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リーマンを語る 39.  数学の普遍性をめぐって

 このところ同じような話を繰り返しているようで、どうも気がひけるのですが、言わんとするところになかなか言葉が及びませんので、隔靴掻痒というか、われながらもどかしさを感じます。複素関数論のはじまりということをもう一度、考え直してみると、出発点はやはり関数の解析性の自覚に求めるのが当然です。これを言い換えると、「解析的な関数」というものの定義はいつ、だれの手で、どのように出現したのかという問いに答えるということになりますが、「だれの手で」というところについてはヴァイエルシュトラスとリーマンの二人を挙げることになります。もうひとり、コーシーをどう見るかという問いも成立しますが、コーシーが「微分可能な複素関数」を取り扱っていたのはまちがいのないところですから、これをもってコーシーもまた解析関数の概念の提案者と見ることも考えられるところです。ではありますが、ここではこの考えは退けたいと思います。その理由は、コーシーには解析接続という現象への感心が認められないように思われるからです。
 関数の解析性の本質は解析接続にあり、そのために複素関数論は代数解析の範疇を大きくはみだしてしまいます。
 これで「だれの手で」という問いについてはひとまず答えることができました。次に、「いつ」という問いのことですが、ヴァイエルシュトラスについてはベルリン大学での講義を検討しなければ正確なことは言えません。リーマンについては1851年の学位論文という明確な典拠がありますから、わりとはっきりしたことがわかります。しかも1847年から翌1848年までのベルリン滞在中に、学位論文の基礎はすでにリーマンの手もとに揃っていたということです。ラウグヴィッツの本にそんなふうに書かれていました。リーマンは1849年の夏学期が始まる前にゲッチンゲンにもどりましたが、ゲッチンゲンではもう数学の講義には登録しなかったということです。
 リーマンが本格的に数学の勉強に向かったのは1846年にゲッチンゲン大学に入学してからであろうと思いますが、ギムナジウム時代にもルジャンドルの著作『数の理論』を読んだりしていましたから、数学への関心が早くから芽生えていたのはまちがいありません。それでも、複素関数論の基礎を確立するなどという大掛かりな仕事に早々と取り組み始めたということも考えにくいところですし、やはりベルリンに移ってヤコビやゲーペルのやっていることに接触したことが契機になったのではないかと思います。大きな目標として完全に一般かされた形での「ヤコビの逆問題」を定め、その解決をめざして複素関数論の一般理論の構築に向かったということでしょう。解析関数の定義の様式は異なりますが、ヴァイエルシュトラスもまた長い時間をかけて同じ方向に進みました。
 この道筋はこれはこれで非常によくわかるのですが、数学の中味に立ち入る前に、この段階において非常に不思議に思われてならないのは、今日の数学の世界で複素関数論(あるいは単に「関数論」)と呼ばれている理論を作ったのはたった二人であるという事実です。数学の理論にはたいていの場合、一番はじめに作った人がいるものですが、通常はあるときある場所でたまたまその人が作ったと考えられているように思います。数学の理論は普遍性を要請するものですから、一番はじめの人は偉大なことは偉大ですが、その人でなければできないということはなく、いつかはだれかの手で達成されると、何となく信じられているのではないでしょうか。
 これは通説といえば通説ですが、ここに疑問を提起したいと思います。複素関数論の場合でしたら、あくまでもヴァイエルシュトラスとリーマンによる「個人の創造物」であると主張したいところです。数学はサイエンスではなく、「人が創造する」学問です。

