいとこです。トゥクセンは海軍の軍人です。
 コペンハーゲンの数学者たちにも会いました。アーベルが名前を挙げているのは、デーエン、トゥーネ、アウグスト・クライダール、ヘンリク・ゲアナー・フォン・シュミッテン、ゲーオウ・フレズリク・ウアシンの6人です。デーエンはハンステンの知人で、前に代数方程式の論文を見てもらったことがあります。実際に会ってみると愉快な人物で、アーベルにたくさんお世辞を並べ、アーベルに多くのことを学んだと言うので困惑させられました。
 アーベルはこんな調子でひとりひとりの人物について感想を書き留めました。ストゥーブハウグはそれらをひとつひとつ紹介するとともに、詳しい説明を補っています。一通の手紙を読むだけでいろいろなことがわかります。
 ストゥーブハウグはアーベルのデンマーク滞在について知られている事柄をまとめて書き留めています。ソーレー行は実現し、何日か滞在した後、コペンハーゲンにもどりました。デーエンとは数回、会いました。レゲンツェンの二百年記念のお祝いの会に参加しました。7月には二度観劇しました。中でも特筆に値するのはクリスティーネ・ケンプと出会ったことですが、出会うまでの経緯はわかりません。

リーマンを語る91.コペンハーゲン到着

 ストゥーブハウグはアーベルのコペンハーゲンの旅の経緯を詳細に伝えています。ある日曜日の午後、ハンステンはアーベルを連れてテイエン(どこにあるのでしょうか)まで歩き、トレスコウを訪ねました。トレスコウは哲学者でハンステンの同僚ですが、同時にハンステンのいとこでもありました。コペンハーゲンに知り合いがいたらしく、ハンステンはトレスコウに頼んで挨拶状を書いてもらおうとしたのでした。旅行の費用はラスムセンが出しました。「百スペーシエダーレル」という数字が記されていますが、どのくらいの金額なのでしょうか。
 アーベルがコペンハーゲン行の計画を評議会に報告したのが1823年6月2日。それから三日後か四日後に船に乗ってコペンハーゲンに向かいました。船はアポロ号というスループ型帆船(どのような船なのでしょうか)。船長はエーミル・トレプカという人でした。
 第一日目は3マイル、すなわち34キロメートルほど進み、二日目にドレーバックに着きました。ドレーバッククリスチャニアの近くの町で、ここはまだノルウェーです。ドレーバックで二日停泊。アーベルは上陸して、ハインリヒ・カール・ツヴィルグマイエルの家で行われたパーティーに参加しました。ツヴィルグマイエルはアメリカの独立戦争に参加した経験の持ち主で、クリスチャニアの陸軍士官学校とカテドラル・スクールで語学を教えていました。
 三日目、アポロ号はクリスチャニア・フィヨルドの外に出て、さらに二日。6月13日にコペンハーゲンに着きました。この日は金曜日でした。旅の様子がどうしてこれほど詳しくわかるのかというと、アーベルの手紙があるからです。それは、アーベルがコペンハーゲンに着いて二日後の6月15日にホルンボエに宛てて書いた手紙で、「生誕100年記念論集」に収録されています。原文はノルウェー語ですが、「生誕100年記念論集」にはフランス語訳も掲載されています。
 アポロ号に乗船したのが6月5日ころとして、コペンハーゲンに着くまで優に一週間もかかっています。後にパリに向かったときもそうでしたが、アーベルの旅にはなんだかとてものんびりとした印象があります。

リーマンを語る 90.  デンマークへの旅の計画

 アーベルの第四論文が掲載された「自然科学誌」の第三巻、第二号が刊行されたのは1825年の秋のことですが、このころにはアーベルはすでに故国を離れ、パリをめざす大旅行に出発しています。第四論文が実際に執筆されたのはもっと早く、「自然科学誌」が創刊された1823年の時点ですでに書き上げられていたのかもしれません。ストゥーブハウグはそんなふうに推測しています。
 ここまでの3篇の論文はノルウェー語で書かれましたが、アーベルは続いてもうひとつ、1823年の春、今度はフランス語で論文を執筆した模様です。それは失われたのですが、「生誕100年記念論集」に1823年3月22日付の学術評議会の記録の抜粋が収録されていて、多少の消息がわかります。ストゥーブハウグも引用しています。大意は次の通りです。

