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リーマンを語る 65.  衰えるものは衰えるべくして衰える

 ガロアの60頁の全集は永くフランス数学の誇りであると高木先生は評しましたが、そのガロアはフランス数学の中心にいた人ではありませんでした。若くして決闘で亡くなったのですが、その前夜、友人のシュヴァリエに宛てて有名な手紙を書きました。決闘で勝てないと思ったためか、数学の思索に打ち込んだ短い日々を回想するとともに、数学の遺稿を託したのですが、末尾のあたりに、「どうか、公開状に由ってヤコービ又はガウスの「意見を求めてくれ。そうすれば予の発見の正否ではなくて、それが如何に重大であるかが分るであろう」(『近世数学史談』に出ている訳文です)という言葉が読み取れます。高木先生はここを引用して、「ガロアは自国の先輩を眼中に置かない」と註記しました。この事実は何を意味しているのかというと、高木先生の見るところ、フランス数学界の偏狭の徴候のひとつというのです。高木先生はクラインの所見に賛成しているように思います。
 フランス数学界の偏狭を示すもうひとつの事例として、高木先生はアーベルに言及しています。アーベルは1826年の7月はじめにパリに到着し、年末まで滞在したのですが、滞在中に「パリの論文」と呼ばれる有名な論文を執筆し、科学アカデミーに提出しました。しかるべき人が審査することになっていたのですが、放置されてしまいました。アーベルは反応を待っていたのですが、何も御沙汰がありませんので、失意のうちにパリを離れたのですが、こんなこともまた確かに偏狭の一徴候と思われます。このあたりも高木先生の所見の通りです。
 フランスの科学アカデミーにはラグランジュの遺産を継承する数理物理学者たちがたくさん集まっていたのですが、ガロアとアーベルの研究には関心を寄せなかったことになります。ということはつまり、理解する能力の有無というよりも、フランスの数学者たちには理解する事のできないまったく新しい数学が発生したということですが、その新数学の泉の所在はどこかといえば、ゲッチンゲンのガウスです。アーベルもヤコビもガロアもみなガウスの継承者なのですから、ガロアもアーベルもパリのアカデミーではなくて、本当はガウスに見てもらうべきだったのでした。
 ガウスならまちがいなくガロアもアーベルも理解しました。もっともガウスの人柄ということも問題になるでしょうから、論文が送られてきてもガウスは無視するかもしれません。
 高木先生の評言をもう少し傾聴すると、ガロアは事情に通じていたから遺構を友人に託しましたが、アーベルは田舎者で、うっかりパリのアカデミーを信用してしまったということです。フランスの数学にはどこかに病根があり、衰えるものは衰えるべき理由があって衰えたのであろうというのが高木先生の所見です。
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リーマンを語る 64.  フランスの数学の衰退

 高木先生は『近世数学史談』の第15章「パリからベルリンへ」の冒頭で19世紀はじめのフランス数学界の衰退に言及し、どうして衰退したのだろうかという問いを立てています。ガロアが遺した全作品を収録した全集はわずかに60頁にすぎませんが、「永くフランス数学の誇りである」と高木先生は讃えました。ですが、そのフランスの誇りのガロアはフランス数学界に所属していたとは言えず、むしろ大きく疎外されていました。
 フランスの数学の中心はエコール・ポリテクニク(『近世数学史談』では工芸大学と呼ばれています)で、コーシーもこの学校に所属していたのですが、コーシーの亡命のころから「さしも隆盛を極めたフランスの数学も何時とはなしに衰退」しました。コーシー以降のフランスの数学者というとリューヴィルやエルミートの名前が浮かぶことは浮かびますが、考えみるとこの二人くらいしか思いつきません。エルミートの次の世代に移るとポアンカレがいますが、ポアンカレの時代を語るのはまだ少し早すぎます。
 リューヴィルはガロアが遺した数学的作品を調査研究したことで知られ、高木先生のいう「60頁の全集」を編纂したのもリューヴィルです。リューヴィルにはコーシーの影響も見受けられますし、エルミートなどにもコーシーの伝統が生きている気配は確かにありますが、むしろヤコビの影響をこうむっていたというのが高木先生の所見です。これもまたその通りと思います。
 フランスの数学の隆盛期には、ドイツには、ただひとりガウスを除いて、数学者の値する数学者はいませんでした。アーベルが留学先に選んだのはパリでしたし、ディリクレは早い時期パリに移ってフーリエの周辺に留まりました。ヤコビもまたルジャンドルの楕円関数論から出発して数学者としての道を歩み始め、初期の研究を見てもらったのもルジャンドルでした。エルミートはそのヤコビの影響を大きく受けていたのでした。
 数学を創造する力に着目すると、ドイツとフランスではたしかに主役の位置が入れ替わりました。その原因に関しては諸説があるということですが、一説には、ポアソンあたりがラプラスの門下生たちを牛耳って応用数学方面に極端に傾斜したのが主な原因なのだとか。いかにもありそうな見方ですが、クラインはこれを否定したのだそうです。クラインの見るところ、理論と応用の間に平衡が保たれないような傾向は偏狭であり、そんな傾向が現れるのは、それ自体がすでに病弊の徴候なのだそうです。どこかしら奥深い場所に病根が隠れていたのでしょう。