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リーマンを語る 38.  複素関数論の成立

 前回、解析関数の解析性を規定する二通りの流儀について述べました。ひとつはヴァイエルシュトラスの流儀、もうひとつはリーマンの流儀です。冪級数展開から出発するヴァイエルシュトラスのアイデアは、当時の代数解析の思想の延長線上におのずと位置づけられそうに見えます。他方、「コーシー・リーマンの微分方程式」を基礎とするリーマンの流儀は数学史上に何の前触れもなくいきなり出現したのですから、いかにも不思議です。リーマンはどこからリーマンの流儀を取り出してきたのでしょうか。
 コーシーはどうしたのか、よくわからないのですが、たぶんコーシーは実関数の場合と同じ形の微分可能性を複素関数にも要請し、そこから「コーシーの定理」や「コーシーの積分公式」など、複素関数論の根幹をなす諸定理を導いたのでしょう。ではありますが、それならコーシーには関数の解析性ということの自覚があったのかというと、どうもそうではないような気がします。微分可能性のみを承知して、解析性の認識が欠如するとどうなるのかというと、解析接続の現象への感心が生まれません。それで、きっとコーシーの関数論には解析接続が存在しないのだろうと思うのですが、現在のところ、推定にすぎません。
 微分可能な複素関数はもちろんコーシー・リーマンの微分方程式を満たしますが、リーマンのように解析性の概念に実在感を感じる人なら、解析関数の定義から出発しようとするのが当然です。それでリーマンはコーシー・リーマンの微分方程式をみたすこともって解析関数の定義としました。微分可能性と同じことではありますが、コーシーには「定義」がありません。
 リーマンの複素関数論が成立するまでの年月を考えますと、あまりにも短期間であったことに驚かされます。ゲッチンゲン大学に入学した1846年から1851年の学位論文まで、わずか5年です。しかもラウグヴィッツによると学位論文はベルリンに滞在した二年間の間にすでに実質的に完成していたというのですから、驚きは増すばかりです。解析関数の定義などだれがやっても同じことだという見方も可能ですが、解析性の概念の把握を試みた人はヴァイエルシュトラスとリーマンの二人しかいません。それを思うと、数学は決してだれがやっても同じではなく、数学の建設に一石を投じるのは特定の個人の特定のアイデアだろう、という想念にいつも自然に誘われます。

リーマンを語る 37.  解析関数の解析性

 複素関数論の一般理論というと、出発点においてまずはじめに確立しなければならないのは「解析関数」もしくは「正則関数」というものの概念規定です。関数の解析性を規定して、そのような性質を備えた関数の諸性質を配列していくのが複素関数論というものなのですが、二通りの流儀があります。ヴァイエルシュトラスは「冪級数に展開可能であること」をもって定義とし、リーマンは「コーシー・リーマンの微分方程式を満たすこと」をもって定義としました。今日の関数論の本を見るとたいていそんなことが書かれていて、両者は同等であることが示されます。同等というのはつまり論理的に同等ということで、一方を前提とすると、そこから他方が導出されます。したがって、どちらを出発点にしても同じことになると宣言されるのですが、二通りの概念規定の根底には異質の数学思想が横たわっているのですから、論理的に見て同等というだけではやはり不十分で、どうして二通りの定義が出てきたのだろうと問いたいところです。
 今はラウグヴィッツの本の叙述に追随してリーマンの人生と数学研究の概観を試みているところですので、数学の中味に立ち入って論じるのは後回しにしたいです。印象としては、ヴァイエルシュトラスのように冪級数という「式」を基礎に置くのは、代数解析のアイデアに基づいているような感じがあります。代数解析の淵源と考えられる著作にラグランジュの『解析関数の理論』があり、これが「解析関数」という用語のはじまりと思います。
 解析関数の場合には「解析接続」という特有の現象が伴いますので、単に冪級数を考えるだけでは足らず、可能な解析接続を目一杯遂行して、いわば最大解析接続領域のような場所を作らなければなりません。冪級数は解析関数の断片にすぎず、それをその断片とするところの解析関数の全容を把握する意志を持ち続けなければならないのですが、そうしますとヴァイエルシュトラスやリーマンが数学を学び始めた時期に広がっていた代数解析の思想で対処するのは不可能になります。
 リーマンのアイデアはヴァイエルシュトラスとは歩みの方向が正反対で、ヴァイエルシュトラスの場合の最大接続領域に相当する観念が真っ先に提示されます。それが「リーマン面」です。解析関数はリーマン面上に存在する「解析的な関数」として把握されますが、リーマンのいう「解析的」というのはコーシー・リーマンの微分方程式を満たすという性質を指すのですから、ヴァイエルシュトラスとは全然違います。まったく不思議な流儀で、神秘的でさえあります。
 ヴァイエルシュトラスとリーマンのほかにもうひとり、コーシーには解析関数の観念はあったのだろうかと問うと、実はここのところはよくわかりません。全般にコーシーが数学で行ったことはどうもよくわからないことが多いのですが、コーシーが複素関数論に所属するいろいろな結果に到達したのはたぶんまちがいないとして、関数の解析性という観念それ自体を把握していたのかというと、確信がもてません。というか、たぶん把握していなかったろうという印象があります。複素変数の関数を考えたのは確実として、微分可能であることを特に断ることもなく前提として進んでいったのではないかと思います。もっともこのあたりは厳密に詰めて論証したことがありませんので、そんなことではないかという印象を表明しておくだけに留めます。