〈ハンステン教授が評議会に出席し、学生アーベルの論文の原稿を報告した。その論文の目的はあらゆる種類の微分を積分する可能性について、一般的な論述を与えることである。ハンステン教授は、大学はこの論文の出版を援助することをどの程度まで適当と考えるかと申し入れた。
 この原稿はラスムセン教授とハンステン教授の手にゆだねられた。彼らはこの研究の値打ちについて二人の統一見解を表明し、その値打ちがある場合には、もっとも有効に出版を支援する方策を提案する仕事を請け負った。〉

 この記録はフランス語で書かれています。
 評議会で報告するくらいでsから、ハンステンとラスムセンはアーベルの論文の出版を願っていたのであろうと思われますが、なかなか実現しませんでした。アーベルへの援助金と奨学金に関する人物調査書類や質問状があちらこちらと回送されるのに連れて、アーベルの論文もさまよい続け、とうとう行方不明になってしまったのであろうというのがストゥーブハウグの所見です。実際にそうだったのでしょう。
 それでどうなったのかというと、これもストゥーブハウグが書いていることですが、5月のある日のこと、ラスムセンがアーベルに、ポケットマネーをあげるからコペンハーゲンに行ってデンマークの数学者たちに会ってくるようにと進めた。これを受けてアーベルは学術評議会に手紙を書きました。この手紙も「生誕100年記念論集」に収録されていますが、やはりフランス語で書かれています。短い手紙ですが、アーベルは夏期休暇を利用してコペンハーゲンに旅行する計画であることを告げました。コペンハーゲンには親戚がいたようで、その親戚を訪問することが旅行の目的のひとつとして挙げられました。それからもうひとつ、時間と状況の許す限り、数学上の知識を広げることもまた目的でした。旅行期間は二ヶ月。8月の半ばにもどるという考えでした。この手紙の日付は1823年6月2日です。

リーマンを語る 89.  ノルウェーの「自然科学誌」

 アーベルの最初の論文が掲載されたのはノルウェーの学術誌「自然科学誌」の1823年、第一巻、第一号でした。全集の巻1では10頁の論文ですが、「自然科学誌」では219頁から229頁まで、11頁を占めています。200年前の「自然科学誌」はノルウェーの雑誌ですし、見たことがないのにどうしてそんなことがわかるのかというと、ストゥーブハウグの本の附録に記録が出ているからです。「自然科学誌」の誌名のノルウェー語による表記は、
 Magazin for Naturvidenskaberne
というのです。1823年のうちに出た巻を総称して第一巻と呼び、第一巻を構成する何冊かを順に第一号、第二号と呼ぶのが、雑誌の巻数、号数を数えるときの習わしです。続いて同年の第一巻、第二号にはアーベルの第二番目の論文が掲載されました。タイトルは「定積分の支援による二三の問題の解決」というもので、55頁から68頁までと、205頁から215頁までの二ヶ所に分載された模様です。計25頁になりますが、全集の巻1で見ると17頁を占めています。
 ここで全集といいましたが、アーベルの全集は二度にわたって編纂されました。最初の全集はホルンボエが編纂したもので、全二巻。1839年に刊行されました。第二の全集の編纂者はリーとシローで、こちらは1881年に刊行されています。リーとシローはともにノルウェーの数学者で、アーベルの後輩です。リーは「リー群」の創始者として知られ、シローは有限群論の「シローの定理」で名を残しています。
 今、ここで参照しているのはリーとシローが編纂した第二の全集です。この全集は入手しやすいのですが、ホルンボエが編纂した最初の全集は貴重古書です。日本にもそんざいすることは存在し、一冊だけですが、所在地を確認してコピーを作成したことがあります。「自然科学誌」の実物は未見ですが、グーグルのブック検索で検索すると、巻2と巻5-6が見つかりましたので、様子を知ることができます。ただし、これらの巻にはアーベルの論文は出ていませんので、少々残念なところです。
 「自然科学誌」の1825年、第三巻、第二号にはアーベルの第四論文が掲載されています。182から189頁まで。全集版の巻1では6頁の分量です。タイトルは「単定積分によって表される有限積分Σ^n φx」。「自然科学誌」に掲載されたアーベルの論文はこれで3篇になります。若書きの論文ではありますが、重要さにおいて劣るということはなく、どの論文でも注目に値するテーマが論じられています。いずれ立ち入って検討してみたいです。
 第二論文の次が第四論文になっていますが、この間に第3番目の論文がはさまっています。それはいわゆる「不可能の証明」として知られる有名な論文です。
 