リーマンを語る 63.  複素積分再考

 これまでのところで複素積分∫φ(z)dzについて語ってきましたが、翻って考えてみますと、この積分はいったい何を表しているのでしょうか。これもまた実に素朴な疑問です。今日の複素関数論では線積分というものを考えることになっていますが、これは実積分の場合でいうとリーマンの積分にほかなりません。ということはつまり定積分なのであり、定積分が定まればおのずと不定積分も定まります。無限小量φ(x)dxの線に沿う変分を寄せ集めるという考えですが、実積分の場合、微積分のはじまりのころの積分といえば不定積分のことでした。定積分という言葉はあったことはありましたが、それはコーシーやリーマンのいう積分ではなく、不定積分という名の変化量が採る個々の値を指していました。したがって、定積分というのは、不定積分が採る定まった値というほどの意味にほかならず、定義などはありませんでした。
 それなら不定積分とは何かというと、オイラーの流儀などにならうなら、上記の積分にこれをあてはめると、「その微分が複素微分φ(z)dzになるような複素変化量w」のことと理解されることになります。この状況は、
    dw=φ(z)dz
という等式で表示されます。
 ここでおのずと発生する問題は、微分φ(z)dzの不定積分がはたして存在するのかどうかという問題です。これに対しては、実積分の場合には殆ど自明だったように、微分φ(z)dzを寄せ集めて変化量wを作ればよいのですし、そのwを積分の記号をもって
    w=∫φ(z)dz
と表示することになります。
 ここまでは実積分と同じ考え方が生きているわけですが、微分φ(z)dzの寄せ集めを遂行するときに沿うべき道が、実積分の場合と違って無数に存在するところが根本的に異なります。このために解析接続という現象が発生し、まさしくそこに、積分wの多価性が発生する原因があるのでした。複素積分というなの不定積分、いわば不定複素整積分という考え方それ自体の中にすでに、解析性の本性が姿を現しています。

リーマンを語る 62.  解析関数の概念規定をめぐって

 『近世数学史談』に沿って19世紀はじめのフランスの数学界の様子を語り、ガロアとアーベルの話をしたいのですが、このところ懸案の複素関数論のことを考えると、あれこれの想念が次々と浮かびます。同じような話の繰り返しになってしまいがちですが、何度でも繰り返して確認したいこともあります。その第一は解析関数というものの概念規定のことなのですが、まずはじめに解析関数の概念がいきなり出現して「コーシーの定理」が証明されたり、解析接続の現象が語られたりしたのではないということを強調しておきたいと思います。
 「コーシーの定理」や解析接続の現象が意味をもちうるのは、関数に特殊な属性が備わっている場合であることが認識され、そのような属性が解析性として抽出されたのですが、当然の成り行きのように見えて、これを実行するのは非常にむずかしく、大胆な一歩を踏み出していかなければならないところです。こんなふうに言うのはリーマンの学位論文が念頭にあってのことで、リーマンは、二つの変化量wとzに対し、微分の比dw/dzがdzに依存せずに確定するとき、wをzの関数と呼んだのでした。このリーマンの「関数」がつまり解析関数です。
 リーマンが解析関数の概念規定を書き下したとき、そのような関数には当初から「コーシーの定理」や解析接続の現象が期待されていました。ここが複素関数論の一般理論を理解するためのポイントと思います。解析関数とは何かといえば、「コーシーの定理」が成立し、解析接続の現象が観察される関数のことで、もし「コーシーの定理」が証明されなかったり、解析接続の現象が生成しなかったりしたなら、それは解析関数の概念規定に問題があることのあかしです。複素関数論の一般理論が真っ先に「コーシーの定理」をめざす理由もここにあります。
 「コーシーの定理」や解析接続という具体的な現象がすでに発見されていて、それらが抽象的な観念の凝固を誘ったのですが、ということは、解析関数の概念を定義したこと自体、ひとつの際立った数学的発見だったことになります。そこで解析関数の定義を表明した一番はじめの人、ここではリーマンのことを考えているのですが(ヴァイエルシュトラスについても事情は同様です)、そのような人が定義の文言を具体的に表明するまでの心情を追体験することが、複素関数論の理解のための究極の鍵になります。
 解析関数の概念規定を誘った具体的な事象はいかにして観察されたのかというと、個々の数学者のそれぞれに「真に知りたい事柄」があったからです。コーシーは実定積分の計算を遂行したかったのですし、ガウスはガウスで関数の多価性が生じる原因に関心を寄せていました。コーシー、ガウスからリーマン、ヴァイエルシュトラスにいたる道筋にすべてがあります。本当にむずかしいのはここのところです。この道筋を逆転して、解析関数の定義から出発するのであれば、どこまでも簡単な論証が淡々と続くだけのことで、格別の感動はありません。ひとことで言えば、数学の理解の根源は歴史にあると言えるのではないかと思います。