リーマンを語る 36.  ヤコビの逆問題との出会い

 複素関数論はだれが作ったのかということを考えると、必ず挙げられるのはコーシーとリーマンの名前です。この二人のほかにも、たとえばガウスはすでに複素関数論の実質を手にしていたかのような印象がありますし、アイゼンシュタインやヴァイエルシュトラスの名前も挙げておかなければならないようにも思うのですが、「コーシーの定理」のコーシーと「リーマン面」のリーマンの占める位置はまた格別です。
 コーシーはリーマンに先行する人ですから、リーマンに及ぼされたコーシーの影響について考察を加えたくなるのは自然な成り行きです。ラウグヴィッツもそのあたりの消息に少々立ち入って考証しているのですが、どうも根本的な問題には触れられていないようでもあります。それは、理論形成の根幹を作る問題意識の所在地のことなのですが、コーシーにもリーマンにもそれぞれに固有の理由があって複素関数論へとおもむいたのでしょうから、そこのところを比較しなければならないのではないかと思います。ラウグヴィッツはそのようには論じていませんので、隔靴掻痒というか、物足りない気持ちが残ります。
 コーシーのことはよく知らないのですが、よく言われているのは、むずかしい実定積分の計算を工夫するためということです。これは本当かもしれませんが、即断はできません。リーマンはどうかといいますと、「ヤコビの逆問題」の解決という、大きな目標がありました。この点はヴァイエルシュトラスも同じで、ヴァイエルシュトラスとリーマンはそれぞれ流儀でヤコビの逆問題に立ち向かい、そのための基礎理論として複素関数論の一般理論の確立をめざしたのでした。さてここでコーシーを返り見ると、コーシーにはヤコビの逆問題への関心はまったく見られません。コーシーとリーマンの関係を考えるうえで、ここがもっとも肝心なところです。
 ヤコビの逆問題というのはドイツの19世紀の数学史の大問題で、アーベルとヤコビに始まります。そのヤコビがベルリン大学にいて、リーマンはヤコビの講義を聴いているのですから、問題の継承はきわめて直接的です。ヤコビが提出したヤコビの逆問題は完全に一般的な形ではなく、超楕円積分を対象にする「種数2」の場合の逆問題だったのですが、それならすでにローゼンハインとゲーペルの手で解決されました。それを報告するローゼンハインの論文は1851年にパリのアカデミーからグランプリ(大賞)を受けました。公表されたのも1851年ですが、実際にはすでに1846年の時点で完成していたと言われています。ゲーペルは同じ問題を独自に解決しました。ゲーペルの論文は1847年のクレルレの数学誌に掲載されましたが、1847年といえばリーマンがベルリンに移った年ですし、リーマンに影響を及ぼしたのはコーシーよりもむしろこのような動きだったと見るのが本当なのではないかと思います。リーマンの複素関数論形成をうながしたのは、ヤコビの逆問題との出会いという、ベルリンにおける数学的体験でした。