リーマンを語る 88. アーベルの最初の論文

 アーベルは1802年8月20日に生まれた人ですから、デーエンがハンステンに宛てて手紙を書いた1821年5月21日の時点では満年齢でいうとまだ18歳です。高次方程式の解の公式の発見を叙述したというアーベルの論文はまちがっていたのですが、ともあれアーベルの数学研究が代数方程式論に始まったという事実の印象はきわめて深く、アーベルの生涯を考えるうえで重い意味合いを帯びています。
 アーベルの大学生活をストゥーブハウグの本に沿って追っていくと、入学試験に合格したアーベルは1821年9月にレゲンツェンという学生寮に部屋を割り当てられました。屋根裏部屋で、一年先輩のイェンス・シュミットという学生と同室です。学生寮レゲンツェンにで威喝する学生は20人ほどいたということですが、みなたいへんな貧乏だったとか。アーベルは1825年の秋に留学に出てパリに向かいますが、それまでの4年間をこの寮ですごしました。アーベルの入学の時点で、およそ100人の大学生がいました。
 1822年6月に哲学試験すなわち第二試験があり、この試験を受験するためにアーベルはいろいろな科目を受講しましたが、試験勉強のほかに数学の勉強に打ち込みました。大学の図書館から借りて読むのですが、そこにはオイラーの微分法の著作(オイラーの解析学三部作のひとつ『微分計算教程』でしょう)、ラクロアの教科書、ラプラスの『天体力学』などが見られます。どうしてそんなことがわかるのかというと、当時の図書館の貸出し記録が残っていて、そこに記録されているからです。
 1822年9月の貸出し記録には、アーベルが借り出した文学と数学の本の書名が記されています。数学の方面ではフランスの数学者アシェットの論文集が記録されています。アシェットはモンジュの系譜を継ぐ幾何学者です。
 1823年2月はじめ、ノルウェーで最初の自然科学の雑誌「自然科学誌」が創刊されました。編集者はグレーゲシュ・F・ルンド、H・H・マシュマン、それにハンステンの3人です。アーベルはこの雑誌のことは計画段階から承知していたようで、予約購読者のリストの筆頭にアーベルの名が記されています。第一号にはアーベルの論文が掲載されていますが、それはアーベルが書いたいちばんはじめの学術論文で、全2巻の全集の巻1の巻頭に収録されています。アーベルはノルウェー語で書いたのですが、全集に収録されているのはそのフランス語訳です。ホルンボエが訳したのでしょう。
 アーベルの最初の論文のタイトルは、
「一個の変化量の関数の一性質が二個の変化量の間のある方程式で表されるとき、そのような関数を見つけるための一般的方法」
というのです。全集版では10頁を占めています。

リーマンを語る 87.  デーエンとホルンボエ

 デーエンの手紙に出ている「解析学のひとつの大洋の広大な領域」という言葉のことですが、「ひとつの大洋」のところにわざわざ「ひとつの」と書き添えたのは原文がそうなっているからで、取り急ぎ「un seul et meme immense Océan analytique」をそのまま訳してみました。ですが、これではもうひとつ意味がわかりにくいようでもあります。
 そこで、先行する文章に目を向けると、「この種の研究に対して適切に向き合うならば、誠実な思想家であれば、これらの関数の、それら自体すでに非常に注目に値する美しい諸性質の数々に固執することはないであろう」という言葉が読み取れます。この後に、「誠実な思想家は解析学のひとつの大洋の広大な領域へと向かうマゼラン海峡を発見することであろう」と続きます。「誠実な思想家」というのはアーベルを念頭においているのであろうと思います。
 ガウスは楕円関数論研究の意義を早くから認識していましたが、ガウスばかりではなくデーエンもまたこの方面に関心を寄せていたことがわかります。楕円関数には非常に注目に値する美しい性質がたくさん附随することも、デーエンは知っていました。ですが、それらの諸性質は個別に見いだされただけであり、それらの全体を包み込むような単一の理論はまだできていなかったのでしょう。デーエンはそのような統一理論の存在を確信していたようで、そんな理論への入り口を指して、これをマゼラン海峡と名づけたのでした。
 デーエンの手紙はハンステンに宛てられたのですが、ハンステンからアーベルに伝えられたのは間違いないと思います。アーベルはホルンボエとともに数学を学んで代数方程式の研究に向かったのですが、今度はデーエンの言葉に触発されて楕円関数論のことが念頭に浮かび始めました。まだカテドラル・スクールの生徒だったころの出来事ですが、代数方程式論と楕円関数論という、アーベルの数学研究の根幹を作る二つの理論が、大学に進む前にすでにアーベルの心に灯りました。数学はやはり「人」が大事です。