リーマンを語る 61.  複素関数論の今昔

 高木先生が大学に入学したのは明治27年ですが、そのころの大学で数学の講義を担当していたのは菊池大麓と藤澤利喜太郎の二人だけでした。藤澤先生は複素関数論の講義を担当していたのですが、当時の複素関数論というのは数学の最先端をいく最新の理論で、藤澤先生はドイツで聴講したクリストッフェルの講義のノートを日本に持ち帰って講義をしたものでした。それから100年ほどの歳月がすぎて、今では複素関数論は数学の入り口付近に位置を占め、理学部でも工学部でもごくあたりまえに教えられています。たいていは微積分の次に配置されているのではないかと思います。
 正則関数の定義はヴァイエルシュトラス流の冪級数展開の可能性か、あるいはリーマンの流儀のコーシー・リーマンの微分方程式を基礎にするか、二通りの様式がありますが、ともあれどちらかから出発して、まずはじめに「コーシーの定理」を証明します。それから「コーシーの積分公式」を出し、以下淡々と話が進んで留数定理に及び、実定積分の計算を練習します。留数計算はコーシーが1825年の論文で開発した画期的な計算法だったのですが、今では単なる練習問題になりました。基礎概念の定義から出発して論証を進めていくと、道のりはどこまでいっても平坦ですし、全然むずかしくありません。論証を追うという方面から見れば、数学はごくやさしい学問ですが、その代りそこには何の感動もありません。
 数学はやはりだれが、何をねらって構築したのかを諒解するのが大事です。複素関数論の形成過程も決して単純ではなく、コーシー、ガウス、ヴァイエルシュトラス、リーマンと、各人各様の思索が折り重ねられています。古くは対数の無限多価性の解明をめざすオイラーの思索もありました。
 さて、『近世数学史談』でコーシーとガウスの複素関数論を一瞥しましたので、そろそろリーマンにもどりたいのですが、『近世数学史談』の続きも気に掛かります。コーシーとガウスに続いて高木先生はアーベルに話題を転じ、ずいぶん詳しくアーベルを語り続けているのですが、この機会に『近世数学史談』に追随してみたいと思います。それに、リーマンの複素関数論を語るうえで、アーベルは一番重要な人物でもあります。
 『近世数学史談』の第15節は「パリからベルリンへ」と題されていて、「十九世紀の初めの三十年間、さしも隆盛を極めたフランスの数学もコーシーの亡命の頃を転機として、何時とはなしに衰退した」と書き出されています。その通りと思いますが、こんなふうに的確に明言するのが高木先生の流儀で、『近世数学史談』の魅力です。19世紀のはじめの30年間というと、フランスにはガロアがいましたが、ガロアはフランスの数学の中心にいたわけではなく、「独自の思想環」に住んでいました。ガロアはむしろアーベルと連繋して語られるべきであろうというのが高木先生の所見です。