リーマンを語る 35.  コーシーとリーマン

 リーマンがゲッチンゲン大学に入学したのは1846年でした。この年、リューネブルクはちょうど二十歳です。有名な学位論文が出現したのは1851年のことですから、この間、わずか5年です。学位論文のテーマは一変数の複素解析ですが、今日の複素解析に根底を据える役割を担う傑作で、複素解析とは何かと問う者は今もなおリーマンの学位論文に立ち返らなければなりません。
 それにしても大学入学から学位論文までがたった5年というのはあまりにも短いですし、リーマンはどんな勉強を重ねてきたのか、気に掛かります。ノイエンシュヴァンダーの調査によると、リーマンは大学に入学して一年目にすでにコーシーの『解析教程』『数学演習』、ルジャンドルの『楕円関数論』、モワーニョの『微分計算』などを図書館から借りて読んでいたということですが、この時期の大学生としてはごく普通の勉強だったという印象があります。モワーニョという人はどんな人物なのか、わかりません。コーシーの流儀の微分法のテキストのようです。
 ゲッチンゲンに一年いて、それからベルリンに移って二年間をすごしました。ベルリン時代のリーマンについては情報がとぼしいのだそうですが、E.T.ベルの『数学を作った人々』という本に、有名なエピソードが記録されていて、ラウグヴィッツはそれを紹介しています。シルベスターがニュルンベルクの川縁のホテルに滞在していたときのことです。シルベスターはベルリンで書籍商をしているという人と戸外で会話をする機会がありました。その人はかつて大学でリーマンと同級だったことがあるというのですが、ある年のある日のこと、リーマンはパリからコントランジュ(学術論文の速報集)を受け取り、何週間か閉じ籠りました。その後、再び人々の前に出てきたとき、最近発表されたコーシーの論文を指して、「これこそが新しい数学だ」と言ったというのです。
 複素関数論といえばコーシーとリーマンの名が挙げられるのが普通ですが、コーシーはリーマンよりも前にこの方面の研究を行い、非常に多くの論文を書いていました。それで問題になるのは、リーマンに及ぼされたコーシーの影響のことなのですが、ラウグヴィッツはこの論点をめぐって多少の考証を試みています。ただし、あまり明確な指摘は出ていません。
 学位論文の取得のためには公開討論が必要だったようで、リーマンの場合には1851年12月16日と定められていました。ところがリーマンは11月24日に学部当局に「博士学位取得のために必要な公開討論の免除」を請願したそうですが、この請願は受け入れられたのかどうか、はたして公開討論は行われたのかどうか、はっきりしたことはわからない模様です。

リーマンを語る 34. リーマンの関数論講義

 ノイエンシュヴァンダーという人は現代の著名な数学史家ですが、1987年にリーマンの関数論講義録を出版しました。これによってリーマンの講義の模様が具体的に明らかになったのですが、1987年といえばまだわりと最近のことですし、それまでの150年ほどの間はリーマンの講義は研究されていなかったのでしょうか。意外な感じはぬぐえませんが、ヨーロッパで数学史研究が盛んになったのは案外最近のことで、1980年代、あるいは1990年代あたりと思います。20世紀の数学は第一次大戦の後のころから「抽象化の時代」に入ったとはよく言われることですが、70年代、80年代あたりになるとまた少々傾向が変遷し、何というか、源泉に帰ろうとする動きが見え始めたように思います。ヨーロッパには帰るべき場所が存在するのですが、この点は日本で数学を学ぶ者には望み得ないことで、透明な高い壁にさえぎられているようなもどかしさを感じます。
 さて、これもまたよく言われることですが、複素関数論ではヴァイエルシュトラスとリーマンは全然別の流儀で理論を組み立てました。ヴァイエルシュトラスは冪級数から出発し、リーマンはコーシー・リーマンの微分方程式から出発したという定説ができているのですが、ノイエンシュヴァンダーによると、リーマンはいわゆるリーマンの流儀に個室していたということはなく、「コーシー的、リーマン的、ヴァイエルシュトラス的方法の一定の混交という段階」に達していたということです。これは定説をくつがえす指摘で、リーマンの講義を見ればわかるというのがノイエンシュヴァンダーの見解ですが、ラウグヴィッツはこれに反対し、多少の論陣を張っています。
 以下、ラウグヴィッツはリーマン面と楕円関数を語っていますが、定説の紹介に留まります。続いて1851年の学位論文の紹介に移り、相当の頁を割り当てていますが、ここもまた通り一遍の記述が続くばかりです。その次は「学位論文の前史」という節ですが、ここにはおもしろそうなエピソードがいくつか紹介されています。