リーマンを語る 86.  楕円関数論の大洋に通じるマゼラン海峡

 デーエンはアーベルの根の公式の発見の正否を判定しませんでしたが、ハンステン宛の手紙の文面を見ると、正しいと判断したとは思えません。それどころかデーエンはそもそも解の公式の探索をそれほど重要な問題とは考えていないかのようで、「このような労して功なき問題」などと言い、もっと重要な研究があると言葉を続けました。デーエンは楕円関数論のことを語っているのですが、『近世数学史談』で該当箇所を引くと、「むしろ目今解析上にも応用上にも、重大なる楕円函数(transcendents elliptique)を研究して、「数学の大洋」に於て「マゼラン海峡」を発見するように心掛けては如何」というのでした。この部分はストゥーブハウグの本ではもう少し詳しく紹介されていますが、大意は同じです。
 「このような労して功なき問題」のところは「私の目には実りの無いものに見えるテーマ」となっていますが、これは原文のままです。また、「解析上にも応用上にも、重大なる楕円函数」のところは、原文では「その発展が、解析学全体およびその力学への応用にとってきわめて重要な結果をもたらしてくれるテーマ」となっていて、そのテーマとは何かというと、「私は楕円関数のことを言いたいのです」と言い添えられています。「楕円関数」のところは文字の間が広めに取られて強調されています。楕円関数の究明に向かうなら、アーベルは「解析学の一つの大洋の広大な領域に向かうマゼラン海峡」を発見するだろうというのがデーエンの所見です。その後のアーベルが実際に歩んだ道を思うと、デーエンの言葉は深遠な予言に満ちていて、いかにも神秘的です。

リーマンを語る 85.  デーエンの手紙

 高木先生の『近世数学史談』にデーエンの手紙の一部分が紹介されていますので、ひとまずそのまま写しておきたいと思います。

〈A.君は年少といい、仮に目的は達せられていないとしても稀有なる明敏、博識を認めねばならない。当地学士院に提出は差支えないが、その条件として一つ数字的の実例を計算して見ることを乞うのである。それは当人に取っても「試金石」というものであろう。それは兎も角もA.君など、このような労して功なき問題に没頭しないで、むしろ目今解析上にも応用上にも、重大なる楕円函数(transcendents elliptique)を研究して、「数学の大洋」に於て「マゼラン海峡」を発見するように心掛けては如何、等々〉

 「A.君」はもちろんアーベルを指しています。この手紙はフランス語で書かれていて、宛先は「ノルウェーのフレデリック大学のハンステン教授」となっています。全文がそのまま掲載されているというわけではなく、冒頭の部分はアーベルとは関係がないというので省略されていますし、本文に移ってからもところどころ記述が飛んでいますが、それでも相当の長文です。掲載された部分のはじめのあたりに、高木先生が紹介した通りの言葉が綴られています。
 ハンステンはアーベルの論文をデンマークの学士院に提出してほしいと依頼したようで、デーエンの手紙はそれに対する返答です。どこがどうまちがっているという指摘はありませんが、アーベルが発見したという解の公式を具体的な例にあてはめてもらいたいと要請しています。その実例というのは、
   x^5-2x^4+3x^3-4x+5=0
という方程式で、この方程式に対して公式を適用してはたしてうまくいくかどうかが「lapis lydius」になるというのでした。「ラピス・リディウス(lapis lydius)」はラテン語で、lapisは石の意ですから「リディウスの石」となりますが、「リディウス」の意味がわかりません。この一語にはフランス語で脚註がついていて「pierre de touche」のことと言われているのですが、それなら「試金石」の意になります。上記の実例にあてはめて見ることがアーベルにとって不可欠の試金石になるだろうというのがデーエンの所見で、高木先生が紹介している通りです。
 デーエンはマイアー・ヒルシュ(Meier Hirsch)という人の事例を挙げています。ヒルシュの「ενρηκα(エウレカ)」のこともあるからというのです。エウレカはアルキメデスの名とともに有名なギリシア語で、「わかった」「発見した」というほどの意味です。ヒルシュは1765年の生まれでベルリン大学の数学の教授になった人ですが、1809年に問題集を出版しました。それを見ると、任意次数の方程式の一般的解法を発見したと信じたことがわかりますが、後にまちがいに気づきました。どうして気づいたのかというと、デーエンが例示したような具体的な数字を係数にもと方程式に公式をあてはめてみるとうまくいかなかったからですが、ヒルシュは大きな衝撃を受けたようで、錯乱気味の精神状態に陥ったのだそうです。そんな先例があることもあって、デーエンはいっそう慎重な姿勢になったのでしょう。

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オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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