リーマンを語る 60.  対数関数の無限多価性

 ベッセルに宛てたガウスの手紙をもう少し続けます。ガウスは積分∫φ(x)dxを考える際に、視点から終点にいたる路を描き、その路に沿って微分φ(x)dxの総和を作るというのですが、路の選択はまったく任意というわけではありません。実際、ガウスは、その路の途中にφ(x)=∞となる点は避けることを要請しています。その理由はなぜかというと、そんな路に沿って積分を考えようとすると、積分∫φ(x)dxの基礎概念が不明瞭になって矛盾が生じやすいから、というのです。
 ガウスの念頭にどのような矛盾が浮かんでいたのか、そのあたりはわかりませんが、積分路の途中で関数値が発散したりするようでしたら、たしかに積分の意味は確定しそうにありません。複素平面上に任意に二点を定め、両点を結ぶ曲線を引く際に、関数の値が定まらない点を避けるのはつねに可能ですから、いつもそのようにすればよいというのがガウスの言葉の意味と思いますが、これはこれでごくまっとうな方針です。ところが、そんな路は無数に存在しますから、そのことに起因して積分∫φ(x)dxの値は必ずしもひとつに定まりません。しかもそれは関数φ(x)の値が無限大になる点の存在と関係があります。
 ガウスはこんなふうに前置きし、そのうえで
   ∫(1/x)dx(積分の始点はx=1)
という積分を例示しています。これは関数φ(x)=1/xの積分ですが、この関数は複素平面の原点x=1において無限大になります。積分の始点をx=1と定め、x=1と原点以外の点xを曲線で結び、その線に沿って積分を推敲するのですが、その際、その線は原点を通らないものとします。この積分はつまり対数関数log xなのですが、その値は積分路に依存しますので、ただひとつに定まることがありません。なぜかというと、積分路は原点の回りを回ることもありますし、まわらないこともあります。回る場合には左回りのこともあり、右回りのこともあります。回る回数も一回とは限らず、何回でも好きなだけ回ることがあります。それで左回りに一回転すると、そのつど積分の値は+2πiだけ増加し、右回りに一回転すると、そのつど-2πiだけ値が減少します。これによって対数函数log xの多価性が明瞭にわかるというのがガウスの所見です。原点の回りを難解でも回る積分路を自由に選べるのですから、対数関数は無限多価になります。
 対数関数の無限多価性でしたら、これを数学史上ではじめて解明したのはオイラーですが、ガウスの認識の仕方はあまりにも簡明で、しかも解析関数に特有の「解析接続」という現象が正確に把握されているのに驚かされます。ガウスは解析関数というものの概念を一般的に表明したわけではありませんが、解析接続に着目した以上、関数に伴う何かしら特定の属性を見ていたのはまちがいないと思います。コーシーはコーシーで、留数計算を許容する関数というものに目をつけていたのでした。ガウスとコーシーが関心を寄せていたの現象は異なりますが、根底にあるものは共通で、それを抽出すれば解析関数の概念が手に入りそうです。コーシーとガウスの次の世代のヴァイエルシュトラスとリーマンがそれを実行に移し、複素関数論の一般理論の出発点が定まっていったという道筋が想定されるのではないかと思います。

リーマンを語る 59.  ガウスと「コーシーの定理」

 ガウスは複素平面上の二点を結ぶ路に沿う積分∫φ(x)dxを考えて、ベッセル宛の手紙の中でこんなふうに言っています。すなわち、それらの二つの路の間にはさまれる領域上で関数φ(x)はどこでも無限大になることはないとし、しかも一価関数であるか、あるいは、たとえ一価ではないとしても、少なくともその面上で連続性を保ちつつ取りうる値はただひとつとするならば、二つの路に沿う積分の値は同一であるというのです。これはつまりコーシーの1825年の論文に出ている「コーシーの定理」そのものですが、ガウスの手紙の日付は1811年12月18日であったことにくれぐれも留意したいと思います。ガウス自身、これを「美麗なる定理」と呼んでいます。証明もむずかしくないから、適当な機会に発表するだろうとも言っていますが、これは実現しませんでした。
 この手紙でわかるのはガウスはまちがいなく「コーシーの定理」を知っていたという事実ですが、ここで素朴な疑問が起ります。コーシーには実定積分を計算したいという要求がありました。ヴァイエルシュトラスとリーマンにはヤコビの逆問題を解きたいという目標がありました。では、ガウスは複素関数論の領域において何をねらっていたのでしょうか。ガウスを考えるときにどうもわかりにくいのはここのところです。この論点の鍵をにぎっているのはおそらく楕円関数論であろうと思います。

校正の苦心談あれこれ(4)