リーマンを語る 33.  複素解析

 ラウグヴィッツの本の叙述に沿って進んできましたが、ここまでのところで「序章」が終わりました。リーマンの生い立ちとか、故郷の写真とか、興味の深い記述がありました。最後のあたりには数学の話が出てきたのですが、数学の話になるとどうも平板な感じになり、定説というか、通説というか、特に目新しい指摘はありませんでした。少々残念なところですが、この際、もう少し先まで読み進めて、おもしろそうな箇所を拾ってみたいと思います。
 「序章」に続いて「第一章」が始まります。第一章の章題は「複素解析」です。リーマン以前の複素解析の回想から始まります。リーマン以前というとすぐに念頭に浮かぶのはコーシーですが、ラウグヴィッツは「コーシーはこの分野の体系的記述を残さなかった」と指摘しています。体系的記述を残したのはコーシーの弟子のブリオとブーケということで、この二人には共著の著作『一個の虚変化量の関数の研究』があります。刊行は1856年ですから、リーマンの1851年の学位論文よりも後になります。リーマンはブリオとブーケの本が出る前からゲッチンゲン大学で複素関数論の講義を繰り返していましたが、後の講義ではこの本に言及しているそうです。
 リーマンの関数論講義は1855年から1861年まで続きました。リーマンの講義の中味がどうしてわかるのかというと、聴講した人たちのノートが残されているからで、現代の数学史家のノイエンシュヴァンガーはそれらのノートを調査して報告しています。「講義時間の始まりをリーマン自身の手で書きつけたカード」というのもあって、古文書局に保管されているということですが、ノイエンシュバンダーはそれらも調査している模様です。ただし、「講義時間の始まりを書きつけたカード」というのはどのようなものなのか、まだわかりません。
 以下、しばらく数学の話が続きますが、そこを通り過ぎるとヴァイエルシュトラスが登場します。ヴァイエルシュトラスは1848年に東プロイセンのブラウンスベルクのギムナジウムの教師になったのですが、1853年の夏、アカデミー関数に関する論文を書きました。アカデミー関数論のテーマは「ヤコビの逆問題」と呼ばれる問題を解くことで、この点はリーマンも同じです。ヴァイエルシュトラスの論文は話題を呼び、ベルリンに招聘され、1856年にアカデミーの会員になり、1864年にはベルリン大学の正教授になりました。
 1856年、ヴァイエルシュトラスは「アーベル関数の理論」という大きな論文を書きました。リーマンは1856/57年の冬学期に、発表されたばかりのヴァイエルシュトラスの論文を読んでいます。

「徒歩徒歩亭」開店のお知らせ

東京の四谷に「支那そば屋 こうや」というお店があります。店主は原沢さんという人で、40年来の古い友人です。開店して30年近くになりますが、非常に有名なお店になりました。このお店で修業して、のれん分けしたお弟子さんも何人もいます。三軒茶屋、飯田橋、銀座、お茶の水。どのお店も繁盛しています。
このたびもう一軒、同じ四谷に徒歩徒歩亭というお店が開店しました。「徒歩徒歩」は「とほとほ」ではなく、濁点をつけて「とぼとぼ」と読みます。初日は今月12日。すでにネットで取り上げられていますので、ご覧になってください。たとえば、次のサイトには写真がたくさん出ています。

麺好い(めんこい)ブログ

リーマンを語る 32.  ヤコビの手紙

 代数解析をめぐるラウグヴィッツの叙述はさらに続きますが、ここでは省略します。代数解析というのは要するに微積分を形式的に取り扱って、加減乗除のような計算の技術に還元したいという企図が根底にあるのだろうと思われますが、思い返せばライプニッツにもすでにそのような傾向が認められました。ライプニッツに見られるのは代数解析的な傾向ばかりではないのですが、微積分はいろいろな側面を兼ね備えていて、簡単にひとことをもって言い表すというわけにはいかないということでしょう。
 コーシーの著作『解析教程』が出版されたのは1821年ですが、この本もまた「代数解析」という副題をもっていました。ではありますが、コーシーの微積分は代数解析とはだいぶ違うようでもありますし、無限小や無限大に対して何かしら積極的な意味を与えようとしたところに、コーシーの数学的企図があったのではないかと思います。それでラウグヴィッツもまた「無限小解析」という項目を新たに立てたのであろうと推測されますが、記述が短すぎるためか、意図するところがわかりにくいきらいがあります。
 このあたりは数学史叙述の大きな問題でもあろうかと思いますが、コーシーの著作は何百頁もある大きな作品ですし、しかも『解析教程』の段階ではまだ序論であり、微分も積分も出てきません。簡単に要約して紹介するのは無謀であり、数学史もまた大著作をもって応じるのが本当ではないかと思うのですが、それはそれで困難な企てです。
 ラウグヴィッツの記述は、
「幾何学的な考察:フーリエ」
「極限値解釈:ニュートン」
「イプシロン論法の完成に向けて:コーシーとディリクレ」
と続きます、大雑把に見て、実解析の形成史の略述というおもむきですが、特に目新しい指摘もありませんので省略したいですが、ひとつだけ、ちょっとおもしろい話が紹介されています。それは1846年12月21日付のヤコビのフンボルト宛の手紙の一節なのですが、ヤコビはこう言っているのだそうです。

〈私でもなく、コーシーでもなく、ガウスでもなく、ディリクレだけが完全に厳密な証明とは何かを知っています。われわれはそれを彼から学んで、はじめて知るのです。ガウスが何かをいうとき、彼はそれを証明したのです。コーシーが何かをいうとき、その反対のことも同様に正しそうです。しかし、ディリクレが何かをいうときは、それは確実なのです。私は、そんな繊細なことには関わらないのです。〉

 この手紙を紹介したのはビアマンという数学史家で、1988年の論文に出ているということです。22年前の論文ですが、ビアマンはどこかで調査してヤコビの手紙を発見したのでしょう。ヨーロッパの数学史家ならではの仕事です。
 

リーマンを語る 31.  カナリアのように歌う

 代数解析のアルゴリズム的解釈は、極限値や無限小量に対する考慮を解析学から追放しようとするものである、とラウグヴィッツは書いています。さらに、「このような目論見は、今日ではとんでもないことに思われるかもしれないが、1850年頃には重要な役割を果たしていた」と続くのですが、これだけではまだ何のことかよくわかりません。リーマンも学生時代にこの立場の論文を書いているそうですが、これは読んだことがありません。
 ラグランジュは解析学の基礎づけに関心があり、アカデミーの懸賞問題にもしたほどですが、『解析関数の理論』という本を書いてみずからこの問題に答えました。この本が出版されたのは1794年です。ラウグヴィッツの説明によると、ラグランジュは代数解析の立場に立っていたということですが、それはその通りと思います。無限小、無限大、無限級数などを観念的に考えると、何というか、わけのわからない感じになるのですが、代数的に考えるというのであれば問題は何も起りません。無限級数Σa_k z^k (k=1からk=無限大までの総和)を書き下すと、収束するか発散するかという問題が起りますが、形式的に考えるというなら、この級数は無限に多くの数値を配列したもの、すなわち(a_1,a_2, …)にすぎません。
 ラグランジュは形式的な、というのはただ単にΣa_k z^k という形に書き下しただけの、という意味ですが、そんな無限級数そのものを「関数」と思うことにして、その微分や積分を考えることにしました。そのようにすると微積分は単純な計算技術のシステムになりますが、それでどうなるかといえば、微積分を学ぼうとするときの敷居が低くなります。というよりもむしろ敷居は消失してしまいます。
 この手の代数解析の影響はこのごろは見られませんが、たいへんな影響力をもった持期もあったようで、たとえばゲッチンゲン大学でリーマンを教えたシュテルンなどはそのひとりでした。リーマンも影響を受けて、「積分と微分の一般的解釈の試み」という論文を書いたほどです。
 シュテルンは数学者として何をした人なのか、もうわかりませんが、リーマンを語った言葉が伝えられています。シュテルンがフェリックス・クラインに対し、
 「リーマンは当時すでにカナリアのように美しく歌っていた」
と語ったというのです。当時、というのはリーマンがまだ学生だった時期を指しています。代数解析の範疇で書いた若書きの論文にも、何かしらただならぬ気配がただよっていたのでしょう。

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オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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