 校正の苦心談も語り始めるときりがありませんが、この機会にもう少々。

7 隈元有尚と隈本有尚
 藤澤利喜太郎の大学時代の同期生は藤澤本人も含めて四人でした。そのひとりに「隈元有尚(くまもとありたか)」がいて、福岡の修猷館中学(現在の県立修猷館高校)の初代の校長になった人物です。何度か名前を出したのですが、「隈元」は実は「隈本」と書くのが正解のようでした。「ようでした」と何だかあいまいな言い方をしたのはなぜかというと、どうしてまちがえたのか、原因が明らかにならないからです。
 隈本も隈元もどちらも実在する姓ですが、隈元という表記はわりと珍しく、たぶん鹿児島に特有の表記ではないかと思います。松本と松元、森本と森元など、鹿児島ではよく「元」の字が使われます。隈本が正しいので以後、隈本と書くことにしますが、この人のことを調べ始めた当初、「隈元有尚」と認識し、実際には久留米藩の士族の出なのですが、「元」の字が使われているので鹿児島にゆかりのある人だろうと思ったものでした。「本」と「元」の識別に自信があったのですが、それだけにまちがっていたことを自覚したときは衝撃が大きかったものでした。
 それでなぜ「元」と思ってしまったのかということですが、一番はじめに見た文献が何だったのか、どうしても思い出せません。あるいは根拠のない思い込みにすぎなかったのかもしれませんが、ここがはっきりしないために今も少々気持ちの悪い毎日が続いています。

8 鶴田賢治と鶴田賢次
 高木先生が帝大の一年生のときの力学の教師が「鶴田賢治」で、後に東大の物理の教授になった人物です。『日本の数学100年史(上)』を参照して「賢治」と書いたのですが、「賢次」ではないかという指摘を受けました。それで調べ直してみると、『日本の数学100年史(上)』にはもう一ヶ所、この人の名前が出てくるところがあり、そこでは「賢次」となっています。これにはびっくりしました。
 さらに他の文献を参照すると、「賢次」が正解という判断に傾きました。調査が足りなかったといえばその通りですが、まさかこんなところにまちがいの芽がひそんでいるとは思いもよらないことで、ついつい手を抜いてしまいました。
 他の文献というのは、たとえば『東京帝国大学五十年史』などのことで、そこに出ているのはつねに「賢次」です。それと、国会図書館の蔵書目録を見ると「鶴田賢次」の著作はいくつかありますが、「鶴田賢治」の著作は見あたりません。こんなところも判断の根拠になりました。

 ほかにもいろいろな苦心談があるのですが、ひとまずこのくらいにします。総じて思うのは、ある程度の分量の書き物をした場合、誤植を正真正銘根絶するのはまず不可能ということです。どれほど念を入れようとも誤植は決してなくなりません。その理由は誤植の原因があまりにも複雑だからですが、もっと具体的に言うと、ひとつの事実を調べるために参照する文献はいくつも存在し、しかも絶対的に正しい基礎文献というのはありそうでいてなかなか見つかりません。信憑性の高さを判断するのは著者ですから、そこにまちがいが入り込む余地が生まれます。ということは、誤植も含めてひとつの作品ということになり、新たな著述にあたってはすべての事実について複数の文献にあたり、どれを採るか、そのつど判断を強いられることになります。
 高木先生の評伝の場合には、高木先生に関する事柄については可能な限りそうしたのですが、たとえば「鶴田賢治」の名前の表記についてまで複数の文献にあたることもあるまいと思いました。誤植の根絶は著者の理想ですが、どれほどむずかしいことか、あらためて痛感した次第です。

校正の苦心談あれこれ(3)

「蕃書調所」を「蕃書取調所」などと書いてしまったこともありますが、これはまあ小さな表記ミスです。

4 菊池大麓と学習院
 『日本の数学100年史(上)』120頁に、菊池大麓は「1906年から約1年間学習院長を務めた」と出ていましたので、これを受けて「明治三十九年から一年間、学習院長」と書いたのですが、「明治三十九年」はまちがいでした。正しくは「明治三十七年」です。学習院のホームページに歴代院長の写真付の一覧表があり、そこに菊池大麓は第8代院長であること、院長であったのは明治37年8月4日から明治38年10月12日までと明記されていました。疑えばきりがないということはありますが、正確な日付のように思います。学習院には第一次資料があるのでしょう。

5 大学卒業直後の藤澤利喜太郎
藤澤利喜太郎は明治15年に東京大学(一番はじめの東大。今の東大ではありません)を卒業して洋行に出かけるまでの間、一年ほど「医科の物理をやっていた村岡範為馳のもとで助教授としてすごした」と書きましたが、これはまったくまちがっているわけではないものの、正確とも言えません。藤原松三郎が「追想」というエッセイを書いていて、その中で藤澤利喜太郎から聞いたという昔話を紹介しているのですが、それをそのまま写しました。藤原松三郎はその後、『東京帝国大学五十年史』を見たそうで、そこには藤澤利喜太郎が大学予備門の教諭になったという記事があったそうです。藤澤利喜太郎の『遺稿集』についている年譜にも予備門教諭に就任という記事がでています。
 というわけで、村岡範為馳、医科の物理、村岡範為馳の助教授、大学予備門教諭という言葉がばらばらになって目に入ってきたのですが、相互にどのような関係になっているのか、判然としませんでした。
 ところが懸案の『東京帝国大学五十年史』を閲覧したところ、たちまち事情がわかりました。やはり基本資料は大事です。この『五十年史』を参照したところ、次のようなことがわかりました。

村岡範為馳
明治15年7月6日、大学予備門教員(「教員」はそういう名の職階です)。数学を教える。
同年12月27日、東京大学教授に転任。医学部で物理を教える。

藤澤利喜太郎
明治15年7月、東京大学卒業
同年8月2日、大学予備門教諭(「教諭」も職階です。「教諭」の下)
昭和16年3月9日、依願免本官

 というわけですので、「医科の物理をやっていた村岡範為馳のもとで助教授としてすごした」というのは大雑把に言えばその通りですが、細部はだいぶ違います。「教員」「教諭」というのは大学予備門の正式な職階の名称で、教員のほうが教諭よりも上になります。この状況を指して、藤澤利喜太郎は村岡範為馳の「助教授」と簡単に説明したのでしょう。
 村岡範為馳は鳥取の出身の物理学者で、日本数学物理学会が節されたとき、最初の委員長になった人です。

6 志賀潔
 今度は失敗した話ではなく、逆に定説らしきものをくつがえした話をひとつ。赤痢菌の発見で知られる医学の志賀潔は、たいていの文献に明治29年(1996年)に大学卒業と記されていますが、これはまちがいで、正しくは「明治30年」です。この年の7月に東京帝大を卒業しました。
 どうしてそんなことがわかるのかというと、明治30年は高木先生が大学を卒業した年だからで、ここを確認するために当時の官報を参照したところ、卒業生全員の名前が記載されていて、そこに志賀潔の名がありました。たぶんまちがいを書いた文献がどこかにあって、その孫引きが重ねられてきたのでしょう。この調査は大成功でした。

校正の苦心談あれこれ(2)

 何であれ文章を書くときは事実関係の記述によほど注意を払うのですが、まちがいは必ず入り込み、根絶はまず不可能です。一回や二回、見直してもだめで、まったく弱ります。原因もまたさまざまで、単純な書きまちがいなどもときにはありますが、調査不足のためのまちがいもありますし、その調査というのも深浅さまざまで、よほど深く調べないとまちがってしまうこともあります。
 参照する文献が二次、三次文献の場合には確信をもてないことが多く、ひとつしか参照せずに孫引きしてりするのは非常に危険です。そうかといって、ある事実を調べるのに複数の文献を見ても、文献によって食い違っていることもしばしばです。本当はすべての事実について第一次資料を見ればいいのですが、言うは易く行うは難し。一次文献の探索というのはそれ自体がたいへんな苦労を伴います。

3 箕作阮甫の勤務先
 菊池大麓の父は箕作秋坪という蘭学者ですが、箕作秋坪はやはり蘭学者の箕作阮甫の養子になった人です。幕末の蘭学者で、幕府が設置した洋学の研究所に勤務していたのですが、その勤務先を「開成所」と書きました。ところがこれはまちがいで、ここは「蕃書調所」とするのが正解です。幕末の洋学研究機関の変遷を甘く見たのがまちがいの原因でした。細かく時系列を追っていくと、次のようになります。

安政2年(1855年) 洋学所設置
安政3年(1856年) 蕃書調所設置
文久2年(1862年) 洋書調所と改称
文久3年8月29日(1863年10月11日) 組織拡充に伴い開成所となる。

 箕作阮甫は蕃書調所の設置にあたり教授職に就任したのですが、蕃書調所が細かく変遷していますので、開成所教授としてもまちがいはないだろうと思ったのですが、箕作阮甫の生誕日は寛政11年9月7日(1799年10月5日)で、文久3年6月17日(1863年8月1日)に亡くなっています。ということは開成所の設置の二ヶ月ほど前に亡くなったわけですので、開成所教授とするわけにはいきません。ここは油断してしまいました。

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プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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